灰色の空

第三章 第三話
決別

定期航路客船 オイレンスブルク号

 ゆっくりと船首が沈み込めば、鋼の舳先に打ち砕かれた波が、粉々になって舷側を撫でる。夜光虫の浮かぶ海面が泡立ち、かき乱された流れが過ぎていく。その巨大な鉄の船が港を後にして、もう半日は過ぎただろうか。そろそろ赤い夕暮れも去り、夜の帳が降りはじめる頃だ。甲板に集う船客達も、ちらほらと船内に戻っていく。
 が、声の太い船内放送が夕食の時刻を伝えてもなお、船首を離れない者も二人居た。片方が、手摺りにもたれたまま、何度目だろうか、溜息をつく。
「何か間違った事をしたのか?」
「さあ…。わかりません。」
 もう一方の少年、ケビンが言った言葉に、背の高い金髪の女、クローナは、そう答えた。振り向きもせずに。
「じゃあ、僕もわからん。」
「…何が?」
「お前が悩む理由。」
「…。」
 押し黙るクローナ。視線を投げやった先の海は、黒々として得体の知れない大きさがあった。流れた前髪を、片手で掻き上げる。風が強い。船はかなりスピードを出しているのだろう。
 それにしても、間違った事をしていなければ、悩む必要はないのか。そういうものなのか。あるいはそうなのかもしれないが、はっきりとしたことは彼女にはわからない。随分長い間、確信を持って正しいと言える選択をした事は無かったようにすら思われる。何と言うべきか、腹の底が気だるい感じだ。
 陰鬱な気分を払いたいかのように、もたれていた身体を伸ばして天を仰ぐ。月すら見えない、完全に光が干上がった闇夜。肩を落としながらズボンのポケットに手を突っ込むと、硬い感触に気付く。それが何か、知っている。いや、思い出した。船の中から漏れる光を受けて、それは鈍く冷たい輝きを宿している。
「何だ?」
「…殺人許可証。」
 神の名に於いて、皇帝が、持ち主の殺人を正当と認めるという意味を持った、ミスリル鋼製の重いプレート。SSの身分証明を兼ねたタイプで、無意識のうちに肌身離さずに持つ習慣になっていたようだ。
「物騒だな。」
「ええ、とても。」
 これもこれで、思い出がある。ただし、快いものは皆無だ。初めて人を殺した日の出来事が、真っ先に思い出された。いや、思い出したというよりは、乱暴に意識に溢れてきたと言った方が良い。それは明確な記憶の形を取らず、真っ白に、荒い感情として。目を瞑って、心を落ち着ける。今は、それを検討するときではないように思うのだ。
 その流れが去れば、別の考えが頭を過ぎる。人が人を殺す事を、ときには目的のための手段として正当と認めうる国家権力という存在だ。構成員の生命をも犠牲として、自身の便宜を図ろうとするのはどういうわけか。答えは知れないが、歴史的にそういう存在なのは確かだ。狂気と称して差し支えないように思う。もちろん、その手先を含めて。
 …もっとも、それも過去の話。彼女の許可証は既に効力を失っているはずだ。
「取っておくのか?」
「いえ…。」
 しばし、答えに窮する。こんな物はさっさと捨ててしまうに限ると思ったが、喉に刺さった棘のような感覚が、それをさせない。何かが、その選択は違うと言っている。何故なのか。彼女は頬に手を当て、考える。
「どうした?」
「ん…。」
 捨てれば少し楽になるだろう。だが、それだけでしかない。犯した罪は永久に消えない。過去に介入する事は、誰にも出来ない。過去にまつわる物を遠ざけ、忘却せんと欲し、安易な平安を求める行為は、卑劣な敵前逃亡に過ぎないのだ。一切の問題は解決しない。直感が、それを語っていたことを知る。
 そう納得して、彼女は頷く。
「取っておきます。」
「そうか。」
 クローナは、最後に少しプレートを見つめてから、元のようにそれをポケットに収めた。過去はまだ生きている。よくはわからないが、まだ捨てるべき時ではないのである。
「おぉい、クローナ、ケビン。メシの時間だぜや。早く行こうぜ。」
「おぉ。」
「あ、はい、今すぐ。」
 やがて、あまりにも目立つ獣人の声を受けて二人の姿も消え、甲板には闇だけが取り残された。

「帝国に戻るのか。それもそれで、一つの選択肢だよな。」
「大丈夫? 追われるんじゃない?」
「う〜ん、それは構わないんですが…。ほとぼりが冷めてからの方が良いのかな、とも思いますし…。」
「あ〜、それはあるね。」
「もう少し、考えます。ヴェムさんとノールさんは?」
「…名前、教えたよね?」
「あ、ルシアナさん、でした。」
「誰だそれ?」
「わ、た、し。本名がね。」
「へぇ、そう。そうなんだ。ふ〜ん…。じゃあ、ちなみに俺はヴェレイン。」
「あんた、それ、本名と結構違わないんじゃない? バカ?」
「…いちいちバカとか言うな。ほんと〜に、クソ女だな。」
「あぁん?」
「止めてください。何の話ですか。」
「今後の話。」
「わかってるんなら喧嘩しないでください。」
「え、俺のせいなの?」
「いや、そういう意味じゃなくて…。」
「ま、良いけどね。私は一度国に戻るけど。あんたは?」
「…俺? 俺はな、まあ、なんだ。ちょっと、何というか、その筋の話だ。」
「またヤバい事? あんたさぁ、わざわざSS辞めて、どうしてそう、変な真似したがるわけ?」
「だぁ、あ〜、う〜、そんなんじゃねーや。何というか、その内わかる。」
「う〜ん…。何にしても、お別れになりそうなんですね…。」
「そうね。」
「それも…、惜しいものはあるか。」

 別れるとき見せた、ヴェムの目配せが印象に残っている。「お互いに頑張ろうぜ」そう言ったように思えた。飄々とした表情と、イタズラ小僧の目に隠された、真正直な優しさ。複雑な事は何もなく、やっぱりやるべき事があるのだな、と思った。だからこうして船に乗っている。

「…お〜い?」
「え!? はい?」
 突然、意識を呼び戻された。かなり長い間、記憶の世界に浸っていたのだろう。目の前の冷めた焼き魚が、雄弁にそれを語っていた。慌てて手を付ける。
 それにしても、あれが、同僚、いや戦友達との、今生の別れになるかも知れない。いやむしろ、その可能性は高いとさえ言える。そんな事を思うと、とても心細く、間違った事をしたような気がしてくるのだ。
「また止まってるぜ?」
「あ、ええ、まあ…。」
 もう一度、手を付ける。単純な塩味ではあるが、よく火が通っておいしい。
「なんか悩み事?」
「いえ、悩み事というほどじゃなくて…。ヴェムさんとルシアナさんの事をちょっと。」
「ふ〜ん?」
「もう会えないのかな〜、って…。」
「あ〜…。考えてみりゃなぁ。そういや、師匠も行き先不明だし、一生会わない事もあり得るなぁ。」
 軽快に笑ってみせるカール。
「そういうのって、怖くありませんか?」
「そだなぁ。でも、考えてもしゃあないぜ?」
「う〜ん…。」
カールの言葉にも関わらず、考え込むクローナ。
「暗いな〜。暗い! もっとこう、楽観的に、パーッと行こうぜ? 駄目?」
なお、考えるクローナ。
「あの二人だって、考えあっての事だろ? しょうがねえよ、そこは。自分で選んでやった事だから。」
「…そうですね。それは間違いないです。ふっきれそうです。でも…。」
「でも?」
「やっぱり、何か名残惜しいですよね。」
「まあな。」
 苦笑いを浮かべて、クローナは言った。その表情と声には、もう暗さは残っていない。
「…その割に、裏切り者にはまだ会えるんですけどね。」
 リヒャルトの事だ。彼も同乗している。特に理由はないが、そういうことになっていた。さほど気にする風でもなく、二人は軽く笑った。
「さて、早くしろよ。周りだ〜れも居ないんだからな?」
「あ…。」
 辺りを見渡して、愕然とするクローナ。彼の言う通り、既に食堂は閑散として、彼等のテーブルだけにスポットライトが当たっている。カウンターからは、従業員と思しき男が、頬杖を突いてこちらを眺めている。
 慌てて食事を流し込んで、三人は気まずそうに食堂を後にした。
「…興味深いな。」
 終始黙っていた少年が、そんな事を言った事実は、誰の記憶にも刻まれていない。

 船室に戻れば、もうすることはない。遅くなった食事の後に色々と片を付ければ、もう寝るだけだ。淡い橙色の灯を残して、ベッドに横になる。大海原の鼓動と呼ぶに相応しい、とてもゆっくりとした揺れ。
「明日は、もう着くんだよな。」
「ええ。」
「…大丈夫か?」
「え?」
 飛んできた思い掛けない言葉に、少し驚いて、しかしすぐに理解する。心配させているのだと。
「大丈夫ですよ。帝国は広いんですから、そう簡単に見つかったりしません。」
「ああ…、そうだよな。」
 言ってしまってから気付く。相手に言える事は、こちらにも言える事だ。こちらとて、広い大陸の中で、たった二人の人間を捜しているのである。自然と苦笑いが浮かんでくる。カールも気付いたようだ。微妙に会話がとぎれる。
「まあ、いいです。明日に備えて、寝ましょう。」
「おう、そうしよう。じゃあ、ケビンも、おやすみな。」
「おお、おやすみ。」
ばさりと布団を被る音を残して、カールは寝る体制に入った。クローナも明かりを消す。
 だが、二人の寝息が聞こえるようになっても、彼女は寝付けなかった。緩慢なサイクルで行っては来る揺れの中で、頭が妙に冴えて、闇を凝視したまま身体は万全の態勢にあった。
 理由はわかっている。この船のどこかにいる、リヒャルトの事。別れた仲間の事。そして捜している者達。未来であり、過去である。それら全てを満足させられるような解答が、欲しいのだ。先ほど思い出した殺人許可証の事もある。SSであったという事実をどうするべきなのか、そこもわからない。溶鉱炉に突っ込まれた鉄屑のように、様々な思考や記憶が、ぐちゃぐちゃに混ざっている感覚に心が泳ぐのを、自分でも感じた。
 …SSに無理矢理編入され、ひたすら帝国、神、皇帝に仕える事を説く座学教育、淡々と戦闘を…、人殺しの技術を教え込む実技教育。その有様を薄気味悪く思う自分を理解する者は誰も無く、滅多に会話もない教練過程を終える頃には、内と外の不協和音が蓄えた黒いエネルギーで、すっかり精神を消耗していた。…と言葉で思い出すと随分軽い事のように思えてきて、彼女は苦笑いを浮かべた。あの疲れ切った気分を表現するのは、自分の言葉では難しいという事なのだろうか。
 そんなときに見たのが、やや不機嫌な表情を浮かべたリヒャルトの顔だった。今でもよく覚えている。その時の言葉もだ。無理をするなと。この人なら信じても大丈夫だと思わせた理由が何だったのかはわからない。ただ、嬉しかった記憶しかない。乾ききってひび割れ、既に息絶えたものとばかり思っていた感情がふと沸き立ち、事に気付くより前に火を噴いた。熱いマグマのような涙が、噴水のように噴き出したような感触を覚えている。彼の胸を借りて、泣いた。広く大きく、逞しい身体だった。
 今となれば苦々しい思い出の筈だった。しかし、不思議なまでに心地よい落ち着きを得て、それを思い出している自分が居る。何故なのか。一度はクロスボウで撃たれた。そして完膚無きまでに裏切られもした。そんな男を信じたという記憶が、何故心地よいのか。
 答えは知らない方が良いのかも知れない。しかし、冴えた頭は勝手に記憶を辿っていき、ほどなく証拠を手にした。あの地下牢に繋がれたとき、彼が助けに来てくれるだろうと考えていた事が思い出された。そう、裏切られたという事実を、自分は信じていないのだ。依然として自分は、彼を信用しているらしいのだ。叫び声を上げそうになった口を辛うじて押し止める。
 スパイだったという事実が許せるわけではない。だがこうなると、それすら危うい。アガスタに忠誠を誓っていたという事が、直ちに自分を裏切ったという事になるのか、などという考えが頭を過ぎるのだ。
 何とも甘い話ではないか。自分というものが、わからない。しかし、それを甘いと断じられるようになったのは、SS時代の成長によるものである。そこにもなお、リヒャルトの影があるわけだ。まるで亡霊だ。溜息をつきながら、頭を振る。この方向に進んでも、答えに行き着きそうにない気がした。
 いずれにしても、両親は助け出さなければならない。脅威は帝国政府の出した指名手配にある。これ自体は自分に向けられた物だが、脱走兵の親という立場であり、しかも当事者も脱走しているという状況からすれば、追われていても全く不思議はない。だから、自分の戦闘力を以て脅威を排除する事が必要だ。
 だが、他に方法はないのか。そう、指名手配を取り消す方法だ。指名手配といえば、ヴェムやルシアナの方にも行っているはずだ。これを何とか出来るのなら、申し分ない。闇に沈んだ天井をじっと見つめ、ただ考える。
 国家権力の行使には権限が必要だ。権限のある人間を動かさなくてはならない。今回の指名手配はSS関連であり、極めて特殊な機密上の注意を要するものであり、SS内部で処理される事が望ましい。…そして、そのSS高官が、この船に乗っている。リヒャルトだ。
 一瞬、今から頼みに行こうかとも思った。だが待つべきだ。自分の本心が、彼を信じている事は確認した。しかし、それは理性的な判断とは言えない。厳格な真実の目で見たとき、依頼を請けてくれるか、実際に遂行してくれるか、それは確実とは言えないのではないか。そうなるとき、確実に動かす手段は…。
「うそだ…。」
 彼が思想として拠って立つであろうアガスタ連盟の中枢部を破壊する、という脅しによって従わせる事が望ましい。そんな事が瞬時に頭に浮かんでしまったとき、既に自分がSSであった歴史は覆らない事を知る。そして、本心では信じているであろう相手に、そんな事をするのが最善だという論理。それ以前に、彼が信ずるものを人質にとって要求を出すなどという行為が、自分に出来るのかという不安。その不安がまた、リヒャルトを信じているという事実を裏付けさえする。
 しばらく彼女は考えてみたが、これを超える案は思い付かなかった。最終的には、恐喝で人は死なない、しかしこれを為さなければ両親や仲間を生命の危険に曝す…、そういう論理で納得せざるを得ない。自己暗示を掛けてでも成さなければならないようだ。
「…どうして、こういう事になるんだろう。」
 遠くで聞こえる機関音と波の音以外に、答えてくれるものはなかった。

神聖エルファト連合帝国 神都セレスト

「断る。」
「皇帝命令をか。」
「そうだ。これ以上増やすと、食糧の生産に悪影響が出る。それはまずい。」
 玉座の間は、緊迫した白い空気に包まれていた。体躯に黒い鋭さを湛えた皇帝と、相対する澄んだ美貌のハーラー大公。双方の眼は氷のように透き通って、状況を見抜こうと努めている様が窺われる。
「だが、敵はやる気だ。」
「それだ。」
 皺を寄せた眉間に手をあてがう大公。皇帝の要求は、いずれ予想されるアガスタとの戦争に備えた、装備の多量調達である。近代装備に必須の製鉄所は、サウスエルファト大公国にその九割以上が集中している。問題は、その大公国内の施設群は、既に全力で大量生産を行っているという事だ。
 大公とて、戦争になって負けるなどという事態は望んでいない。そんな事になったら、何が起こるとも知れない。
 しかし、これ以上工場を拡張し、増設したとして、次に調達すべき働き手は食糧生産の担い手である。ただでさえ足りない食糧。この状況で、民衆を飢えさせて武器を造るという行為は、大公としては躊躇われた。さらに言えば、必要な資材の調達も困難になりつつある。
「人を他から引っ張ってきていいのなら、問題は無いがな。」
 そう言いながら、どこでも手一杯だという事はわかっている。出せるのは囚人程度か。
「不可能ではない。」
 皇帝のその言葉が何を意味するのか。そう、国家権力を以てすれば、たとえば囚人を創り出す事も出来るだろう。こうしてまた、世の不条理が創り出されるのだろうか、と大公は一瞬思った。しかし、口にした言葉はそれではない。
「…だが何故、急にそんな気になった?」
 彼女は、話題を切り替えた。確かに、戦争はいずれ不可避だろう。だが、こうも急に軍拡を言い出すものか。攻めて来るという確たる証拠があるのか。それならば、食糧生産を削ってでも備えるという選択も、納得しないではない。皇帝も賢しいとは言い難いが、馬鹿ではないと彼女は知っている。だからなおさら、気になる。
「情報がある、としか言えんな…。貴様にはそれで充分だろう。」
 顎に付いた贅肉を揺らして、皇帝は面倒くさそうに答えた。微妙に引っ掛かる言い回しだと思ったが、皇帝の意志がいずれであるにせよ、確かに充分な答えであった。
「そうだな…。わかった。人手を調達する算段が付いたら、そう言ってくれ。我々も努力するが、現状のままでは、やはり受け容れられない。」
「それが大公の答えか。」
「そうだ。」
「…よかろう。」
 窺うような目つきで大公を見ながら、皇帝はそう言った。あまり普段は見ない仕種だと大公は思ったが、忘れる事にする。
 正面の窓には、天の果てから地の底まで額縁に収めるほどのガラスが填め込まれ、山並みが鋭い白を放っている。雪に嫌われた黒もまた、冷たさに彩りを添えるものであるようだ。依然として、空は暗い。
「ところで。」
大公は、おもむろに口を開いた。
「大聖堂の方が慌ただしいようだが。」
彼女は、気になっていた事を単刀直入に聞いた。
「知らん。」
眠そうな目を向けて、皇帝は言った。
「…そうか。」
 既に、独自に多少の調べは入れてある。しかし、何も得られなかった。その上皇帝が出し惜しむ情報という事なら、余程重大な事なのだろう。あるいは、皇帝も知らない事なのかも知れない。それならそれで、教会が極めて厳重に管理している秘密という事であり、やはり重大な事だ。
 あるいは、単に面倒くさいから言わないというだけなのかも知れない。この男の場合、あり得る事だ。だが、こうしてしばらく見つめていても、語り始めるような様子はない。やはり、何か重大事なのだと大公は断じた。だが、それが何なのか、軍拡と関係してくるのか否か、今はそこまで読み切れない。
「…要件が終わったのなら、退室したいが。」
分析すれば、あるいは推定出来るかも知れない。そんな事を思いながら、大公は言った。
「よかろう、下がれ。」
「うん、失礼する。」
 言葉こそ横柄ながらも、完璧な一礼を後にして、大公は玉座を出た。そしてその後、皇帝が一人残された玉座に枢密院の人間が入ったのだが、彼女の知るところではなかった。

ツェール公国内某所

「…何の真似だ?」
 森を抜ける街道には、ただならぬ空気が漂っていた。あり得ない大きさの剣をリヒャルトの首筋に振り翳したクローナ。青黒い木々の匂いさえ、冷たい鉄の感触を帯びている。音がない。
「お願いしたい事があるのですが。」
「お願い…?」
 それは脅迫というのではないか。リヒャルトはそう思った。だがそれより、こんな事をクローナがするという事が、信じられない。何故そうなったか、何がそうさせるのか、一瞬混乱する。
「私、ヴェムさん、ノールさん、それから私の両親に帝国政府が掛けた指名手配を、撤回する事。公式非公式、名目を問いません。全て撤回してください。」
「なるほど…。」
 その要求であれば、リヒャルトにも納得は行く。もちろん国の立場では問題だが、クローナにしてみれば、そうして欲しいと考えるのは無理からぬ事だと思う。
「期限は一週間。実行されていないと判断された場合、アガスタ連盟最高統治評議会に武力制裁を加えます。」
「なに…?」
 指名手配云々は帝国の事で、かなり個人的な事柄だ。それについて、アガスタ連盟という全く別の国家の基幹部を人質に取るようなやり方は、リヒャルトには非常に奇異に思えた。まったく関係がないではないか。やや怒りを込めて、リヒャルトは言った。
「本気なのか?」
「本気です。余所の国にスパイを送り込んで、裏切りを撒き散らすような輩は、ことごとく死ねばいいんです。」
 びりびりと伝わる怒りに押し黙るリヒャルト。真っ向から自分を見据えるクローナの紺眼は、金属質の冷たい輝きを宿していた。皮肉にも、SSとしては理想的な、目的のためなら手段を選ばない、極めて強固な意志を示す目だ。自分に恨みがあるのなら、報復は自分に留めれば良いはずだと、喉まで出かかった言葉を、彼は呑み込む。
 そう、この脅しは、指名手配を取り消させるという目的のための、手段に過ぎないのだ。自分を殺せば目的は達せられず、従ってそんな選択肢はあり得ない。非常に論理的な反面、冷酷だ。こんな事が出来る人間だったとは、思いもよらない。気付かなかったのは自分だけで、実際にこういう事が出来るほどに育っていたのか。
「お前…。」
「お前? 私に言ってるんですか? いつ、そんな仲になりましたか?」
 そして、それを可能としたのは、深い怒り、失望、憎悪、そんな感情らしい。…自分のせいなのか。その通りだ。それ以外にはあり得ない。歯噛みしてみても、もう遅い。考えてみれば、船の中で時間があったはずだ。何故何もしなかったのか。
「私も暇ではありません。“はい”か“いいえ”で早く答えてください。」
リヒャルトの苦悩を斟酌しないクローナの一言は、犯罪者を追求する神の声を思わせた。
「…わかった。要求を呑もう。だから剣を下げてくれ。」
「…いいでしょう。」
 巨大な鋼の刃が冷たい光を放ってリヒャルトから離れる。
「失礼する。」
 こんなことで、自分の掲げる大義は活きるのか。たった一人の人間をすら、説得出来ない有様で。失意の内に去っていく彼の背中は、酷く老け込んで見えた。

「これで良いのか?」
「…良いんですよ、これで。」
 しばらく経ってから、たまりかねたカールの言葉に答えたクローナの声は、細く、震えていた。それきり、カールもまた、口を閉ざす。
 拳を握り締め、頭を垂れて、身体もまた、震えていた。そんなクローナの様子を遠くから見て、少年は言う。
「ねーちゃん、泣いてるぞ。」
「大人でも辛い事があるんだよ。」
小声のやりとり。
「…聞こえてますよ。」
 ふらりと顔を向けて、クローナは言った。カールの背筋が逆立つ。
「これで良いんですよ。これで、みんな上手く収まるんですよ。でも、悲しいんです。悲しい…。」
二人とも、何も言えない。
「思い切り裏切られて、あんな事を言って傷つけ合って、そのくせ悲しい…。身勝手だし、馬鹿げてますよね。」
 涙を流しながら、その顔がぎこちない笑みを浮かべる。そして次の時。彼女は、大きな手振りで涙を振り払った。内から燃える、激しい心の作用だとカールには思われた。
「そういう世の中なんです! あれしか手はなかったんです! 感情に素直になったって何の解決にもならないんですよ!」
 死闘を繰り広げる者の咆哮にも似て、その言葉には悲壮感があった。その余韻が消えて、カールはぽつりと言った。
「…じゃあ、頑張れ。一緒に行くから。」
「ええ。」
 先ほどの勢いは全く失われ、憔悴しきった様子で、彼女は頷いた。
 こうなってしまうと、こんな段階になってもまだ、リヒャルトを信じている自分が居ると、嫌と言うほど思い知らされる。もちろん、カールとケビンにもよくわかるだろう。隠しようもない事だ。
 だが、これで良かったはずだ。親も友も安全になるはずだ。そう信じなければ、まともでは居られないような気がする。
「行きましょう。ラム・デインは大きな街ですから、手掛かりがあるかも知れません。」
 平静を装い、しかし声の震えは隠しようの無いまま、クローナは言った。全てを一身に引き受ける、という風にカールには聞こえた。だが、それを確かめる機会は、今は無いように思われた。

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