灰色の空

第三章 第一話
再会

自由ハーヴェイ連合 貿易都市ゲーブルセイム

 相変わらず、灰色の空だ。それも、普段より薄暗いのは、気のせいではないだろう。霧の様な雨が空を満たす中、一本の列車が大地を駆ける。その先に広がる、黒々とした石の林。
 雨粒が横に垂れる車窓からも、ゲーブルセイムの街並みが、覗き始める。橋を越える。近くの川から水を引き、外敵への備えとした物だ。都市国家が乱立するこの地が、真に統一されたのは、あの戦争が終わって…、独立国家・自由ハーヴェイ連合が成立してからだと言える。帝国の支配下にあっても、全ての地域が平和だったわけではない。その証を、列車は越えた。
 「はぁ…。」
 連れが安らかな寝息を立てる傍で、クローナは溜息をついた。必ず成功させる、必ず連れて戻ると約束して、心にも誓ったのに、現実は残酷だ。そう、あの時既に、手遅れだったというのだ。残されるのは、気まずい想いばかり。どんな顔をして会えばいいのか、まったくわからない。
 そんなとき、この疲れ切った風景を眺めていると、ふっと、その中に自分の存在そのものを、溶かしてしまいたく…、つまり、自殺したい気分にすらなってくる。終わらせてしまいたくなってくるのだ。だが、頭を振って、恐ろしい思考を捨て去る。
 車内放送が流れてすぐ、列車は速度を落としながら、ホームへ入っていく。いずれにしても、自殺なんかが優れた解答であるはずはない。はっきり言って、理由はない。直感に過ぎないが、その様に自分を納得させながら、彼女は、連れの二人を起こした。
 ホームに降りると、煉瓦造りの駅は、あまり掃除が行き届いているとは言えない。少し肌寒い。見れば、誰しもコートを着込んで、せわしなく行き、来る。
 「もう、すぐですね。え〜と…。」
 「おぉ。」
地図を取り出すクローナ。改札を後にして、歩く。目指す場所は既に決まっていた。

 重たい空と、陰鬱な街の色合いに溶け込んで、そのアパートは建っていた。古くはあるが、決して、貧相な外観というわけではない。しかし、灰色の濃淡で飾られた姿は、思索にふける巨人のような重さがあった。
 そんな建物の二階に上がって、その廊下に、一行の姿はあった。重い雰囲気と不釣り合いな、軽快な声が言う。
 「ふ〜ん。つまり、こっちがお前の隠し子で、こっちが愛人と。」
少年とカールを見比べて、それからおもむろにクローナを見て、ヴェムはそう言った。ニヤリと浮かべた笑みが、この上なく挑発的だ。
 「そんなんじゃありません!」
言うまでもなく、大声で否定に掛かるクローナ。
 「ムキになるところが怪し…うわ、やめろ! わかったから!」
 「このぉ〜…。」
胸倉を掴まれ、高々と持ち上げられるヴェムの姿を見るに付け、カールは、この男は予想よりもしょうもない人間だったのだな、などと幻滅していた。思わず開けてしまった口を閉じる。
 「あぁ、苦し。ったく、何時の間にそんな暴力女になったんだか…。」
 「自分の事は棚に上げて…。言って良い事と悪い事があるでしょう。」
 「冗談だろ〜?」
 「冗談だから何を言っても良いってわけじゃありません。」
 「全く同感。」
顔をふくらませるクローナに、カールが同意を表明した。おや、とカールを見るヴェム。
 「そういえば、自己紹介ってまだか。俺はヴェムな、こいつと元同僚の。おっさんは?」
 「おっさん…。」
 「名乗らざる場合、これを狼一号と呼称することを…。」
 「カールって呼んでくれ。」
初対面にも関わらずふざけるヴェムを遮って、彼は強い調子でそう言った。ほう、と唸るヴェムは、少し考える素振りを見せてから、口を開く。
 「カール大帝と同じ名前とは…。やるな?」
 「いや、綴り違うから。ついでにいうと、本名はカルドール。」
 「あ、そ。まあ、何というか、よろしく。」
 「おす、よろしくってことで。」
軽く、握手など交わす二人。初対面からどういう態度だと、内心ひやひやしていたクローナも、ほっと一息つく。しかし、次の一言だ。
 「で、そこの隠し子は?」
クローナは無言で睨むが、ヴェムは気付かないふりをした。
 「レーベンII世。」
 「あ〜、そうなんだ。唯一神であらせられますか。ネタとしてはイマイチだな。」
 「そういえば、結局本名聞いてませんね。」
 「単にお前達が信じないのだろうが。」
両手の指を向けて少年は言い返したが、取り合わない元SS達。
 「じゃ、今後は隠し子と呼ぶ事に…。いや…、もとい…。」
無言で突き刺さる、痛い視線。
 「よし、ケビン。お前は今からケビンだ。理解したな?」
 「まぁ、いいが。」
 「素晴らしい。」
どことなく、冷たい視線が飛んでくるのを感じながら、ヴェムは続ける。
 「…それでお前ら、まさか俺の部屋に来る気?」
 「相談するとは聞いたぜ?」
 「ええ。…う〜ん、宿は取ってないですけど、どうします?」
 「どうしますってお前…。やっぱり俺の部屋なのか?」
まあ、そうなのだろう。その辺の喫茶店では、金が掛かってしまう。ヴェムは、やれやれ、と溜息をついた。
 「言っとくけど、4人も寝られる部屋じゃないからな。」
最後に、ヴェムはそう釘を刺しておいた。

 それにしても、汚い部屋である。黒ずんだシミが不可解な幾何学模様を演出し、それは壁にも天井にも広がる。窓枠も朽ちて、無遠慮に光る白熱電灯が無ければ、幽霊屋敷かと思われる勢いだ。
しかし、その一方で家具やその他の物品はよく整頓され、今はきちんと管理されている事が伺われる。ヴェムの意外な几帳面さが伺われる。仮にも一流の戦士であり、その辺りは間違いないというところだろうか。
 「ああ、そりゃあ、会った瞬間にわかったさ。」
 「…ですよね。」
その部屋に入って、話は当然、クローナの両親の事に移っていた。
 「予測不可能ですよ。移送途中に脱走したなんて…。」
頭を抱えて机に突っ伏すクローナ。改めて、悔やまれるのだろう。あと一日早ければ、と。脱走する前に、計画を立てておくべきだった、と。そのまま、深い、深い溜息。
 「…移送って?」
 「よくわかんないんですけど、私が行った前日に、どこか移される予定で出発して、それで出ていきなり…、と城の兵隊さんから聞きました。はぁ…。」
 「その辺の詳しい話は、初めて聞いたなぁ。」
 「そうでしたっけ…?」
とろんとした目を向けて、カールに答えるクローナ。そして、すぐまた机に伏せる。一見して、かなり辛そうだ。まあ、無理もないだろう。ヴェムは一瞬、マザコンなどとネタを思い付いたが、口にする事は人間として問題があると思ったので、封印しておく。
 「…どうするんだ?」
 「わかりません…。」
ヴェムの問いに、顔を上げずに答えるクローナ。
 「一人にしといた方が良いか?」
しばらくの沈黙が去って、ヴェムはぽつりと言った。
 「いや、私、そんなに弱くない…、はずです。」
 「いいよ。別に急ぎの何かがあるわけでもなし、少し休めば。」
それに、とヴェムは付け加えた。
 「お前は、絵に描いた様に、何でも一人で背負い込みそうな奴だ。もう、典型的だぜ?」
 「何を言いますか…。」
怒った様な、悲しい様な顔で、ヴェムを睨むクローナ。
 「まあまあ。この部屋使って良いから、少し休めって。おし、邪魔者は退散だ。」
 「大丈夫か?」
一人で決め付けて部屋を出ようとするヴェムに、カールが声を掛ける。小声でだ。
 「伊達にあいつと三年付き合ってないってところよ。任せろ。」
自信ありげに答えられて、カールもそれ以上食い下がる事は無かった。

 部屋を譲ってしまって、しかし外は雨だ。霧の様な雨は、音を吸い取って、不思議な静寂を演出する。ただでさえ動きのない、黒ずんだ街並みは、音も奪われてしまうと、まったく生命の気配が無くなってしまう。
 「それで、カールとケビンだっけ。どう…いや、どっちから話す?」
 「どっちでも?」
 「うむ。」
 「じゃあ、俺から身の上話って事で。」
そんな街の様子を気に掛ける事もなく、好きずきに廊下に座り込んで、喋り始める男達。
 「元SSだってのは、もう聞いてるのかな?」
 「おぉ、脱走したそうだな。」
 「やー。って、どこまで聞いてる?」
 「同じ班の変わった奴で、先に脱走したって事しか聞いてないぜ。」
 「そっか。」
クローナなら、人の事をネタにして、ああだこうだと喋る事も無いだろう。ヴェムは、そんな風に思った。
 「21歳男、弓が得意。う〜ん…。他に何か聞く?」
 「やっぱり、逃げたわけとか気になるぞ?」
 「あ〜、それはあるかもね。まあ、でも、答えは出てないっていうか…。」
一旦、考える態勢に入るヴェム。
 「仕事で、エアハルトって男に会って…。知ってるよね?」
 「あの? 革命家の?」
 「あ〜、やっぱ娑婆でも知名度高いか。うん、それで…。いや、アレは単に契機になったってだけかも。」
興味深そうに、ケビンと名付けられた少年が見ている。
 「SSって、何となく、俺が居るべき場所じゃなかった、というか、ここでは然るべき事が出来ない、というか…。」
 「お〜、何となくわかるな。」
というと、とヴェムが意外な顔をする。
 「俺も、故郷を捨ててきた身分なんで。」
 「ん〜…。お宅、歳は?」
 「20歳。」
 思い返してみれば、若い内だけかも知れない。こういった、大胆な人生の方針転換が出来るのは。もちろん、若いだけに、歳を食ってから本当にそれが出来ないかどうか、知る由もないが。
 そんなヴェムに気付かずか、カールは続ける。
 「いやあ、今思えば、あの頃は、逃げるだけで一杯一杯だったよなぁ。でもなあ、ああいう状況で放り出して逃げたら、そりゃあなあ…。」
 「やべー事したとか?」
 「ん、まあ、相続とかでゴタゴタがあって…。いや…、話すと長いし。」
 「ああ…。」
思い出したくもない過ちの一つくらい、誰しもあるものだ。ヴェムも持っているから、詮索しない事にする。だが、カールは言葉を選ぶように、ぽつり、ぽつりと語り出した。
 「部族の戦士に追い回されて、もう駄目かなって思って。でもそん時、師匠が現れて。」
 「撃退。」
 「おう。で、付いていく事になったんだけど、やっぱその師匠も、とんでもねー食わせモンでな。」
カッカッカ、と鋭い牙を剥き出して高笑いするカール。少々、怖いかも知れない。
 「苦労してるんだねえ、みんな。…で、ケビン?」
 「ん? 僕は、あまり変な経験は無いぞ。」
 「ここに居る時点で、だいぶ変な経験だと思うぞ。」
 「それは言える。だが、それまではずっと城の中に居ただけだ。」
直立不動、無表情で、ケビンは語る。変な態度だが、見ている限り、それが普通らしい。
 「城?」
 「セレストの帝城。」
 「あ、あの城なの。俺もSSだし、あそこなら知ってる。ていうか、住んでた。」
 「だが、会ったのは初めてだ。」
 「だなあ。まあ、あそこは城と言うより街だし、そんな事もあるか。」
 「うむ。」
それきり、少年は黙る。気まずいとか何とかでなく、それも普通の態度であろう事を、ヴェムは即座に理解した。
 「それがなんで、ここに? というか、城で何してたの?」
 「難しい質問だ。特に何もしてなかった。しかし、僕の中の何かが、行けと命じた。あの姉ちゃんを見たとき、そんな声が聞こえたのだ。」
確かに、わけのわからん回答だ。ヴェムとカールは、まったく同じようにそう思った。
 「あの姉ちゃんって、クローナだよな。」
 「そうだ。」
 「そういえば、あの娘が接点で、俺達ここに居るんだよなあ。悩みはもっともだけど、何者なんだ?」
カールの言葉。やがて、必然的に話はクローナの事へと展開していく。
 「…SSだった事は聞いてると思う。普通、アレは志願して入るんだけど…。あいつの場合は、特に戦闘能力が高いって理由で、無理矢理だったから。その無理矢理の手段が、両親を人質に、ってわけで。」
 「あ〜、そりゃキツいわ。つーか、SSてのは、そんな事もやってるのか。」
 「まあ、要人暗殺とか反体制分子抹殺とか、色々汚い事やってるからな。そんな事もあるだろうさ。…で、多分衝動的にやらかしたんだろうな。脱走して、俺んとこ泣きついてきて、ちょっとアドバイスしたわけだな。助けに行けよって…。」
 「でも、失敗しちった、ってわけか。」
 「後先考えずに逃げたりするから…、っとにもう。あ〜あ〜…。」
腕組みして、天を仰ぐヴェム。しかしその顔に怒りの色は無く、苦々しい笑みが浮かんでいた。
 「でもまあ。そりゃ、落ち込むわ。参ったな…。」
 「…なんで、あいつを気に掛けるの?」
ふっと、気になるヴェム。同じ班で三年、死線も越えてきた自分と違い、カールは出会って一週間程度しか経っていない筈なのだ。
 「馬鹿な師匠の気まぐれでな、ガードマンをやれ、修行の一環だなんつー事ぬかしやがって…。まあ、可愛いし、良い子だしって、受けた俺も俺なんだけどな。」
 「ガードマンってったって、メッチャクチャ強いよ、あいつは。意味あるの?」
哄笑するカールに向けて、腑に落ちないヴェムは、そう言った。
 「知ってる。逆に言ったら、それだけ仕事も楽とか思っちゃってな。」
ヴェムも笑う。だが、すぐにその笑顔も失速した。
 「…でも、一回やられたよ。」
 「…え?」
 「本人は覚えてないみたいなんだけどな、飛龍の一撃をマトモに喰らって…、いや、死んだと思ったさ。」
洋上での出来事だ。暗い表情…なのだろう、多分…に一変するカール。
 「最初はさあ、ま、適当に楽しく行こうや、って感じだったさ。でも、敵が何だかわからんけど、本気だからさ。二度はやらせんぞ、っていうところ。」
なるほど、と頷くヴェム。
 「…が、あいつで勝てない相手を、どうしたん?」
 「艦隊が出た。この国の艦隊が来て、ぶっ飛ばしてくれた。」
 「艦隊! そりゃあ、強すぎ。」
 「おお。メッチャクチャ強かったぜ。現代兵器って次元が違うんだな。」
 「ああ、な。しかし、強運だな〜…。っていうか、あれ? 海で戦った?」
長く語らう二人。少年も、話に参加はしないが、興味深そうに聞いている様だった。

 「こいつ…。」
 言い様のない怒りを覚えた。人の気遣いを何だと思っているのか、キッチリと説明してもらいたかった。しかしそれも、彼女の安らかな寝顔を見ていると、霧散するのが自覚出来る程だった。そう、男三人が長話を終えて、部屋に戻ってきたとき、クローナは寝ていたのである。
 「ふむ、大した神経だ。」
 少年は、平然とそう評した。強くなった雨音に混じって、小さな寝息が聞こえる。
 少年の声を聞いて、ヴェムも思い直した。彼女は、そういう性格ではないはずだ。彼女は彼女なりに、色々と考えたはずだ。それで疲れて、眠くなったら寝るというのは、特に変な事ではない。第一、自分は「休め」と言ったのだ。そうすれば、何もおかしいところはない。
 彼は、無言のままドアを開けた。二人を従わせて、出て、閉める。木の軋む音を残して、狭い部屋はドアの陰に消えた。
 「…もう、真っ暗だなぁ。ちょっと長話し過ぎたかもだぞ?」
 「だなあ。腹も減ったし。しかし、あいつが寝てるんじゃ、ちょっとな。宿探すか?」
 「俺は廊下でも良いけど。」
 「まあ、それでも…。でもちょっとなあ。」
ヴェムが考え込んだとき、突然けたたましい音を立てて、扉が開いた。
 「誰か居ます!」
クローナが、扉を開けたのだ。その顔は緊張感を漲らせ、三人をしっかりと見据えている。だが、あまりの唐突な出来事で、三人は呆けている。
 「…お前、起きてたの?」
お陰で、こんなセリフが出てくるわけだ。
 「何者かが私達を観察してるんです! 見張ってるんですよ!」
苛立たしげに拳を握り締めて、その言葉をクローナは返事の代わりとした。
 「何者かって…。」
 「それは、わかりませんが…。」
カールの困惑した声を聞きながら、ヴェムの意外と優れた頭脳は、仮説を立てた。
見張るという事は、どう考えてみても、あまり好意的な輩ではない。脱走者を始末しに来た、帝国の手の者…恐らくはSS。そう考えると辻褄は合うし、他より説得力がありそうだ。来るものが来たか、と言い様のない思いから身震いするヴェム。
 「状況は?」
 「数は少なくとも2、最悪150です。」
 「随分、幅があるのだな。」
 「気配だけで、そんな正確な事はわかりませんから。」
少し俯き加減に、クローナは少年に答えた。
 「術は?」
 「逆に察知されるぞ。」
 「…か。」
しばし、沈黙。皆、考えているのだ。
 「騒ぎになる前に、何とか出ましょう。ここだと、巻き添えが出ます。」
口火を切ったのは、クローナ。
 「敵だと決まったのか?」
 「多分…、経験上。」
 「“奴等が来た”…、か?」
 「…恐らく。」
誰かが、生唾を呑み込んだようだ。無理もない。いつの間にか空気も一変して、寒気すら感じられる。重たい寒気だ。しかし、四人は頷き、確認した。

 「下水っていうと、ろくな思い出ないな。」
 「というと?」
 「いや、上司に突き落とされた事があってなぁ…。今頃、総長どうしてるかな?」
 「私に聞かないでください…。」
 ぼんやりと透けるオレンジの光を頼りに、四人は歩いていた。不可解な臭気の立ちこめる、狭苦しいトンネルの中を。
 せっかくSSを抜けてきたのに、またこんな所を歩く羽目になるのか。そんな事を思って、一人溜息をつくクローナ。やがて、先頭の彼女が、足を止める。
 「ここ…、ですか?」
 「多分な。」
 目の前の梯子に沿って視線を上げれば、うっすらと、鉄の蓋が見えた。何を思うのか、少しだけ立ち止まる。そして、上っていく。握る手元が濡れていて、非常に不快だ。
 「誰も居ないですね。」
 「じゃあ、早いとこ逃げるか。」
 マンホールの蓋を持ち上げて、そんな声。雨粒が地面を叩く、騒々しい音。マンホールにも雨水が流れ込んでくるが、四人が気にする様子はない。
 蓋を持ち上げたままの姿勢で、素早くクローナが、続いてヴェムが地上に姿を現す。そして、少年を抱えたカールが。無言のまま、蓋を元に戻して、駆け出す。皆、足は速かった。
 唐突な閃光が、白い背景に街を浮かべた。僅かに遅れた、重い轟音。
 「やだ…。」
 「どした?」
 「いえ…。雷は苦手で…。」
 「へぇ。な〜んか、意外だねぇ。」
 「…悪かったですね。」
 「俺は得意なんだけどな。」
 「…。知りません。」
雨音の中に重く響く轟音を聞きながら、小声で言葉を交わすクローナとカールだった。

 「やっぱ、逃げ回るのは得策じゃないってやつか。」
 正面、闇の中に立つ人影に向かって、ヴェムはそう言った。その表情は不敵な笑みを浮かべ、右手には大きな拳銃が握られていた。無言のクローナも、既に大剣を手にし、今、カールが刀を抜く金属質の音が、僅かに聞こえる。
 「そうだな。降伏してくれると嬉しい。」
 「ふざけてますか?」
ゆらりと近付いてくる人影に向かって、クローナがそう答えた。それを気にした様子もなく、さらにその人影は、ゆっくりと歩いてくる。そして、それだけではない違和感。
 「いっぱい来たな。」
 「わかってます。」
 「さっさとずらかろうぜ。アレ潰して。」
 「まあまあ。変に仕掛けるとヤバイ。ここは任せろ。」
四人が、小声でそんな言葉を交わす。最初に動いたのはヴェム。すっと、その手が動く。
轟音。
拳銃の物にしては異常なほど大きな銃声。そして、人影の足元に走る、一瞬の閃光。
 銃を、今度は頭に照準する。いつもの不真面目な笑みの中には、普段は見られない、刃のような雰囲気がある。間違いなく、彼もまた、数多の実戦をくぐり抜けた猛者である。おもむろに、彼は口を開いた。
 「正体を現せ。」
 「何のために?」
 「お前のお墓をたてるためさ。」
立ち止まったまま、人影は笑った。声から、男ではあるようだ。悠然と手を振って、男は答えた。
 「変わってないな。俺だ、ヴェム。」
 「総長か…。」
リヒャルトだった。
 時を同じくして、四人の背後から、一気に襲い掛かる影がある。実際、それがあと一歩に近付くまで、四人に動きは無かった。
 「…あれ? ノールさん?」
それが一瞬でどうなったのか、今はクローナに組み伏せられている。見慣れた黒い服に身を包んだその人物は、赤い髪の女だった。クローナの顔に、驚きの色が浮かんでいる。
 「う、つぅ…。相変わらずなのね。」
 「はぁ…。」
 試みた抵抗を、もう諦めて、ノールはクローナを見上げる。一方で、眉間に皺を寄せて、複雑な表情のクローナ。敵か味方か。仲間とは…。
 「やな趣味だねぇ。顔見知りだけで始末しに来たのか?」
 ノールとリヒャルトの顔を見比べながら、呆れた口振りで、ヴェムは言った。依然として、銃口が狙っている。知り合いなのか、と尋ねるカールに答える者は居ない。
 「そうでもないな。」
 「出たぞ、おい。」
 カールが声を上げた。実際、その通りだった。先ほどの騒ぎのあった、僅かばかりの時間の内に、見渡す限り、多数の人影がある。どれか一つに目を凝らせば、それが小銃を携帯しているのがわかるだろう。
 「現在、街には連合の一個師団が展開している。」
 「軍隊…?」
予期しない言葉を聞いた気がした。それは、全く前提をひっくり返す言葉に思えたのだ。
 クローナが疑惑に囚われた時、ヴェムは、おもむろにノールに銃口を向ける。
 「こいつ撃つぞ?」
 「ヴェムさん!」
僅かに辛そうな表情を浮かべるノールではなく、クローナが声を上げる。驚きとも、悲鳴とも付かない声だ。
 「他に何かいい手ある?」
 「でも…!」
以前にも、こんな事があったような気がする。一瞬だけ、クローナはそう思った。
 「そうだなあ。わかった。撃てない。」
 「甘いのね。」
意外にも、あっさりとヴェムは銃を退けた。
 「甘い? やれやれ…、何もわかってないな。オレ様は常に慈悲深いんだ。」
 どうやったら、こんな時に、こんな頭のおかしい冗談が出てくるのか。クローナが心の底から脱力感を味わったのは、安堵のためだけではないだろう。ノールも溜息をつく。
 「まあ、ノールを撃っても撃たなくても、俺としては何も変わらんがな。」
 「だろうと思った。」
思い出したかのようなタイミングでのリヒャルトの言葉に、ヴェムもあっさりと答える。
 「悪い奴だな。仲間じゃねーのか。」
 「どうせ人殺しです。」
一方で、カールとクローナ。
 「そして、どうしても殺すというのなら…!」
殆ど光のない闇に、クローナの大剣が、鋭く冷たい輝きを放って、高く静止した。
 「別に殺すとは言ってないぞ。」
 「うそ! SSだったら、脱走兵は…。」
 「SSではない。」
一瞬にして、空気に亀裂が入る。それは、あり得ない答えだった。少なくとも、クローナにとっては。
 「俺の本名はリヒャルト・ヴィーテ。所属は、民主国家条約機構、軍事情報保安局、だ。SSではない。」
雷鳴をBGMに、一人語るリヒャルト。
 「騙していた事になるが…、降伏するのなら、悪いようにはならない。お前達の事は俺がよくわかってるからな。上に掛け合ってもいい。ノール、お前も含む。」
 「そっか…。何だよ…。じゃあ、俺は降伏しても良い。」
 「あんたさぁ…。」
 「あの数見てみろ、どっちにしたって、俺で勝てるもんかい、と。」
 ノールに対して、彼はそう言った。一個師団と言ったら、一万人か、二万人か。無論、それでも相当な損害を与えてやる自信はあったが、全滅させて逃げられるというのとは違う。彼の回答に関しては、ノールも同意せざるを得ない。
 そして。
 「クローナ、お前次第だぞ。お前が本気出せば、何とかなるだろ?」
 「おいおい、お前よぉ…!」
 割って入るカールの声だが、何かを主張するには至らない。いずれにしても、クローナは、答えない。だが、その肩が震えている。そしてもう、誰も、何も言わない。強い雨音と、時折響く雷鳴だけが、聞こえている。
 幾らか時間が過ぎただろうか。ゆらりと、クローナは顔を上げた。
 「…ふざけてくれましたね…!」
 一度は下げた剣を、再び振り翳す。白銀の閃光が、空中に静止。その表情は、怒りだっただろうか、恨みだっただろうか。いずれにしても、悲痛なものであった。
 「やるんだな?」
 誰だっただろうか、その声に答えることなく、彼女は静から動に転じた。横に流れる雨が、身体を打つ。たちまち大きくなる、リヒャルトの姿。その顔は氷のように平静なものだ。その身体も動きはない。剣を振りかぶり、今、避ける事の出来ない一線を、超える。防ぐ事は、最初から出来ない。
 未来が決定して、なお、リヒャルトに動きはない。あるいは、最初から殺される覚悟で居るのか、それとも何か切り札でもあるというのか。僅かながら、不安を覚えるクローナ。
 唐突な閃光。
大地を引き裂くような鋭く、分厚い轟音。稲妻だ。その中心を抜けたクローナは、周りからは、そのまま突進するかに見えた。
 しかし、大重量のぶつかる音と共に、その手から大剣が滑り落ちる。それでもなお、慣性に任せて、進む。リヒャルトの元に着いたとき、もうそれは、単なる千鳥足でしかなかった。落雷を受けていたのだ。
 「う、裏切り…者…。」
 彼にすがりつくような姿勢で、それだけ言って、彼女はそのまま、崩れ落ちるように地面に倒れ込んでしまった。すっかりずぶ濡れになった髪が、その顔に垂れる。しゃがみ込んで、様子を見るリヒャルト。
 「裏切り者…、か。そうだろうな。」
リヒャルトは、沈痛な表情を浮かべたまま、それだけ口にした。

第三章・第二話へ

Index

Valid XHTML 1.0!