灰色の空

第二章 第六話

場所もわからぬ洋上にて

 「あ〜あ…。」
 「ごめんなさいね、ほんとに。」
 「ま、仕方ないっちゃ、仕方ないけどさぁ。」
 「で、どうするのだ?」
 救命ボートに、溜息が満ちた。嵐は遠く去り、船もまた、遠く去った。クローナ、カール、マリー、それから謎の少年を加えた4人は、ただ座っているだけである。
 そう、落ちたのはマリーだった。本を読んでいたところ、上がうるさいので何かと思って上がったら、嵐で吹き飛んだのだという。もっとも、話しぶりに何か不自然さが見えるので、実態はもう少し好ましくないものかも知れない。が、それを追求しないというのが、暗黙の了解となった。
 では、少年はどうか。これがまた不思議な動きであって、ようやくマリーをボートに引き上げた後、気付いたらボートに乗っていたのである。本人が言うには、カールと一緒に乗っていたという。
 いずれにせよ、その嵐も今は無く、海風は心地よく駆け、ボートの縁にはカモメが留まっている。
 「とりあえず、食い物は沢山あるぜ。」
 「何度も聞きました。」
 「…だなぁ。」
 さして大きさのないボートだが、定員は思いの外多く、80人だという。当然、80人分の食糧が積み込まれているわけで、それに4人で乗っているとなれば、当面困る事はない。もちろん、それは量の問題であって、質の問題を解決するものではないが。
 「じゃあ、また行ってきます。」
 「おぉ、頼むぜ。」
 「いってらっしゃいね。」
クローナの声に、次々と返事が来る。立ち上がって、軽く腕を伸ばす。光と共に、白銀の翼が展開される。空から、船や陸地を捜すのだ。
 「天使みたいだ。」
 「何だか、答えにくい表現ですね。」
 笑顔を交わすカールとクローナ。そのまま彼女は、軽く跳び上がって、翼を振るう。決して小さくはない重量を支える風が、ボートに注ぐ。一振り、二振りと、力強く空をよじ上り、そのままクローナは飛び去った。
 「…いいわねえ。飛べるって。」
 「かもな。」
後に残された者達は、そんな会話を交わしたのである。

 30分くらい飛んだだろうか。あんまり遠くまで出ると、今度はボートを見失う危険がある。何度も言う様だが、まともな航法装備が無いためだ。頻繁に、ボートを確認しておかなくてはならない。雲の下限ぎりぎりから、海に浮かぶ8メートルほどのボートを見れば、まさに点でしかないが、幸いにしてクローナは視力も良かった。術もある。それでも、限界はあるのである。
 「う〜ん…。」
 なかなか、見えてこないものだ。これというのも、先の大戦のせいだろう。人類の殆どが帝国隷下にあった時代には、この海も平和で、多くの船が交易に行き交っていた筈だ。
 それも今は昔。太平の名を冠した大海原に行き交うのは、今や商船より軍艦の方が多い。商船といえども、その運航スケジュールは両陣営間で厳密に管理されている始末だ。何とも、皮肉な話ではないか。
 「…あ。」
そして、ようやく彼女が見つけた船も、軍艦だったのである。

 ボートを呼び寄せて、彼女は一足先にその艦に近付く事にした。気になる事があったからである。
 「やっぱり…?」
 接近するに連れて、灰色で塗り固められた、肉付きの良い中年男性の腹の様な、いかにも重厚なタンブルホームが露わとなる。何より、船体の中心線上に、前・中・後と3基装備された大きな連装砲塔が、自分が如何なる存在かを誇示している。装甲巡洋艦か、下手をすると戦艦クラスの大型艦だ。
 しかし、やはりおかしい。甲板に人が居ないばかりか、煙突が沈黙しているのだ。
 「漂流してる…?」
 せっかく見つけた船なのに、そんな事実は認めたくはない。眉間に皺を寄せながら、彼女は、艦首付近の甲板に降り立った。
 錨関係の装備が置かれた最前部は鉄板張りだが、大半は木張り。SSに居た頃受けた講習では、直射日光を浴びて無体に加熱する事を避けるためだという。もっとも、直射日光などという物が存在しない今、無意味な配慮ではあるが。
 そんな事を思い出しながら、クローナは、辺りを見渡した。主砲であろう、円筒形の連装砲塔、艦“橋”と呼ぶに相応しい構造物、白と赤で塗り分けられた内火艇、飛行モンスターを対象とする、無造作に置かれた単装高角砲。軍艦としての体裁は、完全に整っている。
 しかし、やはり人影はない。不思議なのは、ちらほらと錆が目に付くほかは、損傷も見当たらない事だ。
 「何だか…、気味悪い。」
 無傷の軍艦、それも戦艦クラスを海に放棄して漂流させる輩が居るだろうか。まさか、停泊中に嵐に遭って流されたとかいう事もあるまい。それにも関わらず、現実として目の前にある。何という不可解か。そういえば、何となく空気も澱んでいる様に思えてくる。ボートよりは遙かに頼りがいのある、鋼鉄の船を見つけたにもかかわらず、そんな雰囲気の中で、まったく嬉しくは思えなかった。
 左舷に目を移すと、ケースメイトから突き出した砲身の先に、3人の乗ったボートが、ゆっくり近付いてくるのが見える。手前に目を移せば、錆びた手摺り。調べるまでボートを近付けない方が良いだろうか。一瞬そう思ったが、彼女は、回答を出さないまま、艦橋の方へと足を進めた。

 「!」
艦橋を覗いた彼女は、戦慄を覚えた。舵輪にもたれる白い物が何かを悟ったからだ。
 「こんなところで…。どうして…?」
 それは、既に白骨化した遺体だった。奥を見ると、それは一つではなかった。まったく、時間の洗礼を受けて、生ある者だけが崩れ去ったかのような様相。皺を寄せた眉間に右手を当て、考えるクローナ。もちろん、何故こんな事が起きたのか、だ。
 「もしかして…!」
 一つの可能性に思い当たり、顔色を変えるクローナ。病気だ。伝染性の何か非常に強い病気なら、それがもし艦内で蔓延したら。艦ごと隔離され、そのまま全員が命を落とした可能性がある。内火艇を使用して脱出を図った形跡は無さそうだが、誇り高い海軍軍人達ならば、何ら抵抗無く、その決定を受け容れたという事もあり得る。
 「…。」
 目を閉じて、意識を研ぎ澄ます。もちろん、その魂に祈りを捧げたくもあるが、まず、病原体の有無を確認しなくてはならない。真っ黒い空間には、何も見えてこない。何も有害な物は無いということだ。長い漂流の中で、全て死に絶えたのだろうか。
 「病原菌すら死んだ船…。」
 呟くクローナ。もちろん、現在病原体が発見されないからと言って、この艦に何が起こったか、特定出来るわけではない。波の音が、薄い靄の中から聞こえてくる。それだけだ。カモメも居ない。時が凍ってしまった様な錯覚を覚える。何故だろうか、彼女には、それがとても寂しく思えた。
 「まあいいや。それよりも…。」
 少しの間か、それとも長い間か、いずれとも知れない時間の後、彼女はそんな声を残して、艦橋を出た。ボートから艦へ乗り移る手伝いが必要なのである。

 「ごめんなさいね、本当に…。」
 「いいですよ、もう。」
最後にマリーを引き上げて、全員が艦へ移った事になる。
 「なあ、ボートどうする?」
 一息ついたのも束の間、カールがそんな事を言う。皆で、ボートを見下ろす。そうやってみると、海面が随分遠いところにある。この艦も、相当に大きい様だ。それに引き替え、頼りないボートだが…。
 「クレーンとか…、ありますね。」
 「でも、動かす力が要るわ。」
 「エンジンか。やってみるか?」
 「う〜ん…。焦らない方が良いと思いますよ。多分人手も要るでしょうし。」
 確かに、と唸る一同。しかし、ここまで一緒に来たボートを、見捨てるのも名残惜しい。結局、ロープで艦に繋いでおく事にしたのだった。

 「…。」
 「…。」
 カールとマリーが、本と睨めっこしている。そのページには、機械の外観図が大きく書かれており、各部に番号が振られている。無線機の取扱説明書なのだ。
 「終わりましたか?」
 「全然。機械とかって、慣れないし…。」
 「ええ、私も。やっぱり駄目ね、歳取っちゃうと。頭に入ってこないわ。」
あはは、と苦笑いを浮かべて、クローナは近付いてくる。
 「で、物は?」
カールの質問。クローナは、ボートから食糧を艦へ運び込んでいたのである。
 「終わりましたよ。すぐそこに置いてあります。」
 「そか。食料庫とかあると良いんだけどな。」
 「無いわけは無いと思いますよ。使えるかどうかは別ですけど。」
平然と答えるクローナ。
 「…お前、変に冷静だよな〜。“使えるかどうかは別”なんて、普通こんな時に言うか?」
 「…言いませんか?」
 「いや、わかってても、言わない方が良いと思うけどなあ…。変か?」
 「さあ…。」
夕暮れの赤い光の射す中に、4人の微妙な沈黙が宿る。
 「御飯にしましょ。」
 マリーの言葉が沈黙を破り、そしてまた無言が訪れる。しかし、4人の身体は、確実に提案を受け容れていた。急速に、大気から光が失われていく。今日もまた、夜が訪れようとしている。
 食後、ようやく取説を読み終えて、予備のバッテリーを探り当てて、SOSだけ発して、床に就く事になった。居住区も骨が残っている部屋が多かったが、何とか空き部屋を探してだ。狭苦しい二段ベッドは埃っぽいが、揺れやすいボートとは、比べ物にならないと言えた。

 

 嵐が揺れている。もとい、ボートが揺れている。大波が舷側を打ち砕かんばかりに打ち寄せ、砕けた波が大瀑布と姿を変えて注ぐ。誰かが叫んでいる。意味はわからない。白い閃光が、全てを染めた。腹に応える轟音。稲妻だ。
 怖い。雷は嫌いだ。
 再び、闇に白い亀裂が走り、その影に隠れていた物が、凶暴な咆哮を上げる。いつか、雷が闇を打ち砕くとき、その魔物は蘇り、巨大な力を以て破壊をほしいままとし、そして最後には、星そのものをも喰らい尽くすという。
 だから、という訳ではないはずだ。雷が怖いのは。
 また、光が迸る。目を閉じて、身体を縮める。船が揺れる。激しく、大きく。そして、雷もまた、激しく、近くへ―――。

 「いやぁあああああああああああああ!!」
 「と、とぅあぶぁっ!?」
 鋼で出来た艦が張り裂ける程の甲高い悲鳴が、艦橋から夜空にまで突き抜けた。ハッと我に返るクローナ。埃っぽいベッドに半身を起こした状態で、見えるのは薄暗い、味気ない鉄板張りの部屋。円い舷窓の外は、墨を流した様な闇。音は無い。揺れも無い。夢か。そうだ、ボートのわけはない。
 「何事!? クセモノ!? 敵襲!?」
少し落ち着いたかと思うと、そんな声が聞こえてくる。とても、慌てふためいた声だ。
 「なんだ、何なんだ!? 教えてくれよ今すぐベイベー?」
クローナが何か言う前に、彼の顔は、彼女のそばにあって、引きつった顔で見ているのである。
 「あ…。いや…。」
 「え? え!?」
「夢でした」などと言ったら、怒るだろうか。怒るだろう。しかし、咄嗟に気の利いた答えが出るでもない。
 「御免なさい、夢でした…。」
 「…は?」
 「や、だから、夢で…。雷の鳴る夢だったから…。」
 この歳になって、雷が怖いなどというのも恥ずかしい。真っ赤になりながら答えるクローナ。それでも、暗くて顔色までは読めまい。
 「…はぁ? だから、つまり…。勘弁してくれよ、もう!」
 「御免なさいっ!」
がっくりと項垂れる2人。
 「んぁ、まあ、仕方ないけど…。か〜っ、夜の3時だよ。じゃあ、おやすみ。」
 「お騒がせしました。おやすみなさいませ…。」
ぶつくさ文句を言いながら、ベッドに潜り込むカール。そして、返事をしながら、考えるクローナ。
 「…眠くなくなっちゃった。」
 それだ。興奮した頭はスッキリしてしまって、当分眠れそうにはない。一方、カールは早くも寝息を立て始め、少年とマリーは、つゆ知らずと言わんばかりに寝ている。何だか腹立たしい。しばし悩んで後、彼女は、甲板に出る事にした。

 とは言っても、誰もいない甲板に居たところで、何か楽しいわけでもない。ほんの僅かな波の音と、それを起こした風と。空を見たって何もないし、海も楽しくないとなれば、後はぶらつくくらいしかないだろう。錨と錨鎖を眺めて、主砲塔の天井に上って、煙突を覗き込んで。艦は思っていたよりなお大きく、見所は案外多かった。そんな事をしている内に、時が過ぎる。眠くない。
 「ん…?」
 やがて東の空が白み始める頃、その光の中に、彼女は違和感を垣間見た。一点の曇りが、その光に宿っている。どこかで、それを見た様な気がする。そう、あれは…。
 「やっぱり…。」
 術が見せた、その姿。黒い翼を広げ、悠然と舞うその姿。その中に息づく、あの黄色い目。確定ではないが、恐らく間違いなく、あの時襲ってきた飛龍であろう。もう、傷は完治したというのだろうか。
 「まったく…。あんなの誰も待ってないんですよ。」
 眉間に皺を寄せるクローナ。いずれにしたって、友好的な奴ではあるまい。辺りを見渡せば、さすがに軍艦、それも恐らくは戦艦クラスだけあって、対抗できそうな武器はごろごろしている。…ように見える。
 それはともかく、皆を起こすべきだろうか。当たり前だ。彼女は、すぐさま皆の寝る部屋へと走った。

 「カールさんは高角砲を! マリーさんとあなたは隠れていてください!」
 「はい!」
 「おぉ。」
 「高角砲ったって…。わかんねえよ。」
 廊下を走り、階段を駆け上がりながら、そんな言葉を交わす。叩き付ける様にドアを開け放ち、甲板に出る。すぐに頭を巡らす。…居た。まだ距離はある。
 「教えますから。」
 「教えるって…。わかんの!?」
 「以前、習いました。良いですか…。」
こんな所で役に立つなどとは思ってもみなかったものだ。
 「これが尾栓、砲側の照準器、引き金です。尾栓はこういう風にすれば開きます。」
 砲の尻に付いている取っ手を回して、右に引っ張るクローナ。分厚い板状の鋼板が、乾いた音と共にスライドする。水平鎖栓式というやつだ。
 「おう。」
 「砲弾を装填して、閉めて、ロックしたら、引き金を引けば発射されます。」
同じ手順で尾栓を閉じ、引き金に手を掛ける。頷くカール。
 「旋回と俯仰は、人力ですね。それぞれ多分…これと、このハンドルです。」
一応触った事はあるが、この砲とは別の型だ。回してみて、確認する。動いた。間違いない。
 「砲の真後ろは危険です。後座で怪我します。それと、照準は体で覚えてください。大丈夫ですね?」
 「まあ、やってみるよ。」
 「じゃあ、砲弾は…。」
 辺りを見回すクローナ。元SSだったとは言え、軍艦乗りではないのだ。弾薬庫の位置などわかるはずもない。しかし、戦闘中に迅速な給弾をと考えるなら、大体見当は付くというものだ。彼女は、すぐ脇の扉に目を付けた。
 「あったよ。」
 「良かったです。早く運び出しましょう。」
 「おっす。」
 鍵も掛かっていない部屋だった。黙々と砲弾運びに掛かる2人。それを見ているだけの2人。弾薬包一発で、ずっしりと10kgはあるのだ。子供や年寄りには辛いだろうし、しかも危険だ。作業の中で、クローナは、ちらりと横目で空を見やる。確かに、近付いてくる。
 「いいですか!?」
 「おう!」
 信管がきちんと設定されていないが、この際仕方ないとクローナは思った。直撃を狙うまでである。直撃弾を得れば、仮に炸裂しなくても大ダメージは必至だろう。そう信じる事にする。
 「撃ちます! 耳に気を付けて!」
 狙い澄まして、クローナの操る砲が火を噴く。目の眩む閃光が一瞬駆け抜け、けたたましい轟音。続いて煙。硝煙の匂いが鼻を突く。音速の二倍を超える砲弾が、一直線に空を裂く。薬莢が甲板に落ちる音。続けて、カールが引き金を引いた。
 「勇ましいわねえ…。」
 「以前酷い目に遭わされたからな。」
 初弾は外れ、遠くに水飛沫が上がる。一本、そして二本目が。それを眺めながら、マリーと少年は、のんびりと言葉を交わした。
 「あら、以前って?」
 「あれに襲われたのは、二度目なのだ。」
 「そうなの。災難ねえ。でも、どうして?」
 「わからん。」
 少年がぶっきらぼうに答えたところで、再びクローナの砲が火を噴いた。飛龍はすぐさま向きを変え、砲弾は際どく外れた様だ。反撃にか、その口が光る。
 「マズイ、みんな頭下げて!」
 クローナの叫び声より後か先か、光は弾となって放たれた。同時に、カールが発砲。光弾は手前に外れて海面に着弾、派手に水柱を噴き上げた。甲板に海水が注ぐ。カールの射撃も、遙か彼方に水飛沫を跳ね上げるに留まる。
 「弾がどこ飛んでるのかわかんねえよ! ああ、腹立つ!」
毒突くカール。クローナの声は聞こえていなかったらしい。
 「落ち着いてよく狙ってください! それっ!」
弾を込めながら応じるクローナ。ますます、戦いはエスカレートしていく。

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