灰色の空

第二章 第五話

貨客船ハリファックス号

 広い海。黒々とした海。残念ながら、空は今日も相変わらず曇っている。無闇に広い、その水塊を、白い姿が滑っていく。すべてのマストに帆を翻したハリファックス号である。
 227号室は三等船室。幸いにして一番底ではないと思ったが、考えてみるとそれは当たり前の話だ。船底はクルーの部屋である。そのせいだろうか、下からは色々と賑やかな声が聞こえてくる。その部屋全体が、ゆっくりと揺れる。間違いなく船だ。
 「じゃあ、よろしくお願いします。」
 「いいえ〜、こちらこそ。」
 四人部屋に三人で入った一行は、当然もう一人とそんな声を交わす事となった。人当たりの良さそうな老婆。にこやかな表情で、返事が返ってくるのを聞いて、一安心だ。
 「それで、お名前は何とお呼びすれば良いかしら。」
 「クローナ、です。」
 「あら、立派な名前なのね。」
 古い言葉ではあるが、「帝であること」という様な意味のある名前、それが彼女に与えられた名である。語源を辿ると興味深い事実に行き当たるのだが、ここでは割愛しておこう。
 「ええ、まあ…。そちらは?」
 「マリーと呼んで頂戴。…お連れの方が戻ったようね。」
 「え?」
 「おっす、ただいま。あれ、そっちが同室の人?」
見れば、人間とはだいぶ懸け離れた姿があった。
 「カールさんです。見かけは怖いですけど、普通の人ですから。」
 「な〜んだよ、その紹介。あ、カールは渾名で、本名はカルドール。カルドール・フェン・シルドラ。よろしくな、婆さん。」
 「マリーさんですよ。」
 「了解。よろしく、マリー婆さん。」
 「はい、よろしくね。でも、珍しいわねえ、狼さんそのまんまなんて、初めて見るわ。」
少々落ち着きのない二人を余所に、マリーは、のんびりとした様子で応える。
 「まあ、そうだろうなぁ。北大陸の南の方の出身だから。一族もあそこにしか住んでないし。」
北大陸の人口は極めて少なく、ここを領土として成立している国家は、一つも存在しない。都市という大袈裟なものはなく、幾つか集落があるだけと言われている。
 「ふ〜ん…。」
 「俺は、何というか、家出組で…。まいっか、その辺は。」
 笑って誤魔化すカール。まあ、家出と言うからには、言いたくない事もあったのだろう。差し当たって深くは尋ねない事にする二人。さて、最後は。
 「そちらの坊ちゃんは?」
 「え?」
一斉に、視線が注ぐ。
 「おお、僕は…。」
 慌てて少年の口を塞ぐクローナ。驚いた様子を見せるカールとマリー。無反応な少年。不可思議な沈黙が、妙に居心地が悪い。
 「あはは、ちょっと変な子で、記憶が混乱してるみたいなんですよ。名前もよく覚えてないみたいで…、ときどき変なこと言いますけど、気にしないでくださいね。」
 「何を言う。失礼な。」
 「あらあら、そんな事…。息子さん?」
 「ち、違います!」
 「あ、そう? ごめんなさいね。」
 何となく気まずい笑いがこぼれる。微妙に不満げな表情で、少年はそれを見守る。
 航海は、まだ始まったばかりだ。

 日は高いのだろうか。これだけ空気が明るいのは、珍しい。雲が切れ、昔の青空が戻ってくる日は、確かに近付いているのだろう。少しばかりの歴史を纏った帆が、その広い身に風をはらんでいる。滑る様に進んでいくハリファックス号。速度の割には、船首が蹴立てる波も穏やかに思える。良い船なのだろう。手摺りに身体をもたれたまま、クローナはそう思った。
 「…ふぅ。」
 何とはなしに、溜息をつく。トビウオが、鱗を煌めかせて飛んでいく。銀色の紙飛行機の様だ。僅かに青みがかった、黒い海。森にも色んなものが出るが、海もまた、色んな奴が住んでいる。それから身を守るために、このハリファックス号もまた、その流麗な船体に似合わぬ、武骨な大砲を仕込んでいるのだ。
 アガスタ圏では、外洋を航行する木造船の建造は、既に行われていないという。全ては鉄、もとい、鋼だ。その身体には強力な機関を備え、炎の力で、風が強かろうが弱かろうが、波が高かろうが低かろうが、自由自在に走るという。その頂点が、彼等の誇る装甲艦群なのだろう。
 「アーデント・シップビルディング&ドライドック、第2413号船、32283年6月8日竣工…かぁ。」
 操舵室の外にあった、真鍮製のプレートを読むクローナ。凝ったデザインであしらわれている。どんな船にでも、こういう物が取り付けられているのだろうか。
 「私より一つ下…。16歳って、船で言うとどうなのかな。」
 「まだまだ行けるさ。船齢16年は。」
 回答を期待しない独り言は、意外にも返事を得た。驚いて振り向くクローナ。中年と言うべきか、まだ若いと言うべきか、判断に苦しむ風な風貌の、しかし逞しさには間違いのない男が、そこには居た。
 「船員さんですか?」
 「おお。竣工したときから乗り組んでるよ。」
 「へえ…。お仕事は?」
 「揚錨、投錨、それと…。」
 「いや、あの。」
 「何だ?」
 「今は、暇なんですか、と…。」
 「ああ、ははは、そっちか。今は自由時間だからな。」
 「ああ。」
なるほど、とクローナは頷いた。
 「ハードなんですよね、海の仕事って。」
 「まあ、な。他の仕事はやったことないから知らないけど、差し当たって、慣れるまでだな。慣れれば何とかなるもんだ。」
 「ふ〜ん…。」
 「じゃ、まあ船の事は任せて、楽しんでくださいませ、てか。」
 「あ、それはもう。では〜。」
 手を振ってどこかへ去っていくクルーに、クローナはそんな声で別れを告げた。甲板を撫でる風。かなり強いが、他の乗船客も何人か居て、海を見たり、マストを見上げたり、中には絵を描いている人もいる。カモメが居る。
 もう少し居たい様な気もしたが、クローナは、昼食のために一度キャビンに戻る事にした。

 227号室に戻った彼女が見たのは、裁縫をしているマリーだけだった。カールと少年のベッドは、起きたときのまま乱雑に放り出され、その主は影も形もない。遊びに行ったのだろうか。
 「えーと、あれ? マリーさん、私の連れの方、見ませんでした?」
 「え、お連れさん? そうねえ…。3時間くらい前に出てから、見てないわねえ。」
 「あ、そうですか…。もう行っちゃったかな…。」
少し考え込むクローナ。戻ってくるのを待つのはどうだろうか。
 「…あ、そうだ。そろそろ昼食の時間なんですけど、一緒に行きます?」
 「え、もうそんな時間…。じゃあ、有り難く御一緒させてもらおうかしらね。」
でも、とそこでマリーは首を傾げた。
 「お連れさんの事は、良いの?」
 「あ、ええ。あの二人も食事に誘おうかと思ってたんですけど、まあ居ないなら仕方ないですし。捜すほどでもないですから。」
 「あら、そう? 多い方が良いと思うけど。」
 「先に行ってれば、その内来ると思いますよ。もしかしたら、向こうが先に居るかも知れないですし。」
 「それもそうね。…じゃあ、これを片付けないと。」
 「ええ、待ちます。」
 手際よく物が裁縫箱に収まっていく。最後に蓋を閉じ、鍵を掛けて、終わり。キャビンの鍵も掛けてから、二人は食堂へと向かった。

 「よう。」
 「やっぱり居ましたね。」
二人が食堂へ行くと、果たして狼男は居たのである。しかし、彼だけで、少年は居ない。
 「御一緒してよろしいかしら?」
 「あ、婆ちゃんも一緒か。どぞどぞ。」
 いそいそと腰掛ける二人。手にしているのは乾パンと乾肉。それからレモン一切れと、グラス一杯の赤ワイン。実にやる気のない食事だが、これが三等の哀しさか。いや、船という特殊な環境故、仕方のないところなのかも知れない。まあ、マグロ漁船やクルーズ客船でもあるまいし、そう長い航海でもないのだから、我慢出来ないわけでもない。
 「ところで、あの子は?」
 「知らないぜ。ま、どっか居るんじゃないの?」
 「そりゃ、どこかには居るでしょうけど…。ま、いっか。」
 「そうそう、その内来るわな。まさか飛び込むわけないし。」
 わはは、などと笑ってからパンに食い付くカール。ふと、ぽかんと口を開けて見ているクローナとマリーに気付く。彼にとっては、大変居心地が悪いわけである。
 「…何だよ。」
 「おっきな口ですね…。」
 「そうね。私達なんて、ひと呑みにしちゃいそう。」
 「なんて事を。失礼な奴等だな。」
実は何度も言われた事だったりするが、何度言われても腹の立つセリフだ。しかも、である。
 「あら? 誉めてるんですよ?」
これだ。
 「嘘言え、この! ったく、こんな奴だと思わなかったよ。」
でも、所詮冗談は冗談だろうか。怒ってみても、笑えてきてしまう。ひとしきり、三人で笑うに任せる事となった。

 「それで、あなた達は、どうしてこの船に?」
 「え、あ、まあ…。ちょっと。」
 「…え?」
 「いえ、話せばすっごく長くなりますし、知ると危険な事も色々ありますし…。」
 「あるかもなぁ。まあ、俺は付いていくだけ〜。」
 しどろもどろで応えるクローナにとって、癇に触るカールの言葉だったが、一瞬顔をしかめるだけで済ませる。所詮、面倒な事は全部自分が背負う事になるのだ。そうに違いない。腹立たしい思いで、そう納得する。
 「何だか変な人たちねぇ…。」
さっぱりわからないと言った様子で、首を傾げるマリー。
 「ま、まあ、向こうには知り合いが居ますから、相談して今後の事を決めようと思ってますよ。」
 ふと、両親の事が頭を過ぎる。こんな所に来てしまったが、これで良かったのだろうか。いや、今ここでそんな事を考えても仕方がないはずだ。そういう事にする。
 「あー、そうなんだ。」
 「そうなんですよ。」
 「大変なのねえ。お住まいは?」
 考え込むクローナ。そういえば、家が無い様な気がする。やっぱりというか、帰るべき家が無いなんていうのは、あまり一般的ではないだろうか。考えてみると、結構寂しい気分だ。
 「家は無いんです。う〜ん…、生まれは、セレストの近くの山の中ですけど。」
 「あら…、ごめんなさい。悪い事聞いちゃったかしら?」
 「いえ。まあ、隠しても仕方ない事ですし。今まで忘れてたくらいですから。」
 「そうなの…。みんな苦労してるのねえ。」
マリーは、ようやく食事を終えて、最後にワインを啜る。
 「ちょっと辛いわね。年寄りにはキツいわ。」
批評も辛口である。
 「で、婆ちゃんはなんで船に乗ったん?」
カールの声。ワイングラスをゆっくりと机に置いてから、マリーは言った。
 「お店がね、もう駄目だと思ったの。だから、遠い場所でやり直そうかな、って。」
 「…大胆ですね。」
 「お店って、どんなん?」
 「本屋だったんだけど、やっぱりね、もうみんな読書の余裕が無くなっちゃったみたいね。」
 「ああ…。」
 誰も読書が大切でないなどとは言ってないだろう。しかし、食事や寝るところには敵わない。そういう事だ。確かに、どの街もそんな雰囲気ではあった。世知辛い世の中になったものである。そして、辿っていくと先の大戦に行き当たるのだ。人災である。
 「だから、借金抱える前に店を畳んできたの。ほら、アガスタの方は、まだ余裕があるって言うじゃない?」
 「まあ、そうですね。でも…、大陸を越えるというのも、何というか…、スケールが大きいですよね。」
苦笑いしながらのクローナ。
 「息子夫婦は行方不明で手紙もくれないし、主人も逝っちゃったからね。身軽なのよ、ある意味。」
 「…婆ちゃん。歳、いくつ?」
 「今年で86になるわ。」
 「は、86ですか!? 私の5倍もあるじゃないですか!」
 「ええ、いつお迎えが来てもおかしくないわ。」
無邪気な笑みを浮かべるマリーだが、対する二人は笑えない。唖然とするばかりだ。
 「師匠もいかれたジジイだけど、こっちも相当な婆ちゃんだな。で、向こうに着いたら、知り合いとか居るの?」
 「いいえ。居たら苦労しないわ。」
 「はー…。自殺行為だぜ、おい。」
クローナに至っては、呆れて声もない。お城の年寄りといえば、それはもう、おとなしかったものだ。
 「ま、集うのは変人ばっかりか。」
 「やだ、そんなの…。」
カールの言葉が締めくくる。口では認めないが、考えれば考えるほどに、認めざるを得ない。頭を抱えるばかりである。

 

 「ん…。揺れてる…?」
 その日の夜、クローナは激しい動揺で目を覚ました。術の炎を掌に浮かべると、キャビンが朧気なオレンジに浮かび上がる。腹の上に、時計が落ちていた。これで起こされたのかも知れない。いずれにせよ、よほど激しく揺れたのだろう。いや、今も揺れている。ピッチに加えて、ロールも入ったこの揺れは、海神の戯れと呼ぶには、少々度が過ぎる。ギィギィと木の軋む音が、いかにも不安を誘う。
 「起きてますか? もしも〜し?」
 なんとなく、呼んでみる。二段ベッドの下段には、カールが寝ているはずだ。しかし、返事は無い。反対側の壁際を見やる。揺れるオレンジでぼんやりと照らされたそれは、やはり人が居る形跡がない。

 「…?」
咄嗟にベッドを飛び降り、確かめてみる。居ない。時計を見ると、時刻は午前2時過ぎ。
 「一体どこへ…?」
 片手で時計を持ったまま、扉を見やる。閉まったままだ。大きく、キャビンが傾く。薄暗い部屋で、何かが滑り落ちる様な音がする。外は大変な嵐なのだろう。こんな時に、一体何をしに行ったのか。肌寒い、嫌な感覚を覚える。
 素早く着替え、彼女はドアノブに手を掛けた。鍵は掛かっていなかった。

 揺れる廊下を駆け抜ける。一番まずいのは、転落だろう。もしそうだとしたら、露天甲板へ出れば全てがわかる。自在に空を駆けるための運動神経は、波による動揺など物ともしない。階段を一息に駆け上がり、また次を上る。
 「!」
 最後の扉を開き、甲板に出た途端、波と雨と、それを砕く風が、渾然一体となって襲い来た。思わず目を瞑るクローナ。目を開けば、闇に白いものが浮かんで、消える。砕けた波頭と、空間を覆うノイズは雨粒だろう。そして、魔物の咆哮とすら思える轟音。
 しかし、自然の暴威に呆けている場合ではない。一目で悟る。クルーが尋常ではない。
 もちろん、嵐の中では殺気立って作業するだろうが、それとは一見して明らかに違うのだ。第一、煙突から火の粉が舞っており、船は今、火力で動いている。帆の収容はずっと前に終わって、作業は特にない筈だ。
 それが、海に向かって、何か叫んでいるのだ。
 全身に寒気が走る。やっぱり海に落ちたのか。
 「どうしたんですか!」
 「誰か海に落ちた!」
 「!」
何という事だろう。
 「誰ですか!?」
 「わからん! 命知らずの獣人が助けに出た! ほら、あれ!」
 クルーが指差す方向を見る。ハリファックス号の露天甲板に達するほどの大波の狭間に、確かに何かが浮かんでいる。すぐに隠れる。探照灯が向けられるが、船体が傾き、すぐに外れてしまう。
 「ああ、見てられねえ、自殺行為だよ!」
 「泳いでですか!?」
 「いや、救命ボートだ! 船長が許可した!」
 答えを聞きながら、クローナは視野に意識を集中する。力を得たその視力は、たちまち目標を捉えた。確かにボートだ。波に揉まれるそれを漕ぐのは、銀色の毛皮を纏った男。しかしそれもつかの間、山の様な大波が、頂点を白く散らしながら、それを覆い隠す。
 「カールだ、間違いない。だとしたら落ちたのは…。」
 「知り合いか!?」
 「ええ、同じ部屋です! 多分落ちた人も!」
 「部屋番号は?」
 「227! 私も行きます!」
 それだけ言い終えて、キャビンの鍵をそのクルーに放り投げると、彼女は突然跳んだ。マストへ上っていく。何も、考えてはいない。下で何か言っているが、彼女は、最早それが有意な事とは感じていない。たちまち見張り台まで上り詰め、取り出したコンパスを一瞥して、彼女は飛んだ。翼が暴風に乗る。
 「さすがに酷い…。」
 乱れた気流は、まったく予測が付かない。しかし、その言葉とは裏腹に、クローナは僅かに高度を下げながら、ボートの上へと滑らかに飛んでいく。その姿が、オレンジに浮かび上がった。手に炎を浮かべ、そのまま幾度か周回する。
 無秩序に暴れ狂っている様に見えた波も、上から見ると、ある模様を持っているのがわかる。しかし、そんな事を気に掛けている余裕は全くない。誰が落ちたのかわからないが、捜すのが先だ。低いと近くしか見えない。高すぎても雨でよく見えない。そして暗い。
 「かなり厳しいかな…。」
まったく、その通りであった。

 やがて、クローナの術が生んだ炎も嵐の闇へと掻き消え、ハリファックス号からはまったく見えなくなってしまった。乗客から術士を募っての捜索も徒労と化し、航海中、とうとう彼女らがハリファックス号に戻る事はなかったのである。

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