広い海。黒々とした海。残念ながら、空は今日も相変わらず曇っている。無闇に広い、その水塊を、白い姿が滑っていく。すべてのマストに帆を翻したハリファックス号である。
227号室は三等船室。幸いにして一番底ではないと思ったが、考えてみるとそれは当たり前の話だ。船底はクルーの部屋である。そのせいだろうか、下からは色々と賑やかな声が聞こえてくる。その部屋全体が、ゆっくりと揺れる。間違いなく船だ。
「じゃあ、よろしくお願いします。」
「いいえ〜、こちらこそ。」
四人部屋に三人で入った一行は、当然もう一人とそんな声を交わす事となった。人当たりの良さそうな老婆。にこやかな表情で、返事が返ってくるのを聞いて、一安心だ。
「それで、お名前は何とお呼びすれば良いかしら。」
「クローナ、です。」
「あら、立派な名前なのね。」
古い言葉ではあるが、「帝であること」という様な意味のある名前、それが彼女に与えられた名である。語源を辿ると興味深い事実に行き当たるのだが、ここでは割愛しておこう。
「ええ、まあ…。そちらは?」
「マリーと呼んで頂戴。…お連れの方が戻ったようね。」
「え?」
「おっす、ただいま。あれ、そっちが同室の人?」
見れば、人間とはだいぶ懸け離れた姿があった。
「カールさんです。見かけは怖いですけど、普通の人ですから。」
「な〜んだよ、その紹介。あ、カールは渾名で、本名はカルドール。カルドール・フェン・シルドラ。よろしくな、婆さん。」
「マリーさんですよ。」
「了解。よろしく、マリー婆さん。」
「はい、よろしくね。でも、珍しいわねえ、狼さんそのまんまなんて、初めて見るわ。」
少々落ち着きのない二人を余所に、マリーは、のんびりとした様子で応える。
「まあ、そうだろうなぁ。北大陸の南の方の出身だから。一族もあそこにしか住んでないし。」
北大陸の人口は極めて少なく、ここを領土として成立している国家は、一つも存在しない。都市という大袈裟なものはなく、幾つか集落があるだけと言われている。
「ふ〜ん…。」
「俺は、何というか、家出組で…。まいっか、その辺は。」
笑って誤魔化すカール。まあ、家出と言うからには、言いたくない事もあったのだろう。差し当たって深くは尋ねない事にする二人。さて、最後は。
「そちらの坊ちゃんは?」
「え?」
一斉に、視線が注ぐ。
「おお、僕は…。」
慌てて少年の口を塞ぐクローナ。驚いた様子を見せるカールとマリー。無反応な少年。不可思議な沈黙が、妙に居心地が悪い。
「あはは、ちょっと変な子で、記憶が混乱してるみたいなんですよ。名前もよく覚えてないみたいで…、ときどき変なこと言いますけど、気にしないでくださいね。」
「何を言う。失礼な。」
「あらあら、そんな事…。息子さん?」
「ち、違います!」
「あ、そう? ごめんなさいね。」
何となく気まずい笑いがこぼれる。微妙に不満げな表情で、少年はそれを見守る。
航海は、まだ始まったばかりだ。
日は高いのだろうか。これだけ空気が明るいのは、珍しい。雲が切れ、昔の青空が戻ってくる日は、確かに近付いているのだろう。少しばかりの歴史を纏った帆が、その広い身に風をはらんでいる。滑る様に進んでいくハリファックス号。速度の割には、船首が蹴立てる波も穏やかに思える。良い船なのだろう。手摺りに身体をもたれたまま、クローナはそう思った。
「…ふぅ。」
何とはなしに、溜息をつく。トビウオが、鱗を煌めかせて飛んでいく。銀色の紙飛行機の様だ。僅かに青みがかった、黒い海。森にも色んなものが出るが、海もまた、色んな奴が住んでいる。それから身を守るために、このハリファックス号もまた、その流麗な船体に似合わぬ、武骨な大砲を仕込んでいるのだ。
アガスタ圏では、外洋を航行する木造船の建造は、既に行われていないという。全ては鉄、もとい、鋼だ。その身体には強力な機関を備え、炎の力で、風が強かろうが弱かろうが、波が高かろうが低かろうが、自由自在に走るという。その頂点が、彼等の誇る装甲艦群なのだろう。
「アーデント・シップビルディング&ドライドック、第2413号船、32283年6月8日竣工…かぁ。」
操舵室の外にあった、真鍮製のプレートを読むクローナ。凝ったデザインであしらわれている。どんな船にでも、こういう物が取り付けられているのだろうか。
「私より一つ下…。16歳って、船で言うとどうなのかな。」
「まだまだ行けるさ。船齢16年は。」
回答を期待しない独り言は、意外にも返事を得た。驚いて振り向くクローナ。中年と言うべきか、まだ若いと言うべきか、判断に苦しむ風な風貌の、しかし逞しさには間違いのない男が、そこには居た。
「船員さんですか?」
「おお。竣工したときから乗り組んでるよ。」
「へえ…。お仕事は?」
「揚錨、投錨、それと…。」
「いや、あの。」
「何だ?」
「今は、暇なんですか、と…。」
「ああ、ははは、そっちか。今は自由時間だからな。」
「ああ。」
なるほど、とクローナは頷いた。
「ハードなんですよね、海の仕事って。」
「まあ、な。他の仕事はやったことないから知らないけど、差し当たって、慣れるまでだな。慣れれば何とかなるもんだ。」
「ふ〜ん…。」
「じゃ、まあ船の事は任せて、楽しんでくださいませ、てか。」
「あ、それはもう。では〜。」
手を振ってどこかへ去っていくクルーに、クローナはそんな声で別れを告げた。甲板を撫でる風。かなり強いが、他の乗船客も何人か居て、海を見たり、マストを見上げたり、中には絵を描いている人もいる。カモメが居る。
もう少し居たい様な気もしたが、クローナは、昼食のために一度キャビンに戻る事にした。
227号室に戻った彼女が見たのは、裁縫をしているマリーだけだった。カールと少年のベッドは、起きたときのまま乱雑に放り出され、その主は影も形もない。遊びに行ったのだろうか。
「えーと、あれ? マリーさん、私の連れの方、見ませんでした?」
「え、お連れさん? そうねえ…。3時間くらい前に出てから、見てないわねえ。」
「あ、そうですか…。もう行っちゃったかな…。」
少し考え込むクローナ。戻ってくるのを待つのはどうだろうか。
「…あ、そうだ。そろそろ昼食の時間なんですけど、一緒に行きます?」
「え、もうそんな時間…。じゃあ、有り難く御一緒させてもらおうかしらね。」
でも、とそこでマリーは首を傾げた。
「お連れさんの事は、良いの?」
「あ、ええ。あの二人も食事に誘おうかと思ってたんですけど、まあ居ないなら仕方ないですし。捜すほどでもないですから。」
「あら、そう? 多い方が良いと思うけど。」
「先に行ってれば、その内来ると思いますよ。もしかしたら、向こうが先に居るかも知れないですし。」
「それもそうね。…じゃあ、これを片付けないと。」
「ええ、待ちます。」
手際よく物が裁縫箱に収まっていく。最後に蓋を閉じ、鍵を掛けて、終わり。キャビンの鍵も掛けてから、二人は食堂へと向かった。
「よう。」
「やっぱり居ましたね。」
二人が食堂へ行くと、果たして狼男は居たのである。しかし、彼だけで、少年は居ない。
「御一緒してよろしいかしら?」
「あ、婆ちゃんも一緒か。どぞどぞ。」
いそいそと腰掛ける二人。手にしているのは乾パンと乾肉。それからレモン一切れと、グラス一杯の赤ワイン。実にやる気のない食事だが、これが三等の哀しさか。いや、船という特殊な環境故、仕方のないところなのかも知れない。まあ、マグロ漁船やクルーズ客船でもあるまいし、そう長い航海でもないのだから、我慢出来ないわけでもない。
「ところで、あの子は?」
「知らないぜ。ま、どっか居るんじゃないの?」
「そりゃ、どこかには居るでしょうけど…。ま、いっか。」
「そうそう、その内来るわな。まさか飛び込むわけないし。」
わはは、などと笑ってからパンに食い付くカール。ふと、ぽかんと口を開けて見ているクローナとマリーに気付く。彼にとっては、大変居心地が悪いわけである。
「…何だよ。」
「おっきな口ですね…。」
「そうね。私達なんて、ひと呑みにしちゃいそう。」
「なんて事を。失礼な奴等だな。」
実は何度も言われた事だったりするが、何度言われても腹の立つセリフだ。しかも、である。
「あら? 誉めてるんですよ?」
これだ。
「嘘言え、この! ったく、こんな奴だと思わなかったよ。」
でも、所詮冗談は冗談だろうか。怒ってみても、笑えてきてしまう。ひとしきり、三人で笑うに任せる事となった。
「それで、あなた達は、どうしてこの船に?」
「え、あ、まあ…。ちょっと。」
「…え?」
「いえ、話せばすっごく長くなりますし、知ると危険な事も色々ありますし…。」
「あるかもなぁ。まあ、俺は付いていくだけ〜。」
しどろもどろで応えるクローナにとって、癇に触るカールの言葉だったが、一瞬顔をしかめるだけで済ませる。所詮、面倒な事は全部自分が背負う事になるのだ。そうに違いない。腹立たしい思いで、そう納得する。
「何だか変な人たちねぇ…。」
さっぱりわからないと言った様子で、首を傾げるマリー。
「ま、まあ、向こうには知り合いが居ますから、相談して今後の事を決めようと思ってますよ。」
ふと、両親の事が頭を過ぎる。こんな所に来てしまったが、これで良かったのだろうか。いや、今ここでそんな事を考えても仕方がないはずだ。そういう事にする。
「あー、そうなんだ。」
「そうなんですよ。」
「大変なのねえ。お住まいは?」
考え込むクローナ。そういえば、家が無い様な気がする。やっぱりというか、帰るべき家が無いなんていうのは、あまり一般的ではないだろうか。考えてみると、結構寂しい気分だ。
「家は無いんです。う〜ん…、生まれは、セレストの近くの山の中ですけど。」
「あら…、ごめんなさい。悪い事聞いちゃったかしら?」
「いえ。まあ、隠しても仕方ない事ですし。今まで忘れてたくらいですから。」
「そうなの…。みんな苦労してるのねえ。」
マリーは、ようやく食事を終えて、最後にワインを啜る。
「ちょっと辛いわね。年寄りにはキツいわ。」
批評も辛口である。
「で、婆ちゃんはなんで船に乗ったん?」
カールの声。ワイングラスをゆっくりと机に置いてから、マリーは言った。
「お店がね、もう駄目だと思ったの。だから、遠い場所でやり直そうかな、って。」
「…大胆ですね。」
「お店って、どんなん?」
「本屋だったんだけど、やっぱりね、もうみんな読書の余裕が無くなっちゃったみたいね。」
「ああ…。」
誰も読書が大切でないなどとは言ってないだろう。しかし、食事や寝るところには敵わない。そういう事だ。確かに、どの街もそんな雰囲気ではあった。世知辛い世の中になったものである。そして、辿っていくと先の大戦に行き当たるのだ。人災である。
「だから、借金抱える前に店を畳んできたの。ほら、アガスタの方は、まだ余裕があるって言うじゃない?」
「まあ、そうですね。でも…、大陸を越えるというのも、何というか…、スケールが大きいですよね。」
苦笑いしながらのクローナ。
「息子夫婦は行方不明で手紙もくれないし、主人も逝っちゃったからね。身軽なのよ、ある意味。」
「…婆ちゃん。歳、いくつ?」
「今年で86になるわ。」
「は、86ですか!? 私の5倍もあるじゃないですか!」
「ええ、いつお迎えが来てもおかしくないわ。」
無邪気な笑みを浮かべるマリーだが、対する二人は笑えない。唖然とするばかりだ。
「師匠もいかれたジジイだけど、こっちも相当な婆ちゃんだな。で、向こうに着いたら、知り合いとか居るの?」
「いいえ。居たら苦労しないわ。」
「はー…。自殺行為だぜ、おい。」
クローナに至っては、呆れて声もない。お城の年寄りといえば、それはもう、おとなしかったものだ。
「ま、集うのは変人ばっかりか。」
「やだ、そんなの…。」
カールの言葉が締めくくる。口では認めないが、考えれば考えるほどに、認めざるを得ない。頭を抱えるばかりである。
「ん…。揺れてる…?」
その日の夜、クローナは激しい動揺で目を覚ました。術の炎を掌に浮かべると、キャビンが朧気なオレンジに浮かび上がる。腹の上に、時計が落ちていた。これで起こされたのかも知れない。いずれにせよ、よほど激しく揺れたのだろう。いや、今も揺れている。ピッチに加えて、ロールも入ったこの揺れは、海神の戯れと呼ぶには、少々度が過ぎる。ギィギィと木の軋む音が、いかにも不安を誘う。
「起きてますか? もしも〜し?」
なんとなく、呼んでみる。二段ベッドの下段には、カールが寝ているはずだ。しかし、返事は無い。反対側の壁際を見やる。揺れるオレンジでぼんやりと照らされたそれは、やはり人が居る形跡がない。
揺れる廊下を駆け抜ける。一番まずいのは、転落だろう。もしそうだとしたら、露天甲板へ出れば全てがわかる。自在に空を駆けるための運動神経は、波による動揺など物ともしない。階段を一息に駆け上がり、また次を上る。
「!」
最後の扉を開き、甲板に出た途端、波と雨と、それを砕く風が、渾然一体となって襲い来た。思わず目を瞑るクローナ。目を開けば、闇に白いものが浮かんで、消える。砕けた波頭と、空間を覆うノイズは雨粒だろう。そして、魔物の咆哮とすら思える轟音。
しかし、自然の暴威に呆けている場合ではない。一目で悟る。クルーが尋常ではない。
もちろん、嵐の中では殺気立って作業するだろうが、それとは一見して明らかに違うのだ。第一、煙突から火の粉が舞っており、船は今、火力で動いている。帆の収容はずっと前に終わって、作業は特にない筈だ。
それが、海に向かって、何か叫んでいるのだ。
全身に寒気が走る。やっぱり海に落ちたのか。
「どうしたんですか!」
「誰か海に落ちた!」
「!」
何という事だろう。
「誰ですか!?」
「わからん! 命知らずの獣人が助けに出た! ほら、あれ!」
クルーが指差す方向を見る。ハリファックス号の露天甲板に達するほどの大波の狭間に、確かに何かが浮かんでいる。すぐに隠れる。探照灯が向けられるが、船体が傾き、すぐに外れてしまう。
「ああ、見てられねえ、自殺行為だよ!」
「泳いでですか!?」
「いや、救命ボートだ! 船長が許可した!」
答えを聞きながら、クローナは視野に意識を集中する。力を得たその視力は、たちまち目標を捉えた。確かにボートだ。波に揉まれるそれを漕ぐのは、銀色の毛皮を纏った男。しかしそれもつかの間、山の様な大波が、頂点を白く散らしながら、それを覆い隠す。
「カールだ、間違いない。だとしたら落ちたのは…。」
「知り合いか!?」
「ええ、同じ部屋です! 多分落ちた人も!」
「部屋番号は?」
「227! 私も行きます!」
それだけ言い終えて、キャビンの鍵をそのクルーに放り投げると、彼女は突然跳んだ。マストへ上っていく。何も、考えてはいない。下で何か言っているが、彼女は、最早それが有意な事とは感じていない。たちまち見張り台まで上り詰め、取り出したコンパスを一瞥して、彼女は飛んだ。翼が暴風に乗る。
「さすがに酷い…。」
乱れた気流は、まったく予測が付かない。しかし、その言葉とは裏腹に、クローナは僅かに高度を下げながら、ボートの上へと滑らかに飛んでいく。その姿が、オレンジに浮かび上がった。手に炎を浮かべ、そのまま幾度か周回する。
無秩序に暴れ狂っている様に見えた波も、上から見ると、ある模様を持っているのがわかる。しかし、そんな事を気に掛けている余裕は全くない。誰が落ちたのかわからないが、捜すのが先だ。低いと近くしか見えない。高すぎても雨でよく見えない。そして暗い。
「かなり厳しいかな…。」
まったく、その通りであった。
やがて、クローナの術が生んだ炎も嵐の闇へと掻き消え、ハリファックス号からはまったく見えなくなってしまった。乗客から術士を募っての捜索も徒労と化し、航海中、とうとう彼女らがハリファックス号に戻る事はなかったのである。