灰色の空

第二章 第四話

神聖エルファト連合帝国 巨大都市ラム・デイン

 「む、軟らかい…。」
 「そりゃあ、スライムですからね。」
 少年とクローナは、緑色の物体を挟んで、道端にしゃがみ込んでいた。
 彼は、引っ込めた指を、再び伸ばす。貼り付く様な、それでいて弾力があり、水の様な冷たさの、何とも不可解な感触である。差し当たって、あまり気持ちの良いものとは言えない。
 「あんまり触ると、指が溶けますよ。」
 「なにぃ?」
 「その身体で獲物をのそーっと包み込んで、溶かして食べるんですから。」
 自分で言いながら、やな感じ、などと思う。生物学的には、アメーバの大きいものになるらしい。まあ、大きさや動きからも判るとおり、間違っても人間を襲える様な生物ではない。地表のカビやキノコ、せいぜい昆虫が関の山だ。
 「そうなのか?」
 「そうですよ。」
もっとも、世の中には、家を一軒、丸飲みにする様な化け物スライムが居るらしいが。
 「そろそろ行きましょう。」
 まあ、スライムなんぞにかまけている場合でもないだろう。立ち上がって、クローナは言った。街まではあと僅か。森も切れた今、驚異的な巨大都市は、目一杯そびえ立っている。

 

 「一応聞いておきますけど、幾ら持ってます?」
 「14。」
 「じ、じゅうよん…ですか。」
 予想通りとは言え、大きな溜息を付くクローナ。いや、二桁と来れば、予想を上回る手強さだ。この勢いでは、まともに船賃を払う事など到底出来ないだろう。数字で言えば、98%くらいの確率だ。
 そうなると、選択肢は二つだ。稼ぐか密航か。追っ手が差し向けられている中で、既にクローナは答えを出していた。天を仰ぐ。そして言った。
 「あなたさえ居なければ、こんな事する必要も無かったんですけどね。」
 「そうか。」
 「まったく…。」
 こんな時だから、無表情な反応に腹が立つというものだ。しかし、慣れなければならない。こいつはこういう奴なんだ。…努力してすぐ上手くいくのなら、苦労は無いわけである。
 雑踏を歩いて抜ける。広い街だ。二人の入った街の南西部は、木造建造物が主体だ。それも、老朽化した木造高層建築だ。物乞いのたむろする通りは、迫ってくる様な建物で薄暗く、しかもそれらは、今にも崩れてきそうな危うさを感じさせる。足元も土が剥き出しだ。他の街の例からして、雨が降ると辛いだろう。
 「ねーちゃん、石鹸とか買わへん?」
 「要りません。」
 「なあなあ、ちょっとここならではの掘り出し物があるんだけどさ…。」
 「買いません。」
 「おー、良かおなごなぁ。どがんや、俺と一晩。銭なら出すけん?」
 「お断りです!」
 色々の輩が話しかけてくる。通りの喧噪と物売りの押し具合は、ともすればその危機的な環境すらも、気楽に捉えている様に見えてくる。もちろん、そんな事は無いはずだと思いながらも。物珍しげに余所見を続ける少年を、決して離さぬ様、その手をきつく握る。
 (母親でもあるまいし。)
 そんな事をしている自分に、内心苦笑する。勝手に付いてきた奴だ。わざわざ気を遣って守ってやる必要も無いだろうに。冷静に考えればそう思う。もちろん、その冷静な意見を受け容れるつもりはさらさらない。
 (私も私で、お節介焼きなのかな。)
 気楽に考えを進めてみる。確かに不思議なものだ。恩があるわけでも、義理があるわけでもない。強いて言えば、ほんの浅い縁がある程度だ。むしろ貸しがあると言うべきだ。それも一つではなく。にも関わらず、この負担の重さ。…“優しい”というやつなのだろうか。
 「わぁ!」
 「うをってぉっ!?」
 考え込んで歩いていた彼女は、突然の衝撃を受けた。年配の男の声がする。ぶつかったらしいが、姿が見えない。
 「なんじゃい、失敬な! …っと、おぉ? 君かぁ。」
 「すみませ…あ。」
 声のする方に頭を下げると、車椅子に乗った年寄りの姿があった。その飄々とした言葉遣い。いかにも軽い声質。軽薄な笑み。ロマンスグレイの頭髪が光を浴びると、その密度の低さが明らかとなる。間違いない。
 「食い逃げウィリー!」
 「その節は世話になったよ、クローナちゃんだったっけ?」
 思わず大声を上げて指さすクローナに、男は悠然と答えた。通り掛かる人々が、何事かと一瞬視線を浴びせていくが、面白くないと悟ったか、すぐに目を背ける。
 「師匠、知り合いっすか?」
 そして、ウィリーは見慣れぬ顔を従えていたのである。彼とクローナの顔を、いかにもものぐさな仕草で見比べていた少年は、さらにのそりと、その声の方へ顔を向けた。
 「おぉ。」
そして一声。その先には、ヒトとは一線を画す姿があった。
 「そうだカール君。晩餐を共にしたクローナ嬢だよ。ぼけっとしとらんと、君も挨拶し給え。」
 「ああ、はい、カールといいます。えーと、師匠が迷惑掛けたとかで、どもです。で、俺は見ての通り…。」
 「獣人さんですよね。」
 「おす。ま、そゆことで…。あいたっ!?」
 「馬鹿ポン! 何を言っておるか!」
 「何すか、俺が何か悪い事したですか?」
 「ああ、貴様という奴は、何もわかっとらんな! そんな挨拶の仕方があるか!」
 「ええっ!?」
 やがて、やりとりはウィリーと件の獣人の二人の口論に発展していく。しかし、その頭は、まるっきり狼そのものだ。手も毛が生えて、爪が鋭くて。恐らく、全身が毛で覆われているのだろう。銀色の毛並みと言えば、変な表現ではあるが、高級感がある。
 何にしても、人間の亜種は結構居るが、これだけ容姿が異なる例は、多くない。尻尾があるとか、耳が大きいとか、普通はごく一部に留まるものだ。少なくとも、クローナの知る範囲では。
 (…まあ、自在に翼が生えたり消えたりするのも、随分特殊でしょうけどね。)
 ふと自分の事に思い当たって、クローナは苦笑した。まだ知らない術の一種なのだろうか。出たり入ったりではなく、突然出来たり消えたりであるから、まあ生体的にはあり得ない事にも思える。
 「まぁ、ちょっと見苦しいところを見せてしまったな。失敬失敬。」
 「え? あ、いや、あはは。」
口喧嘩は終わったらしい。突然の言葉に驚きながらも、笑って誤魔化すクローナ。
 「で?」
 「いや、で?と言われても…。」
面食らう。
 「そうか。じゃ、食い逃げの話は解決済みという事で。」
 「いつ解決したんですか。」
ぬけぬけと言ってのけるウィリーだが、そうはさせないわけである。
 「食い逃げしたの? あんたが…?」
 「私はそんな事してませんっ! したのはこの人です! 結局私が払わされたんですよ!?」
 「いや、ゴメンってば。そんなに怒るなよ…。な?」
 「あ、そうですね…。」
 まぁ、実はその当日はクローナも金を払わずに出たりしたのだが、悪い事にレストランはホテルと経営が一体化していて、しっかり宿代で取り返されてしまったのである。ご丁寧にも、ウィリーの分と、“罰金”付きだ。
 これだけならまだしも、多少クローナ自身にも非があるわけで、やむを得ないという気にもなるが、そうは行かなかった。この話がバレて、ヴェムとノールにからかわれるというオマケまで付いたのだ。たまったものではない。
 「…で?」
ばつの悪そうに、カールに苦笑いを見せたあと、クローナはウィリーを睨んだ。
 「な、なんじゃい…。」
 「私が立て替えた分、キッチリ払ってください。元値が2200と罰金が800、それから私への慰謝料が1000です。」
 「慰謝料は取り過ぎだと思うぞ。」
 「子供は黙ってなさい。」
眉間に皺を寄せて、少年を睨むクローナ。普段の彼女なら、こんな事はしないだろう。よほど不愉快な思いをしたのだと、傍目にも判る。
 「いや、やっぱり、ち、ちと高くないかなぁ…?」
 「何か言いましたか?」
 「いや…。」
結局、無理矢理払わされる羽目になったウィリー。
 「自業自得だな。エロじじいめ。や〜れやれ、別会計で良かったぜ。」
 「黙れ、うつけが! くそぉ、残り130になったぢゃないか!」
 「悪い事は出来ないものですね。」
怒るウィリーに、ぬけぬけと言い掛けるクローナ。露骨に表情を歪め、しかし言い返す事は出来ない。この歳になって、何をやっておるのだか。ウィリーは、深く溜息を付いた。

 

 「ほ〜、船、か。わしゃあ、もうちっと街を見ていくがなあ。急ぐのか?」
 「ええ。ちょっと色々事情がありますし。」
 とんでもない奴に追われているのだ。大した事情であると、クローナは我ながら思う。考えてみれば、今にも復活して追い掛けてくるかも知れない。こんな所で見つかって、戦闘にでもなった日には、大変な事になるだろう。船出は急いだ方が良いのかも知れない。
 「でも、お会いできて良かったですよ。」
 「そう言ってもらえると、嬉しいなぁ。」
 「船賃の工面も出来ましたし。」
 まったくだ。大陸間航路であるから、三等船室くらいにしか入れないだろうが、密航に比べれば雲泥の差だ。微妙な表情のウィリーを見ると、ちょっと悪い気もするが、そもそも食い逃げして支払いを押し付けた奴が全部悪いのだ。そういうことにする。
 「んん? するっと、師匠に会わなきゃ、乗れなかったってわけかぁ。どうするつもりだったんだ?」
 「え? いや、まあ…。色々と特殊な手段を使って…。」
 「特殊な手段、な。」
 「ええ。特殊な手段を。」
 「あはは」、などとぎこちない笑みを浮かべるカールとクローナ。彼がどう解釈したのかはわからないが、おおよそ意味は伝わったのだろう。まあ、実行する理由の無くなった事だ。どう理解されても構わない…。
 「いや、まあ、その…。ものすごく急ぐ理由があって…。」
というわけにもいかない。言い訳を試みるクローナ。
 「ものすごく急ぐ理由? どんなん?」
 「あ、まぁ…。」
言いにくい事だ。でも、考えてみれば、言ってはならない理由は無い。その筈だ。頷いて、彼女は喋る事にした。
 「ちょっとマズイ事しちゃって、追っ手が掛かってるんです。」
 「うぇ? あんたが? 追われてるの? 誰に?」
 「はて、どんな悪い事をしたのやら。」
 「私は何も悪い事なんてしてません!」
怒鳴るクローナ。驚いた様子で、彼女を見る目。
 (…そう、だよね?)
 ウィリーの茶々に怒鳴り返してから、クローナは少し不安になった。一応、政府に追い回されるいわれは無い筈だ。もちろんSSから脱走するのは処罰の対象ではあるが、無理矢理編入しておいて逃げたら処罰なんて、そんな筋の通らない話を受け容れるつもりはないし、その必要も無いだろう。
 (うん、確かに、追い回される理由は無い。)
 まぁ、何も悪い事はしてないと言ったら、少々語弊はあるかも知れない。SSで散々“やらかした”わけだから。いくら殺人許可証によって合法とは言え、それだけの問題ではないだろう。そんな事も思いながら、クローナは、この件に関しては自分に非のない事を確認した。
 「で、なんで追われるの?」
 それは置いといて、とばかりに追求してくるカール。興味津々で見上げているウィリーと少年。少年が一体何に興味を持っているのか気になるところだが、いずれにしても、目が「聞かせろ」と語っている。溜息を付くクローナ。
 「長くなるんですけど…。聞きます?」
 「聞く。」
即答されて、再び溜息。

 「SS、ねえ…。君みたいな娘がなあ。」
 「大変だなあ。」
 「そう、です、ね。」
 喋って損をした様な気がするクローナ。所詮他人事だ、と言わんばかりの反応に思える。それも仕方がないだろうか。こんな話をしておいて、助けてくれる者など、滅多にいるものではないだろう。残念ながら。クローナはその様に納得した。
 「そのボロボロの袖も、バトルでか?」
 「ええ。」
 彼女の答えを聞いて、おもむろに、ふ〜む、などと考え込むウィリー。この男が何か思考を巡らすと、ろくな事にならない。クローナはそう直感し、カールは思い出した。
 「なに企んでるんだよ。またこの間みたいな事じゃないよな。勘弁してくれよ、師匠〜。」
 「なんじゃい、その物言いは! まったく、痴れ者め。」
 「誰が痴れ者だよ…。」
大きく肩を落とし、溜息を付くカール。どっちにしても、もう手遅れだと知っている。何が飛び出す事か。
 「ミスター・カール。君の仕事が決まった。彼女に付き従い、敵を排除し、雑事を請け負い、その生活を円滑ナラシメヨ!」
 『はぁ?』
カールとクローナは、同時に間抜けな声を上げた。
 「あの、それって、洒落にならないと思いますけど。」
 「自分で言うかね?」
 「いや、まぁ…。」
苦笑いを浮かべて言葉を呑み込むクローナ。
 「でも、ホントですから。死んじゃいますよ?」
 「まあまあ、気にするな。死んだらそこまでの男だったという事だ。」
 「待てヲイ! 何言ってんだ!」
 「怖いかね?」
 「そういう問題じゃねーよ!」
 またしても、師弟言い合いに発展する。どう転ぶにしろ、断ろう。目の前の喧々囂々たる口喧嘩を眺めつつ、クローナはそのつもりで居る。傍らの少年を見る。相変わらず、何を考えているのかわからない表情だ。

 「じゃあ、よろしく。」
 「えぇ!? よろしくって、行く事になったんですか?」
 「邪魔か?」
 「邪魔っていうか…。ドラゴンとか襲ってきますよ? 二人は守り切れませんよ?」
 「え、ドラゴン? ちょっと見てみたいかも。」
 両手で頭を抱える。この軽いノリは何だろう。わけの分からない少年といい、変な奴ばかりが集ってくる。もちろん、ウィリーだって食い逃げだ。普通であろう筈はない。
 何故だ。ひょっとすると、自分が変だから、変人が寄ってくるのだろうか。そんな考えを、頭を振って追い出す。
 「どうしても付いてくるんですか。」
 「おぉ、俺だって、そんなに弱くはないぞぉ。それにほら、勝てなきゃ逃げれば済むしさ。」
 「う〜ん…。まあ、いいかぁ。その代わり、どうなっても文句は言いませんね?」
 「それは大丈夫。」
 「うむ。下僕の分際で文句など言って良い筈は無いからね。」
突然、ウィリーの一言が入る。
 「待てオイ! いつ下僕になった!?」
 「何を今更。わしゃ、最初からそのつもりで言っておる。」
 「ジジイ、コラァアアアア!!」
カールの咆哮。拳を振り上げて力を漲らせた身体。全身が総毛立つ。
 「おぉ。」
 「うわぁ…。」
 さらに、蒼白い光が散り始める。放電している様だ。これが彼の術か。
 やがて彼は、不気味に全身を光らせる、どこぞの悪魔かモンスターのような姿を取って、口を開いた。
 「ふっふっふ。師匠、勝負だ!」
 「ふうむ、本気かね? ワシは構わんが、後悔するぞ? ククク…、忍びの何たるかを教えて欲しいと言うのならば…。」
 「やめてください。街の真ん中ですよ。」
 呆れた口調で仲裁に入るクローナ。狭い通りの真ん中に突っ立って、目立つ上に邪魔な事この上ない。みんなが見ている。それも、変態を見る目だ。放っておけば、すぐ都市警務隊の男達が現れるだろう。

 逃げる様にその場を去った一行は、早々に船便の切符を取り、既に岸壁に立っていた。人、人、人。出港を待つ乗客と、見送りの者と。場はひどく混雑している。一方、岸壁の先に目を移せば、三人の乗る筈のハリファックス号が、その麗姿を浮かべている。
 「じゃあ、頑張れよ。」
 「師匠こそ、もう歳なんだから、あんまり無理すんなよ。」
 「小僧が、ええ加減にせい。しかし、何だ。君はまだまだ未熟である。修行半ばで行かせるのは不本意だが、最早致し方あるまい。」
 「いや、行けって言い出したのは師匠だろ?」
 「忍びの道を極めんと欲すれば、先達の教えに、ひたすらに従い、その真髄まで味わい尽くすのだ。その全てを君のその存在と不可分のものとし、そうして初めて、君は“個性”なるものを主張する事が出来る…。」
厳かに語るウィリー。食い逃げとは別人の様に思える。
 「ま、お前ごときがそんな高みに到達できるとは思わんがなぁ?」
 「…とっととどっか行っちまえ!」
 「うひゃひゃ。じゃあな。」
 見直したかと思えば、途端にこれだ。悪態を付くカール。言葉こそ出さないが、クローナも殆ど同じ気持ちである。何が「うひゃひゃ」だ、というところだ。
 やがて、ハリファックス号の汽笛が高らかに港を駆ける。黒ずんだ木の外板が年季を感じさせる船だが、改装でボイラーを積み込んだのだろう。取って付けた様な煙突が、黒煙を吐き始める。海の男達も甲板を走り回っている。色々の号令。出港時刻は近い。

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