灰色の空

第二章 第三話

神聖エルファト連合帝国 ツェール公国領内某所

 ただでさえ薄暗い光だが、それが木漏れ日となれば、辛うじて闇ではないという程になる。木々に光を奪われた地面には、僅かな草が生えるのみだ。そうなってはなかなか見分けにくいが、一本の道が、木々の間を縫って延びている。そんな場所を、クローナと謎の少年は、歩いていたのである。
 「休みますか?」
 「別に。」
 「あーそーですか。」
 「何を怒ってる?」
 「別に。」
 腕を組みながら、クローナは話を打ち切った。ただ、歩く。少年を背負って走った方が、遙かに早く事が進むが、それをしない。溜息を付くクローナ。何しろ、この後どうして良いのか予定が立たないのである。
 「国を出た方が良いんでしょうけど…。」
口にしてから、独り言になった事に気付く。だが、気にする事もあるまい。
 「そうだな。お前は指名手配されたからな。」
今まで通り、平然とした声に腹が立つ。
 「…わかってるんですか? あなたもその対象ですよ?」
 「それはどうかな。」
 「子供だから容赦するなんて温情は無いですよ。」
まったくそうだ。少なくともSSでは、その筈だ。
 「そういう問題じゃないのだ。」
 「というと?」
 「幾らでも言ってみなさい」とでも言わんばかりに、クローナは尋ねてみた。一方で、どのみち自分が追われる身なのは確かだし、少年が狙われているかいないかなど、関係ないとも思っていた。
 「うむ。僕の名前を聞いたら、お前はひっくり返って腰を抜かして、理由を理解するだろう。」
 「あーそーですか。」
 「レーベン2世。」
無視して歩き出そうとしたクローナは、立ち止まって振り向いた。その少年の顔を、まじまじと見つめる。
 「驚いたか。」
 「…そういう危険な冗談は止めた方が良いですね。聖堂騎士団の怖〜い人達が、殺しに来ますよ?」
 まるで信じないクローナだった。いや、信じる方がどうかしているだろう。神の名を称するとなれば、怒り出さないだけましだとさえ言える。
 一方で、少年は怒った風もない。どう受け止めようと勝手だ、とでも言うつもりだろうか。
 そして、彼は口を開く。
 「で、どこへ行くのだ?」
 「うぅ〜ん…。」
 詰まってしまうクローナ。
 ここは、帝城のあるセレスト脊梁山脈を東側へ下りた、山麓。両親の事はどうしたのかといえば、無論捜した。城に突入した後、一週間近く掛けて。しかし、彼女を目標とした討伐隊が出たと聞いたため、諦めて山を下りたわけである。
 答えないまま、歩みだけが進んでいく。この道をずっと進めば、巨大都市ラム・デインへと出るが、放っておけば本気でそうなりそうな雰囲気もある。
 帝国に潜伏しておくべきか、アガスタ方面へ逃れるか。潜伏するという選択は、あくまで両親を捜すという意味だ。
 しかし、何故捜索を打ち切ったか。追っ手を差し向けられた状態で変に捜せば、その周囲にまで危険が及ぶからだ。両親二人の上に、この変な少年まで連れて、無事に追跡を振り切れるかというと、それは少々危険なギャンブルである。
 では、問題の指名手配を取り消させるには、どうすると良いのか。SS復帰か。あり得ない事だ。とすれば、今の統治機構を破壊して、それどころではない状態にするくらいしか、選択肢も無い。しかし、これほどの悪行もあまりないだろう。却下だ。
 「危ないぞ。」
 「…え? わ、わぁ!」
 足元に地面がない。慌てて立ち止まるクローナ。考えにふけっている内に、いつの間にか道を外れて、崖に向かっていた様だ。樹海の中、唐突な断崖だが、あと一歩で逆落としだっただろう。胸をなで下ろす。もっとも、彼女の場合は、転落しても決して致命傷を意味しないが。
 「どうしてもっと早く言ってくれないんですか。」
 「前も見えていないと考える方が、普通でないと思うが。」
 む、とクローナは唸る。確かに、それもそうだろうか。
 しかし、見晴らしの良い場所だ。振り向くと、道から外れたと言っても、大した距離ではない。落ち着いてみると、空腹感が湧き上がってくる。そういえば、そろそろそんな時間かも知れない。
 「弁当にしますか。」
 「そうか。」
無感動な反応に少し腹を立てながらも、彼女はそうすることにした。

 雲の濃淡が、樹海に注ぐ光を波立たせる。どこか遠くから、滝の注ぐ音も聞こえる様な気がする。小鳥が居る。土と水の青黒い匂いを持った空気。この地もまた、日を奪われ、衰えたのだろうか。そうは見えないが、やはりそうなのだろうか。深い、深い森。道を逸れれば、どんな魔物が出るか知れない、と言われる土地だ。
 いや、あのような獣道まがいの街道では、道を逸れなくても何か出そうに思える。実際、立ち寄った宿では、そんな話も聞いている。だが、それが致命的な脅威になる事は無いだろう。そう考えて、僅か二人で出発したのだ。
 「…じゃあ、国を出ますかね。」
 「決定したのか。」
 「いけませんか?」
 「別に。」
 一週間経っても、何を考えているのか理解出来ない。この少年は、相当に変な奴。クローナは、改めてそう思う。表情も読めないだけに、不審さもいや増すというものだ。
 その時、彼女は急に表情を変えた。
 「…何か来る。」
僅かな異変を知る。はっきりしないが、何か、おかしい感覚がある。立ち上がり、彼女は辺りを見回した。
 「わかるのか。」
 「そっちこそ、わかったんですか?」
 「わかったからそう言ったのだが。」
 確かにその通りなんだけど…、と何か噛み合わない思いを抱きながら、クローナは首を傾げる。
 しかし、そういう場合ではない。この、圧迫される様な感覚。確かに、何かが居る。それは、深い森から来るものか。それとも…。
 「空…、だな。」
少年はそう言った。クローナも、その気がする。双眸で、滑らかに空を走査していく。
 「!」
 ただ一点の、僅かな歪み。それは不協和音のごとくに、浮いて感ぜられる。しかし、見えているとは言えない。遙か彼方なのだろう。50kmか、それとも100kmか。確実な事は、低空を飛ぶそれが、近付いてくるという事だ。
 「厄介な事になりそうな気がします。でも、空から来るなんて、追っ手としては妙な具合ですが…。」
 「ふむ、確かに。人じゃないな。どうする?」
確かに自分たちを目指しているが、追っ手ではないのかも知れない。
 「術…を。」
 その空間に目を凝らし、意識を研ぎ澄ます。力の僅かなロスが風を起こし、髪を揺らす。徐々に、見えてくる形。黒ずんだ身体は光沢のある鱗に覆われ、何より、大きな翼。羽根のない翼だ。
 目が合った。その黄色い目に空いた、細長い闇。それがこちらを見ているのだ。瞬間、何か嫌なものが全身に感じられた。
 「気味悪い…。」
 どこか兵器を思わせる姿のそれを、彼女はその様に評した。しかし、敵であると言い切る事は出来ない。追っ手であるかも同様だ。少し、考える。
 「大型飛龍でした。最悪に備えるべき…、ですかね。」
 「それが良いと思う。」
 溜息を付いてから、クローナは行動に移った。城から逃げるときそうした様に、少年を脇に抱える。突然の事に、おお、などと声を上げるのを無視して、そのまま彼女は走った。
 深い森の中の、暗い道端の眺めが、飛ぶ様に流れ去る。息苦しいほどの風圧を物ともせず、クローナは走る。速い。一陣の疾風の様に駆ける。
 「付いてきますか?」
 「さあ。」
 「そうですか。」
役に立たない返事に内心呆れながら、ただ走る。このままずっとラム・デインまで突っ走ってしまおうか。そして、そこから船出するわけだ。そんな事をクローナは思っていた。

 10kmほど走っただろうか。これだけ離れれば、目視で見つかる事はないだろう。何か特別な方法で監視されていなければ。人ですらない相手だから、その可能性は低くないかも知れない。
 ともあれ、クローナはその足を止めた。少年を降ろしながら、疲労の色は全くない。
 「じゃあ、少し待っててくださいね。」
 そう言い残して、クローナは、突然ジャンプ。天を突く様にそびえ立つ木々、その枝へ飛び乗る。軽々とだ。さらに、枝から枝へ。幾度かそんな軽業を見せた後、ようやく天井が切れ、空を見る。
 「どうしてかな…。」
 そうして見た物は、彼女を落胆させる結果を出す。いささかの狂いもなく、それはこちらに目掛けて飛んでくる。
 間違いない。自分たちを狙っているのだ。用件は何だろうか。相変わらずのあの目は、不吉な事を語っている様に思えてならない。戦いは避けられない。彼女は、半ばそう思い始めていた。
 「どうするのだ?」
 「とにかく広いところへ。あれは危険です。」
 「敵…か?」
 「真っ直ぐこっちに来てます。私達に用があるのは確実ですね。」
 「それだけで敵とは言えんと思うが。」
 瞑目する。確かにその通りだろう。しかし、彼女の中の何かが、言っているのだ。「戦いに備えよ」と。理屈の上でどうであれ、既にクローナは、その声を信じている。幾多の戦闘を経て獲得した勘は、信ずるに足るのだ。
 「いずれにしても、備えるに越した事はありません。」
 「それは同感だ。」
 「じゃあ、また行きますよ。」
 人の限界を明らかに超えて、駆ける。しかし、暗く深い森は、なかなか開けてこない。狭いところで戦うのは危険だ。未知の相手には、十分な距離を保って対する事が望ましい。湖畔にでも出られればいいが。

 「来る。来る、来る! 頭に気を付けて!」
 遂に、理想的な場所を得る事は叶わなかった。迫った飛龍から放たれた何かが頭上を越えて、前方へ飛翔するのを知る。それが危険な何かであることを、第六感が告げている。踵で地面を削りながら、急ブレーキを掛けるクローナ。果たして、目前で激しい爆轟が巻き起こり、衝撃波が土埃を巻き上げて迫る。
 かわす余裕は無く、少年を庇いながら、彼女はそれに突っ込む形になった。
 「凄い…。」
 目を開いたとき、そこは深い森ではなく、地面のめくれ上がった荒れ地と化していた。焼け焦げる様な匂いもある。火球の様な物だったのだろう。いずれにしても、常人が戦える様な相手でない事は確かだ。
 「確かに敵だったな。お前の勘が正しかった。」
 「落ち着いてる場合ですか!」
 トレードマークの大剣を抜き放つクローナ。頭上を、何かが高速で飛び抜けていく。黒い姿が、一瞬煌めく。例の飛龍に違いない。それは悠然と左に旋回して、こちらへ頭を向けつつある。最大限の注意を払いつつ、剣を構えるクローナ。
 「!」
 龍の口が閃光を宿した。反射的に、クローナは少年を投げ飛ばす。予想通りだ。光を帯びた物体が、高速で迫る。さっきの攻撃がこれと同じなら、これでも少年は危険だ。一瞬避ける事を考えたが、彼を庇う様に、彼女は何か術を展開した。なおも容赦なく、敵弾は迫る。
 「…ッ!」
 破壊的な音の波動。奇跡などそう起こる物ではない。真正面から直撃を受けたクローナは、派手に吹き飛ばされた。そのままの勢いで、激しく大木に叩き付けられる。悲鳴も声にならない。
 「う、つつ…。さすがというか…。」
 術は確かに敵弾と衝突して、威力を和らげていた。背中を手で抑えつつも、すぐにクローナは立ち上がる。頭上は木々の葉で覆われているが、大きな物体が風を切る音は、聞こえる。確かに、敵はまだ居る。
 「大丈夫ですか〜?」
 「大丈夫だぞ〜。」
 二人とも、今のところは無事。ひとまずは、安心だ。腰を落としながら、集中力を高める。すべてを、頭上の風切り音に集める。
 「せッ!」
 突然目を見開き、彼女は剣を振り上げた。大剣ヴァンガードはそのまま彼女の手を離れ、あるいは超自然的とさえ思える速度で梢を掠め、空を裂く。金属質の飛翔音に続き、けたたましい咆哮。
 剣は翼の付け根を貫いていた。重さ40kg近い鉄の塊は、突き刺さるだけでは収まりきれず、大きな鍔までもが頑丈な身体を食い破り、反対側の空へと突き抜けたのだ。
 骨を打ち砕かれ、要を切られた翼が、鮮血を撒き散らして千切れ飛ぶ。こうなれば、空を支配する原理に見放されたも同然。ただ墜落するだけだ。二度の爆発にも匹敵する衝撃を起こして、飛龍は地に落ちた。
 「で、武器はどうするのだ?」
 「素手で頑張りますよ。それより、自分の心配してください。」
 「おぉ。じゃあ頑張れ。」
 合流した二人は、短く言葉を交わした。飛龍は木々を薙ぎ倒して地面に突っ込んでいたが、予想通り死んでいない。それどころか、怒っている様にも見える。調子を確かめる様に身体を動かしながら、クローナは敵対者に注意を向ける。
 「小賢しい奴が…。」
 「喋った…。」
 重々しい言葉が、目前の生物が発した物であると理解するのは、少々難しかった。呆然とした表情を浮かべるクローナ。無論、すぐに落ち着きを取り戻す。
 「勝った気になるなよ…。」
くぐもった、重苦しい響きだが、その意味を考えたとき、怒りを覚えずにはおれない。
 「何をこの…。一体何のつもりですか!」
わけもわからず、いきなり襲撃されれば、怒らない方がどうかしているだろう。それが知能の低いものならともかく、言葉を解する上でそうだとなれば、より一段腹が立つ。
 「これも仕事だ。おとなしくやられろ。」
 「そんな仕事がありますか!」
 「黙れ!」
 大声で言ってから、そういう仕事があった事を思い出す。立場を入れ替えると、こんな気持ちになるわけだろうか。相手と対等に渡り合えるだけ違うのかも知れないが、それは事の枝葉末節と見て良いのだろう。以前の自分は、目の前の飛龍と同じ事をしていたわけだ。そう、思った。
 「…あ、わぁ!?」
 余計な事を考えた結果がこれだ。気付いたときには、巨大な爪は目前に迫っていた。咄嗟に受け止めた左腕に激しい痛みが走り、そのまま真横へ吹っ飛ばされる。またしても、彼女は木に叩き付けられた。
 「うわあ、酷い…。」
痛む左腕は、大きく肉が抉り取られ、白く骨が覗いている。指も動かない。血まみれだ。
 「やっぱり、目の前の事に集中しないと駄目かな。」
 応急処置の暇もないだろう。視線を敵へと移す。閃光が見えた。反射的に、横っ飛びに走る。腹に応える爆発音が轟き、樹齢数百年にもなろうかという木々が、根こそぎ薙ぎ倒される。直撃されたら堪らないだろうな、とクローナは思った。
 「人間にしては出来る奴だ。いや…。」
 「それはどうも!」
 「人間ではない」などと言われそうな気がした。その前に、彼女は走った。木々を抜け、迎え撃つ爪の一撃も軽くかわして、渾身の跳躍から、右の拳を喉元に叩き込む。
 「く…ッ!」
 確実な手応えと共に、その拳には、痺れるほどの痛みも走った。硬い鱗は、ヴァンガードの刃でこそ貫く事が出来ても、素手では歯が立たない。どうしちゃったんだろう。そんな単純な事が予想出来ない筈はなかったのに、と思う。
 相手の背中を足場に、二度、三度と跳んで、彼女はその背後へ着地した。長い尻尾が危険だ。そのまますぐに距離を置く。
 だが、警戒の必要は無かった。貫徹できないことが、被害皆無である事を意味しない。拳の一撃は、確かに強大な破壊効果を、敵に与えていた。言葉ではない咆哮を上げ、山の様な巨体がのたうち回る。
 「お開きにした方が良い…ですね。」
 一方で、彼女の方も、両腕の肘から先が感覚を失い、動かない。痛みだけが自己主張している。全くの自滅だ。情けない気持ちで一杯である。
 本当はこの敵の正体を確かめたかったが、このまま完全な優位を確立するのは難しい様だ。敵は大きな痛手を受けているが、致命傷ではない様に見受けられるのだ。
 「おい、大丈夫か。」
 「ひゃぁああっ!」
一週間聞き慣れた声に、悲鳴で答えるクローナ。
 「うぅ…。どうして傷口に触るんですかっ!」
 「何となく…。でも、元気そうだな。」
 「どこが。ボロボロですよ。…ヴァンガード、見ませんでした?」
 「あっちだ。」
 「そうですか。見つけたら逃げます。」
たまには役に立つ、などと内心思いながら、クローナは少年の指さした方へ向かった。
 「止めは刺さないのか?」
 「今は無理です。足まで怪我したら、大変ですから。…今日は調子が悪いみたい。」
 やがて、愛用する剣は地面にめり込んだ姿で見つかり、すぐさま二人は走って去った。街道に沿って、世界最大の都市ラム・デインを目指して。敵である飛龍は、当分追ってくることはない様だった。

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