灰色の空

第二章 第二話
事実

神聖エルファト連合帝国

 薄暮を過ぎた頃、クローナは、たった一人、海を越えた。幾度か目にした海岸線が、薄暗い光に浮かんでいる。高度は5000メートル程度だろうか。そのくらいの高さが、飛行距離当たりで見たとき、一番無理なく飛べると知っている。
 地上には、街の灯が見える。泊まった事もある、セブ市の街並みだ。上空から見る限りでは、賑やかな光に満ちているが…。しばらく眺めている内に、街はゆっくりと後ろへ過ぎていく。少し、名残惜しい。
 「西北西290度、か。」
 彼女は、左腕に目を落として言った。腕時計ではない。コンパスだ。夜間飛行は危険を伴うが、彼女の編み出した航法は、都市の明かりを基点として、地図上から目的地の方角を割り出し、コンパスの指針を合わせて飛ぶというもの。いわゆる地文航法だ。しかし、天候や誤差、何より風の影響が大きく、陸上飛行だからまだしも、海上飛行となると全く使い物にならない。
 他の航法手段といえば、大戦以前であれば、天測が使えた。もっとも、単身飛翔しながら天測など出来るものではないが。
 それでも、夜は休憩とはいかない。そんな時間はない。迷って余計に時間を食う可能性は残されているが、強行する以外に道は無さそうなのだ。
 一度、二度と翼を強く打ち下ろし、下がってきた高度を稼ぎ直す。空に星は無く、不吉な赤に全てを染めた太陽は、既に地の底へと去った。今、この地を闇が支配している。その中を、一心不乱に、彼女は飛び続ける。

 

 翌日、闇が薄らぎ、空に灰色の光が行き渡った頃、帝城と、併設された大聖堂は、彼女の眼下にその全容を現した。セレスト大氷河をまたぎ、遠く街へと通じる、巨大な石橋もだ。冷たい空気が、それに峻厳な輝きを添える。神の実存を感じさせる、その凄まじい眺望に、改めて息を呑む。そして、その陰に散ったであろう数多の命と、彼らの叫びをも掻き消し、淡々と流れゆく遠大な歴史の蓄積を知る。いや、感じる。
 何もかもがスケールの違う中、自分の為そうとしている事が、いかにも小さく、個人的な事に思われる。この地には、その様に、人を圧する雰囲気がある。いや、事の大小など関係ないのだ、と頭を振り、クローナは、城へと降りてゆく。

 「夢だった…、と思いたい…かな?」
 窓から自室に入れば、落ち着いた部屋はかつての様に整えられ、主人の帰りを待っていたかと思われる。あそこで脱走などしなければ、両親にまで危険の及ぶ事は無かっただろうし、何より慣れ親しんだ暮らしと、知人の輪を捨てる事もなかった。瞑目して、彼女はそう思う。
 いや、と。次の瞬間には、目を開けて、それを否定する。自分は確かに、身の安寧のために、名も知らぬ人々を殺め続ける事を、拒否したのだ。
 跡形も無くなった筈の胸の傷が、鈍く疼く。今思えば、親代わりとして見ていたのであろう、リヒャルトとの離別。彼は任務を選び、自分は情に従った。妥協は不可能だった。同僚のノール、何故か気に掛けてくれたハーラー大公、掃除係のエルエル。少なくとも、迷惑は掛かるまい。何も、未練は無い筈だ。
 そして今、肉親を救いに来た。自分の意志に従い、自分の力を以て、だ。小さく、頷く。
 「あら。あら〜、戻ってたんだ?」
 よし、と気合いを入れた瞬間に、クローナは、その声に飛び上がった。「そんなに驚かなくても。」と続ける声の主は、メイドのエルエルだった。
 「ええ、まあ。お先に戻ってます。」
彼女に嘘を付く事になるのだろうな、と思いつつ、曖昧な返事を返す。
 「そ〜ぉ? よく帰してもらえたよね。」
 「どういう意味ですか?」
 「うん、だって…。ここだけの話だけどね、陛下の趣味で、美人ばっかり連れて行かれたって噂になってるから。」
 「そう…ですか。」
苦笑いを浮かべるクローナ。今日、やろうとしている事との落差に、そうせずにはおれない。その内に、 「じゃあね〜。」などと言い残して、エルエルは部屋を出て行った。
 しかし、ふと思う。今の彼女の態度からして、城にはクローナが脱走した件は、伝わっていない様だ。ヴェムの計算が正しかったのか。
 いずれにしても嬉しい。一瞬だけ、軽く笑みを浮かべてから、クローナは次の行動に掛かる事にした。

 「ねーちゃんねーちゃん。」
 あの部屋への道すがら、そんな声に足を止める。振り向くと、13か4歳くらいの少年が居た。城でそんな子を見るのは初めてだったが、何しろ巨大な建物だ。初対面もあるだろう。が。
 「暇だ。遊んでくれ。」
 がくりと頭を垂れる。自分がそのくらいの歳だったときは、間違ってもこんな事は言えなかったものだ、と。それでなくても、その歳で 「遊んで」も無いだろう。しかも、声が妙に親父臭くて、可愛くない。
 「あのですね、私は忙しいですから、他の人に頼んでくれますか?」
呆れながら、クローナはそう答えた。反応を待たず、くるり、と背を向ける。大仕事を前にして、出鼻を挫かれるようなことばかりである。
 「じゃあ、せめて付いていって良いか?」
 「駄目。」
歩き出す。
 「まあ、そう言わず。」
 「駄目だと言ってます!」
頭だけ振り向いて、睨み付ける。再び歩き出せば、流石に付いてこない様だった。

 特に、扉などあるわけではない。“隔離棟”への廊下は、二人の衛兵によって、識別される。
 「どこへ行く?」
 衛兵を無視して通過を試みたクローナは、呼び止められた。予想された事だ。そう、結局は真正面からアプローチする事にしたのである。
 「母さんと父さんに会いに。」
 「許可は?」
 「要りません。」
即答の一言を最後に、不思議な静寂が残る。険悪な沈黙だ。
 「お前…。」
 「おとなしく通してくれますか? それとも、実力に訴えますか? どちらにしても、私はここを通ります。」
 相手の声を遮って、クローナは言った。頭すら向き直らず、半眼で、左手側の衛兵を見る。彼女がSSである事は、いや、正確には、SSであった事は、二人も知っているのだ。
 「…どういう事なんだ。」
  答える事は出来ない。職務の遂行は死を選ぶ事になりかねないし、おとなしく通せば、後でどんな懲罰が待つ事になるか。
 困惑する二人を放置して、彼女は進んだ。
 幾度か手を掛けたドアノブに、再び手を掛ける。開かない。鍵か。
 クローナは、迷わず拳を構え、扉を施錠機構ごと打ち抜いた。木片が飛び散る。「お邪魔します。」などと言いながら、彼女は部屋へ入った。ここまでで既に、死刑に値する行為である。
 「父さ〜ん、母さ〜ん。お迎えに来ましたよ〜。」
 自分で言いながら、もう少しましなセリフは無いのかと、頭を抱えたくなる。だが、そんな悩みも、すぐに消え失せる事となる。
 「母さ〜ん…?」
 返事がない。背筋に嫌な寒気を感じる。心の深くに、何かが湧き上がってくるのを知る。拳を握り締め、思い切り歯を食いしばってから、彼女は走って部屋を出た。

 「どういう事ですか…!」
 ほんの僅かの時を置いて、クローナは、衛兵の胸倉を掴み上げ、これまでにない形相で迫っていた。居るのは一人だけ。もう一人は、通報にでも走ったものか。
 「いや、だから…。」
 「答えろッ!!」
口ごもる相手に、クローナは吼えた。ただでさえ冷たい空気が、凍り付く錯覚を見る。
 「だ…、脱走したんだ。移送中に。」
 「いつ!?」
大声を出すたびに、締め上げる手が力を増し、衛兵を持ち上げていく。
 「き、昨日の朝だ…。」
 「それで、無事なんですか?」
 「わからない。逃げられたのは確かみたいだが…。」
 「正直に答えないと、痛い目を見ますよ?」
強気の言葉。
 「し、知らないんだ! 逃げられたってだけで、捕まえたとか、殺したって話は聞いてない。本当だ。信じて…。」
 「…。」
 移送とは言え、恐らく殺害が目的の移動だろう。でなければ、よもや自分を置いて逃げる事はあるまい。と、思う。
 しばらく、その目を見据える。涙さえ浮かべ、身体は震えている。死の恐怖からだろう。あれがどれほどのものか、クローナも知っている。むなしい。彼に怒りをぶつけて、どうなるだろう。
 そうだ、脱走したその足で、城へ飛んで戻れば、間に合っていた筈だ。
 「逃げたのは、どこでですか?」
 「例の大橋で…。」
 「そう、ですか。」
 もはや、捜しても見つかるものではないだろう。とても、目を開けては居られない。何故、こうなったのだろう。もちろん、その答えは明らかだ。悔しい。
 しかし、死んでしまったわけではない。そう、クローナほどではないが、二人もそれなりに強い。でなければ、そもそも脱走など出来まい。まだだ。まだ大丈夫。

 「動くな! そこまでだ!」
 よく通る男の声が、クローナの横から投げかけられた。横目で、様子を見る。先頭に、衛兵の片割れ。その後ろに、30人くらいだろうか、重装備で並んでいる。幸いにして、SSは居ない様だ。
 「ふぅ…。ごめんなさい。」
 一度溜息をついて、彼女は、掴み上げた衛兵を解放した。慌てて逃げ出す様には、戦意など感じられない。それほどまでに、巨大な恐怖を与えたのか。それを思うと、気分はよくない。
 張りつめた空気に気圧される事もなく、彼女はゆっくりと向き直ると、コートのポケットから、何か取り出した。おもむろに振り下ろせば、白い光が覆う。そして、その手には、信じがたい大剣が、冷たい光を宿していた。
満を持して、言葉を放つ。
 「私は城を出ますが、ヴァンガードを味わいたい人は、どうぞ挑んできてください。」
 まあ、わざわざ向かってくる奴は居ないだろう。剣先を向けながら、彼女はそう高を括っていた。その予測は正しい様で、じりじりと集団がたじろぐ。
 しかし、いつまでも余裕綽々では居られない。SSが出てくる可能性は大いにある。もちろん勝てない相手ではないが、一人とは限らない。
 張りつめた緊張。それが破れるのは、そう遠い未来の事ではなかった。
 「危ないぞ〜。」
 相対する内の何人かが、術の波動を感じた時。両者の間に誰かが現れた。瞬間移動だろうが、何故わざわざこんな場所に、とクローナが訝しむ間に、その人物は、何かを地面に叩き付けた。
 煙が、爆ぜる。
 「煙幕だ!」
 「逃げるぞ!」
 「今のは誰だ?」
慌てふためく男達と、煙を隔てて反対側。クローナは、割って入ってきた者を見る。
 「また…。何のつもりですか?」
それは、さきほどの可愛くない少年だった。
 「助けてやったぞ。僕を連れて行くのだ。」
 唖然。
 自分がどれほど危険な事をしているか、言っているか、解らないわけでは無いだろう。それにも関わらず、目の前の少年は、何故そんな事を言うのか、理解できない。茫然としてしまうクローナ。
 「早くしないと、敵が来るぞ。」
 両手で彼女を指差し、少年は言った。冷静だ。実に腹立たしい。が、取り敢えず、言われたとおりに、兵士達とは反対側へ、廊下を走る。

 「私に付いてくるという事がどういう事を意味するか、わかってますか?」
 「知ってる。命を狙われる。」
 「わかっててなんで…。」
 「僕の中の何かが、行けと命じるのだ。」
 「…わからないなぁ…。」
軽い駆け足のまま、途方に暮れる。
 「どのみち、手遅れなのだ。君に協力する所を見られた。」
 言われるまでもなく、そんなことは知っている。明確に指摘されると腹が立つということだ。何にしても、最早放置するを得ず。恐らくは、全て計算尽くなのだろう。だからこそ、なおさら腹が立つ。
 「大馬鹿! 何考えてるんですか!」
 「何も。」
 窓を見た。突然、クローナは剣を振り翳し、横薙ぎで壁を狙う。破城剣の名に相応しい破壊の後には、人影より二回りも大きな風穴が残される。
 「行きますよ。」
 「おぉ?」
少年の首筋をひっつかみ、クローナはいきなり穴から飛び降りた。瞬間的に、眺めが別の様相に変わる。翼が開く。
 「おお。人を抱いて飛べるのか。」
 「まさか。二人は無理です。着地点が先に伸びるだけですよ。」
空気の薄いこの場所では、水平飛行を維持できないという事。
 「というか、お前は空を飛べるのか。」
 「…。」
何となく嫌な気分を覚え、クローナは無視する事にした。

 橋の上へ、派手な衝撃を残して降りる。走って逃げればいいかというと、そうでもない。渡った先にも、監視塔が建っているのだ。城からは、まさか砲撃という事は無いだろうが、矢ぐらいは撃ちかけてくるだろう。行動は慎重でなければならない。
 「とにかく、私の言ったとおりにしてくださいよ。」
 「おお。」
 素直な返事の様だが、腹の中はどうだかわかったものではない。不安を覚えながら、クローナは橋の向こうを目指す。
 案の定、城からは兵士が大群で湧き出してくる。しかし、飛び道具を放つ様子はない。正面にも、兵士数名が現れた。自分一人で食い破るならともかく、子供一人を守りきるには、この数との乱戦は願い下げだ。
 唐突に彼女は、少年を左手で抱き寄せた。
 「お、何の真似だ?」
 「もう一度、行きますよ。」
そのまま、体勢を下げる。
 少年を抱え、右手にはヴァンガードを携えたまま、彼女は、二歩、三歩と渾身の力を込めて加速した。石畳が削れるほどの力だ。
 そして、一際強烈な蹴りが、二人を空高くへと舞い上げる。驚愕する兵士達の頭上を軽々と跳び越え、石畳を砕いて着地。こうなれば、敵は一方向のみだ。即座に振り向き、計略の成功を確認するクローナ。軽く、笑みがこぼれる。
 「早く逃げて。時間を稼ぎますから。」
 「なるほど。お前、頭良いな。」
 「早く!」
 背中を押す。よろめき、「何をするんだ。」などと言いながらも、少年は駆け出した。クローナはすぐに振り向く。
 その時、乾いた轟音が一度、澄み渡った大気中に響き渡った。 「まったく。」などと呆れている場合ではなかった。腹をバットで殴られた様な衝撃が走り、次いで痺れる様な熱い痛み。咄嗟に押さえた左手を、赤いものが濡らす。
 軽い戦慄。しかし、何が起きたのか想像は付く。
 「痛いなぁ…。どうして銃が…。」
 恐怖も焦りもない。単に不機嫌な様子で、クローナは敵集団を見た。確かに、銃を構えた兵士が居る。小銃の様だが、骨に当たったのか、弾は抜けていない。ということは、少年に危害が及んだ可能性は無いだろう。何事も無かったかの様に、彼女は姿勢を戦いに赴くそれへと変える。
 次の轟音は、即座に金属音を伴った。拳銃のそれとは比較にならない威力を持つ小銃弾が、しかし大剣ヴァンガードを僅かに揺らしただけに留まる。全く変化を見せないクローナの表情は、それが当然であると主張する。
 木霊だけが鳴る、静寂が訪れる。対峙するその時間に、どの様な意味があるのか。
 クローナの姿が、流れた。神速が現出するとき、あるいは数百とも思える兵士が、戦慄に魅入られる。筒先から躍り出る熱い凶弾も、ことごとく盲射とならざるを得ない。その剣の煌めきは、神の雷だろうか。しかしその矛先は、人ではない。その刃を砕くために。それも、何ら相手に反応の余地も与えることなく。
 彼等がようやく物を口にしたのは、彼女がその攻勢を終えて、全てが静に戻ってからの事。気付けば、数挺の小銃と、幾らかの刃物が、その用を為さない姿を取って地面に転がっている。
 「うぅ、痛いなぁ…。」
 クローナは、顔をしかめて呟いた。目を見張る戦技の代償は、勢いを増した流血である。今はさほど苦しくもないが、有限の肉体に無限のエネルギーを詰め込む事など、可能である筈はない。早い内に士気崩壊とすれば、嬉しい。そんな事を思う。
 いつだってそうだ。どうやったら勝てるか、ではなく、どの勝ち方が良いか、という問題なのだ。
 どうしたものか。術を駆使してみても、大した錬度を持たない故、威嚇という意味では効果は無いだろう。傷口から左手を離す。再び、出血は収まってきている様だ。左手を振り、血を払い飛ばす。それからおもむろに、剣を振り上げながら、言った。
 「こちらに危害を加えなければ、私も何もしません。回れ右することをお勧めしますが。」
集団は落ち着かない様子。色々の声が聞こえるが、いずれも不安を訴えるもの。その割に、走って逃げるというわけでもないらしい。
 突然、クローナが思い切り剣を振り下ろす。冷たく荒い金属音と共に石畳が派手に砕け散り、土煙の中には人の背ほどもある破孔が残された。そして、一言。
 「どっちつかずは、良い事ありませんよ…。」
睨み付ける様な視線を飛ばしながら、集団へ歩み寄るクローナ。見えない壁に押されるかの様に、兵士達もじりじりと後ずさり、距離は詰まらない。やがて、彼女がもう一度だけ剣を構えると、後退は潰走へと変わった。
 やれやれ、とばかりに剣を収めてから、彼女は城に背を向け、少年の走ったであろう先へと向かった。

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