灰色の空

第一章 第五話
破綻

神聖エルファト連合帝国 神都セレスト

 雪が降る。強い雪だ。その中では、城の端から、反対側の端を見通す事が出来ない。元々、一年を通じて、城の天候は安定しない。
 「まあいい。それより、仕事だ。」
窓から、ひとしきり外を見やってから、リヒャルトは口を開いた。
 「またですか…?」
不快感を隠さずに、クローナは答えた。吐き捨てるような口調で、リヒャルトは答える。
 「陛下直々の御指名だ。どうしようもない。」
 「そうですか…。」
 再び俯く彼女の仕草に、リヒャルトは、まずいな、と思う。とは言え、本当にどうしようもない。
 …どうせ、あの皇帝のことだ。美人を侍らせてご満悦、程度のつまらない魂胆だろう。奴だけが自由を享受している。その推測が、明らかに不忠の意思であることを、リヒャルトは知っていたが、気にすることもなかった。彼が忠誠を尽くすのは、階級と命令に対してだ。決して、人格そのものではない。彼は、それが軍人であると考えていた。
 「任務は、楽なんだ。陛下を護衛する。まあ、行き先はアイゼンブルクでアレだが…、その全行程をな。」
クローナは、無言で頷いた。パレードをするわけでもなし、そんなにしょっちゅう危険が迫るとは思えない。
 しかし、思う。前回も、参謀部の考えた作戦に盲従すれば済む仕事だと思っていて、大変な目に遭った、と。命の危険こそ無かったが、精神的に問題のある仕事であった。それも、失敗である。
 …こんな仕事、辞めてしまえば良い。それが楽になる方法だと知っているが、軟禁された両親の事を考えれば、その選択肢もあり得ない事だ。身軽に消えてしまったヴェムの事が、今は心底羨ましい。
 「まあ、時間はある。ゆっくり休むといい。」
 「…ええ、そうします。」
 細い声で、そう彼女は言った。最後に、彼女の肩を軽く叩いて、リヒャルトは背を向けた。忙しい男の背中を、クローナは、見えなくなるまで見つめていた。そして、自分の部屋に戻り、少しだけ立ちつくした後に、彼女は、ベッドに倒れ込んだのだった。

 2時間くらい、過ぎただろうか。いつの間にか寝込んでしまったらしく、弱々しい日が幾らか動いている。そして彼女は、微妙な違和感を感じた。その方向に頭を向けると、男の声がしたのだ。
 「お目覚めかい?」
 「ひやぁあああああ!?」
目前にある顔に、彼女は悲鳴を上げて飛び退いた。よく見れば、したり顔で彼女を見るそれは、見慣れたヴェムだった。
 「ど、どうして勝手に入ってくるんですか!!」
 「いや、寝顔が可愛いな〜、と。」
 「何を…っ!」
急に腹が立ってきて、気付いたとき、彼女は、ヴェムの横っ面を殴り飛ばしていた。
 …かに思われた。
 「どうした。」
 ハッと我に返ったクローナは、ドアを開けたリヒャルトの姿を確認した。次いで、拳を突き出した自分の姿勢も。夢だったらしい。
 「い、いえ、何でもないです!」
慌てて起き出してみる。顔が真っ赤になっているのを、自分で知る。
 「…まあ、いいが。」
作り笑いを浮かべながら、それ以上追求しないところが、リヒャルトさんの良いところ、などと思う。
 「それより、届け物だ。」
 「何ですか?」
 「開けてみろ。」
封筒だった。丁寧に開けようとするが、無駄にがっちり糊付けされており、なかなか上手くいかない。
 「あ、総長。」
そうこうする内に、開けっ放しのドアの外から、リヒャルトを呼ぶ声。ノールだ。
 「どうした?」
 「お客さんが来てます。」
 「ああ、行く。」
口を結んで封筒と格闘しているクローナを置いて、リヒャルトは出て行ってしまった。
 「ふぅ、やっと…。」
ようやく封筒の抵抗を封殺したクローナ。終わってみると、熱くなっていた自分が馬鹿みたいだ。一息ついて、中身を取り出してみる。
 「…ほんとに?」
パッと、彼女の顔に光が宿る。書面には、大きく面会許可証と書いてあった。親との面会状だ。

 相変わらず、雪は強い。放っておけば雪と氷に埋もれてしまう城だが、しかし敷地に雪が積もっているわけではない。それも、術のお陰だ。
 そんな事をぼんやりと考えながら、クローナは歩いていた。やっぱり、遠い。飛んだ方が良かったかな、などと思いつつ、しかし体は勝手に進んでいく。
 顔パスで看守を退けて、さらにクローナは歩いた。牢屋といえばその通りだが、外観からそれを察することは出来ない。むしろ、彼女の個室より上等なくらいだ。だが、囚われた身では、いかに不自由ない生活を保障されようとも、すべてが空しい。
 目の前の扉。前回の面会から、もう3ヶ月近くになる。どういう顔をすればいいのか、何と言えばいいのか、クローナは、急に気になってきた。
 「あの〜…。」
 「は〜い。」
不安げな声は、明るく舞うような声になって、返ってきた。考えるまでもなく、母マローナの声だった。
 「あら。あら〜、久しぶりね〜。元気にしてた?」
 「誰かな? …ああ。まあ、入りたまえ。」
 ふぅっと、意識が遠のく気分。数年前、ごく普通に暮らしていた時に戻ったような感覚を、クローナは覚えた。まだ空は青く、何もかもが平凡だった日々。全部夢だったのか。ぽかんと口を開けたまま、両親に連れられて、部屋へ入る。
 しかし、そこは勝手知った我が家ではなかった。
 「…ごめんなさい。約束、守れなくて。」
急に自責の念に駆られて、そう彼女は口にした。前回、次に会うときは、出してあげると約束していたのに。
 「良いのだ。期待していなかったからな。」
 「あなたっ。」
 「…。」
ぬけぬけと言ってのける父フリートの言葉に、みるみる内に顔をしかめるクローナ。母のフォローも、効き目は無い。
 「お、ふくれたふくれた。可愛いな、お前は。うんうん。」
頬を膨らませていたクローナは、うっと詰まって、居心地悪そうに父を睨むのだった。顔が真っ赤だ。その一方で、至福の笑みを浮かべるフリート。
 「また、そうやっていじめて。もっと他に、言うことがあるでしょ。」
紅茶など淹れながら、マローナは、振り返ってそう口を挟んだ。
 「そうですよ。…あぁ、会いに来て損しちゃった気分。」
椅子に腰掛けながら、クローナは乾いた溜息を付いた。
 「真面目だな、お前も。少しからかっただけだろう。」
向かいの席に腰掛け、真顔に戻って、父フリートは言う。
 「無事で何よりだ。心配事など、ないかな?」
 「そうそう。一人で抱え込んじゃう子だからねえ、クローナは。」
 「あ〜…。うん、別に、大丈夫だから。私は。」
 熱い紅茶を受け取りながら、クローナは、そう返した。歯切れの悪い答えだ。つくづく、嘘の付けない性格だと、我ながら思ってしまう。じーっと、両親が見ている。
 「う〜ん…。怖いんです。色々。」
 この和やかな場に、あまり似合わない言葉だ。クローナは、言ってからそう思った。恐怖、そう、あの炎だ。明確な敵意の下に向かってきた、自分を一瞬で消し炭にする、赤い悪魔だ。あれを目の当たりにしたとき、見慣れていた筈の死体が、全く別の意味を持って見えた。何と言うべきか、どんな言葉よりももっと原始的で、乱暴な感覚だ。
 「そう…、か、怖いのか。お前から、その言葉を、初めて聞いたよ。」
え、と顔を上げるクローナ。
 「初めて聞いたのだ。そうか、やっぱり怖いのか。当たり前だな。」
誰に言い聞かせるでもなく、空に言葉を放ってから、フリートは天を仰いだ。
 「怖いのなら、逃げてしまえばよい。わけもなく、こんなところに居る必要は無い。」
達観したような、しかし優しげな言葉。
 「そんな事したら、父さん達は…。」
その先を口にすることは、出来ない。
 「良いのだよ。お前をそこまで苦しめてまで、生きていたいとは思わん。」
 「…そうかもね。」
しかし、キッと表情を引き締めて、クローナは言い返した。
 「父さんと母さんはそれで良いかも知れないけど、私の気持ちはどうなるんですか。」
ふむ、と腕を組むフリート。
 「私だって、死なれたら嫌です。そっちの気持ちだけ通すのは、不公平ですよ。」
口を尖らせて、クローナは言い終えた。しばらく、沈黙が支配する。
 「…甘えてしまえばよいのに、出来た娘だよ。」
 「わかってて言ってるでしょ。」
マローナの放った、言葉の奇襲。三人は視線を合わせ、そして、笑い出した。どうにもならないのである。

 それから3日が過ぎ、皇帝ディラントVII世は、140名ほどを従えて、城を後にした。並の人間には、息をするだけで一苦労の道のりだ。それを、幾人もが城から見守っている。危険人物と呼ばれる人物も、その一人だった。
 「…とは言え、奴が居ないとなれば、せいせいするな。」
ハーラー大公は、城内の自室の窓から外を眺めつつ、そう言って笑みを浮かべた。
 「ああ、同感だね。クソ姉貴。」
 まったくの独り言かと思われたが、意外にも返答があった。不審に思って大公が振り向いた先には、男が椅子に腰掛けていた。やや長い金髪の偉丈夫は、余裕たっぷりの目つきをしている。
 「…愚弟が。どのツラ下げて、私の前に戻ってきた?」
 「この、男前のツラだよ。」
男、ダーフィットは、不敵な笑みを浮かべて立ち上がり、そう言った。
 「ほう…。」
彼につかつかと歩み寄る大公。僅かな静寂を置いて、唐突に、蹴りが飛ぶ。長い足だ。男は受け止めた。破城鎚で殴られたかのような、凍り付くほどに重い一撃を。厳しい表情を一気に緩めて、大公は、そのままの体勢で言った。
 「ハハハ、久しぶりだな。達者だったのか。」
 「ふっ、まあな。見ての通りよ。…いい加減、足を降ろせ。」
 領主の自室ともなると、造りは相当に豪勢なものがある。最も端的に表すのは、広さだ。その広い室内に、二人は適当に腰掛けて、会話を続けた。
 「相変わらず、危険な奴だな、お前。何故、いきなり蹴られなきゃならん?」
 「蠍の巣に一人で乗り込んできたのなら、リスクは貴様の方が背負えという事だ。」
自分の爪を眺めながら、大公は、平然と言い放った。
 「変わってないな。しかし、俺から見ると、そんなに悪くもないぞ、お前。大体、自分のことを、そんな風に言うもんじゃないぜ。」
たしなめる言葉か。姉弟関係でもあり、そこにはお世辞の類は見出せない。しかし、下手な家ほども高価なワインをグラスに注ぎながら、大公は、軽く鼻で笑う。
 「なに、実の兄が死んで喜ぶような輩には、相応しい形容だ。」
 「それだったら、俺だって同じだぁ?」
二人は共に、赤ワインの注がれたグラスを掲げた。その、少々恐ろしげな笑みに、ワインの赤が彩りを添える。二人は、同時にグラスに口を付けた。
 ひととき、ワインの味わいに舌鼓を打ってから、ブルンヒルデは口を開いた。
 「それにしても、何をしに来た?」
 「ちょっとな。つまらん野暮用よ…。」
 「ほう…。」
再びグラスに口を付け、ワインを口の中で転がす大公。時が経つほどに、移ろいゆく味わい。それを心ゆくまで堪能した後、大公は、再び言葉を口にした。
 「何か隠しているだろう。」
 「隠していると言うよりは、喋るのが面倒くさいってところだな。」
同じようにワインを味わいながら、ダーフィットは答えた。それに、ああ、とブルンヒルデは頷く。彼女もまた重度の面倒臭がりで、その気持ちはよくわかるというものだ。
 「それで、いつまで居る?」
 「2、3日。」
再び、ああ、と大公は頷く。ダーフィットが窓から皇帝一行を見やれば、つられて大公も同じようにそれを見る。期せずして二人は、あんな奴は帰ってこなければいい、などと同じことを考えていた。

自由ハーヴェイ連合 首都アイゼンブルク

 タグボートがせわしなく動き回り、皇室専用ヨットを、岸壁へと案内する。やがて、舫綱が飛んだ。一本、二本。広い岸壁を自動車で走り、それを回収して、固縛していく男達。
 それを眺めている内に、帝国で唯一の蒸気船である 「ロイヤル・オーク」号は、接岸を完了した。翌日の会談に備え、この日、皇帝一行は、船泊となる。
 「血染め…だな。」
 露天甲板にて空を眺めていたリヒャルトは、そう口にした。もちろん、誰かが血を流しているわけではない。真っ赤に染まった夕暮れが、あたかも血染めであるかのようだ、と思ったのだ。
 吸い殻と化した葉巻を、備え付けの灰皿に押し込んで、彼は街を見やった。港から一気に1000mも切り立った崖に、街は建設されていた。崖全体が、トンネルと部屋で満たされ、一つの建造物となっているのが、このアイゼンブルク。サラミスのモデルとなった要塞都市である。
 「鉄の城、か。確かに、堅固な造りだ。」
 崖の随所に砲身を除かせる街は、そのまま要塞でもある。その要塞砲の十字砲火を受ければ、この船も大変な事になるだろう。そこまで考えて、リヒャルトは止めた。まったく意味がない。戦うか否か、それを決定する立場に、ない。
 それより案ずるべきは、自分の立場である。部下に脱走されるという、SS史上希に見る失敗を犯した責任である。幸いにして、未だ口頭での警告以外は受けていないが、これが、彼の後釜に据えるべき人材が居ないから、という一点による事は、リヒャルト自身も知っている。間違っても、慈悲とか、寛大な措置とか、そんなものを期待できる相手ではない。
 「幸運というやつか。」
 彼は、笑みを浮かべた。その表情は、自分の口にした言葉とは裏腹に、それは運などではない、と言わんばかりだった。

 「…。」
 明日の打ち合わせも終わり、日もすっかり暮れて、クローナは、自分のキャビンで横になっていた。皇室専用ヨットとはいえ、兵士のキャビンなど、さほど上等というわけでもない。狭いものだ。ただ、それでも小綺麗に纏められている辺りは、設計官のセンスと、メンテナンスの充実、そして使っている者の心掛けだろう。
 「はぁ…、退屈。」
 寝るには早い気もするが、さりとて楽しい暇潰しがあるわけでもなく、日記も付け終わっていた。いつもなら、お喋りでもするところだが、今回SS3班のメンバーは乗っていない。リヒャルトとも、暇潰しに床屋談義などするような関係ではない。それにも加え、この船のような特殊な環境にあっては、彼女に限らず、遠慮がちになるものだろう。
 どれくらい、過ぎただろうか。何をして暇潰しをするか、その結論が出た様だ。
 「空でも見ようかな。」
 独り言を残して、彼女は部屋を後にした。しっかり鍵も掛けて。中央廊下に出る。キャビンは5階。デッキに出るには、2階ほど上る必要がある。
 「…。」
 ひょっとしたら、星が見えるかも知れない。そんな淡い期待は、やっぱりと言うべきか、裏切られた。何もない、黒い空間が一杯に広がっているだけだ。
 がっかりして甲板に目を向ける。クルーの姿も無く、船は既に寝静まっている様だ。何とも、つまらない。
 「やっぱり、寝ようかな。」
 6階から5階へ、階段を下りていくとき、彼女は何かを聞いた。静寂の中だからこそ、それは不協和音のごとくに感ぜられた。何か、感触が違うな、と。
 「何だろう。」
とは言え、こんなところに危険な何かが迫ってくるとも思えない。見に行ってみよう。クローナは、気軽にそう考えた。
 5階に下りて、いよいよ音は近い。リズミカルな固い音は、明らかに何かの足音だ。燈火は明るさを落とした深夜仕様に入っているが、自分がこうやって起きているわけだから、誰かが歩いていてもおかしくはない。誰だろうか。その回答は、すぐに示された。
 「おっかしいな〜。どこ、ここ。」
 幼い、高い声だった。あ、とクローナは顔をしかめる。子供だ。子供なんて、この船に乗っているわけがない。外から入ったのだ。
 「何してるんですか。」
 眉間に皺を寄せて、小さな背中に向けて、クローナは言った。驚いたせいか、その子は逃げだそうとするが、精鋭中の精鋭であるクローナから、逃れられるわけもない。あっさり襟を掴まれ、降参してしまう。

 「だから〜、僕のせいじゃないもん。じゃんけんで負けただけだもん。」
 「勝っても負けてもこんなところへ来たら駄目です!」
どうやら、子供達同士での、たわいもないゲームだったらしい。こんな深夜に、馬鹿な事ばっかり。クローナは深く落胆した。
 「ほら、もうわかったから付いてきなさい。帰りましょう。」
 「ぶ〜…。」
顔一杯に不満を広げる子の手を引いて、歩き出す。もちろん、誰にも告げずにだ。皇室専用ヨットに侵入して、見つかったら、どういう事になるか…。ここは、バレなければ良いの原理が最適だろう。
 そういえば、どうやって入れたのだろうか。クローナは、急に気になった。聞いてみようかとも思った。が、止めておく。それを知ってしまう事は、危険な気がするのだ。
 「どっち行ってるの?」
 「甲板ですよ。」
 「えぇ〜?」
 「付いてくればわかります。」
 強引に引く手。海面上10mの甲板から岸壁へ飛び移るつもり…、などと口にした途端、逃げられる事だろう。
 そして、7階へ向かう階段。そこへ足を踏み入れようとした時の事だった。
 「その子が侵入者か。ご苦労。」
 「あ…。」
 背後から掛けられたのは、聞き慣れたリヒャルトの声だった。悪い事を見つかったかの様に、首をすくめながら振り返るクローナ。確かに、リヒャルトだった。彼の側に付いているのは、他の班のSS兵だろうか。
 「いや、まあ、その…。」
 「この人は〜?」
黙ってなさい、と言いたげに手を振るクローナ。
 「お遊びで入っちゃったらしいですが。」
言い訳など考えていない。普通に答える。
 「殺せ。」
 「…え?」
一瞬の事で、わからない。思考が飛ぶ。
 「侵入者は殺せと陛下の命令だ。」
 「どうして!」
鳥肌の立つ様な感覚と、寒気。もう一度言われて、彼が何を言ったのか知った。
 「理由か。スパイかもしれんからだ。」
 「こんな子供が! ど、どうしちゃったんですか、リヒャルトさん?」
何かの冗談だろう。そうですよね、とばかりに、クローナは笑みを浮かべて、リヒャルトを見た。しかし、その笑顔はぎこちない。ぽかんと口を開けて、件の子供は成り行きを見ているほか無い。だが…。
 「仕方ないだろう。仕事だ。」
無表情に、リヒャルトは言い切った。
 「おかしいですよ、そんなの…。」
声が、震えている。意識が、白みがかっている。無意識に首を横に振りながら、クローナは口にしていた。
 「SSだろ。おかしいことねーさ。帝国の敵は消え去る。疑われる様な真似する奴が悪いんだよ。」
リヒャルトの脇に居る男が、そんな事を口にする。続けてリヒャルト。
 「言いたくは無いが、親御さんの事も…。」
 「いやだぁーーーーーーーッ!!」
内から迸る感情のままに、クローナは怒声を張り上げた。全てのしがらみを叩き壊そうとしているかのように。凍り付く様に、場の空気が固まる。一瞬の静寂。
 「…殺すとか死ぬとか、どうしてそんな簡単に言えるんですか! 出来るんですか!! 間違ってると、思わないんですか?」
SSの一員として、無数に殺した自分が言うのも空しい。涙さえ流しながら、彼女の頭にはそんな思いもよぎる。そして…。
 「そうか…。やれ。」
 静かに、会話は閉じられた。遂に、クローナの表情にも怒りが宿る。それを見届けるべきだった。二人の男が、短距離走者のような速度で突っ走ってくる。そして、それぞれ一撃の内に、異常な速度で跳ね返される。壁に叩き付けられたその二人は、最早まともに動ける状態ではない。勝負は既に決まっていた。
 「もう、知りません。…行きましょう。」
底知れない程冷たい目でリヒャルトを睨んだ末、クローナは、問題の子の手を引いて、甲板へと向かった。
 「いやだ、か…。」
彼女が去ってから、リヒャルトは、苦笑いを浮かべてそう言った。そしておもむろに、彼女の消えた階段を上がっていく。

 「目を瞑って。」
 「…跳ぶの?」
 「お家に帰りたかったら、目を瞑って。」
 「…うん。」
 すっかり怯えたその子を抱いて、クローナは、迷う事もなく跳んだ。非常に長い短時間の内に、重い衝撃が音を伴って一帯に響く。コンクリート製の岸壁が砕ける衝撃だ。足に応えるその衝撃は、クローナには、自由と反抗の証である様にも感じられた。
 「んっ…!」
 男の子を降ろした瞬間、胸部に走る強い痛み。見下ろすと、そこには矢尻が生えている。後ろから撃たれたのだ。射手は…。
 振り向く。予感に胸が張り裂けそうだ。視界に何か光る物が走った。反射的に手が動く。掴み取ったそれは、明らかに自分を狙ってきた鉄矢。それを投げ捨てる。
 「…!」
 果たして、それを放ったのは、他ならぬリヒャルトだったのだ。両者は視線を合わせ、しかし微動だにせず、そして一言さえも口を開かない。誰も何もしない。視線と事実だけで、十分なのだ。あのリヒャルトさんが、自分を殺そうとしている。それも、本気で…。
 やがて、一本の命中で十分と考えたか、それともこれ以上は無駄と考えたか、あるいは他の理由でか、リヒャルトはクロスボウの構えを解き、船内へ消えた。それを見届けるクローナ。射抜かれたところへ、軽く左手を添える。胸が痛い。
 「おねえちゃん、だいじょうぶ…?」
後ろから、問題の子供の声。矢が貫通しているのだ。気にしない方がどうかしているだろう。
 「ええ、もう、行きましょう…。」
 だが、そんな傷の事など、今のクローナには、些細な事だった。口に広がる血の味が意味するのは、単なる物理的な外傷ではない。沈痛な表情を浮かべた顔も俯き加減に、彼女は再び男の子の手を引いた。

 翌日の新聞は、会談についての当たり障りのない記事の端で、彼女の脱走の事も、ほんの数行だけ報じていた。

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