灰色の空

第一章 第三話
夜の炎

神聖エルファト連合帝国 神都セレスト

 寝苦しいと思った。布団が妙に重たくて、誰かが上に乗って、イタズラしているのだと思った。しかも悪いことに、それは大当たりだった。猫、猫、猫。内装のない、石材剥き出しの壁が、無機質な雰囲気を醸し出す部屋は、ざっと見るだけで、20匹以上もの猫が寝ていた。内、布団に6。寒い城のこと、皆まるくなって、寝息を立てている。
 ベッドの上に上体だけ起こして、クローナは、眉間に皺を寄せた。布団に、猫の匂い。よく見れば、布団の中にも、3匹ほど寝ている。彼女は、猫は嫌いではない。むしろ好きだった。しかし、この状態はあり得ない。こんな事をする輩は…。
 「ちょっと、ヴェムさん! 何を考えてるんですか!」
彼女は、ベッドの上から窓の外に顔を出して、隣の部屋に怒鳴る。外は、当然のように曇っていたが、もう明るかった。にもかかわらず、返事はない。
 「みゃーあ!」
 その代わり、まるで、うるさい、黙れ、とでも言うかのような、強い調子の鳴き声。その方を見れば、目をまん丸にして、自分をじーっと見上げる、黒猫の姿。
 「…何ですか。」
 それを自分に対する挑戦だと受け取ったクローナが、視線で対抗してみれば、すぐにその黒猫は、大あくびなどして、のんびりと顔洗いを始める。馬鹿にされたような気がして、クローナは、ますます気を悪くするのだった。

 朝起きてすぐの訓練、いや、定まったスケジュールなどという野暮なものは、SSにはない。慣習的に、10時までに食事を取り、昼食まで適当に訓練、ということになっている。午後は、連絡の取れる範囲内で、自由だ。
 しかし、これを称して気楽な生活などと思える者は、少ない。なぜならば、SS構成員たりうる条件は、極めて厳しく、そして志願者も極めて多い。それ故に、僅かな能力の低下が、即“転属”を招くことになるのだ。…“転属”された者がどのような経過を辿るのか、それは誰も知らないし、知ることも出来ないし、むしろ暗に想像が付く分、当事者にとっては知りたくもない。…まあ、そういうことだ。
 「馬鹿。」
 「バーカ。」
 「バカなんです。…って、何だよ。」
 食堂の大テーブルで朝食を取っていたクローナとノールは、のこのこと現れたヴェムに、罵声を飛ばした。適当にそれを受け流しながら、ヴェムは、いかにも男っぽい、がさつな動きで、二人の向かい側に腰掛ける。
 「あんたさあ、毎度毎度、あんな事バッカして、喜ぶ奴が居ると思ってんの?」
 「な〜んの事かな?」
トマトスープを流し込みながら、ヴェムは不真面目に応える。
 「とぼけないでください。どうして私の部屋が、猫屋敷にならなきゃいけないんですか。」
 「ぐふっ! ぶはっ、ゲホッ、ゲホゲホ…いやいや。」
しらを切り通そうと思っていたヴェムだったが、猫屋敷というフレーズが、ツボにはまった。危うく皿をひっくり返しそうになりながら、咳き込む。
 「うむ…失礼。暖かかっただろ?」
 「重たかったですよ!」
ノールに至っては、深々と溜息を付いている。
 「あーあ、怒らなくたって。あいつら集めるの、3時間も掛かったんだぜ? 俺のささやかな優しさだったのにな〜。」
 「どうかしてるのよ。その愛情表現のセンスが。」
食事を終え、氷水を飲みながら、ノールは呆れ顔で、言った。その陰で、ぴた、とクローナは動きを止める。
 「愛情なんですか…?」
困惑したようにヴェムを見るクローナ。
 「さあね?」
 「…意地悪な人ですね、ホントに。」
はぐらかすヴェムに、クローナは少し怒って見せた。その様子に、またしてもヴェムは吹き出す。いや、ノールも。何がおかしいのか理解できず、慌てふためくクローナ。そうして、時は過ぎていく。

 三班の同僚二人が訓練に消えて後、クローナは、一人で西の塔へ登った。師団返しと称される戦闘能力は、訓練など必要としない。超人集団の中の、さらに超人。
 しかし、そんな事は、彼女にとっては、さほどの意味を持たない。それ故にか、さにあらずか、愚かしいと思う。転属を恐れるが故に、より効率的な殺人術を極める行為を、彼女は、密かに侮蔑の対象として見る。
 …生きている限り、何かを殺し続けるのだ。それを知っていてもなお、何かが違う。それらは、同等に扱ってよい事柄ではない。彼女は、そう考えていた。さりとて、答えが得られるわけでもない。この曇った、面白くもない灰色の空は、自分の心を映しているようだ、そうクローナは思った。
 ぼやけた太陽が、頼りなく、空へと這い上がっていく。しばらくぼんやりとそれを眺めて、クローナは、建物の中へと戻っていった。神の住まう、城だ。

 

 同じ頃、同じ城の中で、重要人物が二人ほど、連れだって歩いていた。
 「…20代で孫持ちだと? 貴様、それで良いと思っているのか。」
帝国の専政君主、皇帝ディラント七世と、
 「余計なお世話だ。子供のやることになど、いちいち口を挟んでいられるか。」
その配下の領主、ハーラー大公である。…とは思えない会話が交わされている。
 「ふん、この尻の軽いところまで、似たのだろうが。」
 「…おい。」
尻に走るおぞましい感触から、大公は顔をしかめて、皇帝を睨んだ。
 「その脂の乗った短い手を離せ。」
立ち止まる二人。
 「無礼な女だな、貴様も。そう…。」
そのとき、目の醒める閃光が、優美な曲線を描き、空に爆ぜた。
 「…死に際に、華でも咲かせてみるか? 赤い華だ。」
抜き身の長剣が、ギラリと三段顎の下で煌めく。表情を固くする皇帝と、逆に凄味のある笑みを浮かべる大公。しかし、衛兵達が慌てる様子は無い。どうやら、珍しいことではないらしい。
 「果たして、斬れるかな?」
 「私は、短気だ。将来自分が何をするかなど、想像も付かないな。」
恐怖と焦りを押し隠して対抗する皇帝に、大公は無責任にも言い放った。自分から危険人物だと言っているようなものである。
 「そうしたとき、領民のことは、どうする?」
 「つまらん事で貴様を殺せば、流石に私も死刑を免れまい。…私の居ない世界で、何がどうなろうと、知ったことではない。」
その危険人物は、ひときわ不敵な笑みを浮かべた後、ゆっくりと剣を下ろして、言った。
 「せいぜい、気を付けるんだな。」
 「貴様はそれで…。」
 皇帝は、不機嫌そのものの表情で、何か言いかけたが、そこで口を閉ざした。何者かが、血相を変えて走ってくるのが見える。いつもの茶番などより、余程大切なことなのだろう。大公もまた、すぐそれに気付く。
 「何だ?」
 「アヴェンスからの光道信号です!」
近衛兵装束の男は、そう言った。前髪を掻きあげながら、ほう、と大公も意外な表情をする。光道信号とは、帝国に張り巡らされた光と術による通信ネットワーク。
 「して、何と言っている?」
さも面倒くさそうに、皇帝は尋ねた。
 「え〜と、“ゼースラントへ敵襲あり。敵は人に非ず。状況我に著しく不利なり。三日以内に援軍を送られたし。”です。」
 「三日? ここからだと、一週間くらいは掛かるんじゃないか?」
大公が、眉間に皺を寄せて、口を挟んだ。
 「ゼースラントとは、どこにあったかな?」
 「お前、それでも皇帝か。フィラー半島の突き出した先だ。」
 「ふん、そんな田舎までいちいち覚えておらんわ。しかし、確かに遠いな。」
皇帝は、葉巻を取り出して、おもむろに火を付けた。煙を嫌がり、大公は一歩下がる。
 「如何なさいますか?」
 「人に非ず、か…。ふ〜、まったく、くだらん奴等だ。…放置すれば帝国の名に傷が付く。奴を使うしかあるまい。」
流石に兵士には向けないが、遠慮なく煙を吐き、皇帝は言った。
 「ああ、あの子なら。…しかし、まだ休ませた方が良いと思うが。」
 「ならば、貴様が行くか?」
 「戦闘なら望むところだが、間に合えばの話だ。」
間に合うわけがないのだ。ふう、と溜息を付いて、大公は遠い目をした。思い当たるところが、あるのだろう。
 「…まあ、そういうわけだ。SSを派遣する。伝えろ。」
 「はッ!」
くだんの近衛兵は、一礼して、走り去っていった。ひんやりとした石造りの壁に身を任せながら、大公は、言った。
 「実際、くだらん奴等だな。」
 「同意する。」
二人は揃って、肩をすくめるような素振りを見せた。しかし所詮、セレストの者達にしてみれば、他人事に過ぎないのであろう。

 「…任務だ。ゼースラントに飛べ。街が襲われているらしい。」
 「そうですか…。」
 階段にて、クローナは呼び止められた。リヒャルトの声だった。
 「敵は人間ではない。状況は現地で確認せよ。細かい判断はお前に任せる。敵を殲滅しろ。」
 「わかりました。」
 人間ではない。その一言に、僅かに安堵したような気がするが、人でなければ殺して良いという理論も、短絡的に過ぎる気もする。…いずれにしても、襲ってくる敵は、排除する権利があるはず。今回は、割り切って考えられそうだ。クローナは一人頷き、窓を指差した。すぐ、発つのか、と。
 「ああ、急いでくれ。三日もたないと言ってるらしい。」
リヒャルトも頷き、そこで命令を終えた。そして、手を差し出す。クローナは、それをがっちりと握り返した。
 「生きて戻れ。」
 「大丈夫ですよ。」
 「そうか。…さあ、行け。皆が、お前の力を待っている。」
 「…はい。」
短い会話を終え、リヒャルトは、背中を向け、そのまま螺旋階段を下りていった。彼の温もりの残る手を、少しだけ見つめて、クローナは、屋上へと戻った。
 知らせから三分後には、彼女は、城を発っていた。

アヴェンス侯国 港町ゼースラント

 辺りは、すっかり夜になっていた。しかしそれは、辺りが闇に包まれているという事とは、一致しない。炎が、赤く街を照らしている。人口16万を擁する街の被害は、一目で小さくないと知れた。街の上空を遊弋しながら、クローナは、屠るべき敵を探した。炎に照らされた、彼女の顔が、一瞬だけ怒りを見せた。と同時に、帝国最強を誇る剣士は、翼をすぼめて、街の一角へ、素晴らしい速度で空を貫いていく。
 人間の手には大きすぎる剣が、牙を剥く。空間に走る閃光。後に残る、飛び散る液体と、人外の咆吼。
 「悪ふざけが、過ぎるんじゃありませんか…!」
向き直り、圧倒的に巨大な剣を翳して、クローナは言葉を突き付けた。横合いで、火災から家が崩れ落ちる。空間が、逃げ惑う人々の声に満ちている。無惨にひしがれた屍が、そこかしこに見られる。
 それが、この、目の前の…何と形容すべきだろうか、極端に短足で、筋肉質の、腕が四本あって、それに熊の頭でも載せたような生物によって、引き起こされたのだろう。まあ、これ一体ではないようだが、許されざる一線を超えていると、彼女は感じた。黒い炎が、この街のように燃え上がる錯覚を、覚えたのだ。僅かに顎を引き、独特の上目遣いで鋭く睨む表情は、深い怒りを意味する。その化け物は、無論クローナの表情を汲み取ることなどなく、一度大きく叫び、彼女に向けて突進してきた。足音が地鳴りのようだ。
 「人語を解しませんか。」
 何ら慌てる様子もなく、ゆっくりと、彼女は呟いた。四本の腕が、各々にナイフのような爪を光らせて、襲い来る。大変に速い動きだったが、クローナは、余裕を持って敵を観察した。肩口に走る大きな裂傷は、自分のやったものに間違いないが、他にも無数の怪我を負っていた。それだけ長く戦い、そして不運なことに、目の前の敵が、生き残ったのである。
 身じろぎ一つせず、一瞬だけ目を閉じて後、クローナは、肩に載せた大剣を、右手で無造作に振るった。
 時の最小単位と思える至短時間の内に、その巨体は血を噴きながら弾き返され、30メートルも離れた地面に沈み、事切れた。胴体を真横に切り裂く大きな傷から、大量の血液が流れ出す。剣に付着した血を払い、クローナは、ゆっくりと構えを解きつつ、言った。
 「馬鹿なことを、しましたね…。」
 木造の家屋が、また崩れ落ちる。建物は木造ばかりだ。よく見れば、恐らく路上生活者の住んでいただろう、みすぼらしい小屋なども目立つ。これでは、火災に弱いのも当然だ。それ以上に、この街にも衰退の影が差しているという証左である。
 その現状に顔をしかめつつも、次を探そうと一歩踏み出したクローナは、向かってくる誰かを認めた。騎士、と呼べそうな装束であった。
 「見たぞ、凄いじゃないか! お前、どこの…。」
興奮した声が、走り込みながら発せられた。クローナは、その方を見て、何とはなしに、首を傾げた。
 「…女か。しかも、若い。お前さん、一体…?」
男は、しかし、彼女の顔と剣を見比べながら、声のトーンを失速させてしまう。そこで、クローナは何かを思い出したように首を横に振って、彼の目の前に手を立てた。
 「私の顔を覚えてはいけません。…SSの者です。」
 「あ…。どおりで。」
ならばマスクの一つでもしてくれば良いところだが、時間がなかったのである。騎士と思しき男は、慌てて顔を逸らした。一瞬だけ見えたその納得顔は、こちらもまだ若かったようだ。彼は、再び言葉を綴る。
 「何か役に立てる事があれば良いんだが…。見ての通り、砦は焼けちまった。みんな、散り散りだよ。」
 「そんな…、三日と聞いていたんですが…。」
全身をプレート・アーマーで固めた男は、どっかりと地面に座り込んだ。その甲冑にも、幾つか大きな損傷が見られる。彼も、戦ったのだ。
 「そんなに保つように見える? 放っといたら、せいぜい今晩だよ。…悪いな。まともな協力は出来ない。」
 「わかりました、私一人で何とかしましょう。…あなたは?」
 「戦うさ。生まれ育ったこの街だからな。」
 この人は、死ぬ気なんじゃないか。クローナは、直感的にそう思った。いや、感じた。背筋が、ぞっとするような直感だ。
 「…では、また会いましょう。」
敢えて、それを否定する言葉を放つクローナ。
 「ああ、行くか。」
気付いてか気付かずか、男はニヤリと笑って見せた後、走り出した。

 クローナは、走る。舞い散る火の粉が、昔見た星空のようだ。途中、炎に包まれた建物から、人の声を聞いた気がする。
 それを、見捨てた。助けている間に、敵は、より多くを殺すだろう。そして、阻止できるのは、どうやら自分だけだ。それを瞬時に理解してしまう事が、悔しい。冷静な判断力なんて、持っていなければ良かった、とさえ思う。
 戦いの最中にあって、それ一つに集中することもせず、まさに多様な雑念を抱いたまま、彼女は走る。戦いの玄人とは、言えないだろう。人は、むしろ素人らしさを、彼女に感じるだろう。
 しかし、彼女の持つ圧倒的な身体能力は、それすらも、極些細な問題としてしまう。“素人”の前に、圧倒的多数の玄人が、いとも容易く退けられてきたのだ。もちろんクローナ自身、そんな事は知っていたが、今まで特に気にすることはなかった。
 三体を一撃の下に斬り伏せ、彼女は、砦と言われた場所に来ていた。なるほど、確かに火を噴いているが、それは高層階のみだ。中からは、剣戟の音が聞こえる。
 まだ行ける、そう思った途端に、その入り口から強烈な火焔が迸り、襲い来る。
 「わぁ!」
驚きの声を上げて、その割に余裕を持って、彼女は炎をかわした。通りを超えて、炎は石造りの建物に当たって、弾けた。
 最早、砦は完全に炎に包まれた。剣戟の音もない。落胆しながら、彼女は剣を構えて、火を噴く入り口を、注視する。その、邪悪な火焔を放った主が、中に居るはずだ。
 「にゃ?」
あまりにも場に不釣り合いな声に、彼女は思わずその方を見た。橙に見えるが、恐らく白い猫が、ピンと尻尾を立てて、彼女を見上げていた。う〜ん、と少し首を傾げて、どうするか、クローナは迷った。
 「ほら、危ないですよ。」
悩んだ末、左手で、その猫を抱え上げる。そして、素早く逃がそうと思った。
 「!」
そのとき、豪快な音が響き渡り、目の前の砦が弾け飛んだ。石材が飛び散る。飛んできたそれを弾き返して、彼女は見た。小さめの家ほどはある爬虫類。ドラゴンを思わせる、赤い生命体を。一瞬、驚く。
 「いたたたたっ! ちょっと…!」
 白猫が、無理矢理彼女の体をよじ登って、飛び降りて逃げていった。思い切り爪を立てて。文句を言う間もなく、目の前の敵が、牛一頭分くらいありそうな前足を振り上げた。そして、轟音が大気を裂く。
 「この私と、力で勝負する気ですか!」
 痛みに顔をしかめつつも、クローナは、真正面からそれを受け止めて見せた。鋭く荒々しい、金属音。鋼鉄製の長靴が、火花を散らして石畳を削る。剣を引き付け、今度は、逆に勢いよく押し返す。反動で、彼女は大きく飛び退いて、距離を取った。
 「ドラゴンじゃあ…、ない、です…ね。」
 ドラゴンだったらどうするというわけでもないが、彼女は、そう判断した。相変わらず、人語を解さない、単なる敵対的な動物であり、人はそれを特にモンスターと呼ぶ。大きく口を開き、何事か吼えながら、その緑色の目が彼女を見ている。人外は、何をするかわからない。
 「う〜ん…。」
 間違っても危ない目に遭いたくないだけに、クローナは、慎重に動きを見極めようとしていた。仕掛けることはせず、じっと観察する。
 すると、大きな口が、赤く光ったような気がした。おや、と思えば、光は炎となって、大変な勢いで向かってくる。
 「ひゃあああ!」
 情けない声を出しながら、クローナは左へ避けた。ところが、炎は止むことなく、しつこく彼女を追う。石畳が溶けて、えぐり取られている様を見る余裕はない。通りの幅を一杯に使い切って、やむなく、彼女は敵の脇に向けて、走り込んだ。生きた心地がしない。
 脇を走りすぎようとすると、突然巨大な赤い物が現れた。炎ではない、尻尾だ。反射的に、クローナは、それへ剣を叩き付けた。また、鋭い金属音が飛ぶ。
 「うそ…っ!」
 斬れなかった。逆に、彼女の方が、派手に宙を舞っていた。大剣を上手く使って、空中でバランスを取る。敵から目を離してはいけない。動揺を抑えながら、彼女は見た。巨大な火柱が、突っ込んでくるのを。
 「そんな…っ!」
あれは、自分を簡単に殺してしまうだろう。心の底から、彼女は戦慄した。死ぬという概念。泣きたいくらいだ。
 そう思いつつも、クローナは、左手に意識を集中する。術だ。たちまち空間が揺らぐような、不思議な場が集束し、次の時には、それは炎目掛けて飛翔した。途端にそれは炸裂、強烈な衝撃波を発して、炎を吹き飛ばした。強靱な熱の光が、簡単に空へと掻き消えていく。
 僅かな安堵を覚えて、彼女は地面に降り立った。
 「どうしよう…。あ、痛い。」
肩に走る、染みるような痛みは、さっき猫に引っ掻かれた傷。それも忘れるくらい、興奮していたのか、と彼女は思った。ふと思えば、追撃もない。低く唸りながら、敵は尻尾を気にしている。唸り声は、呻き声にも聞こえる。
 「…斬れなくても、ダメージはあるんですね。」
 考えてみれば、当たり前だとも思った。あの一撃をまともに受けて、ピンピンしている生き物など、あの大きさでは、あり得ない。よく見れば、血と思われるものが、鱗の合間から流れ出している。何とかなりそうだ。そうわかると、落ち着きが戻ってくる。
 何とかなるならば、急がなくてはいけない。敵は、これが最後ではない。
 クローナは、再び左手に力場を浮かべ、突っ走った。速い。気付いた敵が、再びその口を開き、火箭が迸る。しかし、落ち着いてみれば、その動きは遅く、回避は難しくない。火線に鋭角で切れ込むライン取りで、飛ぶように走る。
 「それっ!」
 たちまち肉迫して、クローナは、術を解放した。歪んだ場が空を走り、敵の口に飛び込んで、爆ぜた。炎が放つ光が、ふっと止んだ。余程痛かったのか、地響きがするほどの咆吼を上げて、仰け反る。少々哀れな気もしたが、クローナは、敵の前足を踏み台にして、頭目掛けて跳んだ。普段使わない左手をも、剣に添えて。
 「このぉっ!」
 大剣ヴァンガードが、硬質の鱗に覆われた後頭部を、激烈に叩きのめした。大きな頭が、顎から地面に叩き付けられる。それはまさに、破城用武器に相応しい、超人間的な破壊力を発揮していた。短い叫び声を残して、敵は、その巨体の重みで、崩れるように石畳に倒れ込み、地響きを鳴らす。
 素早く距離を取り、物陰から様子を窺うクローナだったが、もう、二度とそれが動くことはなかった。

 その場にへたり込んだクローナの側には、いつの間にやら、さっきの白猫が居て、彼女に擦り寄っている。放心したように、それを撫でるクローナ。目の焦点が、合っていない。
 「なんて事だ。お前が、やられるとは…。」
 そんな声を聞いて、ぼんやりと、クローナは、その方を見た。男だろうか、先程彼女が殺害した生き物の側に、立っている。
 その者が振り向いた。視線が合う。遠くて表情などはよく見えないが、何となく嫌な予感がして、彼女は、顔を背けた。そして、知っている。顔を背けたところで、災いは向こうからやってくるという事を。
 「行った方が、良いですよ〜…。」
 それが歩いてくるに至って、クローナは、白猫に、そう言った。しかしその猫は、挑発的に鳴いただけで、言うことを聞く風にはない。
 「行きなさい。…行け!」
 脅かすように、そう怒鳴りつけると、その猫は素早く走り去ったが、すぐ振り向いて、様子を見る。首を傾げる仕草が、可愛い。
 「ほら、行きなさいってば。」
 少し、和む気分。相好を崩しながらも、また追い払う手振りをすれば、白猫はしゃっしゃっと後頭部を掻いてから、今度こそ走り去っていった。
 向き直れば、まだ、さっきの男は、近付いてくる。心なしか、これも人外の何かの匂いがするような気がする。溜息を一つ付いてから、剣を手に、クローナは、立ち上がった。
 火災に彩られた風景にも関わらず、その男には、血の気のない、青白いイメージがある。
 「誰、ですか?」
先に口を開いたのは、クローナだった。何だか知らないが、多分、敵だろうな、と思う。
 「…王女様ではないか。こんな所で、会えるとは思わなかったよ…。」
 「は? 人違いでは、ありませんか?」
 意味の解らないセリフ。やはり、相手は人ではない何かのようだ。その金属質の言葉は、肉声と呼ぶには、あまりに非人間的な響きを持っていたのだ。
 言葉の意味は気に掛けず、クローナは、剣を握る手に、力を込めた。炎が瞼に焼き付いたままだ。目の前の存在も、人間でないとすれば、何をしてくるかわからない。不安を、せめて歯を食いしばることで、抑え込む。その様子を見てか、さにあらずか、相手は、優雅で、かつ残酷な笑みを浮かべた。
 「…あなたが、この化け物達の責任者ですか?」
レイピアを構えるような体勢で、ヴァンガードを向け、クローナは問うた。
 「いかにも。そうか、君が、アイツをやったのだな…。」
 「だったらどうなんですか。」
大剣に目を落として、死体に目配せする相手に、クローナは答えた。真っ直ぐな視線を投げ付けて、さらに続ける。
 「こんな事をしておいて、どういう報いを受けたとしても、文句があるなどとは言わせませんよ。…ただし、動機は白状してもらいたいですね。」
 「…注文の多い娘だ。まったく、相変わらずだな。」
ふっと鼻で笑って、その相手は言った。その青い髪が、流れた。鋭い突きが飛ぶ。
 「動機など、知れている。我々の敵だからだ。人間と、お前がな。」
軽く刃をかわし、大剣を背負うように構え直したクローナに、その存在は、言った。
 「人間と、私…? 何が、言いたいのです…か…?」
 「知らないのか。私には、一目でわかったよ。何しろ…。」
 「いいえ!」
口元を緩めて、青白い敵はそう言いかけたが、きっと視線を飛ばして、クローナは、続きを遮った。悪寒を感じる。この場は、居心地が悪い。
 「聞きたく、ありません!」
瞬間的に間合いが詰まった直後に銀が走り、超音速の衝撃波が、叫び声を上げる。会話が切れる。
 「はぁッ!」
奥へと逃れる相手に、クローナは、続けざまに、突きを放った。
 「…やるじゃないですか。」
二つの旋風が抜けた後、大きな距離を空けて、二人は共に立っていた。クローナの声には、むしろちょこまか小賢しく動くな、という抗議の意思が、容易に窺えた。そして、複雑な怒りも。
 「まったく同じ言葉を、お返しするよ。…いや、こちらの方が、分が悪いね。この辺にしておこう。」
術の波動が、辺りに満ちる。揺らめく炎が照らす中、その熱い背景に、彼の姿は溶け始めた。
 「逃げるなッ!」
反射的に、クローナは走った。振りかぶった剣を、まだ姿の残る敵に叩き付ける、まさにその瞬間。
 「青い。」
 「っ!」
 それは不意に実体を取り戻し、その手にした細身の剣が、クローナの胸部を狙う。たちまち、彼女の表情が、闘志を失い、恐怖に染まる。しかし、その不意打ちすらも、彼女の本能的な反応の前に、ただ脇を抜け、空を刺すに留まった。
 「はっ、つまらんな。」
 へたり込んだクローナに、失望とも、侮蔑とも付かない表情を向けて、今度こそ敵対者は消え去った。追撃する余裕は…、心の余裕は、クローナには、なかった。そう、細身のレイピアのような剣を使って、それでも自分より数段劣る速度とは、つまり自分より大きく格下という意味だ。しかしそれですら、身に受ければ命が危ういのだ。胸に手を当て、深く溜息を付く。
 「…落ち着こう。」
 色々思いはあるが、それだった。たまらなく怖いのは、認めるしかない。でも、自分から油断しさえしなければ、負ける心配はないはず。ともすれば頭が真っ白になりそうなまま、彼女は考える。術で、そんなに遠くへ行けるものではない。必ず、まだそう遠くない場所に居る、と。任務は、敵の殲滅だ。
 そう考えれば、数秒と経たない内に、彼女は、炎の満ちる街から、飛び立った。降りかかる火の粉に身を震わせ、逆巻く乱気流と煙に戸惑いながらも、クローナは、低空で、いつまでも捜し続けた。朝になるまで飛び続け、しかし、敵の姿は一度も見られなかった。

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