灰色の空

第一章 第二話
空中都市にて

アーヴィッツ連邦共和国 首都サラミス

 曇天下の弱々しい光に、鉄とコンクリートが照らし出され、陰鬱な空気を漂わせている。空中都市とも呼ばれるサラミス。それは、巨大な死火山・ヒンメル山全体に、穴を開け、切り取り、そうしてつくりだした殆どすべての空間を都市、あるいは要塞として利用し尽くした街。口さがない者達が、それを形容して、蟻塚、そう呼んでいる。その鉄の蟻塚は、天を突く壮大なたたずまいを惜しげもなく見せ付け、その不機嫌な重厚感と共に、見る者に、そしてそこに住む120万の民に、圧迫感を与えている。…そう、いつも通りに。
 灰色に照らされた街の、番号でしか認識されない通りを、クローナは歩いていた。しかし、その表情もまた、この街のように感情を感じさせず、どことなく暗い。綺麗な紺眼も、いささか俯き加減だ。
 「お嬢ちゃん…。」
 年寄りの声が、彼女の横から投げかけられた。これもまた、一切プラスの感情の感ぜられない声。彼女はそのまま横を通り過ぎ、立ち去るかに見えたが、数歩歩いてから、少しだけ首を振り、立ち止まり、次いで振り向いた。呼びましたか、などとは言わず、しかし目が語っている。
 「おお、すまんが、ちょっと手伝ってほしいんじゃ…。付いてきてくれるかの?」
 みすぼらしくもないが、豪華でもない服を纏った、しかし曲がった腰が酷く老けて見える男は、そう言った。クローナは、先程と同じように、言葉は出さず、こくり、と頷く。老人は、満足そうな笑みを浮かべて、路地裏へと向かった。一度だけ、付いてきなさいとばかりに振り向いて。
 路地は、ところどころに赤錆を見せる高い高層ビルに挟まれ、その隙間から、いつも通りの暗い曇天が覗く。そのせいか、寸法より狭く感じる。
 足下はといえば、舗装が施されてから、一度として清掃されていないかのような、雑然とした様相を見せている。放置自転車、ゴミ箱、読み捨てられた新聞、空き缶。どこにあるとも知れない空間に溜まった古い水が、形容しがたい臭いを発している。
  ひととき黙々と進んでから、老人は、立ち止まった。
 「ええと、お嬢ちゃん。名前を聞いておこうかな?」
 「クローナ、です。」
 彼女は一瞬だけ躊躇う様子を見せてから、しかし次の瞬間には、迷うことなく答えた。繊細さを感じさせる、まだどこかあどけなさの残る顔立ちに相応しい、高い、少し弱含みの声で。そうか、と老人は頷き、笑みを浮かべた。
 「そうかぁ、クローナちゃんって言うのかぁ。へぇ〜、やっぱ、カワイイねぇ?」
 唐突に古い鉄扉の開く音がして、喉を傷めたような低い声がした。五、六人の若い、筋肉質の、人相の悪い男達が、いつの間にか、二人の後ろに居た。
 「何でしょうか…?」
呼ばれたクローナは、しかし別段驚く風でもなく、ゆっくりと頭だけ振り返った。相変わらず、感情の感じられない表情だ。
 「あぁ〜? いや、ちょっとさぁ、仕事を“手伝って”もらいたくてさぁ。イイと思うんだよね〜、キミならさぁ。うん、悪い条件じゃないんだぜ?」
 「…何なんですか?」
 身体も振り向いて、クローナは言った。だが、その問は愚問であろう。老人に扮していた男が、彼女を羽交い締めにする。最初から、それが目的だったようだ。しかしなおも、彼女は殆ど無表情のままだ。そのしなやかな肢体も、拘束されるがままに任せている。
 「騙したんですね。止めましょうよ、そういうことは。犯罪じゃないんですか?」
そのままの姿勢から、やはり落ち着いた声。その声だけならば、本当に感情が無いかのようだ。しかし、眼光は、明らかに意志を持っていた。だが、男達がそれに気付くことはない。
 「おい…、何か変だぜ、この子。クスリとかやってんじゃねーのか?」
 「…だよなぁ、けど、それだったら、もっとこう、何か、暴れるんじゃねえ?」
 「まあ、んな事、俺達にゃ関係ねぇよ。なあ、お嬢ちゃん?」
 少し動揺した男達だったが、再び笑みを浮かべている。知性的、理性的という雰囲気ではない。このまま彼女を売春宿にでも売り飛ばすか、下手をすればその前に欲望を満たして、などと考えているのだろう。無論、そんな事はクローナにもわかっている。それでも、危機に瀕している、というような素振りは感じられない。
 だが…、見る人間が見れば、その殆ど動かない表情が、底知れない深みを持っていることを察せられるはずだ。
 「え…と。取り敢えず、放してくれませんか?」
 「おい、ちょっと道を教えてもらいたいんだが。」
 クローナの高い声は、唐突に割り込んできた、若い男の声によって、掻き消されてしまった。一同の視線が集まる。黒い髪と瞳の男。若干厚着で、長い距離を歩くのに適した装束。背中の荷物。一見して、慣れた旅行者とわかるスタイルだ。
 「ああ!? 何だテメーは?」
 あからさまに不機嫌を見せ付けて、集団の一人がその旅行者を見下ろした。赤らんだ顔は、今にも殴りかからんばかりだ。良いところで邪魔するな、といったところか。
 「いや、あんたらみたいなムサい男じゃなくてだ。そっちの女の子に聞いてるんだが?」
 「え?」
 「何勘違いしてんだコラ? お話はこっちが先なんだよ。」
 声が交錯する。明らかな余所者、それを取り囲むように、男達が数歩踏み出す。放たれた言葉が直接にどういう意味を持つにせよ、これは要するに 「彼女を放せ。」と言ってるのと同じことだろう。皆一様に、喧嘩腰の顔つき。意外な展開に、クローナの表情にも僅かばかりに驚きの色が見えるが、恐らく誰も気付いてはいないだろう。険悪な雰囲気が、そんな事には構ってくれない。
 「あの…あまり無謀な事はしない方が良いと思いますけど…。」
 自分のことは棚に上げて、クローナは件の旅行者に言った。一言で、場の雰囲気が変わる。お前は何を考えてるんだ、とでも言いたそうな顔で、その場の全員が彼女を見る。狙っていたわけでは無さそうだが、それに乗じて、彼女は器用に拘束から逃れた。不思議な沈黙が、場を支配する。
 「あぁ〜…、ひょっとしてお嬢ちゃん、このヤロー庇っちゃうの? 会ったこともねぇ、どっかの馬の骨だろ?」
 「でも、この人には関係の無い事ですよ。」
首を突っ込まないで欲しい、とばかりに、彼女は旅行者の男を見た。
 「え〜と…。」
意外な方へ話が進み、彼も又、言葉が出てこない。
 「まあ、け〜どなぁ、コイツ、助けようって絡んで来てよ。逆に庇われてやんの。格好いいぜ? おい。今年最高の冗談じゃねえ?」
 下品な笑いが、ひとしきり辺りに響く。時を同じくして、旅行者の手が握り拳となり、尋常ではない速度で空を走る。最初からその気だったのだろう。僅かに遅れて、クローナの回し蹴りが、老人に扮していた男に迫る。たちまち、狭い路地裏は、台風並みの乱闘騒ぎに見舞われた。

 地面に沈んだ敗者を捨て置いて、クローナと旅行者の男は、表通りに舞い戻っていた。
 「あんな危ないことをして…。負けたりしたら、どうするつもりだったんですか?」
 「…なぜ、助けてあげたのに怒られるんだ、俺は? どうしてだ?」
どうやら、この二人が勝者になったらしい。
 「え…いえ。ありがとうございます。」
 「…。」
作り笑いと言うよりは、気まずい笑いを浮かべながら、クローナがお辞儀をする。
 やっぱり何だか変だ、旅行者の男は、そう思った。なぜ、お礼より先に忠告が来るんだ。何かいわく付きの人間か、あるいはどこかおかしい子なのか。
 「君は何者だ?」
 「はぁ?? 何ですか、いきなり。」
ストレートに発した疑問は、思い切り不審に思われてしまった。確かに、殆ど初対面の相手に、いきなり 「何者だ。」も無い。いまひとつ、会話が噛み合わない二人。
 「いや、まあ…。ハハハハ。それで、どこまで?」
 「一人で大丈夫な所までです。」
 言外に、 「去れ。」と言ってるな。それも露骨に。旅行者の男は、それを感じ取った。無愛想な奴だ。彼は、正直、落胆した。
 「そうか。じゃあ、ここまでだな。」
 「ええ、ありがとうございました。さようなら。」
最後には、再び感情の籠もらない声でクローナが返し、短い出会いも、摩天楼立ち並ぶ都市の雑踏へと掻き消えていった。

 

 騒ぎからおよそ5分後、とある雑居ビルの2階に、クローナの姿はあった。しなやかな手が、ドアノブを掴む。
 「戻りました。」
 「ん。」
中から聞こえる、男の据わりのいい声。ふうっと、クローナの表情が、人間的な感情の色を取り戻した。何かわけあって、無感情に、努めて目立たぬよう、振る舞っていたようだ。それはそうだろう。彼女も“仕事”で来ているのだから。もっとも、異常な無感情も、逆に不審がられたわけであるが。
 「なんだ、嬉しいことでもあったか?」
 葉巻を口から離しながら、灰髪の大男は、言った。紫煙が広がり、換気扇に吸い込まれていく。その陰にある、相変わらず堂々たるリヒャルトの体格。
 「ええ。悪党に囲まれてどうしようか、というところで、助けてもらいましたから。捨てたものじゃないですね、って。」
 「なに…? 気を付けろと言ったはずだぞ。」
にこにこして喋るクローナに、厳しい口調でリヒャルトは言った。しかし、露骨に不満げな表情を見せながら、クローナは動じない。
 「私を疑うんですか。」
 「いや…、そうだったな。」
 しかし、言い返されたリヒャルトは、再び葉巻を口にして、身体を椅子にもたれかける。気圧されたなどという事はない。それだけの信頼関係がある、ということなのだ。逆に、彼の方が信用を疑ったことを、素直に悪く思ったほどである。
 「でも…、冷たく追い返しちゃったんですよ。…こんな仕事に就いたばっかりに。」
 「言うな。任務中だ。」
最後には吐き捨てるようなクローナのセリフだが、リヒャルトは柔らかにたしなめた。
 「いつになったら…いつになったら、普通の生活に戻れるんでしょう?」
 「任務中だと言ったぞ。今は忘れろ。」
 「…はい。」
 みるみるクローナの表情が暗くなる。唇を噛みしめ、いつの間にか、その手は握り拳さえつくっている。リヒャルトは、堪らず視線を逸らした。
 元々、彼女は、好きこのんでこんな組織に居るのではない。事情がそれを強要しているだけなのだ。それ故、あまり無理はさせたくない。第一、リヒャルト自身、この仕事が好きではない。にもかかわらず…、なのだ。こんな無理な状態が、いつまでもつか。彼は、時間の問題だと考えているし、それ故に不安だった。

 「晩飯、カレー! 買い出し終わったぞ〜。お、クローナちゃん、戻ってたのか。ん〜、暗いぞ。総長にいぢめられたか〜?」
 「いじめられるのは、あんただけよ。」
 陰鬱な雰囲気は、割り込んできた馬鹿っぽい会話に、易々と打ち砕かれた。入り口から覗くのは、悩みの無さそうな、若い男の顔。続けて、それより10歳近くは年上と思われる女性が入ってくる。
 「ひどいよなー、コイツ。何だかんだって、すぐ俺をからかおうとするんだよ。なあ、ひどいよな?」
 「さっさと食事を作れ。」
 若い男は、クローナに同意を求めたが、リヒャルトの冷たい一言が遮った。有無を言わせない命令。ぶちぶち文句を言いながら、紙袋を抱えたまま、彼は部屋の奥へと消えていく。後ろから入ってきた女に、 「ざまあみろ。」などとからかわれながら。
 ちなみにこの男、名前はヴェム。ファミリーネームは定かでないが、それ以前に、これが本名であるという保証はない。それをからかう女の方は、これまた本名かどうか不明だが、ノールと名乗っている。SS兵には、よくある事だ。仕事が仕事だけに、素性が明らかになったり、過去をほじくり返されたりすると、不都合な場合が往々にしてあるのである。彼等に過去は無いのだ。

 およそ1時間後、食事を終えたメンバーは、いよいよ仕事に掛かることにした。およそ二週間、この街で待機した末の決定。

 夜の帳が降りても、この街は、歓楽都市へと変身することはない。ただでさえ威圧的で不機嫌なたたずまいが、ますます重苦しくなり、圧迫感を撒き散らすだけである。治安維持の関係から街灯は明るいが、心躍らせるような姿ではない。従って、地上は人通りも多くはない。皆、地下へ行ってしまう。地下街には、ひっそりとバーやカジノも開かれ、ほぼ完全な防音の中で、人は笑い、日常の疲れを忘れる。そして、表通りから中を知ることは出来ない。閉じられた街。発電所なるものが吐き出す煙が、仄かに街灯で照らされている。その上には、星の瞬きさえ届かせない、灰色のベールが被さっている。
 クローナは、この陰鬱な雰囲気が嫌いであったが、同時にどこか居心地の良さも感じていた。何にせよ、今にそういう事を考える暇もなくなるだろうし、仕事が成功するにしろ、失敗するにしろ、この街ともひとまず今日限りだ。4人は黙々と歩く。
 「黙っていると、気分が良くないな。何か話そう。」
 リヒャルトが、柄にもなくそう言った。言外に、こんな様子で歩いていると、怪しまれる…という考えもあるのだろうか。
 「そうですねー。じゃあ、今日のカレーはどうだった? 我ながら結構イイ出来だったよな、って思ってるんだけど。」
やはり、ヴェムが最初に応じた。
 「はぁ〜? カレーなんて、何だって同じよ。」
 「あん? 何言ってるんだ、駄目だなぁ…。もう、やっぱ、お前、駄目。ゼンゼン駄目。」
 「駄目? ほ〜ん、いい態度ねぇ、ヴェム君?」
 「やめろ。口を開けば痴話喧嘩か、お前ら。」
先頭を歩くリヒャルトの声が、険悪な空気に割り込んだ。
 「痴話喧嘩なんて…っ。総長、誤解です。」
 「へ〜い、お前が馬鹿だからだろ。クローナちゃんはどうだった? カレー。」
 「え?」
 気を紛らわすためにこういう馬鹿なことを言い合うのか、それとも本気なのか、仲の良い(?)二人の会話を眺めながらそんなことを考えていたクローナは、突然話を振られて一瞬戸惑った。
 「いや、カレー。うまかったよな?」
 「え、ええ、まあ。…え〜と、お肉がちょっと硬かったですけど、味は何だか深みがあって、良かったですよ。」
 「優しいな、お前は。この阿呆にまともに答えてやるのは、お前くらいだ。」
また、リヒャルトが割り込む。
 「そんな…。でも、ホントの事ですよ。」
 「だよな? さっすが、わかる奴にはわかる。で、部下を阿呆呼ばわりする尊大な総長の評価は?」
 「ふん。まあ、良いんじゃないのか。」
興奮するヴェムとは対照的に、素っ気ない答えだった。しかし、それでも、彼はますます喜ぶ。
 「そ〜ら見ろ、お二方はわかっていらっしゃる。お前が変なんだぞ。思い知ったか。」
 「やかましい。張っ倒すよ。」
言う前から拳が飛んでいた。ひょい、とそれを避けるヴェム。
 「うっへー、アブねー奴。ヒスはいかんよ、ヒスは。」
 「…歯の一本くらい、覚悟して言ってんだろうね?」
 「オー、テリブル! 妖怪七変化のお出ましです!」
 「この…!」
 「やめろと言ってる。」
 三度、リヒャルトの割り込み。ノールの怒り心頭に発した顔。他人にはすぐちょっかいを出す割に、自分がからかわれるとすぐ怒る。まあ、時々居るタイプだ。それに引き替え、妙に上機嫌なヴェム。ごく些細なことで。
 しかし、本当に楽しんでいるのか。クローナは、再びさっきの疑問に回帰した。こんな時に、カレーがどうしただのと本気になれるかというと、私は無理。人を殺しに行くというのに…。いつかヴェムに聞いたこと。仕事の前は、いつも死ぬのが怖い、と。でも、私はそんな事は思わない。今まで、一度だって、命の危険を感じたことはない。その実感は、確かに無かった。命を懸ける覚悟が出来た事でさえ、一度もない。ただ、自分が殺してしまう人間のことを考えている。その事だけが気になる。見知った人間に死なれたとき、その周りの者がどういう思いをするか、知っている。任務の中で、そういう態度が、良いことか悪いことかわからない。多分、普通の感覚じゃない。ただ、少なくとも言えるのは、彼等と私は、違っているということ。死の恐怖を忘れるために、馬鹿なことをする。…私は、死の恐怖なんて、知らない。理解できない事、越えられない壁が、そこには厳然とある…ように思える。
 「どうした?」
 「…え?」
 また、リヒャルトの声が、思考に割り込んできた。急に、現実世界が視界に戻ってくる。
 「考え込んでたようだが、そんな場合じゃないぞ。お前はエースだ。」
 「…はい。」
 「いつもだよなー、クローナちゃん。仕事が近付くと、急に思い詰めた顔して。」
 「そうよねー。やっぱり、あの…アレかな?」
ノールにしては珍しく、少しぼかし加減の質問。アレ、つまりクローナの両親のことは、とても微妙な話題なのだ。
 「え、いや、ソレじゃないですけど。ま、まあ、私は大丈夫ですから。あはは。」
 クローナは、不器用ながら、笑って誤魔化した。皆も深くは詮索しない。今は、そんな事をしている場合ではないのだ。

 ほんの数分も歩くと、問題の建物が目の前に現れる。アーヴィッツ連邦共和国軍務省ビル。この、全体が要塞化したサラミスでも、特に警備の厳しい場所の一つだ。もっとも、軍隊を持ち出して攻め落とすのは困難を極めるだろうが、4人で侵入するくらいなら、そう困難でもない。…無論、彼等なら、という但し書きがあっての事だが。リヒャルトが、ビルを観察している。
 「…変わったところは無いな。予定通りに行く。」
 「うっす。じゃあ、例のやつ行きまっしょう!」
振り向いたリヒャルトの一言に、ヴェムが答えた。一同頷き、お互い手を一つに重ねる。
 「星と、秩序と、主の名の下に、我等に幸運のあらん事を。そして、罪深き我等を赦し給え。ル・アレス。」
 「…ル・アレス。」
それは、祈りの言葉だった。
 「さあ、さっさと終わらせて、とっととおうちに帰ろうぜ。」
 「あら、そんなにママのオッパイが恋しい?」
 「おまぇなぁ…。」
 「…。」
ノールの一言。状況が状況だけに、皆に睨まれる。特に、眉間に思い切り皺を寄せたクローナの表情が、ノールに反省を強いた。
 「あ…え…、と。…ごめん。」
ばつの悪い表情で、彼女は謝った。特に総長のお咎めは無いようだ。一瞬の変な沈黙を経て、ノールとヴェムが建物に向かった。

 尋問に来た衛兵二人を即座に打ち倒し、二人は進む。ヴェムは、おもむろにドアを開けようとしたが、自動ドアだった。驚き、感動しているヴェムを罵倒しながら、ノールが先に建物に入る。ヴェムも文句を言いながら、長弓を構えたまま侵入した。
 「う〜ん。やっぱ、軍隊だな。」
 「あったり前でしょうが。」
相変わらず無駄口全開。
 「止まれッ! そんな物を持って、どこへ行く気だ!?」
 無駄口と殆ど同時に、二人は、大声で警告を受けた。ライフルを構えた男、拳銃を構えた男、合わせて15人くらいが、二人を睨んでいる。
 「どこへって…なあ。」
 「ねえ。もう来ちゃったし。」
 二人は顔を見合わせ、申し合わせたように、ニヤリと笑った。そのまま、ヴェムは矢を抑えていた指を放した。それは単なる長弓から放たれたとは思えない速度で飛翔し、カウンターに命中して、直後に派手な炎を噴き上げた。書類が燃えながら巻き上がる。事前に術を掛けてあるタイプの矢だ。たちまち、けたたましい銃声が室内を支配する。そう、戦いとは、やかましいものだ。

 一方、クローナとリヒャルトは、黙々と非常階段を駆け上っていた。入り口に4人ほど居たが、無論始末して。リヒャルトの三段飛ばしも速いが、クローナは半階分13段をひとっ飛びに上がってしまう。
 「俺はお荷物か。」
 「さあ…。でも、きっと、普通の人より速いですよ。」
10階ほど上がって、リヒャルトはそうこぼした。しかし、上で待つクローナともども、まったく息が乱れていない辺り、この男も尋常ではない。再び、黙々と二人は階段を上る。目標は34階。そんなに時間は掛からないはずだ。耳障りな警報音が、足音を掻き消す。遠くで銃声が聞こえる。心配ではあるが、予定通りは予定通りだ。
 階段が行き止まりだ。その行き止まりに、鉄の扉が見える。クローナが走る。リヒャルトも来る。
 「てぇやっ!」
 行く手を妨げる扉に、クローナはスピードを緩めることなく、そのまま跳び蹴りを叩き込む。派手な破壊音。蝶番が弾け、扉もろとも吹き飛ぶ。
  扉が床に叩き付けられて大きな音を立てたとき、彼女の右手には、いつの間にか長大な剣が握られていた。大の大人が、両手でも持ち上げられないような剣が。
   ショットガンを手にしたリヒャルトが、僅かな間を置いて、クローナの横に到着した。
   広い部屋は、落ち着いた雰囲気にまとめられているが、置かれた物はどれを取っても一流の品。その中央、大きな椅子に、老年に入り始めたくらいの男が座っていた。
 「な…、何者だ!?」
ここまで来て、ようやくその男は、第一声を発した。
 「正義を執行しに来た。」
 「馬鹿な、待ってくれ!」
片手で支えられたショットガンの銃口が、静止する。
 「聞こえんな。神に祈れ。」
 ―――撃つ。クローナは、ぞくりと背中に寒気を感じながら、しっかりと目を瞑った。筒の奥に息づく、少量の火薬が、目覚めた。口から火と鉛が、雨となって襲い掛かる。一瞬に、ショットガンを向けられた男、この国の軍務大臣は、頭を粉砕され、椅子ごと後ろへ吹き飛んだ。壁にべったりと血液と脳の残骸が張り付き、ゆっくりと垂れていく。
  クローナは、隣の男を見た。無表情だ。銃声の余韻が残る、奇妙な静寂の中に、複数の人間が立てる足音が、大きくなってくる。
 「来る。始末するぞ。」
 「…はい。」
 部屋の左手にある扉が、唐突に開け放たれた。リヒャルトのショットガンが、間髪入れずに火を噴く。これで薬室は両方とも空だ。真っ先に突入した勇敢な兵士が吹き飛ばされ、後ろの者を押し倒す。肉片と鮮血が舞う。灰色の制服。軍の兵士に間違いない。
 一瞬だけの瞑目を経て、クローナが走る。速い。
 「はぁあああああッ!!」
 彼女が右手に持った大剣が、高々と振り上げられる。閃光が煌めく。一瞬の静止の後には、爆発的な破壊力が、大気を裂く音と共にコンクリート壁を吹き飛ばし、兵士をまとめて叩き割る。鮮血と衝撃波、破片と轟音が宙を満たす。命を引き裂かれる悲鳴すら、割り込む事は出来ない。
 「せぇいッ!」
返し刃。扉の先に伸びる廊下、その壁が、爆発を思わせる轟音と共に破砕され、再びコンクリート片が驟雨となって辺りを打つ。
 「ふ…ん!」
一方的な攻撃が、止まらない。さらに、非常識な重さを持つ大剣が、音速を超えた突きに乗って、廊下の右側へと飛んだ。3名がまとめて串刺しにされ、赤い霧が散る。そのまま大剣ヴァンガードは左へ一気に飛び、轟音を伴って、壁のコンクリート材を吹き飛ばす。空間が破片と肉片、血液に満ちる。非人間的な力にひしがれ、さらに7人が、為す術もなく血の海に沈んだ。
 「どけッ!」
 轟音の中の一瞬の静寂を突いて、リヒャルトの大声が通った。クローナは、破壊された壁の窪みへと身を引く。
  水平連装のショットガンが2回連続で火を噴き、無数の鉛が廊下を舐め尽くした。夥しい血を撒き散らしながら、吹き飛ばされる兵士達。微かな火薬の臭いが、噴き上がる血の匂いに混ざって、鼻につく。ひしがれ、内臓をぶちまけた死体がコンクリート片と入り交じり、血染めの一帯に、もはや動くものは無い。
 「よし、戻るぞ!」
 リヒャルトの声。クローナは、一瞬だけ自分達が殺した兵士に祈りを捧げ、彼の後を付いて部屋を走り去った。部屋に侵入してからここまで、わずかに10秒強の出来事だった。
 手すりから手すりへ、安全のあも考えないやり方で、二人は一気に非常階段を下りていく。いや、飛び降りていく。得も言われぬ罪悪感に胸を痛めながら、クローナはリヒャルトの背中を追った。死体を見るのは、もう慣れた。しかし、幾ら場数を踏んでも、胸に突き刺さる後味の悪さは、まったく緩むことはない。
 リヒャルトさんは、平気なんだろうか? SSの人間なら、平気であるべきなのかも知れない。彼女は、自分が酷く浮いた存在に思えたが、しかし反面、殺人を肯定する気にもなれなかった。結局、いつもの結論に落ち着く。そう、彼等も自分も、悪人なのである。

 4人は首尾良く合流して、夜の街を駆ける。ノールが肩に銃弾を受けていたが、それ以上では無い。信号笛の音と、軍靴が石畳を蹴る音が、あちこちから彼等を追い掛ける。目の前の通りを、軍用トラックらしき物が猛スピードで通り過ぎた。
 「ひえ〜っ…。勝手に開くドアとか、何なんだよ、この国は。」
 この街で初めて自動車を見たヴェムが、そうこぼした。余裕があるのか無いのか、ハッキリしない言い方だ。まあ、彼もアガスタ圏内に来たのは初めてだけに、仕方ないと言えばその通りだ。
 いつの間にか、背後にリヒャルトが居た。
 「とっとと入れ。」
 「のわっ!? ああ、あぁあああぁぁぁぁ……!」
蓋の外されたマンホールに、彼の身体は蹴り込まれた。梯子に掴まる暇もなく、闇にその姿が吸い込まれ…、派手な水音が最後を締めた。ヴェムを蹴飛ばしたリヒャルトも、続けて梯子を下り、最後に蓋を閉めた。

 むっとする臭い。完全な闇。立ちこめる湿気。大きな下水道は、下水の流れる溝の両脇に通路を備えた、本格的な物だった。それが、唐突に現れた小さな炎の下に、ゆらりと露わになった。
 「酷い臭い…。」
 「ふん、この国の本性よ。」
 「静かにしろ。やがてここも調べられる。」
 「…だよなぁ。」
 四人は短く会話を交わしたが、それきり押し黙る。掌から浮かべた炎を、努めて小さく保ちながら、クローナが先頭を歩く。炎。人類を世界の覇者たらしめているもの。しかし、それは 「動」、すなわち、無秩序と混乱の象徴。
 …複雑な構造だ。道を間違えたら、とんでもないところに出てしまうだろう。時折、足下を得体の知れない生物が走り抜ける。不気味だ。完全に人工物で固めた蟻塚にも、招かれざる生き物が居るわけだ。その、気の置けない場所を、四人はひたすら歩いた。
 何時間過ぎただろうか。途中幾度か、捜索隊と鉢合わせそうになったが、運の尽きはもう少し先のようだ。
 「…ここだな。」
地図を照合しながら、リヒャルトは静かに言った。彼は、短くなった葉巻を、下水の流れに放り込むと、続けて言った。
 「クローナ、頼むぞ。」
 「はい。…危ないので、離れてください。」
クローナは、火を消した。たちまち、下水道はどす黒い闇に沈む。彼女の右手には、さっきと同じように、いつの間にか巨大な剣が握られていた。ゆっくりと、切っ先が動く。剣を高く振り上げる構えを取ったまま、しばし停止。…無論、闇の中では確認する術も無いが。
 「…いいですか?」
 「おー、やっちゃってOK。」
ヴェムのノーテンキな声がした暫く後、大気の裂ける鋭い音が駆け、続けて轟音が静寂を薙ぎ払った。下水道の外壁が吹き飛び、弱々しい夜の光が射し込む。次いで、涼しい夜風が、さっと下水道の臭気を払った。
 「やーった、外だよ。はぁ〜っ、服に染み込んじゃいそうだからねぇ、この臭い!」
 「へっ、臭いだけだったら、まだマシだって〜の。ったく、部下を下水に突き落とすなんて…。」
 「落ち着け。まだ終わってないぞ。」
リヒャルトがぶち抜かれた部分に立ち、下を指差した。指の差す先は、直角に切り立ってコンクリで固められ、下に線路が通っている。正面は遮る物が無い。今、彼等は山の側面に居るのだ。
 「走ってる列車に飛び移るなんて、総長が考えたんでしたか?」
 少し不満の色を見せて、ノールが言った。そう、列車にただ乗りして、山の下に降りるわけだ。
 「ああ。難しいか?」
出口に背を向け、葉巻を吹かしながら、リヒャルトは、事も無げに答えた。普通に放った言葉だが、有無を言わせぬ迫力がある。答えは無論、否である。一同、ふ〜っと溜息。このまま終われば楽な仕事だったと言えるし、そうなる可能性は高い。
 耳を澄ます。微かに聞こえる、重厚な蒸気機関の放つ音。リヒャルトは、ひょいと顔を出して、音の方を見た。螺旋状に山を登る鉄道線。まだ、列車の姿は見えない。ノール、ヴェムが続けて顔を出す。
 クローナだけが、荒く破砕された壁面に身体をもたれかけ、ぼんやりとインクを流したような空を眺めていた。下水道の中に比べれば、僅かに光を持つ夜空。つまり、雲が薄くなっているということか。クローナは、少しだけ、希望を見た気になった。
 「来たか。ノール、お前が先に行け。」
 「はい。」
 でないと、ヴェムを蹴落とすかもしれん―――自分がさっき何をしたのかを忘れて、リヒャルトはそう思っていた。が、無論口にはしない。肩に滲んだ血痕が痛々しいが、当人は気にしていないようだ。とは言え、銃創を負った人間に、走っている列車に飛び移れとは、少々酷だと言えるが…。
 リヒャルトのそんな考えにも関わらず、眼下に迫った列車に、ノールは思い切りよく跳んだ。
 「クローナ、少しの間、お別れだ。」
 「お城で会おうな。」
 「はい。気を付けてくださいね。」
 「行くぞ。」
 「おっす。」
続けて、男二人組。クローナは、三人がしっかり天井に貼り付くのを見た。そのまま、列車は彼女を残して、猛スピードで過ぎていった。
 ふぅ、と再び一息ついて、視野の外に列車が過ぎるのを眺めるクローナ。彼女は、それを確認して、おもむろに崖っぷちに腰掛けた。高山の風が、顔に気持ち良い。しばし、何も考えず、彼女は空を見上げ続けた。

 どれくらい経っただろうか。長いかも知れないし、短いかも知れない。月も見えない今日のような夜は、時計でもないと、その時間はわからない。何も言わず、クローナは、すっくと立ち上がった。そして、鼻につく臭いの立ちこめる方へ、戻る。
 おもむろに、彼女は、振り返ると、こじ開けた出口へ走った。金色の髪が真後ろになびく。速い。疾風のように駆ける。最後のひと蹴りが淵を捉え、彼女の身体は大きく宙を舞った。線路の張り出しを遙かに超えて飛び出した後、重力に従い、加速しながら、闇の底へと落ちていく。やがて前進は止まり、頭を下にして、真っ逆様になり、いよいよ速度は高い。その目は確信に満ちて、光のない地面を見つめている。
 その時、闇に吸い込まれるように小さくなっていく彼女の姿が、突然、パッと、白く、大きく弾けた。ただの墜落が、飛翔へと変わる瞬間。白い長大な翼に、夜の涼しい空気を一杯にはらませ、彼女は鉄の蟻塚を後にした。

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