灰色の空

第一章 第一話
最強なる枷

ヴェルト新暦32299年晩秋

神聖エルファト連合帝国 神都セレスト

 寒々しく、荒々しい峰。東の空が白み始めると、そこに白亜の城塞が浮かび上がる。氷河を避け、居並ぶ峰の一つにそびえ立つ、獅子の勇猛さと、大地の壮大さ、そして繊細な美をも兼ね備えた城である。しかし、塵のヴェールを被せられた、ぼんやりとした日光の下では、その本当の、あるべき姿を望むことは出来ない。もっとも、霞んだ光とは言え、ピーンと張り詰めた高山の朝の空気、その快い緊張感は、逆に強まって感じることが出来る。そう、神の現臨する地には、まったく変わらぬ厳粛な空気が、漂っているのだ。
 ―――5年前、ここからずっと北の彼方に、ひとつの隕石が落とされた。落ちたのではなく、そう、意図的に落とされたのだ。それ以来、塵は全地上をうっすらと覆い、一度として、かつての蒼空を望むことは叶わなくなっていた。太陽の恵みに見放された世界。それが緩慢な死を意味することは、皆何となく知っている。しかし、最近になってようやく塵の雲は薄らぎはじめ、光明も見えてきていた。しかしながら、既に支払った犠牲は、少ないとは言えないのだ。
 数多い城の尖塔、その中でもひときわ高い塔の屋上で、夜明けの光を見つめている者が居た。結んだ後ろ髪が、強めの風に揺れ、淡い朝日を浴びて輝く。石材に突いた手に、少しながら力が籠もっているようだ。その深い紺眼は朝日を見つめ、そして城へと視線を移した。口をキリッと結び、何か真剣に考えているようでもある。
 「クローナ、ここに居たのか。」
 「あ、リヒャルトさん。」
 不意に、背後から声がした。彼女が反射的に振り向いた先には、リヒャルトと呼ばれた大男が、階段から上半身だけを出して、立っていた。吸いかけの葉巻を手に持った、灰髪、紺眼の男。堂々とした体格と、それに相応しい戦闘的装束。その30歳前後と思われる強面。用が無ければ話し掛けたくはない相手である。
 「正式に命令が下された。5日後にセブ市の例の場所に集合だ。その後は計画通りに実行する。指揮は俺が直接執る。」
“黒い閃光”突撃隊総長であるリヒャルト・ミュンヘベルクは、手短に伝えた。
 「だから、先行して、宿の確保を頼みたい。…急ぐ必要もないが。」
 「わかりました。」
 クローナ・ティルピッツは一言そう答え、再び背を向けて遠くを見やる。その様子を見て、リヒャルトはゆっくりと彼女のそばに歩み出す。
 「怖いか。」
彼女の肩に手を乗せ、リヒャルトはそう言った。大きな、温かい手だ。その声から感情を察することは出来ないが、それは単に不器用なだけなのだろう。顔が性格を表すとは限らない事を、我々は知っている。
 「いいえ。それより…辛いです。」
 「そうか…。だが、俺ではどうにもならん。」
 「いえ、いつも言ってますけど、リヒャルトさんを恨んでるわけじゃないですから。」
微かに笑って、クローナはリヒャルトを見た。
 「そう、だったな。とにかく、命令はさっき言ったとおりだ。遅れるな。」
 「はい。」
 そう言って、リヒャルトは背を向けて階段へ向かった。事情が事情だけに、笑えない。“黒い閃光”、通称SSは、エルファト連合でも最高レベルの錬度と実力を誇る精鋭部隊。その歴史は、数々の栄誉に光り輝く反面、権力の闇の担い手でも在り続けてきた。そして、その基幹たる兵士達は、最高の質を要求される。それは、堅固な忠誠心か、何かの極めて強固な心に裏打ちされるもの。だが、例外もある。圧倒的な逸材が在り、協力を拒んだときは、どうするか。無理矢理従わせることがある。それが、クローナの場合だった。両親を人質に取り…。それでも、脅威と認識され、抹殺されるよりはマシと言える。だが、そんな事実など、彼女にとって、何の慰めにもならないのである。抗いがたい境遇の中で、あくまでも普通の、殺人などとは無縁の生き方に在りたいと思う彼女のその姿を、着任して初めて見たとき、リヒャルトは、この上ない痛々しさを、罪悪感を感じたものだ。
 「厄介な問題だ。」
 彼は、そう独り言を言った。振り向く。彼の心配するクローナの後ろ姿は、先程と同様、何か遠くを見つめているようだった。

 「ん、先客が居たか。」
 階段の下から、低めではあるが女性のものとわかる声がした。振り向くリヒャルト。その顔が、一瞬だけ驚きの色を見せるが、すぐに落ち着く。
 「大公。こんな時間に、どうした?」
 「それは私のセリフだ。…いや、朝の空気を浴びようかと思ったんだが。」
 石造りの階段に足音を鳴らしながら、その人物は上がってくる。身長、体格、髪型から、目の色まで、クローナと殆ど違わない。リヒャルトが驚くのも無理はない。だが、少しよく見てみれば、派手さは無くも高貴さを感じさせる白い服装の他に、その自信に溢れた、鋭い、精悍な顔立ちは、まったく異なっているのがわかるだろう。鼻筋、目、眉のラインなど、流麗な中にも、刃の鋭さを感じさせる。サウスエルファト大公国の領主を勤める彼女は、リヒャルトの横に立つと、言った。
 「…寒いな。それに空気が薄い。」
 「当たり前だ。」
 心持ち身をすくめる女性――ブルンヒルデ・ハーラー大公に対して、リヒャルトは少し呆れるように言った。高度7000mにある帝城。寒いのも、空気が薄いのも、当たり前なのは確かだ。それに、南極圏に生まれ育ったブルンヒルデにしてみれば、寒さはどうということもないはずなのだが。
 「言ってみただけだ。…ああ、あの娘か。」
 軽くその話題をいなして、大公は、塔の屋上でどこか遠くを見ているクローナの事へ、話を振った。
 「ん…、ああ。」
 「…その様子だと、相変わらず調子は良くないな?」
歯切れの悪いリヒャルトの言葉に、大公は問題の未解決を悟った。
 「まあな。どうにかなるなら、とっくにそうしている。言ったところで、上は聞かんさ。」
新たな葉巻に火を付けながら、彼は、遠くを見るような目で語った。
 「上司を辿った先が、あの馬鹿皇帝では、そうもなろうか。」
 「おい、口を慎め。」
 僅かに表情を厳しくして咎めるリヒャルトの言葉に、ハ、ハ、ハと、大公は笑った。さすがに危険人物か。
 …しかし、そもそも、SS構成員が、平和な老後なんて送れるのか。彼は考えてみたが、それ自体からして、難しい課題だったように思える。突撃隊総長に任命されてからこの方、ついぞOBというやつに会ったことがない。聞いたことは無いが、すべて抹殺される、あるいは、人知れず軟禁状態に置かれるのか。望んで入る連中はともかく、クローナに課すには、あまりにも残酷な運命ではないか。無論、確証は無いが…。
 「何にせよ、同情に値する話だ。まあ、私の立場からでは、どうにもならないが。」
 壁にもたれ掛かりながら、大公は言った。一国の領主という立場。変に介入して、中央の不興を買っても面白くない。
 「安心しろ。誰もあんたに期待などしちゃいない。」
その一国の領主に対して、皮肉たっぷりの言葉を吐くリヒャルト。だからといって、彼にも妙案があるわけではない。
 「ふ、生意気な態度だな。」
一瞬だけ笑みを浮かべ、しかし、大公は軽く受け流した。
 「話してきても良いか?」
 そして、話題の中心人物へと、視線を移す。自分とよく似た後ろ姿。
 「構わんぞ。ただ、変なことは言ってくれるな。」
 「本当に生意気な奴だ。安心しろ。」
今度は声を上げて笑い、大公は再び足を進めた。

 「誰もが悩みを抱えているが、お前の場合は同情に値する。」
 あまりにも唐突な一言に、クローナは驚いて振り向き、うろたえるように後ずさった。
 「どうした? 何を狼狽している?」
 「あ、いえ…。あの…。」
まあ、驚くだろうな、と思いながら、意地悪にも気付かないふりをする大公と、ますます困るクローナ。
 「え…と、おはようございます。」
そして出た一言が、それだった。ブルンヒルデ大公は、つい笑い出してしまう。顔を真っ赤にして、ますます慌てるクローナ。
 「ハハハ…。おはよう、そんなにうろたえなくて良い。」
可愛い奴だ、と言いたいのを我慢して、大公はクローナの肩に手を乗せ、ゆっくりとそう言った。
 「はぁ…、それで、何なんですか…?」
 ようやく、落ち着きを取り戻すクローナ。
 「いや、朝の空気を浴びようと思ってな。お前もか。」
慣れた口調。ブルンヒルデは、SS内には割と知り合いが多い。リヒャルトともそうだが、クローナともそうだ。
 「いえ、あ、まあ…。」
 「ふふふ、両親のことを考えていたのであろう?」
歯切れの悪い答えを、見透かすかのように、大公は言い切った。
 「…わかりますか?」
 「顔に書いてある。」
10歳以上歳の離れたクローナを狼狽させるような事を口走る大公。しかし、クローナは耐えた。
 「またそういう事を…。私をからかって、そんなに楽しいんですか。」
 「お前が楽しい反応を見せるからだ。」
 「〜〜っ!」
即答。複雑な表情を浮かべ、しかし無言で、大公を睨むクローナ。吹き出したくなるのを我慢するブルンヒルデ。
 「まあ、何だ。笑い事ではないな。」
 「…笑ったのは誰ですか。」
 「私だ。いや、済まない。」
 会話が途切れる。二人は連れだって、朝日を眺めた。弱くとも神々しい光が、峻険な峰に満ちる。クローナは、隣の人物を見た。力強く、自信溢れる表情。この城においては、武力も権力も、決して強いとは言い難い立場にも関わらず、山の向こうまで我が支配下にある、とでも言わんばかりの不敵な表情。強くなりたい、それも、剣を振り回す強さではなく…、そう、クローナは思った。

 「私には娘が居る。」
 唐突に、ブルンヒルデ大公は言った。
 「弟さんも居ましたよね?」
 「弟? あんな愚弟は、放っておけばいい。」
 「またそういう事を…。」
度重なる暴言に、再び眉をひそめるクローナ。
 「いや、実際な。私が何か言って、言うことを聞くような男でもなければ、そういう年齢でもないだろう。」
 「ああ、まあ、そういう意味ですか。」
そういう意味なんだ、とばかりに、ブルンヒルデは頷いた。
 「私の弟の事なんて、いいんだ。ただ、親としてはな、今のお前のようにな、想ってもらえれば、本望だということだ。」
大公はクローナを見ながら、軽く口元に笑みを浮かべて、そう言った。
 「でも、監禁なんて、嬉しくありません。」
 「まったくだ。ただ、な。親が思うのは、いつでも子の幸せだ。お前さえ良ければ良い。あまり思い詰めるな。大体、あれこれ悩んでどん詰まりで考え付いたことなど、ろくな答えにはならん。まず、楽にすることだ。」
 「無理ですよ、そんなの…。」
 「そうか。そうだな。ならば、感情を抜きにして、どうすればいいのか本当に考え、実行することだな。楽ではない話だ。」
 クローナは押し黙ってしまう。厳しい現実だ。結局、それから逃れることは出来ない。
 「そうか…、言葉だけでは、どうにもならんか。だが、現状維持なら、差し当たって大丈夫だ。それは言えるだろう。」
 「そう、ですけど…。」
 「うん、時間はある。ゆっくり考えるんだ。私は何もしてやれないが、な。」
 とは言っても、17歳の少女には、厳しすぎる。慰めになってないな、と心中舌打ちしながら、大公は思った。同時に、自分は、なぜそんなお節介を焼くのか、とも思う。クローナの場合、かなりの抵抗を自前の武力で排除するだけの能力を持っていて、つまりまだ最悪とは言い難い。もっと他にも同情すべき事なら、ごろごろしているのに。
 「え、と。任務なんですが、そろそろお暇して良いでしょうか?」
 「ああ、頑張れ。」
…まあ、理屈ではない。ブルンヒルデは、そう納得した。
 「ありがとうございました。では。」
 そう言い、クローナは、軽やかな動きで、胸の下くらいの高さまで積まれた石の壁に、駆け上った。そして、ブルンヒルデの目の前で、迷うこともなく、そこから跳んだ。大公が見下ろしたとき、クローナは背に白い翼を広げ、城の一角へと飛び去っていくところだった。朝日に翼が煌めく。
 「囚われの鳥か。大変だな。」
 「まったくだ。」
残されたブルンヒルデとリヒャルトは、そう言い交わした。

ツェール公国 セブ市

 その日の午後には、クローナの姿は、帝城から遙か離れた大陸の東岸、セブ市にあった。1000km近くを半日で翔破する強行軍。徒歩は勿論、馬でもまったく相手にならないその移動能力が、彼女の実力が高く評価される一つの理由でもある。川も、山も、関所も、要塞も、地上のすべてを無視して、神出鬼没なのである。
 「…。」
 古くなった木目が落ち着いたたたずまいを見せるが、高級などとは言えない部屋。柱時計が、ひたすらに時を刻む音。今頃は、皆急いでこちらに向かっているのだろう。しかし、彼女にとっては、遅すぎる。ベッドに座ったまま、窓から空を見る。霞んだ灰色の空。眺めていると、つくづく、澄み渡った空を飛びたいと思う。
 空がこんなになって、5年。思えば、それが凶兆だったのだろうか。黒い雨が降り、陽は夏といえども弱々しく、木や作物は立ちながらに枯れゆき、夥しい死が、地を、海を染めゆく。この街も、訪れるたびに廃墟が浸食していっている。唯一つの戦争、その唯一つの手段が、このような結果をもたらしたのだ。人とは一体、何という生き物なのであろうか。
 「はぁ…。」
 そのまま、彼女はベッドに寝転がった。このままだったら、寝てしまうだろう。なんて時間の無駄。クローナはそう思ったが、さりとてするべき事があるわけでもない。勿論、両親のことは今までの3年間同様、この一瞬とて頭を離れることは無いが、と言って何か出来るわけでもない。そもそも、なんで5日先の合流なのに、今日来てしまったのか。わからない。壁と同じく、歴史に刻まれ、黒ずんだ木の天井。薄暗い部屋。鬱だ。
 日記など付けてみたが、そんな物では、一時間も保てば良いようなもの。さすがに疲れもあったのだろう、いつの間にか眠りこけてしまい、気付いたときには、辺りは暗くなっていた。
 「あぁ、勿体ない。」
 起こした上体を、再び布団に沈めて、クローナは思わずそう口にした。途端に、空腹が自己主張を始める。時計の音に混じって、よく響くお腹の音。彼女はもそもそと起き出し、部屋の鍵を持って、出る。1000km強行軍もあって、いつにも増して強い食欲を、満たさんがために。
 外に出ると、先の大戦が、如何に愚行であったかを、改めて思い知らされる。血のように染まった空。同じく朱に染め上げられた街。行き交う人々も、建物も、山や、森までも、血塗れと見紛うばかり、地獄と思われんばかりだ。塵を通した夕陽が、この有様を演出する。毎日見ていることだが、改めて、呪われた光景だと思う。
 「どうして、こんな世界になっちゃんたんだろう…。」
 石畳の上で立ち止まり、彼女は、ふと、そう口にした。 
「滅び」
自然に頭に浮かんだその言葉を振り払おうと、彼女は目を瞑った。すると、瞼に、剣を構えた自分が見えてくる。何か言いたげに、しかし、口を結んだまま、向かってくる。そして、おもむろに剣を振り上げ…。クローナは、そこで目を開いた。真紅に染められた世界が、視野に戻ってくる。
 「どうして…?」
自分の手、震える掌を見ると、やはり赤い。悪寒から、汗ばんでくるのを知る。突然、彼女は頭を振って、逃げるように、向かいの建物へと走った。

 宿の向かいにあるレストラン。まあ、宿の一部なのだが。
 「おっ、可愛いお嬢ちゃんだね。食事か? ワシもそうなんだが、一緒に食わんか?」
 「えっ…。」
 そこに入って少し落ち着こうとしていたクローナは、唐突に声を掛けられた。まだ、胸がどきどきする。声の方を振り向くと、車輪付の椅子(つまり車椅子だ)に腰掛けた老人が、生き生きとした眼で、彼女を見ていた。何となく危険な匂いがするが、気のせいだろうか。
 「ああ…、まあ…、いいですけど。」
年寄りが良からぬ事は思い付くまい、と考え、答えるクローナ。老人は、にっこりと笑った。
 「うん、素晴らしい! ワシのことはウィリーと呼んでくれ。警戒せんで良いよ。怪しい者だけど。」
 「あ、怪しいんですかっ?」
意外な答えに、素っ頓狂な声を上げるクローナ。客の視線が、一斉に彼女に降りかかる。作り笑いで誤魔化す。
 「うむ。怪しいだろうな、うむ。ま、何にしても大丈夫なんだよ。取って食ったりしないから、な?」
 「はあ…。」
 何だか変な奴に捕まってしまった、と少しだけ後悔するクローナ。目で見る印象では、ワルモノには見えないが、しかし17歳の自分が人を見る目など、あまり当てにはならないだろう事も、自覚していた。まあ、何とかなるだろう。彼女はいい加減に納得した。
 「何にするんだ? 話してないで、さっさと注文してくれないか?」
 二人の背後から、突然男の声。振り返ると、腕組みをした、背の高い、ごつい姿があった。肝の据わり具合は、店長か、料理長か。
 「おー、悪いね〜。何が出来る? オススメとか、あるかな?」
クローナが口を挟む隙も与えず、ウィリーと名乗った年寄りは、軽快に言った。
 「そうだな…。うん、二人なら、“クラスB”が良いだろう。」
 「何ですか、それ。」
 「ああ、まあ…、簡単に言うと、羊の肉主体の、セット物か。ちょっと脂っこい感じでな…。」
 「幾らだ?」
 「2200。」
前に来たときより、随分と値が上がっていることを、クローナは知った。
 「ほぅ。で、幾らに負かる?」
 「はっ、値切るのは味わった後にしな。…最近、肉料理はあんまり出せないんだ。その分、丁寧に料理してるんだぞ?」
ニヤリと、店員は不敵な笑みを浮かべ、自分の厚い胸を叩いて見せた。
 「にゃるほろ。じゃあ、それで…お嬢ちゃんは、良いかな?」
 「はい。クローナです。」
 「よし。じゃあ、それな。あと、白ワインを2本頼む。」
 「わかった。その席で待ってろ。」
そこまで言って、店員はくるりと背を向け、厨房へ去っていった。良い態度とは言えないが、しかしそれは偏見である。ヴェルトの多くの地域では、これが普通なのだ。
 待つことしばし。
 「格好いいなあ…。」
突然、クローナは、溜息を漏らすように、言った。
 「ワシか?」
 「いいえ、さっきの料理人の人です。」
 「なんじゃ、つまらん。」
ウィリーは露骨に舌打ちした。存外子供っぽい反応に、苦笑いを見せるクローナ。
 「で、どんなトコが格好いいんだ?」
愛用の車椅子に身を沈めて、彼は聞いた。今後の参考に。
 「顔なんかも良いですけど、やっぱり、あの、自分の仕事に自信のあるところ、ですね〜。」
どことなく嬉しそうに、彼女は言った。ただ、一目惚れとかいうには程遠いようだ。
 「自信ならワシもあるぞ。その…、いや、デカイ事してきたから。」
何を対抗してるんだ、と思いながらも、ウィリーはそう口走っていた。
 「大きいこと?」
 「デカイ仕事だ。敵国に潜入して、その親玉を倒す。」
しばらく沈黙。
 「それ、犯罪じゃないですか…?」
心配げなクローナの口から漏れたのは、そういう言葉だった。がくっとうなだれるウィリー。言った方のクローナも、当の自分が、似たようなことをしに行くところだから、笑えない。頭を上げたウィリーは、目を見開いて、大きな声を出した。
 「人聞きの悪い事を言うな! …ま、失敗したんじゃけど。」
 「あ…、そうなんですか。じゃあ、軍人だったんですか?」
 「…まあ、今は違うけど、そんなようなモンだよ。」
説明すると長くなりそうだったので、彼は言わないことにした。ふ〜ん、と相槌を打つクローナ。
 「それで、今は何を?」
 「ん? ああ、今はね…。」
 出された水を飲んでから、ウィリーこと、ウィリアム・ブラックバーンは語り始めた。
 「まあ、好き勝手に放浪しながら、楽しんでるよ。弟子とな。」
…語るというほど、長くなかったわけだが。へぇ、とクローナは声を上げた。
 「自由…ですか。羨ましいですね。」
心の底から、彼女はそう思う。頬に手を当てる仕草が可愛いな、などと思いながら、ウィリーは、答えた。
 「まあ…、な。ただ、世界のこの荒れ様は、あんまり良いもんじゃないなぁ…。」
何度か頷きつつ、クローナの俯き。
 「はい、お待たせさん。」
 ちょっと気まずくなったところへ、さっきの料理人が、自信作を運んできた。たちまち、机の殆ど全体を、料理が覆い尽くす。火を使った証拠の暖かみが、肉料理特有のうまみを運んでくる。
 火…、世界を二分する要素、 「動」の象徴。すなわち、無秩序と、混沌と、破壊の象徴。忌むべき物。しかし、温かい食べ物を前にして、そのような思想は疑いたくもなる。…この、賑わう店も、訪れるたびに人は減っている。それを値上げだけのせいだと考えることは、ナンセンスだ。衰えゆく命。 「動」、忌むべき物とされる一方で、それは、活力の根源でもある。今は、それが大切ではないのか。皆、教会の言葉を信じているのだろうか。クローナは、そう思った。
 「よ〜し…、せいぜい試させてもらおうか。」
 「試すなんて言わず、素直にいただきましょう。」
すぐさま興味を食事へと向ける二人。
 「ハハハ。残すのも困るが、食い過ぎて太るのも良くないな。…特にお嬢ちゃんの方。ま、たっぷり楽しんでくれ!」
クローナを指差して、ニヤリと笑い、男は言った。明るく笑い返すクローナと、妙な表情でそのやりとりを見守るウィリー。
 「妬ける〜。納得いかんぞ〜。」
 「あれ…、そんなんじゃないですよぉ。」
 60歳も年上の人間に言われても、普通は困るのである。クローナも、当然その普通の範疇に入っているのである。何にせよ、今最も重大な関心事は、食欲をそそる匂い。見る見るうちに、緊張感が漲る。二人は、鋭い視線を互いに交錯させた。
 「…メシじゃ。」
 「いただきます。」
 話題は自然に切れて、二人は黙々と食事に取りかかった。そう、黙々と。会話などは無い。食事とは戦いなのである。仁義無き争奪戦なのである。そのような環境で、二人とも育ってきたのである。

 「ごちそうさま。」
 「んんむ、意外と早食いだな。」
 「…何か言いたそうですね。」
 「いや、別に。はっは〜、予想より満足だぞ。」
ガクーッと車椅子に背中をもたれさせ、ウィリーは言った。迂闊な一言を。
 「そうか、予想より満足したか。結構結構。じゃあ、2200だな。」
 「うぐっ…。」
詰まるウィリー。
 「こういう場合、ウィリーの奢りですよね〜?」
 「う、何ぃ!?」
 酒が入って、緊張の取れたクローナの一言が、さらに追い討ちをかけてくる。彼は、考えた。まず、現状を認識すれば、自分が無一文であることに思い当たる。お約束だ。出口までは、目の前のコーナーを曲がって、その先右に曲がって、あとは一直線。扉は大きく開け放たれており、止まる必要は無い。店は賑わっているが、超満員というわけではないから、全速で突っ走ることが可能である。
 上体をピシッと伸ばして、ニヤリ、と彼は不敵な笑みを浮かべた。最終手段の行使が、可能であると判断したのだ。
 「少女よ!」
 「クローナです。」
ビシッと自分を指差す車椅子の年寄りに、クローナは即座に答えた。
 「クローナよ、お前は、イイ! また会いたいゾ! さらばだ!」
謎のセリフに面食らう二人を後目に、彼は黄金の手さばきで、車椅子を発進させた。完全に無駄を削ぎ落とした、究極の技。車椅子はロケットのように加速しながら、車輪を滑らせつつ、通路に出た。さらに、矢のようなスピードで、エントランスをくぐり抜けたのである。後には、僅かに巻き上げられた埃が、その存在を示唆するのみ。
 「あ、あの…。アレ、どうしてくれましょう…?」
 「いや…。あ、それは…勿論…、待てクソジジィ! 金払えぇーーーーッ!!」
手に持つ大鉈を妖しく煌めかせ、無駄のないライン取りで、エントランスをくぐり抜ける者が、再びあった。呆然と、それを見るばかりのクローナ。最早、誰も彼女を注目しない。
 「…このまま戻っちゃおう。」
 酒に酔った勢いか、はたまた本性か、彼女は、にた、と笑って、その言葉を実行に移したのだった。しかしながら、翌日の朝には、再びここを訪れることになるのである。そう、今日のこの夜のことなど、酒のためにすっかり忘れて。

 それから5日間、何となく時間を潰した後、クローナはチームと合流し、南大陸へと海路渉った。いつもと同じ、憂鬱な任務の始まりである。

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