第29章「邪心戦争」
AW.「魔獣の王(7)」
main character:エアリィ
location:ファブール
魔獣の王に、アスラが闘気の剣で立ち向かっている頃―――
「ヤン、大丈夫ッ!?」
―――エアリィはヤンの元へたどり着いていた。
強大すぎる魔獣の王の力を目の当たりにし、心砕かれていたヤンは愛しい恋人の顔を見るなり「ハッ!? 私は今まで何を!?」とか正気に戻る――――――予定だったのだが。「あー・・・・・・あー・・・・・・あー・・・・・・」
膝を突き、かくんと顎を上げ、目を見開いたまま、まるで赤子のように意味のない声を上げている。
その目はうつろで何も映しては折らず、間抜けに開けられた口からは涎を垂らしていた。「ちょ、ちょっとヤン? 本当に大丈夫っていうかなんかヘンな人みたいよ!?」
若干、ヒきながらエアリィは恋人へと声をかける―――が、ヤンは聞こえて居ないかのように、ただ呻き声を上げるだけだ。
「え、ええと・・・」
どうしよう予定が違うわ!? と、エアリィは困惑しつつも、彼の頭の上に乗ってぺしぺしとその額を叩いてみる。
「ほーら、ヤンったら。貴方の可愛い可愛いエアリィちゃんよ? ここは愛の奇跡とか起きて目を覚ますとこでしょー!」
「あー・・・」
「 “あー” じゃなくって! もう!」エアリィはヤンの頭から飛び上がり、憤慨したように腰に手を当てる。
少し離れた場所では、アスラがベヒーモスに立ち向かっているが、どうにも苦戦しているようだった。このままでは遠からずアスラは倒され、次はこちらに襲いかかってくるだろう。「・・・もしかして結構ヤバい?」
脳天気な妖精は今になってようやく少しだけそう思った。
まあいざとなれば飛んで逃げればいいかなーとか思うが、人間であるヤンはそうもいかない。とりあえずアスラが耐えている内に、避難させたいが、この有様ではどうしようもない。どーしたもんかなあ、とか大して深刻でもなさそうに悩んでいるところに、そよ風が吹いた。
その風の “囁き” にエアリィの表情が真剣なものとなる。「ホーリンがこっち向かってるぅー!?」
山のような魔獣の王よりも、それに精神を壊されたヤンよりも。
何よりも危機感を抱き、エアリィは絶叫する。「ま・・・まずいわっ! またホーリンの愛の一撃でヤンが正気に戻っちゃったりしたら、恋人としての私の立場がー!」
とりあえず彼女の一番重要なポイントはそれらしかった。
エアリィはヤンの真っ正面に浮かぶと、その小さな足を思いっきり振り上げて―――「目を覚ましてーーーーーー!」
―――回し蹴り。
だが、ヤンの頭程度の大きさしかないエアリィの蹴りでは、大した衝撃も与えられない。軽くヤンの頭が傾いだ程度だった。当然、正気に戻る気配もない。「ぬあーーーーー! このままじゃまたホーリンのフライパンが光って唸って轟き叫んじゃう―――え? なに? 今、持ってるのはフライパンじゃなくて包丁?」
風に囁かれた情報に、エアリィは少々動きを止めて黙考。
やがて一つの結論に達する。「―――ヤンが殺される!?」
なんでだ。
―――という、ツッコミを入れてくれる者はこの場には居なかった。
なのでエアリィの妄想、というか暴走は止まらずに、ヤンの顔にすがりつくように抱きついた。「ヤン、ヤン、早く目を覚ましてー! フライパンで叩かれても死んだりしないけど、包丁で刺されたら死んじゃうのよーーー!?」
フライパンで叩かれても、当たり所が悪ければ死にます。
ぺちぺちぺち、とエアリィがヤンの頬を何度も叩くが、全く効果はない。
相も変わらず「あー・・・」と呻いて放心しているだけだ。「もー、ていうかなんでそんな風に寝惚けてるのよー! あーんなちょっと大きいくらいの魔獣に負けたからって、そこまでショックを受けることないじゃない!」
根本的に脳天気な性格だからなのか、エアリィはまるでベヒーモスの恐ろしさを理解していなかった。
彼女にとってはヤンを一発で正気に戻す(かもしれない)ホーリンの方がよっぽど驚異らしい。「・・・あ、そっか。ヤンはあんな奴に負けちゃったから放心してるのよねー。だったら話は簡単じゃない」
なにやら思いついたのか、エアリィは「きゃははははっ!」と愉快そうにはしゃぐ。
「つまり、ヤンがあいつに勝てるくらい強くなればいいわけよ。そうすれば惚ける必要もなくなるじゃない」
誰に言うともなしに、エアリィはヤンの口元へと身体を寄せる。
妖精の頭など一口に出来そうな大きな口だ。「あたしの力を全部あげる。そしたら絶対にあんなやつにだって勝てるから!」
だから目を覚まして、とエアリィはヤンの下唇に口付けた―――
******
最初から分かり切っていた事だった。
「はあ・・・っ、はあ・・・っ、はあ・・・っ」
荒く息を切らせ、アスラは目の前にそびえる魔獣を睨み上げる。
手にした闘気の刀はすでに10本目を越える。普通の鉄ならば容易く斬り裂く程の切れ味があるはずだが、この魔獣に対して斬れるのはせいぜい薄皮程度。骨を断つどころか、肉を裂くことすら出来なかった。
それどころか、一撃振るうたびに闘気の刃は砕かれ、新しく作り直す必要がある。打撃よりかは有効だが、0か1かの差でしかない。
あと百万回斬りつけたとしても、ダメージらしいダメージを与えることは不可能だろう。最初から分かり切っていた事だった。
勝ち目が無いことなど、分かり切っていたはずだった。それでも戦っている内に、なにか活路が見いだせるのではないかと淡い期待をしていた。
幻獣よりも脆弱な人間であるガストラの女将軍に幻想を抱いてしまったせいもあるかもしれない。
(・・・退くしか、ありませんね)
心が折れたわけではないし、まだ戦える余力はある。
だが、これ以上戦っても倒すことは出来ないと、アスラは理解する。ならば余力在るうちに退くべきだと、彼女は判断した。今、アスラとベヒーモスは違いに静止し、睨み合っている状態だった。
魔獣の王は、この期に及んでもアスラに対して警戒を解いていない。力の差は歴然としているのに、アスラが油断ならぬ存在だと理解しているようだった。
もしも魔獣がアスラを舐めて、警戒することなく連続攻撃を仕掛けていれば、すでにアスラは終わっていたかも知れない。だが逆に、ずさんな攻撃の隙を突いて、活路を見いだしていたかもしれない。ベヒーモスは極力隙を見せず、だが確実にアスラを追いつめている。
今も、アスラの “気配” が変化したのを嗅ぎ取って、彼女の次なる手に対応するべく様子を伺っているのだ。(先に動けばやられる・・・!)
なりふり構わず背を向けて逃げだとして、そうなれば魔獣は即座に反応してアスラを叩き潰すだろう。
攻撃させた隙に逃げるのが適切だとアスラは判断する。(・・・・・・・・・仕方ありませんからね)
アスラが逃げてしまえば、ベヒーモスに対抗出来る者はこの場には居ない。
確実に、ヤンを含めたこの場のモンク僧は全滅するだろうし、ファブールの城も跡形も無く破壊されてしまうだろう。(私は出来うる限りの事をしました)
自分に言い聞かせるように呟く。
アスラがいなければ、すでにこの場は終わっていたはずだ。今まで保たせただけでも十分すぎるほど、力を尽くしたと言える。(でも―――)
不意に。
脳裏に在りし日の光景がフラッシュバックする―――
******
かつて、目の前の魔獣の同種と二度目に遭遇した時の光景。
あの時の魔獣は、今のものよりも半分以下の大きさでしかなかったが、それでも当時人間だった頃の彼女は手も足も出なかった。
半身を噛み千切られ、長い間彼女の相棒であった妖刀も粉々に砕かれていた。その魔獣は以前にも遭遇したことがあり、彼女の仲間の仇でもあった。
最初に遭遇した時よりも彼女は遙かに強くなっていたが、それでも魔獣の足下にも及ばなかった。(無念・・・!)
倒れたまま身動きひとつ出来ない彼女はそう思うことしかできなかった。
右腕から肩にかけてはすでに魔獣の腹の中であり、右足は完全に砕けてしまっている。もう片方の足は辛うじて原形を留めているものの、歪に折れ曲がっていて動かすことすら不可能だった。左腕は無事だが、その手に握られている妖刀・村正は根本から砕け散って柄だけだ。もっとも、例え刀が無事だったとしても、彼女には既に戦う術は残されていなかったが。
腹は抉られ、倒れている彼女自身は見ることは出来なかったが、肺腑が外に覗いている。五体でまともなのは、左腕と頭だけだった。
すでに死んでいてもおかしくない―――むしろ死んでいなければおかしい状態だが、どうして生き存えているのか彼女自身にも解らない。かつて失った仲間達の怨念がそうさせているのか、それともとっくに死んでいて、今自分が体感しているのは末期の夢か。
「GUUUUUUUUU・・・・・・」
かすれた視界の中で魔獣が迫ってくる。
すでに勝利を確信しているのだろう。速くもなく遅くもなく、四足の余裕ぶった足取りで近づいてくる。すでに彼女は諦めていた。
後は魔獣に食われるだけだ―――が、それでも彼女は魔獣を見返すことを止めなかった。
せめて死ぬ直前まで、憎き獣の姿を目に映しておこうと―――もしも生まれ変わることがあるのなら、その姿を覚えていて今度こそ滅ぼしてやろうと強く思って、ただ睨む。そんな彼女の視線に気がついたのだろう。
魔獣は一変して不機嫌そうに唸ると、一気に飛びかかろうと身を低くして―――
風神脚
突然、突風が獣を吹き飛ばした―――ように彼女には見えた。
だが、それは見間違いだ。
魔獣を吹き飛ばしたのは人だった。それも、髪と髭を白く染めた初老の男。その男は道着姿であり、彼女はそれに見覚えがあった。(・・・モンク?)
北の方で何度か見かけた事のある修行僧と同じ姿だった。
彼らは武器を用いず、鍛え上げた肉体だけで魔物と戦っている―――彼女からしたら、馬鹿げた連中だった。サムライである彼女も無手の技を幾つか知っている。だが、それは刀が無い時の手段であり、あくまでも戦闘とは武器を持って行うものだ。しかし武器を持たぬその一撃は、不意打ちとはいえ彼女が歯が立たなかった魔獣を、いとも容易く吹き飛ばした。そのことに彼女は驚嘆し、そこで限界が訪れる。
(あ・・・)
意識が薄れ、視界が薄れていく。
消えゆく視界の中で、最後にモンク僧は体勢を立て直し、飛び掛かってくる魔獣に対して拳を突きだし――――――そこで彼女の記憶は途切れる。
その後、彼女は奇跡的に一命を取り留め、その時に命を助けて貰ったモンク僧を師と仰ぎ、刀とそれまで持っていた名前を捨てて、新たに “アスラ” と名乗り、自らもモンク僧となった。
そして師匠と共に修行に明け暮れ、やがて同じモンク僧を集めて “ファブール” という国を作ることになる。国を興した後、高齢だった師は逝去され、アスラ自身も国を離れた。
それは仲間と、それからかつてサムライだった自分の “仇” である魔獣を倒す為だ。彼女の師も、あの魔獣を退けることはできたが倒すまでには至らなかったのだ。結局、彼女はその後にもう一度だけ魔獣と戦う機会を得るが、撃退するのが精一杯で倒すことは敵わなかった―――
******
「―――!」
気がついた時にはもう遅かった。
目の前に魔獣の腕が迫る。(しまっ―――)
腕はアスラの身体を打ち倒し、吹き飛ばす。
物思いに耽っていたのは数秒もないだろう―――が、戦いの中では実に致命的であった。そしてその隙を魔獣が見逃すはずもない。「―――がッ」
地面に叩き付けられ、バウンドし、何度か転がってやがて止まる。
幻獣である彼女はそう簡単に意識を失うことはない。だからすぐに起き上がり、敵の姿を確認する―――「―――あ」
口から漏れたのは絶望的な呟きだった。
すでに魔獣は目の前に在る。腕を振り上げ、それがこちらに迫ろうとしている。―――先の隙は致命的すぎた。
こちらが体勢を立て直すよりも早く魔獣の追撃が来る。
それは威力よりも速度重視の動きだ。
その一撃で再びアスラの身体は突風に弄ばれる木の葉の如く吹き飛んだ。吹き飛ばされながら、アスラは魔獣の考えを理解する。
受け身を取る余裕も無く地面に叩き付けられ、ダメージを堪えながら起きあがった時には、すでに目の前に魔獣の姿があり、次なる一撃が迫っている。
魔獣はアスラに何もさせないまま、なぶり殺しにする気だ―――そして解っていても、それを防ぐ手段はない。
(ここで、終わり―――)
アスラの心が折れた。
このままなぶり殺される以外の未来が見えず、完全に諦めたその時。「・・・・・・!」
何故か、魔獣の動きが止まった。
「え・・・?」
体勢を立て直すチャンスだったが、アスラは魔獣の行動が理解出来ず、思わず自身も硬直する。
だが、魔獣はアスラではなく、あらぬ方向を振り向く。彼女も釣られてそちらに目を向けようとしたその瞬間―――
風神脚
“突風” が魔獣を揺り動かす。
それはかつての再現か。
それとも、先程の物思いはこれを予感してのことだったのか。
そう思わずにはいられないほど、あの時の光景と今が重なる。「師匠―――?」
思わず呟いてしまった視線の先、魔獣に蹴りを放った後、目の前に着地したのは、もちろん既に失われたはずの彼女の師ではない。
「アスラ殿、無事かっ!」
「え・・・ヤン・・・なの?」こちらを振り向いたその顔は確かにヤンだった。
だが、彼女が思わず疑問詞として名を呼んだのは、その頭のせいだった。「どうして髪の毛が・・・!?」
「どうしてそこに驚くのだッ!?」驚愕に目を見開くアスラの視線の先。
いつもは僅かな髪の毛を寄り集められて編まれた弁髪一本だったヤンの頭が、今やどういうわけかふさふさとした青髪で覆われていた。オールバックで、しかも長く彼の腰程まで伸びている。(・・・正直、全ッ然似合いませんね・・・!)
一瞬、状況も忘れてアスラは戦慄に身を震わせる。
それほどまでに、ヤンの青い髪は似合っていなかった。「・・・なにか、失礼なことを考えておらんか?」
「いえ別に」
「・・・まあいい」ヤンは敵の方を振り返る。
先程の一撃は致命傷にはならなかったものの、魔獣の巨体を揺るがすほどの強烈な一撃だった。アスラが放った必殺技に匹敵するほどの威力。その威力を受け、魔獣は新たに出現した “強敵” を警戒しているようだった。
「ここから先は私がヤツの相手を務める。アスラ殿は、その間ゆっくりと休んでいるが良い」
「貴方、まさか・・・!」ヤンの言葉の意味に気がついて、アスラは息を呑む。
「・・・行くぞ魔獣の王よッ! 風の加護を受けたる我が一撃を受けるがいいッ!」
彼女が何かを言う前に、ヤンは地面を蹴り、ベヒーモスへ向けて蹴りを放つ―――