東側切妻の場面中央の像はこの聖域の主人であるゼウスです。その大きさ(保存された高さは2.91m)はすべての他の像を威圧しています。彼の右に立つのはオイノマオスと彼の妻ステロペ。彼の左にはペロプスとヒッポダメイア。次にくるのは二人の競技者の四頭だけの馬車。最初のひざまずく人物はミロティロスとヒッポダメイアの女性召使いであり、もう二人の跪く人物はオリンピアの高貴な家族、ラミディアとクリティアデス、の見物人です。特に興味があるのは、年老いた見物人で、その手は顔まで上げられていて、彼がこれから起るであろう悲劇を予見していることを示しています。これは彫刻に於ける最初のSevere Style厳格様式であって、個人の特徴を表現しており、一般的にこの時代の様式を代表する理想化された人物と対比するものです。切妻壁の二つのコーナーには二つの腹ばいの人物がありますが、これはオリンピアの神話上の河、アルフェイオス河とクラデオス河、を擬人化しているのです。パロス島大理石によって作られたこの記念碑的な作品は、未知のしかし偉大な彫刻家の作品であるが、中味が充実しており、いまや起ろうとしている事件の前の人物から放散される静かな悲劇性によって際立っている。

パイオニオスのニケ

 ゼウス神殿の東南側に三角柱が立っていて、この上に飾られていたのが、「パイオニオスのニケ」です。有翼勝利像ですからもともとは背中に翼がついていたのですが、これがなくても美しい。

ゼウス神殿の東切妻はオリンピアの基本的な神話を描く。それは至聖所についての支配権を求めての戦いである。オイノマオス神話では、ピサの王は予言者から、彼の娘ヒッポダメイアと結婚する男の手にかかって死ぬと警告されて、彼女への求婚者全員を馬車競争へ挑戦させた。馬車競争の条件は、勝利者はヒッポダメイアを妻とするが、しかし負けた場合は、オイノマオスによって殺される。オイノマオスの馬はアレス神からの贈り物であって、無敵であり、常に勝つことになっていた。ペロプス(Pelops)が現われるまでにすでに十三人の求婚者が殺されていた。彼はタンタロスの息子であり、遠い小アジアのフリギア地方出身であった。ペロプスの強力な馬たちは実はポセイドンによって与えられたものであったから、結果として生じたペロプスの馬車競争では、馭者がミロティロスであり、またヒッポダメイアにも助けられて、オイノマオスに打ち勝つこととなり、彼を殺した。ペロプスはその結果ペロプス王朝を設立し、この半島の頭となった。従ってこの半島は彼の名前をとってペロポネソス半島となり、それ以降はアピア(Apia)と呼ばれた。

オ リ ン ピ ア (1)

                    2011/05/20

写真:
ゼウス神殿西側の三角形切妻壁の彫刻
「ラピテースとケンタウルス」から
彫像「ラピテースの女」
(ラピテース:ギリシア神話に登場するテッサリアー地方の半神話的民族。
ケンタウルス:【ギリシャ神話】
ケンタウルス《半人半馬の怪物》)

像の前傾姿勢、彼女の背後でマントの波打つさま、開いた翼、(ゼウスと空気を象徴する)鷲に懸けた女神の右足、これらすべてはこの勝利を宣言するために、彼女がオリンポス山から飛翔降下しているという印象を与えている。

土台には次のように印刻されている。

「メッシニア人とナフパクトス人がオリンポスのゼウス神に捧げた戦利品の十分の一税」

さらに、すこし下に

「メンデ出身のパイオニオスが神殿のこの像ならびに台座を作製した。彼はこれで賞を獲得した。」

(注:Spivey P11を参照せよ。奉納者はパイオニオスだが、彫刻家はわからない。)

画像:
『オリンピア』ニコラオス・カルチャス著、ギリシャ文化省
考古学遺跡領収基金 
2005 P11

青銅の走者の小さな彫刻像、左足を曲げ、手を伸ばして、正にスタートしようとしている様子
(BC480年頃)、オリンピア博物館(B26)

 美術館内の説明書を読むと次:


ゼウス神殿東側の三角形切妻壁の彫刻
「ペロプスとオイノマオスの馬車競争」

一方、西側の三角切妻は、

館内説明文の翻訳:

パイオニオスのニケ

このニケの像は、メッシニア人とナフパクトス人がアルキダモス戦争(多分421BC)でスパルタに勝利したことにたいする、ゼウス神にたいする奉納物である。これは(マケドニア地方の)ハルキディキのメンデ出身のパイオニオスによりパロス島大理石に彫刻されている。

この像は高さが2.11mであり、ゼウス神殿の東南隅の高さ8.81mの三角柱に立っていた。

ゼウス神殿


 クラシック時代でもっとも印象的なのは、ゼウス神殿です。現在ゼウス神殿に佇んでみると、石柱の輪切りの塊で覆われていますが、美術館の展示品でイメージを補う必要があります。

 神殿の東西の三角切妻が美術館のなかに復元されています。とくに素晴らしいのが、東側の彫刻です。

競技場


そして、肝心の競技場です。陸上競技のスタートラインが残っています。

写真:
プラクシテレス作
「赤子のディオニソスをあやすヘルメス像」

美術館内の説明の翻訳:

1877年、ヘラ神殿で発掘作業中に発見された。

神々の使いが、ゼウス神に幼児のディオニソスを介護役のニンフのところに連れて行くように命令されて、その途上、木の幹にマントを投げかけて休んでいる。

 右手を挙げているが、多分一房の葡萄を持っている。ぶどうは将来のワインの神様と関連したシンボルである。ディオニソスはそれを取ろうと身を乗り出している。

画像:
青銅の偶像で戦車の馭者。BC8世紀前期後半。高さ0.13m オリンピア
古代オリンピック競技歴史博物館


『オリンピア』ニコラオス・カルチャス著、ギリシャ文化省 考古学遺跡領収基金 2005

1. アルカイック時代以前

 この頃はヘラ神殿と各地から奉納された宝庫と、現在とは若干違った位置(点線で示された)競技場があっただけなのですね。

 オリンピック競技が開催された頃の遺物は次:

第一回オリンピック競技会は、BC776年にイリア王イフィトスによって開始され、四年毎に開催され、AD393年に最後の大会があり、その後は異教ローマ神の祭典はテオドシゥス一世により禁止された、というのがこの遺跡のもつ歴史なのですが、これを各時代別に遺跡からの発掘品見て歩くと、意味合いがわかるようになります。 これからの説明は、主として美術館内部の説明文の翻訳に頼ります。

 一口でいえば、足の踏み場もないほど、石柱が散乱している、というのが印象でしたが、付属するオリンピア美術館で展示品を見て歩くと、このオリンピアの遺跡の重要性がわかってきました。素晴らしい遺跡ですね。感激しました。

 いまはもうニュースバリューがなくなったけれども、戦後しばらくの間は、オリンピックが世界の祭典のように報じられ、白黒のトーキー映画で、「遙か遠くの異国のギリシャで採火式が執り行なわれた」というアナウンスとともに、白衣を着た女性が太陽の光を集めオリンピックの火を採る風景を食い入るようにながめたものでした。

 そのオリンピアに生まれて初めて足を踏み入れることが出来ました。

写真:ゼウス神殿東側三角切妻

 彫刻家は神の顔と彼の肉体の調和からオリンピアののびやかさを表現することにより、人物の美を引き出した。表面が綺麗にみがきあげられ、プラクシテレスの技術の優雅で柔らかい特徴を作り出している。

パロス島の大理石 2.13m

ふくらはぎと左足は石膏で修復されている。

画像:
二つの円い取っ手に連続線の装飾のある銅製三脚大釜。この種のもののなかでは最古のものの一つで、幾何学時代のギリシャ神殿へのごく普通の奉納品でした。ペロポネソス工房、
BC9世紀初め、高さ0.65m、オリンピア考古学博物館 B1240

『オリンピア』ニコラオス・カルチャス著、ギリシャ文化省 考古学遺跡領収基金 2005

ヘラ神殿

ヘラ神殿がもっとも古い建造物ですが、この神殿は当時はもっと小さかったのを西側に拡張していったので、現在のように細長い遺跡になったようです。

1877年、ヘラ神殿で発掘作業中に発見されたプラクシテレス作「赤子のディオニソスをあやすヘルメス像」。

左の図がオリンピア遺跡の平面図です。

   アルカイック時代   紀元前7〜5世紀初め
   クラシック時代      紀元前5〜4世紀初め
     ギリシャ時代(ヘレニズム時代
                                
紀元前4〜1世紀初め
   ローマ時代            それ以降

画像:『オリンピア』ニコラオス・カルチャス著、ギリシャ文化省
        考古学遺跡領収基金 
2005
    赤字の説明は筆者による。

 オリンピア(2)に続く