9. アトリエでのジャクリーヌジャクリーヌ・ロック

パブロ・ピカソ(1881-1973)
緑爪のドラ・マール
1936
カンバスに油彩
65 x 54 cm

解説:

ピカソとドラ・マールはどうやら最初に出会ったのが、1936年初め、パリのドゥー・マゴーというカフェだったようだ。そして、会った途端にお互いに強く惹きつけられてしまった。ピカソはそのとき55歳で、世界的な有名人だった。ドナ・マールは29歳で、認められた写真家、少なくとも超現実主義者の一人だった。

彼女のなにが彼を魅惑したのであろうか。ポール・エリュアーは彼女の「すべての美しさと偉大な知性」に衝撃を受けた。ヴィクトリア・コンバリーアによれば、彼女の「細くくびれたウエスト、幅広いヒップ、豊かな尻、形のよい足」だとピカソの理想の女性を評した。彼が初めて彼女を描いたのは、193611月のことで、緑色の指爪をもつ彼女のポートレートもそのなかに含まれていた。彼女はこの絵のなかでは、肘かけ椅子に座り、彼女の上半身とその上の頭の重々しい楕円は左に傾げられていて、その結果、彼女のやや聖職的な姿勢を和らげている。頭は僅かに側面を向き、スペイン風の髪型で彼女の古典的な顔立ちを強調している。一方、緑色に塗られた爪のある伸ばした指は、この移り気な女性の優雅さをはっきり示している。

パブロ・ピカソ(1881-1973)
足を乾かす坐せる裸女
1921
紙の上にパステル
66 x 50.8 cm

解説:

主題は棘が引き抜かれるという古典的な彫刻に遡るのであるが、実は、オリジナルはピカソが1917年のローマ訪問の際に見物したのであるが、この絵はオーガスト・ルノワールの「風景のなかに座し、水浴びする婦人」(1895/96)によってより直接的に印象付けられたものである。あの絵とこのパステル画を比較してみると、構図がとてもよく似ている。もっともお互いに鏡面イメージのように、左右反対なのであるが。さらに、ルノワールの女性の官能的な魅力は、類似したピカソが描く丸々とした女性からは完全に抜け落ちている。その違いは主として、ピカソの人物は肌寒い海辺の背景におかれていることからきている。また、彼が1914年に開始した新古典主義の表現形式が、手足の描写に見られるような記念碑形式によってゆがめられていることによる。

パブロ・ピカソ(1881-1973)
坐るアルルカン
1905
水彩画、厚紙上に水彩絵の具
57.2 x 41.2 cm

解説:

ハーレクィンは(パントマイム)劇世界の人間である。ポーズを微妙に変化させるのは彼の職業の一部である。ここでは彼は坐っているように見える。彼の手を手すりのように見えるものに置いて、見掛け上は、坐るというより、空中に浮かんでいるようだ。彼の「真実の」顔は疲れていて、憂鬱なように見える。彼の頭部は詳細に仕上げられていて、硬く、短い、対照を引き立てる筆使いで、白いハイライトをつけてある。その一方、子供らしい人物の色あせたジャージーには、繊細なピンクと青色の大雑把なダイヤモンド模様が付いている。これがなければ、ペンが輪郭をトレースしたに過ぎなかっただろう。この作品は1905年の初め、「ピンク時代」の初期に作製された。にもかかわらず、背景の輝かしい赤色には「青の時代」の劇的な精神がまだしみこんでいる。

 今回はじめてベルクグリューン美術館を訪問しました。とても素晴らしい美術館で腰をぬかしました。蒐集家であるハインツ・グリューンの人柄も素晴らしいし、小品しかないものの、飾られている絵画の質がとても高く、年代的にも広く蒐集されており、見終ると満足感が山のように押し寄せてきます。第一、ユダヤ人の作った美術館がベルリンにある、という事実そのものが素晴らしい。本人にとっては「恩讐を越えて」も実現したかった、「懐かしい故郷に帰る」美術館ということなのでしょうか。

画像出典アトリエでのジャクリーヌ

ピカソが肘掛椅子のなかで眠っているジャクリーヌをできる限りの愛情をこめて描いた作品。

パブロ・ピカソ(1881-1973)
海水浴をする人たち
1934
カートン紙の上に置いた畝織り紙に水彩絵の具と鉛筆

では皆様ご機嫌よう。

パブロ・ピカソ
ヌシュの肖像
1937
カンバスに油彩

3. 足を乾かす坐せる裸女

1. わずかの食事

パブロ・ピカソ(1881-1973)
わずかの食事
1904
エッチング、カートン上に紙貼り
ベルクグリューン家からの貸与

画像

Heinz Berggrün
(6 January 1914 – 23 February 2007)

ハインツ・ベルクグリューンは191416日ベルリンでユダヤ人商人の子として生まれた。若くしてフランクフルト新聞の記者になったが、1936年ヒットラー政権のユダヤ人迫害政策に会い、アメリカに移住し、カリフォルニア大学バークレー校で美術を学んだ。

第二次大戦終結後、アメリカ軍の一員として欧州に戻り、ミュンヘンで新聞記者としてしばらく働いたが、パリに移りユネスコの美術部門で働いた。数年のうちにパリのサン-ルイ島で本屋を開業し、画集やリトグラフを扱っていた。その頃ピカソと知り合い、彼のお気に入りとなり、ピカソの経営する美術商として働く。

これが機縁で彼はピカソのみならず、ブラック、マティス、クレー、ジャコメッティを扱う美術商となる。

彼が亡くなったのは2007年、93歳、パリだったが、彼の希望でベルリンのダーレムに葬られた。彼の葬式にはドイツ国の大統領と首相が出席した。

1996年、ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の真向かいにアパートメント(もともとはドイツ政府のエジプト美術館)を買い、美術館を開いた。これが現在のベルクグリューン美術館である。ピカソの絵が多いので、別名「ピカソ美術館」と称される。

写真出典

8. 画家とモデル(ジャクリーヌ・ロック

7. マタドールとヌード(ジャクリーヌ・ロック

パブロ・ピカソ
黄色のプルオーバー
1939
カンバスに油彩
81 x 65 cm

解説:

(前の絵の解説に引き続き、)

 四年後、戦争が勃発したので、ピカソは侵入してきたドイツ軍を避けるため、大西洋海岸のロワイヤン(注:ボルドーの北100km、ジロンド川河口)に逃げた。そこで彼は、ドラと、ホテルの狭い部屋での閉じ込められた生活だったが、仕事を続けた。193910月、彼は黄色のプルオーバーを描いた。彼女のポートレートだったのだが、この場合は、時代を象徴して、彼女の個性の個々の様相はあまりない。再び、彼女は柳編みの椅子の真ん中にきちんと坐っている。頭部はキュービスト風に(正面とやや側面とに)二重の顔に様式化され、ほとんど古典的に見える。その時代が歪んだ環境であったので、身体はぴっちりした、まるで拘束服のように見える「黄色のプルオーバー」で包まれ、かつては優雅であった緑爪の指は、動物の前脚に変じてしまった。

ベルクグリューン美術館

                            2010/05/21

 「読書」は別れであった。1953930日、フランソワーズはこの偉大な芸術家を去った。それは許されない侮辱であったが、母親としての、また本の挿絵と舞台装飾の仕事の注文のための芸術家としての人生を作るためだった。何十年かのちに、彼女は芸術評論家であるカールトン・レイクと共著の「ピカソとの生活」という題名の本を出版した。

パブロ・ピカソ
画家とモデル
1971
紙上に墨、水彩絵の具、パステル
51.5 x 64.5 cm

番外: ヌシュの肖像

読書 1953
パネルの上に油彩
81 x 100 cm

解説:

 ピカソの人生を長期にわたって分かち合った多くの女性のうち、フランソワーズ・ジロはやや特別であった。少なからず独立性があり、また、性格の強さがあったからである。彼女は18歳でピカソの女性となり、二人の子供を産んだ。名はパロマとクロードである。彼女と彼女の天来の画家は10年間の熱情的な年月を共にお互いのために過ごした。我々がこの知的で適応性のある人物が考えこんで読書しているのを見るのは偶然のことではない。フランソワーズはピカソにとって種々の存在であった。彼のミューズ(女神)であり、彼の子供達の母親であり、彼の作品の批評家であり、彼女自身としての芸術家であった。彼女は社会的な資産であり、自ら示すように認知された芸術家であった。

 「読書」は、ラ・ガロワーズ(ヴァロリスVallaurisの住宅の名前か?Gilot1953を参照せよ。)で描かれた。それは平たい表面から構成されていて、それぞれの造作―すなわち、顔の二つの側面、黒いベスト、緑色の袖、手、本並びに机―が異なる色彩領域に閉じ込められている。だが、腕の下の影、本、ならびに二重の顔の色の濃い方の側によって作り出された、強い三次元の空間的な印象が残っている。顔は正面向き(青色のふっくらした卵型)と側面側(鋭く表現されて血の気のない白色)の領邦が示されている。読書に集中している態度は―自分から離れ、内的な世界へと退いている―秘儀的であり、躍動的な斑点のある汚れた背景から分離している。

番外

マタドールとヌード、1970
カンバス、油彩、162 x 130 cm

解説:

このカップルの絵は1970年の闘牛士シリーズに属している。ピカソが89歳のときにムジャン(Mugins、カンヌの北郊)で描かれたの
だが、芸術と人生を題材としている。この芸術家の激しく消耗することのない力の源泉である。闘牛士は血のように赤いマントを着て細い刃のレーピアを抜いて戦いの準備が整った状態で立っている。この絵は即時性を狙っている―多分、性の戦いなのだろうか?ピカソが新しい力をひきだした女性との激しい人生を考えるとき、これは確かにもっともらしく見える。この老いつつある芸術家があっという間に、能力ある若々しさを作り出したというのか?間違いなく、「マタドールとヌード」は個人的なモットーであり、絵のなかに見られる印象は共生に入り込む。のびのびと塗りつけた色領域、曲線を描く線、手際のよいしかし急速なアクセント(首の宝石、マタドールの顔、マント)絵画的な事象にリズムを与えている。豊かな女性の身体は白い生地として残されている。これは断片を強調する技巧である。観客にたいするチャレンジであり、いくつかのベーシックな詳細の点と線をなにか全体としての特有なものに転じている。

解説:

あなたが芸術家とモデルを主題とするピカソの数多くの作品を考えるとき、この主題が彼の作品の核心へと行き着くことは明らかだ。数え切れない主題「芸術家とモデル」は、ピカソが常に新しい方法で対象を見つめる際に情熱的に技巧の可能性を開拓するときの、一種のアンブレラ概念(包括概念)となった。それは、歳をとっていく肉体を活気づけ、創造的活力を注入するときに天才が使う魔術の部分だった。

 1971124日に描かれたこの絵は、レンブラントを思わせるひとりの若い芸術家を示している。ピカソは彼自身の芸術を検証するときはしばしばレンブラントに戻っていた。この画家はマットレスの上にバロック式のいびつなモデルとともに横たわっている。彼の「二重の」顔は片方は美しい裸体を眺め、もう片方は絵の外を眺めている。過度に目立つ目は、現実の芸術的映像をピカソ流に解釈したものである。

 芸術的な見方というこのような方法は、多面的にこの絵の特色となっている。薄く延ばしたパステルが人物の身体、衣服ならびに皮膚に満たされ、いくつかの生地の部分が残され、オレンジ色の背景が透けて見える。肉体の外郭線は対称的にくっきりとしている。スケッチ板と絵描きのスケッチする手が絵の中心を占めていて、動く力線が手から外へと放射している。それはまるで、絵を描く、ならびに、肉体をモデルに提供する、という仕草を鑑賞者の凝視に委ねているだけではなくて、絵そのもののなかで、絵描きとモデルの間に生命が蘇っているように見える。熱のこもった描き方という印象は、「凝視する目」とモデルの腕の赤色の輪郭線の間をあちこちに行き交う、赤色のパステルの粗雑な筆遣いによって生み出されている。MK

6. 読書(フランソワーズ・ジロ)

ナイジェリア
ベニン旧王国領
人形像浮彫
(ピカソの蒐集品の一部)

番外

5. 黄色のプルオーバー(ドラ・マール)

4. 緑爪のドラ・マール

2. 坐るアルルカン

これから

初期の作品1.2.3.

と、人生後半に彼が妻として迎えた三人の女性のポートレートを鑑賞することにします。

ドラ・マール4.5
           フランソワーズ・ジロ6
           ジャクリーヌ・ロック7.8.

  ジャクリーヌ・ロックについては実像が分かるような画像9.(この美術館の収蔵品ではありませんが)を添付しておきます。各作品の解説を”Museum Berggruen” Hans Jurgen Papies, Prestel Museum Guide,2008から抜き出し、稚拙な翻訳を添付しておきます。

美術館付近路上の手押し井戸ポンプ