1. 驢馬乗りとしてのキリスト

フランケン地方
1520/30年頃
驢馬乗りとしてのキリスト
棕櫚の主日(復活祭直前の日曜日)の行列に使う道具
菩提樹、残りは古い金彩色
多分ビュルテンブルク・フランケン地方出自

ボーデ博物館(Bodemuseum)

                          2010/5/20

注:Palm Sundayは新約聖書の4福音書に記載されているとおり、キリストがその復活の一週間前に、驢馬に乗ってエルサレム城門から入城した故事に基づく。馬(戦争の象徴)と異なり、驢馬は平和の象徴であり、民衆は争って自らの上着を地面に敷き、あるいは棕櫚の葉を地面に敷いて、キリストを歓迎した。

コンスタンティノープルは皇帝、帝国行政の焦点、ギリシャ正教国家宗教、ならびに、最高品質の芸術作品を生産する文化センター、の華麗な居住地であった。帝国作業場にて生産される装飾目的の大理石のレリーフは地中海全域に輸出された。コンスタンチノープルの宮廷工場で生産される象牙製のレリーフ、モザイクのイコン、金製品は西ヨーロッパでも賞賛された。多くの芸術作品がイタリー、フランス、ドイツなどの国々へ外交上の贈答品、商業品、ならびに「ラテンの」略奪品としてやってきた。

ベニスのドージェ(元首)によって率いられた第四回十字軍は1204年、コンスタンティノープルを占領し、バルカン半島のいくつかの部分と小アジアを支配下に置いた。この時代は「ラテン帝国」として知られている。この征服の目的は、ローマ教皇とギリシャ正教との間の絶え間のない争いに原因をもとめることができるのだが、同時に、通商上の権力としてのヴェニスの経済的な利害もからまっていた。この時期、ビザンティン皇帝はニカエア(現在のイズニク、イスタンブールの南東80km)に在住した。そしてここからの攻撃でラテン帝国は1261年に敗退した。第7世紀の間、アラブ人によるイスラム教が広まったので、ビザンティン帝国は絶え間なくこれらの征服者達に領土を引渡され続けた。第15世紀になって、首都とそれを取り囲む僅かの地域にまで減少し、ビザンティン国はオットマン・トルコがコンスタンティノープルを獲得した1453年に、不可逆的に陥落した。

ビザンティン帝国(330-1453AD) 館内掲示板の翻訳

ビザンティン帝国と西ローマ帝国

ビザンチン芸術美術館のコレクション (翻訳)

アンドレア・デッラ・ロッビア
キリストの復活
聖バートロミオと聖ベルナルドとともに
1500-1525年頃

ティルマン・リーメンシュナイダー
ハイリゲンシュタット、1460-1531
四人の福音史家:マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ
1490-1492菩提樹
ミュネルシュタットの聖マクダレーナ寺院の中央祭壇の台座から

ジョヴァンニ・ベッリーニ
ヴェニス
1430-1516頃、ヴェニス
哀悼
1495年頃
ポプラ

フィレンツェ
15世紀前半
オルランディーニのマドンナ
大理石
オルランディーニ家出自と推定
1945年に損傷

7 そして、ロバと、ロバの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。

9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」

10
こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。

11 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。

プッチオ・ディ・シモーネ
明らかにフィレンツェ 1343/60
祭壇の扉画:
アレキサンドリアの聖カテリーナと聖ローレンティウス
1345年頃
ポプラ

カタロニア
1250年頃
十字架に架けられたキリスト
ポプラ

出典:マタイの福音書211-11

1 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。「向こうの村へ 行きなさい。そうするとすぐに、ロバがつながれていて、いっしょにロバの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」

4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。

5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ロバの背に乗って、それも、荷物を運ぶロバの子に乗って。』」

6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。

ミカエル・パッケル
ブルネック並びにザルツブルクで活動、1445-1498年頃
エサイの根から出でた王
1480/90年頃
ポプラ、残りは元々の金彩色

注:エサイとはダヴィデ王の父の名前。エサイの根からでた「王」とは、つまりダヴィデのことか?

6. ビザンチン芸術室

なお、ボーデ美術館所蔵のイタリア・ルネサンス彫刻については次のWebを参照乞う。

Italian Renaissance sculptures in the Bode-Museum

画像

5. アンドレア・デッラ・ロッビア

5. イタリア・ルネサンス

3. ティルマン・リーメンシュナイダー

2. エサイの根から出でた王

今回の訪問で目にとまった作品のみここに掲示します。特に「驢馬に乗ったキリスト」が素晴らしい印象を与える作品だとおもいました。ドイツの中世彫刻のなかでは屈指の作品だと思います。

画像:借用した画像です。
ティルマン・リーメンシュナイダー
聖ゲオルグ

以上。ご苦労様でした。

コンスタンティン大帝が、紀元330年ローマ帝国の帝都を、ヨーロッパとアジアの境界に位置した都市、ビザンティンに移した。彼は自分の名前にちなんで、その都市をコンスタンチノープル(現在名はイスタンブール)と名付けた。これは必然的にこの帝国を、首都をローマに置くラテン語指向の西ローマ帝国と、首都をコンスタンティノープルにおくギリシャ語指向の東ローマ帝国に分離させることとなった。西帝国は476年欧州北東部とアジアからの移住民族によって転覆させられた。一方、ビザンティン帝国はさらに千年生き延びた。

ビザンチン芸術美術館は古代ならびにビザンチン時代の芸術作品ならびに実用品の第一級のコレクションを所蔵する。ドイツのなかではこの種のものとして唯一である。このコレクションの目玉は、三世紀ないし15世紀に遡る西ローマならびにビザンチン帝国の芸術である。追加として多数の後-ビザンチン期のイコンと小さい芸術作品がある。

  これらの作品のほとんど全ては、古代地中海領域のもので、ローマとイタリア、イスタンブール(ビザンチン時代のコンスタンチノープル)とトルコ、ギリシャとバルカン諸国からのもの、エジプト、ヌビア、エチオピア、北アフリカ、近東、ロシア諸国など、東、西ローマ帝国の拡張に伴いビザンチン文化を継承する国々で蒐集された。

   この広い範囲のなかで、ベルリン・コレクションの明確な特徴は主として次の四つの検知で定義付けられよう。:古代後期のローマの石棺ならびに石棺断片は西ローマ帝国の首都における初期キリスト教徒の聖像学の全容を提供する。東ローマ帝国出自の人物彫刻と装飾彫刻の豊富な所蔵はこのジャンル内での様式上の多様性と発展への洞察を可能にしてくれる;すなわち、イスタンブールの考古学博物館以外のどのコレクションもベルリンのこのコレクションに匹敵するものはない。貴重な象牙彫刻とモザイクのイコンはビザンチン宮廷芸術の高度な技巧水準と芸術水準を記録している。エジプト出自の日用品とキリスト教の宗教的品目は、日常生活と礼拝儀式道具につきヒントを与えてくれる。これらの品目のなかには、木材や織物のような有機物質製の発掘品が含まれており、これはエジプトの暑くて乾燥した気候条件下での保存術によるものである。

アンドレア・デッラ・ロッビア
フィレンツェ1435-1525フィレンツェ
聖ドロテア
フィレンツェ1500年頃
焼成した陶土、元々の彩色

ヤコポ・タッティ、俗称サンソヴィーノ
フィレンツェ
1485-1570ヴェニス
処女マリアと子供
(原題はMadonna mit dem Pardelfell
木の上に紙貼り子

4. 十字架に架けられたキリスト

ティルマン・リーメンシュナイダー
ハイリゲンシュタット、1460-1531頃ブルツブルク
マリア・マグダレーナの前に現われた復活せるキリスト
1490-1492
菩提樹
ミュネルシュタットの聖マクダレーナ寺院の中央祭壇背後の飾り棚の左扉から