『洛陽伽藍記』楊衒之 入矢義高訳注 東洋文庫517 平凡社 1990

P46

昭儀寺

 (昭儀)寺の南に宜寿里があって、その内に苞信県令の段暉
(だんき)の邸があった。


              その地下から、いつも鐘の音が聞こえ、時には五色の
光が現れて堂宇を照らした。暉は非常にいぶかしく思い、そこ
で光りの出た場所を掘ったところ、黄金の仏像一体が出てきた。
高さは三尺ほどで、脇侍の二菩薩もあった。
[その本尊の]結跏
趺坐のところに銘文があって、「晋の泰始二年
(266)五月十五日、
侍中・中書監荀勗(じゅんきょく)造る」とあった。そこで暉
は邸を寄進して光明寺とした。当時の人はみな、これは荀勗の
邸跡だと言っていた。・・・・・・



P79

宗聖寺

 宗聖寺には、仏像が一体あり、高さ三丈八尺、すばらしく端
正で、仏としてのすべての相(そう)が備わっていた。参拝の
人々は、しばしもまばたきできなかったほどであった。この仏
像が
[降誕会に]お練りに出ると、都じゅうの人は家を空(から)
にして出かけた。その輝くばかりに光りを放つ姿は、まさにこ
の世のものとは思われなかった。・・・・・・

洛陽伽藍記』楊衒之 入矢義高訳注 東洋文庫517 
平凡社
1990 P17


永寧寺

 永寧寺は、熙平元年(516)に霊太后の胡氏が建てた寺であ
る。・・・・・・この境内には九重の塔が一基あって、木
を組み上げて建てられ、高さは計九十丈。頂(いただ)き
には更に金色の刹竿(せつかん)(相輪)が十丈、全部で
地上千尺の高さになり、都から百里離れたところからでも
望見できた。当初、塔の基礎工事で地を掘り下げて地下水
に達した時、黄金の仏像三十二体を得た。太后はこれを信
心のしるしだとし、そこで塔の造営が並(なみ)はずれた
ものとなったのである。刹竿の上に金の宝瓶があり、二十
五斛(こく)の容積があった。宝瓶の下には承露(しょう
ろ)金盤が十一重(じゅう)つらなり、それらをぐるりと包
んで金の鈴が垂らしてあった。さらに鉄の鎖四本で刹竿を
塔の四角(よすみ)に繋ぎ留めてあったが、その鎖にも
の鈴
が取りつけてあり、その鈴の大きさは石甕ほどもあっ
た。塔は九重で、そのどの四角(よすみ)にも金の鈴が吊
(つる)され、上下全部を合わせると百三十もあった。そ
の塔は四角(しかく)形で、一面ごとに三つの戸と六つの
窓があり、戸はみな朱の漆(うるし)塗りであった。その
扉にはそれぞれ金の釘が五列に打ちつけられ、合わせて五
千四百箇になった。またそれらには金環鋪首が付いていた。
建築技術の粋を尽くし、造形美術の妙を極めたこの荘厳
(しょうごん)の精巧さは、この世のものとも思えず、彫
りのある柱や金の鋪首は、見る人の目を驚かせ心をゆさぶ
った。風のある秋の夜などは、金の鈴の音が響きあって、
その鏗鏘(こうそう)たる調べは、十余里にまで聞こえた。


 塔の北に仏殿が一つあり、作りは大極殿に似ていた。そ
の中に一丈八尺の金の仏像一体等身大の金の仏像十体
真珠をちりばめた仏像三体、金糸で織り上げた仏像五体、
玉(ぎょく)の仏像二体があり、その精巧な作りは当時最
高のものであった。・・・・・

仏教に関する「金」の記述(2)

洛陽伽藍記』楊衒之 入矢義高訳注 
東洋文庫
517 平凡社 1990

P92

平等寺

 平等寺は、広平の武穆王懐が邸を喜捨して建てたものである。青陽門の外二里、御道の北の、いわゆる孝敬里にあった。堂宇は広く、かつ美しく、木々はこんもりと茂り、平台や複道のたたずまいは当時に冠絶したものであった。寺の門外に金の仏像が一体あって、高さは二丈八尺、相好は端正で、いつも霊験があり、国家の吉凶については、まっ先にそのしるしを現わした。・・・・・・

注:武穆王懐
      北魏第十三代(最後の)皇帝孝武帝の父親。
      孝武帝はその第三子。


P131

景明寺

 景明寺は宣武皇帝の建てたものである。

 景明年間(500-504)に建てたので、それを名としたわけである。宣陽門の外一里、御道の東にあった。

 ・・・・・・・

 正光年間(520-525)になって、霊太后が始めて七重の塔一基を作った。地上百仭の高さであった。

 それで、邢子才(けいしさい)の碑文に、「俯しては激しきいかずちを聞き、傍(かたわ)らには流るる星を眺む」と言っているのは、この塔のことである。その荘厳の華麗さは永寧寺の塔と相並び、金盤宝鐸の輝きは、雲表にまできらめきわたった。

 ・・・・・・・

『洛陽伽藍記』楊衒之 入矢義高訳注 東洋文庫517 
平凡社
1990

P178

西陽門の外、御道の北の(寺ではないが)

阜財・金肆の二里

 ほかに阜財・金肆の二里があり、金持ちたちが住んでいた。およそこの十里四方には、さまざまな職人や商人など金儲けの人々が多かった。美々しい家々が棟をつらね、何層もの高楼が向いあって聳え立ち、幾重もの門が扉を開き、各楼の間には閣道(アーケード)が高く掛け渡されて、家々を互いに眺め渡すことができた。奴婢たちは金糸銀糸の錦繍に緹(あかぎぬ)の衣を着て、みな五味八珍を口にしていた。神亀年間にこれら工商が僭越だというので、金糸銀糸の錦繍を着ることまかりならぬということになった。しかし禁令は定められても、結局施行されずじまいだった。

画像:
http://www.hermitagemuseum.org/html_En/03/hm3_5_8a.html

Head of a Monk
Fragment of a wall painting
684-780
Loess 83 x 35 cm

This fragment comes from the Monastery he Caves of a Thousand Buddhas' (existed 366-early 13th century) at Dunhuang, Western China. It bears a fragmentary representation of a monk with a green nimbus; in this case we see before us a pupil of Buddha, the face of a true believer with intense gaze and vividly trembling lips.

The State Ermitage Museum

画像:
http://67.52.109.59/code/emuseum.asp?style=browse&currentrecor
d=241&page=collection&profile=objects&searchdesc=SCULPTURE...................
..&newvalues=1&newstyle=single&newcurrentrecord=247

Asian Art Museum of San Francisco

Object ID: B60B1035

Designation: Prabhutaratna, a buddha of the past, and Shakyamuni, the Buddha of the present

Object Name: Stele

Date: dated 472

Medium: Gilt bronze

Place of Origin: China

Credit Line: The Avery Brundage Collection

Label: This piece illustrates the ethnic diversity in northern China during the 400s. While the inscription (largely illegible) is in Chinese, the female and two male donors depicted on the front of the dais wear clothes typical of the many Turkic groups living in Northern China and Central Asia.

注:
    
1斤=600gとすると、
         金の量
         600斤=360kgs.
     銅の量    100,000斤=60,000kgs

    東大寺大仏の場合
             
                           441kgs
                                         499MT

魏書釈老志』塚本善隆 東洋文庫515 平凡社 1990 P226から


天宮寺

(高祖が誕生し、永寧寺が建てられた天安元年(466)

 その歳、高祖が誕生(八月)した。時に永寧寺をたてた。七級
の塔を構え、その高さ三百余尺、建築設計の博く高きこと、天下
第一であった。

  また天宮寺に於て釈迦立像を造った。高さ四十三尺、銅十万斤、
黄金六百斤を用いた。

  孝文帝(高祖)は洛陽に都を移し(494)、従来の漢化政策をさら
に推し進めて、・・・(『洛陽伽藍記』
P254

画像:
http://www.artic.edu/aic/collections/citi/images/standard/
WebLarge/WebImg_000031/1468_269320.jpg


Buddhist Votive Stele

Western Wei dynasty (535 - 557); dated 551

Stone

339 x 99 x 21.6 cm (133 1/2 x 39 x 8 1/2 in.)


The Art Institute of
Chicago

画像:
http://www.china.com.cn/zhuanti2005/txt/
2004-01/05/content_5474356.htm

河南洛陽の北魏永寧寺九層木塔復原図

画像:http://www.miho.or.jp/japanese/member/tpshan8.htm
洛陽・永寧寺出土品僧侶頭部
北魏時代
高(老僧)14.6cm
  (若い僧)13.7cm 塑造
中国社会科学院考古学研究所所蔵

 太和18年(494)28 歳の孝文皇帝は、北魏の都を百年続いた平城(大同)から洛陽へと移しました。この時、平城に甍をほこった永寧寺の七重塔の洛陽移転も計画され、ようやく熙平2年(516)から神亀2年(519)には以前にもいや増す九重塔が造られました。この老若二人の僧侶の頭部もその中にあったもので、その表情は北魏彫刻の精彩を生き生きと伝えてくれます。