「 戸 を 叩 く 音 」

井筒俊彦は、「コーラン学」が19世紀にひとりのドイツ人学者によって開かれたことを解説する。その人の名前はTheodor Noldeke、彼が記述した文献学の本は『コーランの歴史』と題されてゲッティンゲンで1860年に出版された。(“Geschichte des Qorans”,1860 at Göttingen

 この本で明らかにされた事実は、『コーラン』の前期/中期/後期の内的発展史なのだが、ムハンマドのもっとも初期の詩は、実は『コーラン』の最後尾に記載されている。初期の詩の特徴は、著しく暗く、地獄の底に突き落とされるときの心象風景だというのである。

 井筒俊彦の言葉を借りると、次の通りとなる。

            前期 メッカ時代 オスマーン(第三代のカリフ)本の最後の方
      岩波文庫本「下
巻」
      文体が緊張、異常な緊迫感、シャーマンの口から流れ出す上
      ずった調子のコ
トバ。
         神がかりの文体、第一人称は神、「汝」はムハンマド。全体
      がとても暗い。

         誓いの言葉。
         終末論的ヴィジョン・最後の審判?新しい存在秩序・地獄と天
      国、

         この終末の時の形象で満ちている。具体的には身の毛もよだつ
      ような地獄の
形象。
         極度に短い文章が脚韻の太鼓のリズムに乗って、地獄の光景を
      描き出す。

          (井筒俊彦『コーランを読む』岩波セミナーブックス1
                        岩波書店
1983 p26)

では、地獄へおとされる寸前の景色とはどのようなものか、101章「戸を叩く音」を検分することとしよう。


       101     戸を叩く音 ――メッカ啓示、全八節――
         慈悲ふかく慈愛あまねきアッラーの御名において……

1  どんどんと戸を叩く、何事ぞ、戸を叩く(戸を叩く音は迫り来る終末の時の不気味
  な象徴)。
2 戸を叩く音、そも何事ぞとはなんで知る。
3 人々あたかも飛び散る蛾(が)のごとく散らされる日。
4 山々あたかも毟(むし)られた羊毛のごとく成る日。
5   秤が重く下(さが)った者(現世でしてきた善事の重さを秤にかけられるのである
  にはいと心地(ここち)よい生活(
天国での生活)があろう。
6 秤が軽くはねた者には底なしの穴(地獄)が母となろう(子供が母の胎内に宿
  るように地獄の胎内に宿るだろう、の意
)。
7  が、さて、底なしの穴とはそもなんぞやとなんで知る。
8 炎々と燃えさかる火(の穴)の謂い。

  1   「戸を叩く」というのは天地終末の近づく音。天地終末――現世的存在次元が
  まったく無に帰してしまう恐ろしい終末の日。その日が刻々と近づいてくる。
   「何事ぞ、戸を叩く」ふとそれに気付く。実に不気味な感じ。
2     シャーマン(巫者)特有の表現。アラビア語では実に不思議な効果を出す。
  不気味な、神秘的な、なんともいえないコトバの暗さ。

3/4 視覚的イマージュ化された内容。
                   (井筒俊彦『コーラン(下)』岩波書店2004 p300)

画像:
  「北野天神縁起絵巻(太山寺本)」
  第四巻 
  地獄における日蔵 (部分)
  鎌倉時代
 
     
メトロポリタン美術館蔵
    
『在外日本の至宝 第二巻 
  「絵巻物」』毎日新聞社、
  昭和
55

 その日はまず、戸がどんどんと叩かれてお迎えがきたことを知らされる。あなたは知っている。その日にはあなたが蛾のように吹き飛ばされ、羊の毛がすべて毟りとられるその日のことだ。

 秤にかけられて重く下がったものには天国が待っているが、善行を積まずに軽かったものは地獄行きとなる日のことだ。地獄は底なしの穴に似て、ひとはその中になげこまれる。地獄の穴は地獄の業火が燃えているからすぐそれとわかるさ。

 まるでアウシュヴィッツ収容所でガス室送りを待つユダヤ人の気持ちになる。

 これがヒラー山の洞窟で体験したムハンマドの内的体験なのである。日本にはこのような内的体験を書き記した宗教文書はない。

 さらにもう一例を見ておこう。