藤 村 操
華厳の滝
日光・中善寺、華厳の滝
日東通運株式会社
湯田 啓一氏による画像です。
http://www.210t.jp/021118nikko/021118nikko-2.html
藤村操という18歳の青年が明治36年5月22日、日光の華厳の滝の
滝壺に投身して自殺した。
松篁が引用した雪山童子は、偈の前文を岩に刻んだのだが、藤村
操は投身自殺の前に、立木の幹を削り、墨痕あざやかに次のごとく
去世の辞を書き記したのである。
巌頭の感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此
大をはからむとす、ホレーショの哲學竟に何等のオーソ
リチーを價するものぞ、万有の眞相は唯一言にて悉す、
曰く「不可解」我この恨を懐て煩悶終に死を決す、既に
巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし、始めて
知る大なる悲觀は大なる楽觀に一致するを。
藤村操のこのような死は当時の思想界を大いに騒がせた。当時の新聞をひもといてみればわかるが、その頃の世相は、例えば、恋愛沙汰の揚句の情死、貧乏故の首つり、亡き子を追って井戸への投身、或いは狂人の入水事件等々で満ちあふれていたが、斯様な純粋に哲学上の悩みによる自殺は見たことも聞いたこともなかったのである。しかも辞世の言葉は簡潔にして要点をおさえた名文であった。死んだ当人は天下の秀才の集る第一高等学校の第一年に在学中であり、その叔父那珂通世(なかみちよ)博士は著名な東洋歴史学者であった。当人の置かれていた環境は、完璧に近い状態であって、操が死なねばならぬ理由は何ひとつなかった。
彼の性格が沈鬱型だったかというと、さにあらず、明朗快活なタイプの青年で、評判もよかったのである。