松 園 の 影 響

画像:
上村松園
1875-1949(明治8-昭和24)
娘」
1942(
昭和17)
絹本・彩色・軸(1)
49.0×57.5cm
A0347

http://www.yamatane-museum.or.jp/html-
database/a-gyo/uemura-shoen.html

 この神秘体験の特徴については、後に更にくわしく他の例につき、ケース
スタディーすることとして、ここでは松篁の精神的なバックボーンとなって
いる母親松園の「無題抄」と題する文章を、随筆集「青眉抄」(三彩社、昭
47115日発行)のなかから紹介することとしよう。



 大いなるもの力にひかれゆく……まことに、私たち人間のあゆみ
ゆく姿は、大いなる天地(あめつち)の神々、大慈大悲のみ仏から見
られたならば、蟻のあるきゆく姿よりも哀れちいさなものなのに違い
ありません。

 人事をつくして天命を待つ、とむかしの人が申したように、何事も、
やれるところまで努めつくしてみた上で、さてそれ以上は、大いなる
神や仏のお力に待つよりほかはありません。

 芸術上のことでも、そうであります。自分の力の及ぶ限り、これ以
上は自分の力ではどうにもならないという処まで工夫し、押しつめて
行ってこそ、はじめて、大いなる神仏のお力がそこに降されるのであ
ります。天の啓示とでも申しましょうか、人事の最後まで努力すれば、
必ずそのうしろには神仏の啓示があって道は忽然と拓けてまいるもの
だと、わたくしは、画道五十年の経験から、しみじみとそう思わずに
はいられません。


 なせば成るなさねば成らぬ何事も、ならぬは人のなさぬなりけれ……
の歌は、このあたりのことをうたったものであろうと存じます。

 人の力でどうにもならないことが――特に芸術の上で多くあるよう
です。考えの及ばないこと、どうしても、そこへ思い到らないことが
度々ありました。そのようなときでも、諦めすてずに、一途にそれの
打開策について想をねり、工夫を」こらしてゆけば、そこに天の啓示
があるのです。

 なせばなる――の歌は、この最後の、もう一押し、一ふんばりを諦
めすてることの弱い精神に鞭打つ言葉であろうと思います。


 ならぬは人のなさぬなりけり――とは、人が最後の努力を惜しむか
ら成らぬのであると言うことで、結局最後は天地の大いなる力がそこ
に働いて、その人を助けるのであります。

 …………

 の啓示を受けるということは、機会を掴むということであります。

 天の啓示とは機会ということであります。

 機会ほど、うっかりしていると逃げてしまうものはありません。

 機会を掴むのにも、不断の努力と精進が必要なのであります。



松篁が松園の一粒種であることを考えると、将校が松園の気質と魂魄の気
迫を受け継いで、精進に精進を重ねるタイプの人間だったことは明白であろ
う。