道なきところに道を求める

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白釉馬と牽馬俑
唐代(紀元618年−907年)
1981年に洛陽龍門にある阿菩墓から出土。
高さ69cm、長さ81cm、俑66.5cm
『洛陽文物精粋』王綉等編 
鄭州 河南美術出版社 
2001.4

馬は静かに立っており、頭を上げて左前に向
いている。
黄色い革の帯に緑色の杏の葉を飾っている。
鞍に青、白、黄という三色の泥除けをかけて
いる。
体に白釉を施している。
俑は頭に黒い頭巾をかぶり、眉目とひげがは
っきりしている。
身に緑色の折襟がついた、腰を締める黄袖の
長い中国服を着ている。
足に黒い先の尖った長靴を穿いている。
両手は馬を引っ張る姿勢である。

道なきところに道を求めて精進に精進を重ねると、ある日、天啓のように
神秘体験に遭遇する。これが、われわれの肉体のなかにひそむ生命というも
のであったか、これが神の創造された生命の実体であったのか、と喜びに酔
いしれることになる。

 逆に精進しない人にはかかる経験は永遠にやってこない。松篁は「天才は
一瞬のうちに感得するのだろうと思った」と述べているが、天才といえど努
力の積み重ねにほかならない。自分のすべてを賭けて努力し精進する人だけ
が、生命の扉をこじ開けられるのだ。

 すなわち、純粋経験に辿り着くその過程は、まことに道徳的であり、辿り
着いた純粋経験の内容もまた、道徳的なのである。それは努力に報いる~の
恩寵であり、~の啓示と理解されておかしくない。しかも日本の旧来の農村
文化の本質からはずれるものでもない。

 かくして、読者が経験者なのか未経験者なのかをまったく無視して、日本
の哲学(明治以降)の精神的背景は基本的に、

              神秘体験 = 善

という公式を容認するのである。

この公式を哲学として成立させたのが、西田幾多郎である。

我々はこれから西田幾多郎『善の研究』を読み、『善の研究』に内包さ
れる問題点を剔抉(てっけつ)し、この哲学が惹き起こした問題を精査す
る。(「日本の哲学」のなかの「西田幾多郎」の項をまずお読みいただき
たい。)

その後、人間精神の奥底にはほかにどのような領域があるかを、文芸ク
ラシックスから『若きウェルテルの悩み』、『煤煙』、『或阿呆の一生』
を選び出し、分析綜合する。純粋経験
Bがこれらの吟味の結果として導出
される。

純粋経験Bの性格を吟味したのち、日本古来の哲学である「空」の概念
の認識の確立をおこなった聖徳太子の偉業にさかのぼる。

また聖徳太子の主張された「和」の精神と現代の政治思想である民主主
義との関係を逐次考察する。