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コラム其の1

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820「ぽるのぐらふぃー」
819「オンライン句会・俳句」
818「わが夢十夜(4)」
817「わが夢十夜(3)」
816「わが夢十夜(2)」
815「亀鳴くや・俳句」
814「川柳14句」
813「お借りした・短歌」
812「巣箱掛け・俳句」
811「軍歌三曲」
810「ボーイズ」
809「巣ごもり・俳句」
808「諏訪湖晴れ・短歌」
807「kappa」
806「わが夢十夜(1)」
805「冬遊び」
804「マスクして・俳句」
803「川柳あれこれ」
802「着ぶくれ・俳句」
801「モナリザ・俳句」

837『ふんころがし補遺譚』

「屁()てふもののある故に、への字も何とやらをかしけれど、天に霹靂(へきれき)あり、神に幣帛(へいはく)あり、鷹に經緒(へを)あり、船に艦(へさき)あり、草に女青(へくそかづら)あり、虫に気蠻(へひりむし)あり、狐鼬鼠(きつねいたち)の最後屁は一生懸命の敵(かたぎ)を防ぐ。人として放()らずんば、獣にだも如()かざるべけんや・・・」

上記は平賀源内『放屁論』の自序である。源内は江戸中期の博物学者で、「放屁論」はあまたの戯作のなかのれっきとした評論。彼は戯作家にして寒暖計を模製したり、エレキテルを製作したりの科学分野でのオーソリティでもあるが、乱心して人を殺傷し獄中で没したと伝えられる。

源内における屁についての研究成果はさておき、「屁」とはいったい何であろうか。屁は「飲み込んだ空気や、腸の内容物の発酵によって発生したガスが肛門から排出されるもの。倍比流ともいう」と辞書に載る。別の言い方をすれば屁は気体で「一定の形と体積とを持たず、自由に流動し、圧力の増減で体積を容易に変化するもの」とこれも辞書から引用する。

人間の口唇から肛門までを圧力によって増減しながら変幻自在に流動し、糅てて加えてお尻から発するときのブー、スー、ピーの音と臭い・・・これはある意味で「音楽」であり「聞香」であり、好事家にとってはアーチスティックな領域にほかならない。

「蜃気楼」は空気が局部的に層をなして温度差をもつときに現れるもので、大蛤(おおはまぐり)の吐きだす気息という古説があり、海を司る神・綿津見の「御鳴ら(おなら)」であるという俗説もある。

蜃気楼まで持ち出したが、屁は空気、気体、風力なので宇宙空間に満ち満ちている。同様に人間の腸内にも満ち満ちている。

古典落語に、体調のすぐれない和尚を訪れた医者に「転失気(てんしき・屁のこと)」があるかと尋ねられ、知らないくせに知ったかぶりの和尚が小僧に調べさせる小噺。「転失気」を出鱈目に「酒器」と教えられた和尚が後日医者に、「転失気」は当寺には「ナラ、屁エあんの昔からあります」と嘯くのが落ちだ。

「三ツ星クリニック・ふんころがし」は「糞尿」問題で屁はカテゴリーに入らないので、この小文は「ふんころがし補遺譚(ほいたん)」としてUPさせてもらった。(2021/10/20)

 

836『クリニック「ふんころがし」』

「飲食(いんしょく)」という言葉がある。「飲食」の同じ漢字で「おんじき」の読み方もされる。早い話が人間の飲み食いをいうのだが、これが一日に三回の楽しくも七面倒臭いことではある。

庶民が与る話ではないが、ミシュラン・ガイドに載る三ツ星レストランではシェフやソムリエやコックが豪勢な献立をたてて運び、老舗料亭では板前や仲居が贅を凝らした料理を出し、園庭には鹿威しや水琴窟が鳴ったりする。肉や魚や日本酒やワインが、食欲を刺激してくれるのだろう。日常のわれらが干物納豆茶漬けかっこみ飲食とは「味蕾」がひっくり返るほど差異がある。

テレビはグルメ番組やドカ食い大会の番組を流し「食レポ」という造語もあって、美味しいことを「やばい!」とか「ばか旨!」とか絶叫する。海鮮丼を「海の宝石箱や~」、舞茸の天婦羅を食べて「まいう~」なんぞとレポートする芸能人もいる。

話はコロッと変わるが、「糞尿(ふんにょう)」という言葉がある。大便と小便をドッキングさせた成語だが、尾籠(びろう)な言葉なのでやみくもに使うことは憚られる。しかしながら「糞尿愛好症」という、異性の糞尿をこよなく嗜好する「糞尿フェチ」なる性的倒錯があり、ある面では生きる力のリビドーでもある。そうした偏執的なパラノイアでなくても、多少なりとも「その気」のある人間はゴマンといるといわれ、深層心理や文化芸術、ユーモアやアイロニーの創造やら研究やらの貴重な学問となっている。これをカストロジー(糞便学)という。

世界最古のトイレは紀元前2200年頃、古代メソポタミア文明のアスマル遺跡から発見された。いっぽう現存する日本最古のトイレは京都・東福寺の百雪隠といわれ重要文化財である。さらに糞尿は火野葦平の小説になったり、落語の小噺になったり・・・人糞や動物糞は胸虫や河豚の解毒の特効薬として、また人糞は肥料としても重宝され、栄養状態のよい江戸界隈は他の地域よりも高額で取引され、糞の世界でも「士農工商」の格差はあったという。

「飲食&糞尿」というテーマで書いてきた。雲泥の差の二者をなんで突き合わせるか。「飲食」は固形と水分であり「糞尿」もまた固形と水分で構成され「人間土管」を通しただけで同質のものだ。食欲と排泄欲(プラスα性欲)のメカニズム、そのプロセスには学問や芸術が大きくかかわることが分かっている。

それにしても飲食は文化としてちやほやされ、糞尿は汚物としてないがしろにされている。肛門科や泌尿器科はあるが、シェフやコック、板前や仲居のように手取り足取りお世話してくれる診療科目はないものか。三ツ星クリニック「ふんころがし」と称する専門病院はできないものか。(2021/10/20)

 

835『ヨーデル』

1950年ころに人気を博した演芸「ボーイズ物」は、現在のところすべてが解散または休止となってしまった。筆者は「灘康次とモダンカンカン」「東京ボーイズ」「玉川カルテット」のファンであった。ボーイズとは楽器を使用する音楽ショーで、歌真似や世相諷刺や笑いをはさむ演芸だが、現在ではユーチューブ動画でしか観ることができない。

楽器の腕前も確かだし歌唱力もすぐれているし、グループ一人ひとりの表情が活き活きしていて真の芸人という感じ。昨今のコメディアンやタレントとは比べ物にならないレベルの高さだ。筆者はほとんど毎日ユーチューブで楽しんでいる。これを観ていると精神衛生上よいのかもしれない。

ユーチューブといえば、ビートルズの「イマジン」、エルヴィス・プレスリーの「監獄ロック」、ディスコ「お富さん」、松山恵子「だから言ったじゃないの」。「女のみち」「麦畑」などの懐メロも欠かさず視聴している。エレジーやブルースの哀調を帯びた歌だけを聴くと夜中に目覚めて眠れなくなるので、喜怒哀楽ごちゃまぜに混ぜて視聴してから寝る。これが自律神経上よいのかもしれない。

つい最近は「ヨーデル」視聴に凝っている。ヨーデルは裏声と低音の地声を繰り返し切り換えて歌う歌唱法で、アルプス地方が発祥の地といわれる。筆者は青少年のみぎり、灰田勝彦や片山誠史のヨーデルを聴いたものだが、ひょんなことからユーチューブでヨーデと「再遭遇」したのだった。

ウィリー沖山、その愛弟子である八月真澄の「アルプスの牧場」「スイスの娘」「山羊番の少年」などをパソコンの画面を通じて視聴している。「裏声と低音の地声を繰り返し切り換えて歌う」と書いたが、ヨーデル独特の声が反転して滑らかにすべるような歌唱法が病みつきとなってしまった。

話はコロッと変わるが、筆者は胃腸の宿痾を抱える。少年期には胃腸カタルで大腸小腸の働きもわるいと診断され、長年にわたって慢性便秘症に苦しむ。現在でも胃腸系の飲み薬を4種類1日3回処方され服用している。

大便は漫画などに描かれる「」には遠く及ばないが、ソーセージ状のソフトタイプなもので一見して何ら問題がなさそうだが、これがイキンでも唸ってもなかなか出ないのだ。

ところがヨーデルを視聴するようになってから、ソーセージ状が滑らかに出るのだ。夕方視聴して翌朝には、すべるように、よー出るのである。ヨーデルは大腸のぜん動運動を促し「」をよー出るようにするのかもしれない。ミュージックは人間の人体生理や自律神経に大きな影響を与えるというリサーチがある。

しかしながら多少の疑点もあるので、ミュージックと「」との相関関係のこと不条理か否かについてアルベール・カミュを繙き、あれこれと調べる今日この頃である。(2021/10/10)

 

834『作句フィールド』

自分自身が作句した俳句について、自分自身で解釈乃至は解説をすることを「自句自解(じくじかい)」と称してこのコラムでも用いてきた。この言葉は俳句界では大方認知された用語であるが、一般社会ではどうだろうか。もっとも一般社会ではこの用語自体が必要とされていないだろうが・・・

そもそも自分の俳句を意味する「自句(じく)」という言葉はなく、糅てて加えて「自解(じかい)」などはあるはずもない。少なくとも『広辞苑』にはどちらも収載されていない。

しかしながら、「自解」を「じげ」という読みでは存在する。自解(じげ)とは仏教用語で、「師の教えによらず自分自身で理解し、また悟ること」と辞書に載る。適切というか皮肉というか、「自句自解」を斜に構えたスタンスで語意を述べるなら、「俳諧の宗匠の教えによらず自分自身で都合よく理解し、また結論付けること」ときわめて相似する。

恐らくは俳句総合誌の編集者が、仏教の「自解(じげ)」を寸借して「自解(じかい)」と読ませ、「自句自解」と造語して俳句界にデビューさせたのだろう。高名な俳人が自作の俳句の成り立ちを説明するページを、ある公器の俳誌で読んだ記憶がある。

何かけしからんような物言いをしだが、この四文字熟語は「名造語」だと思う。俳句をつくることを「吐く」とか「ひねる」といい、俳句は即興性を重んじるもの、内容も理由も説明しないという考えがある。それはそれで一理あるが、それとは逆の考え方があってもよいだろう。

俳句がつくられる「フィールド」がどのような状況だったか。それは情景の実写だったり、作者みずからの境涯だったりを知ることが鑑賞の一助になるだろう。また作品がめざす方向性を知ることで、文芸文学としての俳句のありようを探る糸口になるのではと愚考する。

日本の俳句人口一千万と称され、短歌とならんで「国民文芸」などと持ち挙げられているが文学的なレベルは低く、俳句についてはそのかみ「第二芸術論」までとびだして軽視されたこともあった。

俳句も短歌も文芸文学を創造するという意識も自覚も言語感覚もなく、のんべんだらりと作句作歌している人がなんと多いことか。(短歌も道連れにしてしまったが)。創造することの意識や自覚や言語感覚を持つためのフィールドとして「自句自解」があっていいのではないか。我田引水的な論拠かもしれないが━━(2021/10/04)

 

833『美術展出て・俳句』

9月18日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。その作品と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  美術展出て騙し絵の世に戻る  義人

「美術展ではエッシャーなどの「騙し絵展」が開催されていたのかもしれない。むしろ外へ出た後、自分のいるこの世こそが騙し絵のようなものだと作者は皮肉を込めて言う。その逆転もまた騙し絵的で面白く俳句的な見方だ」。仲寒蝉氏。

騙し絵とは、目の錯覚を利用して見る者に不思議な感覚を与える造形芸術のことで、主としてュールレアリスムの技法をいうが必ずしもそれだけに限らない。別称はトリックアート。

筆者は騙し絵の技法に大いに興味をいだき、たびたび俳句に詠んできた。目に見えている物事を別の物事に見せ、見る者をして芸術的欺瞞に陥れる表現法は、日常見慣れた表現形式に「よそよそしさ」を与え、異様なものに見せるロシア・フォルマリズムの芸術説「異化」そのものであり、表現の手段として広い意味での「比喩」とも言えるだろう。

「異化&比喩」は筆者ライフワークのモチーフであるが、俳句が独りよがりになったり理屈になったりすることは避けたい。跳躍や突飛や意表を突く表現が芸術性につながるものでなくては意味がないわけだ。

昨年6月、「詩あきんど」全会員が「合歓の花」一句を『俳句四季』10月号に掲載されるということで、「みづうみが騙し絵に見え合歓の花」を投句した。「詩あきんど」主宰の貴夫先生が、いい句ですねと褒めてくださった。

諏訪湖畔に合歓の大木があって8月下旬には花を咲かせる。湖水の青さと合歓の花の薄桃色の対照があまりにも夢幻的にして幻想的で、筆者の感覚としてはなぜか違和感がある。鮒釣りや蝦釣りをした諏訪湖は、筆者には特殊な生々しい皮膚感覚があって、「青色と桃色」のコントラストがどうもストンと胸に落ちないのだ。筆者は「みづうみ」を騙し絵と見たのだった。したがってこの俳句は心象風景だった。

さて回り道をしてしまったが、掲句は現実に自分が生きている世こそが騙し絵であるとなぞらえる。美術展で騙し絵(トリックアート)にふれ、その芸術性に心高ぶったのであるが、それは絵画という世界の一環を見ただけである。美術展を出れば現実にぶっつかるが、その現実こそが騙し絵に見えるというのだ。句意は分かりやすいが「世」では具象性にやや欠けるように思う。(2021/09/19)

 

832『近況片片』

7月初めより、筆者身辺があれこれと難事にぶち当たった。家人が足腰の痛みに加えて体調をくずし、筆者も腹痛が治まることなくつづき、飼い猫のギンちゃんまでが、家人の世話が受けられないストレスから餌を食べない状態に陥った。

筆者の腹痛はホームドクターが往診で病名を言ってくれないが、自己診断では昔の呼称で「胃腸カタル」だろうか。青年のみぎり、この病名で苦しんだ記憶がある。十二指腸潰瘍に罹って治癒した痕跡があると、レントゲン技師に指摘されたこともあった。頑張って自然治癒させたのだ。胃腸過敏症、胃酸過多症、胃壁ただれ・・・

四六時中痛むわけではなく、一日に5~6回じくじくと痛み、物を食べたり、腹をもんで屁をしたりすると少し楽になる。投薬しても多少はいいかなという程度の薬効しかない。

ギンちゃんは常食のカリカリには全く口をつけず、大好物のちゅーるやマグロ缶や人間用ササ身さえも食べない日が3日もつづく。水は少し飲んでいたが・・・やせ細って元気がなく目に力がなく、ケージの中の二階に駆け上がるのもやっと。筆者はペットロスを覚悟し、半べそかきながら火葬埋葬共同墓地をネットで調べたりした。

家人は家のなかの廊下でもステッキをつき、痛み止め薬を服用するため胃がやられて胃痛を訴え、食事の支度をはじめ、家事全般の作業がままならないありさま。

要介護2、要支援1。高齢者も超がつく超高齢者二人、ギンちゃんも人間の年に換算すると70歳だそうで、老老介護ならぬ「老老老介護」のわが家ではある。

こんなとき、二上貴夫先生から「詩あきんど」の4ページ、約4000字の原稿(エッセー)を依頼される。いったん躊躇はしたが〆切までには日時があるし、書いておきたいこともあるし、一度身を引くとすべてにわたって何もしなくなる性質なので・・・了解しましたとメールをお返しした。

腹痛の隙を突いてエッセーを書き、できる限りの家人のサポート、家人代理でギンちゃんのご飯や雲子の世話など・・・

・・・あれから、凡そ二カ月が経過した。家人の足腰の痛みは相変わらずだが体調は少しよくなり、ギンちゃんは死なずに食欲が戻ってきた。エッセーは大まかには書いたが、差し替えや推敲に凝るたちなので、脱肛までには時間を要するだろう。

ま、よかった。HP見て心配してくださる方があるので、殴り書きで近況報告までいたします。(2021/09/14)

 

831『マジッ句・詩あきんど44号』

マジッ句

餡蜜の道理掬ってスプーン曲げ

クレバスをご覧 南京玉すだれ

嘱目の海の句これぞ「あらヨット!」

凸面に透けて目高はジョーズ化す

ころもかへていよよ透明人間

カラヤンの指揮棒に似て孑孑(ぼうふり)

3Dの草矢 ドローンへ届くまで

水鉄砲 冷戦果てて核のボタン

忖度への陰陽道のみちをしへ

騙し絵の難破船こそ浮いて来い

尻尾切れ黒蜥蝪 ひょっこりはん

夢色のうつつ ギヤマン魔法瓶

ハンカチに包む奇術の詩篇これ

     ・・・・・・・・・・・

「マジック」は人間の錯覚を利用し、原理

道理を使いながら摩訶不思議な現象を見せる

演芸。魔法・手品・妖術・まやかし・トリッ

クなど類語や縁語があまたあり、広義では呪

術や夢占や占星術もカテゴリーに入る。

大掛かりな仕掛けから座敷芸まで、そして

現象の種類でも出現・移動・消失・浮遊・透

視・念動など多岐にわたる。扇子を遣って白

い半紙をとばす「胡蝶の舞」、三粒の小豆を消

失&出現の「天狗の豆隠し」。西洋では剛腕か

らするり脱出する「アームギロチン」、「魔女

の箒消し」など枚挙にいとまがない。

道具と技法で非日常ワールドを見せるのは、

表現形式に「よそよそしさ」を与えるロシア・

フォルマリズム芸術説の「異化」に通じる。

文体や切れ字のシステム、季語を擬する手法

など俳句もまた奇術であり謎掛けでもある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記は俳誌「詩あきんど」44号「Ⅰ」より転載させて頂いた。表題を「マジッ句」と造語にし、俳句それぞれが「異化」の芸術表現を目指しているので、敢えて冠に異化の言葉を措かなかった。読み手に句意が分かり難い面があるかと「自句自解」を試みる。

「嘱目の海の句これぞ「あらヨット!」。東京ボーイズの歌謡漫談で海の歌「あらヨット」の本歌取り。重い物を持ち挙げるときなどの掛け声「あらよっと!」の演芸→俳句置き換えパロディ。

「凸面に透けて目高はジョーズ化す」。スピルバーグのアメリカ映画、巨大鮫をテーマとする「ジョーズ」が俤。目高の巨大化は凸面ガラスのトリックである。

「カラヤンの指揮棒に似て孑孑(ぼうふり)よ」。カラヤンはオーストリア出身の世界的な指揮者。孑孑は「ぼうふら」とも「ぼうふり」とも読み、指揮棒(タクト)を振るような泳ぎ方をする。「沼のベルリンフィル演奏会」という筋立て。

「3Dの草矢 ドローンへ届くまで」。子供の素朴な遊びを目新しい3Dという視点でとらえてドローンへ。「飛び物」としての同類を突き合せ、作り手と読み手の「精神回路」を繋ごうというもの。

「水鉄砲 冷戦果てて核のボタン」。水鉄砲では人は死なないが、鉄砲は武器である。アナログの武器とハイテクの核兵器の取り合わせ。さらには「ボタン」は掛け違えや間違えて押してしまうものでもあり、「冷戦果て」の今日(こんにち)の方が恐ろしい。

「忖度への陰陽道のみちをしへ」。「平安中期の陰陽師、安倍晴明はよく識神(しきがみ)を使い、あらゆることを未然に知ったと伝える」と辞書にのる。識神は陰陽師の命令にしたがい、変幻自在、不思議な技をなすという精霊。安倍元首相は陰陽師安倍と同姓であり、あらゆる忖度をさせた。昆虫の「道教え」までも手なずけた。(2021/08/26)

 

830『いないいないじい』

河童庵の猫はギンちゃんといい、血統書付きアメリカン・ショートヘア13歳の。人間の年齢に換算すると70歳の爺さん猫である。ちなみに当庵住人は爺さん婆さん二人で、アメリカン爺猫の世話をしていることになる。

ケージ内の二階の小座布団での香箱座りの多いギンちゃんだが、ケージのある洗面所のドアを筆者が閉めるとき、「いないいない」と言って閉め、「ばあ()」と言って隙間から顔をだす。それを繰り返すと、ギンちゃんはケージ越しに目玉を見開いて驚く。これに味を占めた筆者は「いないいないばあ()」じゃなく、「いないいないじい()」をやってみたら、蚊の鳴くような声で「ニャー」と鳴いた。

「いないいないばあ」は赤ちゃんをあやす時の言葉&行動をいい、赤ちゃんの目の前で顔を両手で隠して「いないいない」と唱え「ばあ」と言って両手をどける。世界的な発達心理学の概念であり、英語圏では「ピーカーブー」といい、自我が芽生えて自己と他者の分離が始まる生後6か月以降の赤ちゃん専科という。

ギンちゃんの頭脳が赤ちゃん並みかどうかはともかく、「婆」と「爺」の語音の違いはわかるようだ。ギンちゃんも加齢とともにたびたび嘔吐、最近ではケージ内トイレに間に合わず、少々ながら粗相もする。身のこなしも以前ほど敏捷ではなく、階段の上り下りも躊躇しながらのありさまだ。

先達てのこと。ギンちゃんが体調を崩して日常食のカリカリを食べず、ネットで取り寄せたマグロ缶、肉缶などのご馳走も拒食。人間用の鶏ささみを与えたが少し口をつけるだけ、憔悴して目にも力がなくなり、いちじは死んでしまうのではと心が痛んだ。「いないいないじい」にも無反応だった。

ペットロスは思うだに悲しいが、逆に「爺婆ロス」となってしまってはギンちゃんの世話ができない。ギンちゃんを先に送る方がベストかもと考える。老猫の介護をしっかり見てやろう。「物言えぬ者()」を悲しませてはならない。仏教でいうところの功徳の「施行」である。「ばあ」も「じい」も言えない、私たち二人のリアルな「いないいない」の時が来るまでは!

━━━現在ただいまのギンちゃんは、元気を取り戻して盛んにカリカリを食べている。目力もあって「いないいないじい」にも可愛い声でニャーと鳴く。筆者のお昼寝に何処からともやってきて、そっと添寝してくれる。世の中にそんな奇特な人はいないが、この人()はやってくれる。筆者にとって猫は人である。(2021/08/23)

 

829『警察24時プラスα

「激撮」「実録」「密着」なんぞの冠をつけた「警察24時」なるテレビ番組があり、筆者は録画もしっかり取りながら欠かさず観ている。万引き、賽銭泥など「こそ泥系」の男は、町内や親類にもいそうな顔立ちや人柄だったりして親近感をおぼえる。

スピード違反を咎められ、また泥酔「道寝」を起こされ、顔面ひきつってキレまくり、悪態をつくシーンも好きだ。心モヤモヤ(朦朧態)を後生大事にためこむ性情の筆者も、ときにビッグバンの気持ちになるので、身代わりで爆発してくれた感じになるのだ。

夜な夜な出没の女装の衣装や化粧もそれとなく参考になるし、街角でいきなり下半身をさらけ出す裸族の出現にそなえ、刑事(デカ)が張り込むシーンにもワクワク感が湧く。

「警察24時」の定番といえば、矢張り駅のエスカレーターの女高生を狙う盗撮であろう。盗撮は「ケイサツ24(にいよん)」の大多数のファン垂涎のネタといっても過言ではあるまい。したがって「テレ東」「TBS」「テレ朝」「フジテレビ」などテレビ各社は警官にひねもす張り付き、取材の必死さが窺える。

盗撮は女高生がエスカレーターを昇る後方から、靴先に小型カメラや手提げ鞄にスマホを仕掛け、スカートの中を盗み撮りするシーンが多い。相手が女高生では、どう考えても「収穫」の高は知れているので筆者は食指が動かない。

鉄道警察やテレビ取材班は、鬼の首でも取ったがごとく犯人を責め立てる。ところがどっこい、肝心の被害者である女高生は気付かず、気付いても意外とあっけらかん。被害届は出さなくていいと、さっさと帰宅してしまう事例も。罪を犯したとはいえ、犯人の家庭はめちゃくちゃになるだろ想像はかたくない。

―――話はガラッと変わるが、オリンピックの女子水泳、板飛び込み、新体操などの、水着やタイツやビキニ姿の大胆さにはあきれ返る。両足の付け根までしっかり映っていて、これが公共放送や地上波の電波にのって流れる。

国際オリンピック公認の「秘物開帳」だろうが、社会問題にならないのが不思議。盗撮との違い、つまり「実写厳禁」と「実写容認」の違いはいったい何だろうか。ドイツの哲学者・カントではないが、実写する権利のアンチノミー(二律背反)を感じてならない。さらには、世界の日本の「ジェンダーバイアス」について厳しく糺すことが求められるのではなかろうか。

ほとんど裸体のあのような婦女子が嫣然として、駅頭や夜の街を徘徊していたらパトロール隊は見過ごすまい。職務質問とお灸だけでは済むまいが・・・(2021/08/11)

 

828『代替シンドローム』

「運動」を『広辞苑』に当たってみると①から⑤まであって、その⑤は「生」で、「生物体の能動的な動き。固体内の局所的運動と固体の移動運動。また成長運動・筋運動・細胞運動などのように分類する。植物にも膨圧運動がある」とある。

辞書を引いて事をややこしくするつもりはないが、筆者は筆者の「固体内の局所運動と固体の移動運動」の特異感覚&特異体質についてふれてみたい。「局所運動」とはアバウトにいうと手足を動かし頭や尻を振ること、「移動運動」とは身体の居場所を変えたり元に戻したりすること。

これら「運動」は固体(自分自身)の意思に基づき行われ、体力を使うので疲労したり疼痛を伴ったりする。局所によっては稀に快楽を伴うこともあるだろう。

ところで「運動」は日常生活でも行われるが、「スポーツ」においてより顕著だ。現在たけなわのオリンピックはその最たるもので、人間身体の局所と移動の祭典といってよいだろう。

運動選手はアスリートと呼称されるが、それらが体力を使って疲労したり疼痛を覚えたりするのは当人の責任と結果であるので問題ない。しかし筆者はテレビ放映の選手を観ているだけで、首筋や肩や手指が痛くなり、固まってしまう。自ら肩や手指を使ったわけでもないのに・・・体操の鉄棒や鞍馬、壁登り、柔道、ボクシングなど瞬間強烈運動を観るのが痛くてたまらん。

こうした「感覚移入」ともいうべき現象を筆者は「代替シンドローム」と呼んでいる。他者の感覚を自分自身の感覚として取り込むのであろうか。知覚過敏症の人がアイスを噛んで歯がキーンとなる。それを見ていただけで歯にキーンときたという話を耳にする。それも代替シンドロームの一種だろう。

「代替シンドローム」はないが、医学界に「代替医療」は存在する。通常医療に対して補完的に治療を施す、たとえば漢方薬、ヨガなどの伝統医療やサプリメントも含まれるという。

筆者も体調を崩すようなら代替医療を受けた方がいいが、とまれこうま、運動活動のお祭り騒ぎというべき「2020オリンピック」が終わってほっとしている。(2021/08/08)

 

827『ロボットと・俳句』

7月31日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。その作品と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  ロボットと話しながらや夕端居  義人

仲寒蝉「最近は介護用や人の話し相手になったくれるロボットもいる。この主人公の夕端居に付き合っているのはそうしたロボットなのだろう。端居とロボットの取り合わせなど現代ならではだ」。

「端居」は「家屋の端近く出ていること。特に、夏の夕方、涼を求めて縁側などにいること」と『広辞苑』に載る。「納涼」とはやや趣きが違う、三夏生活の季語。副題に「夕端居」がある。

いっぽう「ロボット」は、チェコスロヴァキアの作家テャペックの造語で、複雑精巧な装置による人工の自動人形。人造人間とこれも辞書に載っている。アンドロイドは検エンジンやスマホの名称に使われているが、そもそもはロボットと同義語に近いものだ。

Iの進歩があってロボットも多種多様になってきた。ダッチワイフも微に入り細を穿つ機能があると艶聞するが、上記の俳句のロボットとは同じ人型でも人種を異にするので割愛したい。

さてさて、用語解説が長くなってしまった。句意はいたって平明で、寒蝉氏がおっしゃるように「端居とロボットの取り合わせが現代ならでは」に尽きよう。それはそれとしてネタばらしをすれば、筆者はロボットを持っていない。持ってはいないが入手して愛玩したい気持ちはある。したがってこの句は「事実」でなく「創作」。

俳句は第一人称文芸であり、見聞きするもの表現するものはすべて「わたし」が見聞きし表現するスタイルである。俳句文体としては、「わたし」はロボットと話しながら端居していという単眼視点しかない。厳密な意味でのリアリスティックに欠けるが表現法であろう。

俳句の「俳」は芸をする人。わざおぎ。おどけ。たわむれ。滑稽をいう。俳優や役者や落語家、講談師など演者は役柄になりきって演技する。同様の意味で俳句もエンターテインメントであろうから、現実ではない事物や行動を、あたかも自分自身の体験談のように表現することが許されるのではないか。否むしろ、俳句文体はそうした表現をする運命を背負っているのではないだろうか。(2021/08/01)

 

826『水切りが・俳句』

7月17日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  水切りが小さき虹生む天竜川  義人

「水切り」は『広辞苑』に次のように載っている。「①」水を切ること。水分を取り去ること。また、そのための器具や設備。②水面に小石を水平に近く投げ、石が水の上を飛びはねて進むのを興じる遊戯。③生花で、水揚げの方法として、枝や茎を水中に浸したまま切ること」とある。

三者三様、言葉において大幅に語意の異なる用例は珍しいので、あえて全文を引用させていただく。当該俳句の「水切り」の語意は言うまでもなく②である。

筆者少年期には「水切り」に興じた記憶があり、水平に近いといっても小石を投げる角度と力の入れ方、石の重さや切断面、波や水の流れを読むことなど、美しく小石を飛ばすには相当なスキルが求められるものだった。

筆者の場合は諏訪湖で水切りに興じたのであったが、ここでは「天竜川」と場所をかえて設定してみた。いわゆる俳句的インパクトでは諏訪湖より天竜川の効果的だろうと。こうした「嘘」は「芸術虚構」(アーティスティック・フィクション)で、換言すればそれこそが「創造行為」だと思うのだ。

「事実は小説より奇なり」という喧伝文言があったが、すべて寸分間違いのないリアスティックな事実だったら、演劇も絵画も小説も詩歌もその多くたが退屈な代物だろう。「芸術虚構」という言葉を使ったが、逆説的に「詩的真実」という言い方もあって、これに置き換えられるかもしれない。さらには近松門左衛門の「虚実皮膜」という言葉もここに残して置かなくてはならん。

また「小()さき虹を生む」も、現実投石による水しぶきが夕日に映えてきらめいた程度だったが、それをあえて「虹」と誇張して表現した。ちなみに「虹」は三夏天象の季語である。(2021/07/22)

 

825『行水を・俳句』

7月3日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  行水を猫に見らるるステイホーム  義人

「行水」は潔斎のため清水で身体を洗って浄めること。暑中などに湯や水を入れた盥(たらい)に入って、身体の汗を流しさること。汗や脂を流すには腋の下や足の付根をさらけだすので、女性はともかくとして男性は素っ裸になる場合が多い。

当該句の「猫に見らるる」の見られる身体の部位は、男性の「一物」と考えるのが俳句表現としての成り行き。猫はじっと観察して、「おれのより大きいニャン」と思っているかもしれない。それとは逆に人間の身体の大きさに比例して、「小さいニャン」と呆れかえっているかもしれない。

行水を使うのも男、行水を見ているのも男猫という設定で眺めてきたが、行水を使っているのは女で、それを見ている猫は猫というプロットも成り立つ。俳句は第一人称文学なので作者名が「義人」でなく、女性名の「あいり」だったら朝日新聞が「バズる」ことに相成っただろう。佳作レベルにすべきでなかったと、選者の仲寒蝉氏も臍を噛んだだろう。

高浜虚子の俳句に「行水の女に惚れる烏かな」がある。虚子時代はせいぜいシミーズ状の下着での行水だったろうが、現代女性はどうだろうか。そもそも行水をするのか。するとすれば開放的な行水状況になること疑いない。惚れるどころか烏はカーとも鳴かずひっくり返るかもしれん。

当該句は見られている人物に性別はない。「女」の文言はないのでエロチシズム的な刺激性は薄いが、イマジネーションは掻き立てられる。そしてステイホームが後世の時代考証の参考になるだろう。(2021/06/05)

 

824『川柳20句』

このコラムの814号に掲載した、FM放送の電波にのった筆者の川柳について、それ以降の「FMいたみ」と「FMサンキュー」で放送された作品を書いておく。

「FMいたみ」

散る桜仰げば空は万華鏡

縄跳びを大きく廻し富士入れる

受付のロボット嬢に一目惚れ

食レポをしてよと妻に求められ

巣ごもりは老いも若きもパジャマ着て

リモートはパンツ一丁上背広

前向きの気持ちになって衣替え

行水も乙なものだよステイホーム

変顔と違うわこれが普段なの

誕生日花よりお菓子下さいね

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「FMサンキュー」

泥縄のコロナ対策ちゃんとせい

コロナ下の日々の楽しみ土いじり

名曲を聴いて楽しいステイホーム

言ったでしょ「一生浮気しないよ」と

探し物失くした物は何だっけ?

政府でも間違ってればアウトだよ

女房との舌戦勝ったためしなし

比べればイケメンよりもお金持ち

枕には六法全書ちょうどよい

コロナ禍の医療従事者汗みどろ

放送されても確認できなかったものがあるかもしれないが、以上の20句をアップする。「FMいたみ」は自由題だが、「FMサンキュー」は題詠。ここでは題詠のお題は省略しておく。(2021/07/02)

 

823『自分への・短歌』

6月12日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  自分へのご褒美を買ふ人がゐて

   自分に甘い風潮の世か  義人

「自分へのご褒美を買う」という人をリサーチする、街角インタビューのテレビ放映をたまたま観る。仕事などを頑張ったことへの褒賞と激励で、心ばかりの品物ではショートケーキやタピオカ、ちょっと奢ってブラウスやパンツと言い募る、二十代から四十代の女性陣が多い。

男にもそうした人種は少数派ながらいるだろうが、「ご褒美」なる言葉からして女性的なので、男の事例では営業を頑張ったから居酒屋で「缶酎ハイもう一杯」程度であろうか。それでも自分に甘いよな、というのが筆者の当該短歌の言外の声である。

精魂込めて頑張ってやり遂げた。たとえば運転免許証をとった、応募した小説が優秀賞になったなどの場合でも、絶対に事故を起こすまいとか、次の小説のプロットが頭を駆けめぐるとか、お祝いどころではない。そうした心情にもなれず、そうした風潮もなかったのが筆者の時代だった。

ところで、自分へのご褒美を買うための原資は、自分の財布から、即ちポケットマネーからということだろうが、財布の原資は当然ながら減少するわけだ。さすれば資産と負債という簿記学的には、±(プラスマイナス)0ということになりはせぬか。余計なお節介ながら一筆書き記しておく・・・(2021/06/12)

 

822『筍を掘れば・俳句』

6月12日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  筍を掘れば気分は長者なり  義人

「筍」は初夏の植物の季語。竹の地下茎から生じる嫩芽(どんが)で、食用にされる。孟宗竹は晩春から初夏にかけて採掘されるが、呉竹や淡竹はやや遅れて出る。

筍は自然状態の山や林から出る例はすくなく、多くは個人所有の竹林に育つものを採掘する。したがって、ひと山もふた山も所有する「山持ち」の長者が、趣味の一端と食べ過ぎの腹ごなしをかねて筍掘りを楽しむのであろう。

竹林の傾斜地でぺっぴり腰になりながら、筍専用の唐鍬を使って掘り当て、鋭い金綱の根切り棒を用いて切り出す。収穫した筍を市場に出すなんぞというサモシイ魂胆は「生来代代」持ち合わせておらず、食べきれない分は作男や女中や向こう三軒両隣にお福分けするのが由緒正しい長者の努めでもあろう。

当該句や解釈を読まれた向きは筆者の経験談と思われるかもしれないが、これは全くイマジネーションの産物で、筍を掘れば多分気分は長者だろうなという穿った句意である。

筆者、筍は好物だ。薄い醬油の味付けだけの単品で食べるのだが、初夏らしい香気と軽やかな歯切れが素晴らしい。根がねとねと感情心情をこねくり廻す性情なので、せめて歯だけでも歯切れのよさを希求するのであろうか。(2021/06/12)

 

821『ロールシャッハテスト』

国道20号線に面した前庭は台杉・白樫・山法師・隠れ蓑。そしてそれらの樹木の根方には躑躅や紫陽花の植栽があしらわれる。中庭には鬱蒼としげる楓の株立ちと、ひょろ長い青木に寄り添う瀬戸物の狸が陣取る。裏庭では常緑針葉樹の鼠刺しが突っ立ち、咲き分けの椿の大木が樹冠をひろげ、百日紅がつやつやと裸の枝を千手観音のように張っている。これが自称「河童寓」である。

前庭、中庭、裏庭と庭が三か所もあると書けば、広い敷地の大きな草庵と聞こえるかもしれないが、土地66坪で建坪43坪(二階建)の小市民的レベルだ。

いやいや、拙宅の土地建物のことを書きたいのではない。中庭の楓の株立ちが若緑の葉を枝の隅々までひろげ、これをリビングから眺める今日この頃だが、若緑の葉陰に茶褐色の鶫(つぐみ)のような小鳥がいて頭部がしきりに動いている。じっと目を凝らしつづけるが、確かに目玉もキョロキョロさせている。

それを見ていた家人が「あれは楓の枯葉よ」といった。筆者は枯葉に違いないとは思いながらも、他方ではあれは間違いなく鶫だ。げんに辺りを窺って動いているではないかと・・・

とある日、廊下の毛糸屑が蚯蚓に見え、じっと凝視していると少しずつ蛇行している。あっ、出たな俺の病気がと、大きく空気を吸って吹くと毛糸屑はのたうち回りながら吹っ飛んだ。

寝室の枕元に3ミリの黒い虫がいて、よく見ると動いている。どこから見ても虫だから首筋に這入り込んだら気持わるい。「ご免ごめん」と詫びを入れながら手元にあったガムテープで圧殺。しかしそれはボタンの欠片で、むろん虫の体液は出るはずもない。真夜中に枕元で虫を観察する事例は多く、これこそ「寝室鬼没」だ。

ごきぶりはホイホイと速いので一本の線に見え、ぼんやりしていると固定電話の黒い回線に見える。筆者は眼鏡をかけているが棟方志功さんほど悪くないので視神経ではなく、脳神経の障害だろうと自己診断したりする。

スイスの心理学のヘルマン・ロールシャッハが発明した「ロールシャッハテスト」。この心理テストは戦争やポップカルチャーに応用される投影法で、インクの染みを見せて何を想像するかを調べ、言語表現を分析するという。無意識を投影するので思考過程、その障害や疾患を推定するとされる。

カフカの『変身』は「ある朝不安な夢から目覚めたら自分が毒虫になっていた」のだが、人間が虫になるという不条理や精神病理を表現する一面でもあるだろう。

筆者の毛糸屑やボタンが虫に見える病理をここでカミングアウトしたが、ある面ではこの病理が文芸創作の基本軸である点も否定できない。文芸(文学)とは不条理、精神病理、心理学の「るつぼ」であり、喜怒哀楽の「怒」「哀」を表現するものだろうから・・・。(2021/06/06)

 

820『ぽるのぐらふぃー』

ぽるのぐらふぃー

佐保姫は領巾を宛がひそと隠す

蒲魚が白魚の指以てまさぐらん

お医者さんごっこを重ね知恵貰ひ

花衣脱ぐやキティちゃん玉の肌

ヴィーナスの丘を掠めて柳絮飛ぶ

亀 頭もたげ啼くなり女神ヶ湖

世之介が尻の借りどき目借り時

獣姦の牡鹿 けろんと角忘れ

馬刀突きの割礼 海の息子たれ

犬 ふぐり揺すれば殿御ござ早漏

春のゆめ卑猥の旅へ朝立ちか

メビウスの帯解きうらら鏡の間

    留書

絵画・文学・演劇などのセクシュアルテー

(性的定立)において優れた芸術作品を生ん

できたが、葛飾北斎「海女とタコ」、伊藤整

「チャタレイ夫人の恋人」、大島渚「愛のコ

リーダ」は世間的には芸術か猥褻かで裁判沙

汰や社会問題化した。

劣情という言葉にアントニム(対義語)

なく、敢えていうならば純情か。しかし劣情

(含む愛情)と純情(含む欲情)においては確

たる線引きはなく識閾の領域だろう。

万葉集などの恋歌は一読して純情だが、純

情のアントニムが劣情で線引きがないとすれ

ば、それはそれで悩ましい。われら俳句界で

は日野草城の連作「ミヤコホテル」が先行す

るが、それ以降見るべき作品はない。俳句が

「梅に鶯」「月に芒」だけでよい訳はなく、

どの道この道、頑張ろうではないか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

俳誌「詩あきんど」43号「Ⅰ」より転載させていただく。なお「領巾(ひれ)」、「蒲魚(かまとと)」には()内のルビがふってある。また「留書」は筆者が便宜上つけたもの。

近未来の俳句表現における異化と異化効果を追求するため、セクシャルを題材として凹凸レンズを透かして眺めようとしたものだ。それぞれの俳句についての「自句自解」は、微に入り細を穿つ解釈が求められるので憚りたい。大向こうから催促がましい声は掛かるが、これは割愛する。(2021/05/22)

 

819『オンライン句会・俳句』

5月15日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  オンライン句会始める春炬燵  義人

俳誌「詩あきんど」主宰の二上貴夫先生のもと、「ズーム句会」(オンライン句会ともいう)に筆者がはじめて参加したのは今年の1月20日だった。

最初は会員八名ほどの出席で三つ物を巻くという興行だった。その後は連句を巻いて月二回くらいのペースでつづけられた。

筆者にとっては貴夫先生や会員たちとの出会いは初めてで、画面越しではあるが親しくお話することができ、古い言葉だが文明の利器の恩恵にあずかったわけである。(筆者は数回参加したが坐骨神経痛などでPCに向かって長時間坐れず、残念ながら欠席している)

コロナ禍で句会や歌会が開催できず、俳句や短歌などの結社の主宰は悩んでいる話を耳にする。全国規模の連句大会も中止になったり、募集はするが表彰式や実作会はしないかったりの影響が二年にわたって出ている。

ただ、ほんの一部ではあるが、句会などをオンラインやリモートで行うグループもあると聞く。ただし主宰がデジタルに明るくなければ出来ないし、会員もシステムに暗ければ成り立たないだろう。

さて、掲句であるが、上五・中七の背景についてはすでに書いたので、下五の「春炬燵」についてちょっと触れる。「炬燵」は三冬生活、「春」は三春時候の季語である。

冬と春の季重なりだが、雪国などの寒冷地は暦の上では春でも氷点下10余度という寒波がたびたび。春更けても身震いする寒さに襲われる日もある。筆者の若いころの俳句の先生であった宇田零雨氏に「花時の炬燵をかしや諏訪の宿」がある。先生が諏訪を訪れたときの旅吟で、この俳句をしたためた短冊を頂いた思い出がある。

春にかぎらず、信濃の国では高山の山小舎には夏でも炬燵やストーブがあり、いうならば「夏炬燵」ということになる。「木曽の御嶽さんはナンジャラホイ、夏でも寒いヨイヨイヨイ」と「木曽節」に歌われるではないか。夏でも寒いのだ。(2021/05/16)

 

818『わが夢十夜()

ふわふわした真綿を敷きつめた上を兜虫が這ってゆく。八匹ほどが列をなし、真っ白な真綿の蒲団を這ってゆくのだが、三対六本の脚が絡まってスムーズに動けない。それでも身をよじってもがき、角を振りふり僅かながら進んでゆく。

この状況を食い入るように凝視していた私は、このまま手をこまねいていてはならない、兜虫の列に加わって同じように行動するべきだと決心。そして最後尾の兜虫につづいて這いつくばった。

真綿の蒲団は思いのほか深く、兜虫より重い私は沈んでしまった。ふわふわした真っ白な空間のなか、私も身をよじってもがき、じょじょにではあるが体重移動ができるようになった。「嗚呼、よかった。兜虫と同じような動きができるようになった」と、ほっとして大息をついたとき夢から覚めた━━

━━筆者は虫が嫌いである。わけても蛞蝓(なめくじ)、青虫、毛虫など「柔らか系」が大の苦手。なんとか我慢できるのが兜虫、天牛(かみきりむし)、蝉などの「固め系」で、指先でそっとつかむだけなら吝(やぶさ)かでない。虫をみて虫唾(むしず)の走るような筆者が、なんで虫類の俳句を好き好んで詠むのか。世界は虫類によって成り立っているから。一寸の虫の五分の魂を詠まなくては俳句にならないから・・・

こんなリサーチがある。昆虫や軟体などの虫類と鳥類の形体や生態がサイエンスの「文明開化」のヒントになっているというのだ。たとえば、戦車は兜虫のイメージから設計され、潜水艦は源五郎の生態から、ジェット機は鷹の飛翔から、ヘリコプターの昇降ハッチは天道虫の翅の機能から、医者の聴診器は紋白蝶の口吻から、歯ブラシは毛虫がヒントになって誕生したとされる。武器や車両や日常生活の道具までもが、虫類&鳥類のイミテーション(模倣)から開発され派生したという研究があるのだ。

(余談ながら、垂直に上昇して水平飛行する昆虫や鳥類は存在せず、虫鳥の生態を無視て設計されたオスプレイ(垂直離着陸飛機)は、たびたびおっこちる。飛行機体で墜落率が高いとされる)

話が逸れてきた。エンディングにこれを引用しておこう。不条理文学の嚆矢とされるフランツ・カフカ著『変身』。「ある朝グレゴールは自宅のベッドで目を覚ますと、無数の足と固い甲殻を背負った褐色の毒虫になっていることに気がついた」。(2021/05/10)

 

817『わが夢十夜()

諏訪湖を眼下におさめる高木地区を愛車で走っていた。道幅3メートルほどの険阻な崖の上で、民家がとびとびに点在する鄙の地域である。ポツンと一軒の駄菓子屋があるので明治チョコレートを一箱買って、行き止まりの空地で方向転換させて引き返すべく、車を後退させ前進させ何回か切り返していた。

ところが、後退すべくギアをバックに入れてエンジンをふかすと、車が前進するのだ。そしてギアを前進に入れると車は後退するのだ。狭い空地で急ブレーキをかけたが崖から転落しかかる。パニックになって「バックは前進?バックは前進?」と叫びながらアクセルを踏んだ。ところ誤作動どころか、ギアをバックに入れてアクセルを踏んだら車が「後退」した。一瞬で「正常」に戻ったのだ。

後方に余地のスペースはなく車は崖から転げ落ちてゆく。五メートルほど転落したところで急ハンドルを切ったら、車はふわりと浮遊して元の空地に戻った。

━━そのとき夢から覚めた。額にじっとり脂汗をかいた。

愛車というのは日野コンテッサ900cc。トラックの日野自動車工業がルノー4CVのノウハウで得た技術をもとに開発した乗用車で、1961年から約8年間にわたって生産された。世界にもほとんど例がない電磁式クラッチがオプションで搭載可能だった。

有名なカーデザイナーのイタリアのミケロッティのデザインで小型車ながらコンテッサ(フランス語で貴婦人)に恥じない流麗で優美なフォルムを誇り、性能もルソン島ラリーや世界耐久レースで数多く優勝している。

コンテッサのフォルムや性能もさることながら、筆者は蹇(あしなえ)で歩行が不自由のため、クラッチを踏んでのギアの出し入れが困難だったので電磁式クラッチにひかれて購入した。

ところが購入してほどなく、前進のギアに入れると後退し、後退のギアに入れると前進する事例が発生した。すぐにディラーの日野自動車松本販売に持ち込んだ。整備士は「ときどきありますよ」と事もなげにいった。あっというまに修理は終わったが・・・

そのことがあって前段に書いた「夢」をみた。ある意味で正夢だったわけだ。前進するはずが後退、後退するはずが前進という認識と結果の「さかさま」は、人間の生理や心理に多大なストレスを与えるものだろう。ハンドルを切ったら車が浮き上がって崖をあがるという、現実にはあり得ない突拍子もない状況は、人間の心的崩壊を止めようとする下意識における夢の効用にも思える。

フロイトの『夢判断』の「複雑で混沌としたものを繋ぎ合わせて編集し、物語風に仕立てる二次加工を無意識に行う」ことに通じるのかもしれない。(2021/05/06)

 

816『わが夢十夜()

筆者はよく夢をみる。ほとんど毎夜&夜通し夢をみていると言っても過言ではない。浅い眠りのレム睡眠にみるとされる夢が、ノンレム睡眠にみるとぶち上げたNHKの説もある。

寒がりで重たい掛け布団のせいか、頻尿で夜間に4回起きるのが原因かは判断がつきかねる。そこに起因するのではなく、ひょっとして精神状態に問題ありと自己診断をくだしたくもなる。いずれにしても「夢見るお爺」であり、叶うものならフロイト先生に往診を依頼したいものだ。

夢の種類とか題材とかストーリーとかは、起床時にはうろ覚えながら覚えているが、時の過ぎゆくままに消えかかる。けれど跡形は残っていて例えば、車をバックで九十九折を下りる、アジの干物を食べていて近所の野良猫に横取りされる、ナメクジを優しく抓んだら溶けてしまった、連句仲間の付け句を手直ししたら怒鳴られたetc.

似たり寄ったりの内容が多いが、連句の連衆さんの付け句の添削や改案の夢はたびたびみる。最近でこそ年に10数巻だが、長年にわたって捌きに携わってきたので合計では約900巻になろうか。国文祭、芭蕉祭、新庄大会、津幡大会、さきたま大会、井波大会、形式自由平成大会など年間100巻余は応募した。

フィールドはファクスが中心で、多いときは10数巻同時進行で捌き、句を付けては次の連衆にまわす。興行中の一直はあまりせず、満尾してから差し替えたりバサッと手直ししたりする。

満尾定稿の推敲でグレードアップしたと多くは喜んでくれたが、ある連衆さんには「直さないでほしい」と言われたことも。大幅な改案には申し訳ない気持ち、後ろめたい気持ちが常にあった。応募して受賞すればよいが、落選しようものならガックリきた。

連句のルーツである俳諧の連歌といわれたころは、下手糞の人の代わりに句を付け、作者名を五歳の童に代え、名前なしの例もある。詠み人知らずではないが、個人が主張をしない原初的な意味での無名性の時代だったらしい。

話が横道に逸れてしまった。連衆さんの付け句の手直しの夢をよくみるのは、文芸家として言語の浪費という原罪だろうか。トラウマ(虎馬)があっての悪夢と思えてならない。(2021/04/28)

 

815『亀鳴くや・俳句』

4月17日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  亀鳴くや物臭太郎碑のほとり  義人

『広辞苑』によると物臭太郎は、「『御伽草子』の二三編の一。成立は室町時代か。信濃国の物臭太郎という無精者(ぶしょうもの)が歌才によって宮中に召され、貴族の出身で善光寺如来の申子(もうしご)とわかって出世するという筋」とある。

物臭太郎の発祥の地の信濃の国筑摩郡あたりは現在の松本市新村で石碑があり、また造営したといわれる穂高神社はいまもしっかり残っている。

『御伽草子』に語られる物臭太郎は無類の無精者で、竹を四本立てて薦(こも)をかけただけの家に住み、垢まみれでノミやシラミだけには不自由しない暮らしぶり。商売をするわけでなく田畑で働くこともせず、のんべんだらりと一日中寝そべっていた。ところが歌才に恵まれ、宮中に召されたことがきっかけで出身が判明して大出世するという筋立ての民話である。

「ものくさ(ものぐさ)(漢字では「物臭」「懶」と書く)は、無精で怠惰でだらだらした人間や性格、勤勉実直とは対をなすもので嫌われるかと思いきや少数派ながらファンもいる。できることなら自分もそんな身分になりたいと思うのだろうか。

努力もせず聴いているだけで英会話が上達する教材、食べたい物を鱈腹食べて痩せられるダイエット法、テレビを観ながら腹筋を鍛える電磁波トレーニングなどは物臭の垂涎のアイテムかもしれん。

とまれこうまれ、信濃の国の筆者としては物臭太郎に親近感を覚え、こうして由無し事を書き連ねた次第である。鳴かない亀を「亀鳴く」という春の動物の季語もロマンティックで、物臭太郎伝説にふさわしい措辞と自賛したい。(2021/04/17)

 

814『川柳14句』

このところ筆者が、川柳を詠んで応募していることは既に書いた。応募先はFM局ラジオ2局。伊丹市のFM局「ハッピーエフエムいたみ」の「関たか子の川柳」には、次の川柳が採用され電波にのった。毎週金曜日約50句放送されるので一箇月約200句。〇印は2月および3月の二箇月の採用作品から選ばれて入賞となった作品。優秀賞が3点、入選は7点。

  チョキだけのじゃんけんをする蟹の国

 デリバリーの駅弁食べて旅気分

  巣箱かけ孫が待ってる青い鳥

  春の夜は棚のこけしに横恋慕

  花便りテレビ観ながらおうち飲み

  折り紙で落下傘折るおっかさん

いっぽう瀬戸市のFM局「ラジオサンキュー」の「川柳の時間」には、次の川柳が採用されラジオで放送された。こちらも毎週金曜日に放送される。毎回お題がでる。

  寝とぼけて旦那と猫を踏んじゃった   「踏」

  言ったよな「貴男の色に染まります」  「色」

  雨の日も自粛しないで破れ傘      「破」

  おうち飲み雛人形に横恋慕       「横」

  三歳の坊やズッコケ受け狙い      「受」

  自分では満点パパと思うけど      「満」

  大吟醸飲んでも泣くか泣き上戸     「上」

  良薬と言い張って飲む大吟醸      「良」

エフエム放送は聞き漏らすこともあるので、全部は確認できていないが、「FMいたみ」はユーチューブでも流しているので後から調べることは可能だった。川柳を詠んでいると言ったら、どんな句か知りたいという句友の希望があったのでアップした。ラジオでは検索して聴けないので・・・

川柳と俳句の融合というには程遠いが、なんらかの接点を見つけたいと川柳をちょっと齧っているのだ。連句の付句のヒントになるかもしれない。(2021/04/12)

 

813『お借りした・短歌』

4月2日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  お借りした地球返して礼を述べ

   そっと逝きたや虹を渡って  義人

筆者は土地付き二階建て住宅に住んでいる。土地66坪も上物も借用ではなく所有なので、上句「お借りした」という表現は常識的には正しくないかもしれない。

しかし筆者は、そもそも土地(地球)の所有権を認めないという考え方を持っている。法律がどうであれ、地球は誰のものでもなく皆のものである。現に生存している人間もしくは動植物のものである。さらにいうなら、領土や海域や国家すら領有権を認めてはならないものだ。

地球という存在は、人間や動植物が所有権を主張できないという概念のもと、筆者は心のなかで地球は「借り物」だと思っている。したがって死んでしまえば地球は必要がないので、当然のことながらお返しするのである。

死んでゆくとき、家を建て庭造りさせてくれ、山河や道路を使って旅行させてくれた礼を述べ、葬式などしなくてよいから、出来れば虹の橋を渡ってそっと逝きたいものよという歌意だ。

このような内容の短歌、なかんずく新聞の文芸欄では選者に敬遠されるのかもしれない。推敲をかさねて朝日新聞の全国版の歌壇にたびたび応募したが没。さらに微推敲して朝日新聞長野版の歌壇でやっと日の目をみた。入選だと選者が講評を書かざるを得ないので、あまり人目につかないように佳作としたのだろう。佳作でも掲載されて筆者はホッとしている。(2021/04/03)

 

812『巣箱掛け・俳句』

4月2日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  巣箱掛けひたすら待ちぬ青い鳥  義人

「青い鳥」はメーテルリンク作の童話劇。チルチルとミチルの兄妹が夢のなかで、過去や未来の国に幸福のシンボルである青い鳥を探しに行くが、結局それはもっとも身近な鳥籠のなかにあったというストーリー。

余談ながら「青い鳥シンドローム」というのは、幸福の青い鳥が鳥籠のなかにいることに気づかずにいることから、今よりもっといい人がいるとか、今よりもっといい仕事があるとか考えてしまう症候群をいうそうだ。「夢追い人」はロマンティックだが、にんげん諦めが肝心ということか。

「巣箱」は三春動物の巣籠り・巣鳥の副題の季語。森林や公園、一般家庭の庭の樹木の枝などに巣箱を括りつけ、鳥が卵を産んで育てる手助けをする。

巣箱を掛けて青い鳥を待っていることは、青い鳥を探し求めるのではなく、ここが幸福の出発点であるという句意である。

十余年以前、巣箱はかけなかったが、河童寓の楓の株立ちに鵯(ひよどり)が巣をかけ抱卵して6羽の雛鳥を育てた。巣立ちまでの約20日は裏庭にも出られず、大変な気遣いをしたものだ。見た目、鵯は青い鳥ではないが筆者らは夢を追わず、青い鳥シンドロームにもならなかった。(2021/04/03)

 

811『軍歌三曲』

「ダンチョネ節」(神奈川県民謡・軍歌)はこんな歌詞である。「沖の鴎と 飛行機乗りは どこで散るやらネ はてるやら ダンチョネ」「俺が死ぬ時 ハンカチふって 友よ彼女(あのこ)よネ さようなら ダンチョネ」「タマは飛びくる マストは折れる ここが命のネ 捨てどころ ダンチョネ」。

原曲は神奈川県三浦三崎の猟師歌とされるダンチョネ節。その替え歌で作詞作曲者不詳の軍歌で、戦死する覚悟や死出の旅を歌ったもの。ユーチューブでの歌手の名前はわからないが、声調や歌い方もどこか悠長な響きがあり、それがかえって哀愁をさそう。

軍隊小唄」。「いやじゃありませんか軍隊は カネのお椀に竹の箸 仏さまでもあるまいに 一ぜん飯とは情けなや」「腰の軍刀にすがりつき つれて行きやんせ どこまでも つれて行くのはやすけれど 女は乗せない輸送船」。

作詞者不詳、原曲者倉若富房。替え歌だが別バージョンもあり、替え歌の替え歌もあり、歌手も数人いたらしい。映画「二等兵物語」の主題歌にもなっている。鷹揚で朗らかな歌い方で歌詞もひょうきんだが、それゆえ哀れさが漂う。日本の敗戦後に流行った歌といわれるが、生々しい傷跡をそっと癒すような軍歌だ。

「海軍小唄(ズンドコ節)」。作詞者不詳。原曲者佐藤富房。歌手は三島敏夫とそのグループ。

汽車の窓から手をにぎり 送ってくれた人よりも ホームの陰で泣いていた 可愛いあの娘が忘られぬ トコズンゴク ズンドク」「花は桜木 人は武士 語ってくれた人よりも 港のすみで泣いていた 可愛いあの娘が目に浮かぶ トコズンドコ ズンドコ」。

ズンドコ節の替え歌はあまたあり、ズンドコ節とは囃子詞にズンドコを用いる楽曲の総称。時代くだってザ・ドリフターズや小林旭のズンドコ節もあるが、軍歌のそれは哀切さがにじむ。曲の軽快さのなかに出征兵士として送り出される悲しみがこもる。三島敏夫のハスキーがかった声も忘れられない。

戦い高揚の勇ましい軍歌ではなく、掲げた三曲は飛行機乗りや兵隊生活や出征の私的なシーンを歌ったもの。戦争はいやだ、死ぬのはいやだという本心が透けてみえる。のんびりしたが楽調に載せることで人間味の感じられる反戦歌だ。

筆者この頃、ユーチューブで視聴している。曲は聴いたことがあるが歌詞は初めて知った。通俗的ではあるが状況が想像されて胸が熱くなり、75年経った現在も、筆者の戦後は終わっていなかったと改めて思った。(2021/03/21)

 

810『ボーイズ』

演芸の一種にボーイズがある。楽器を使用した音楽ショーでボーイズ物・ボーイズ芸ともいい、1960年ころから一時期は人気を博したが絶滅してしまった。テレビでは観られないがユーチューブでは動画が楽しめる。隆盛をきわめた三グループをとりあげる。

「灘康次とモダンカンカン」。リーダーの灘はボーイズの嚆矢である川田晴久の直弟子で、浪曲調の独特な節回しでリードギターを弾きながら「地球の上に朝が来る、その裏側は夜だろう、西の国ならヨーロッパ・・」と歌いだす。他のメンバー四人もサックス・ドラム・サイドギターを奏で、それぞれが小林旭や三橋美智也や青江三奈などをデフォルメした歌真似をする。

演奏や歌唱もさることながら、時事ネタを織り込んで、ボーカル灘が「^^♪歌と笑いと音楽の・・」と歌う通りの演芸だ。練習を積んでいるらしく芸がこなれていて余裕と滋味がある。

「玉川カルテット」。玉川勝太郎門を中心とした浪曲漫才。浪曲を多く取り入れたボーイズで三味線・ギターを弾きながら任侠物や流行歌をうなる。

メンバーの二葉しげるの「金も要らなきゃ女も要らぬ、あたしゃ、も少し背がほしい」が売りだが、松木ぽん太の三味線の早弾きは人間国宝そこのけの技。またギター演歌の松浦武夫は圧倒的な声量で北島三郎「山」の小節廻しも歌手そこのけの一級品。ご面相が天才バカボン似という落差が笑わせる。エンターティナーは変梃(へんてこ)な顔がものをいう。

「東京ボーイズ」は三人グループの歌謡漫談で、リーダーはアコーデオンの旭五郎、ウクレレは仲八郎、三味線は菅六郎。「天気が良ければ晴れだろう、天気が悪けりゃ雨だろう。雨が降ろうと風が吹こうと東京ボーイズ・・」。

世の中の話題をとりあげ、「謎かけ問答」として歌で謎を解くのがメイン。仲八郎が作詞作曲したというウクレレを弾きながら歌う・・・曲名「海の歌」、歌詞「あらよっと(あら、ヨット!)」。洋曲「マイハウス」、歌詞「イェ~イ(家~い!)」。演歌「長良川の歌」、歌詞「う~(鵜~!)」。単純明快にして単刀直入、話術&歌唱に切れがあるので度肝を抜かれ、ついつい笑ってしまう。

現在はピンでの楽器漫談はあるが、四~五人で楽器を奏で、浪曲や演歌そして笑いを提供するボーイズはない。メンバーそれぞれに楽器&歌唱の技量が求められるので、せせこましい現代には無理なのだろうか。俎上に載せた三グループの芸の高さは娯楽というカテゴリーを超越している。最近はテレビでM―1やR―1など漫才・コントが放映されるがさっぱり面白くない。観客の反応も呼吸も考えず、舞台をバタバタ動きまわるばかりで笑えない。こう思うのは筆者だけであろうか。(2021/03/15)

 

809『巣ごもり・俳句』

3月12日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が一席入選として掲載された。その作品と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  巣ごもりの正装これぞちゃんちゃんこ  義人

仲寒蝉「巣ごもりは本来鳥が巣に籠ることを言うが、今では新型コロナ感染症を恐れて家に籠ることを指す。ちゃんちゃんこは綿入れ袖なし防寒着であるが、それを巣ごもりの正装とおどけてみせた」。

「正装」とは、儀式などに着る正式の服装。また、それを着ること。「―して列席する」。反意語は略装と辞書に載っている。

すなわち、ちゃんちゃんこは略装ではなく、われわれが家にこもるときの、これこそが正式な服装であるという句意だ。ひるがえって言うならば、家にこもるときは背広ネクタイ&羽織袴ではならないとする句意でもある。

俳句の「俳」の語意は、「①芸をする人。わざおぎ。俳優。②おどけ。たわむれ」だ。俳句を詠む人、つまり俳人の仕事は芸を演ずることであり、エンターテインメントとして諧謔や笑話を届ける人間にほかならない。俳句が「梅に鶯」「芒に月」だけでいいわけはなく、俳人は本来の俳句の姿形を探し求めなくてはならないのだ。

仲寒蝉氏の講評ですべて言い尽くされているので、語意の解釈と俳句の在り方の自説をのべた次第である。(2021/03/13)

 

808『諏訪湖晴れ・短歌』

3月12日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  諏訪湖晴れ釣果のありて魚拓する

    寒鯉の目に見詰められつつ  義人

筆者は十代後半から三十代にかけて諏訪湖でよく魚釣りを楽しんだ。諏訪市側から下諏訪町沿いの湖岸の石垣に陣取り、鯉(こい)・鮒(ふな)・鮠(はや)・蝦(えび)などを目当てに日永釣り糸を垂らした。魚の種類によって浮子(うき)や針や餌はさまざまだが・・・。浮子がピクリとも動かない時間も多々あったが、水中の魚族をイメージしながら由無し心を遊ばせるのが好きだった。

舟を使っての沖釣りはできないので鯉や鮒もほとんどが小形だったが、一度だけドイツ鯉が釣れた。ドイツ鯉とは「ドイツで作られたコイの飼育変種で、変り鯉の一種。鏡鯉と革鯉とがあり、一般に前者の称」と『広辞苑』にも載っている。

ドイツ鯉をネットで検索すると1メートルの大形から、多種多彩な錦鯉が売られているが当時の諏訪湖には黒系と灰色系の品種だけしかおらず、最大でも50センチのくらい。筆者の釣りあげたものは35センチ、スマートな体高のかたち、混じり気のない黒色で格調高い魚影だった。

ドイツ製の刃物・鋏・バリカン・ブラウン髭剃りなどは性能がすぐれ、ナイフもヒットラーも危険だが日本人にはドイツ道具崇拝があった。

掲歌はドイツ鯉を釣りあげた当時を回想しての作歌。「寒鯉の目に見詰められ」に感慨をこめる。イギリスの人類学者のB・タイラーが唱えたとされる、「すべての生物・無機物を問わないものの中には霊魂や霊が宿っている」とするアニミズムの考え方を筆者は信じている。そんな立ち位置からの「見詰められ」なのである。(2021/03/13)

 

807『aPPa

aPPa

とある夏の日の朝、上高地の河童橋の周辺を散策すべく、思い立ってスカイラインGT―Rを走らせた。その当時はマイカー規制もなく、到着早々に明神池近くの空き地に車を停め、河童橋を渡りながら聳立する穂高岳や槍ヶ岳を仰ぎ、信濃川水系の梓川のせせらぎに耳を澄ませた。昼頃には切株に腰掛け、持参のコオンド・ビイフの缶を切って食べ、麺麭をかじって腹ごしらえ。そしてステッキをつき、足萎えの右足を引きずりながら梓川右岸の小径を辿る。川端に山毛欅の木が繁り、樅の巨木も枝を張る。それを横目に熊笹をかきわけ、姫黄萓の花を踏みしだいて歩きつづける。気が付けば胡瓜畑が広がり、真桑瓜の発祥の地という木製モニュメントも立つ。

 山の天気は変わりやすく、灰色の叢雲が垂れこめ白い霧が流れて視界が遮られる。背後にあるはずの霞沢岳も六百山も見えず、放牧の馬や牛の顔が霧の切れ目からいきなり現れて肝をつぶす。愛車まで引き返すべきか、天候の回復を待って予定通りのコースを辿るべきか思案しながら歩いてゆくと、濡れた草に辷って大きな穴に落ちかかる。

 おっとっと、このとき咄嗟に芥川龍之介の『河童』を思い出した。この小説では主人公が穴に嵌まり込んで河童の国の特別保護住人になってしまい、精神病患者第二十三号として状況を語るという筋立て。河童の国は文化や思想や宗教などすべてが人間世界とあべこべ状態だという、逆説的に自己・社会・芸術を批判し諷刺する。

 河童は水陸両棲で顔は虎に似、くちばし尖り、身にはうろこや甲羅がある。頭には凹みがあって水が入ると力が強く、腕は一本で手肘が通脱するため巧みな技で相撲は負け知らず。また禁止水域で泳ぐ者の尻子玉を引っこ抜くのも至って簡単、まさに屁の河童だ。大の好物が胡瓜。ところで河童は鬼や天狗と並んで妖怪のスーパースターだが、人や馬の手足をへし折って悪戯する反面、骨接ぎの妙薬をくれるなどの二面性がある。河童の国と人間界との二律背反的なあべこべ状態が、『河童』のテーマだったのかも知れない。副題の『どうかKaPPaと発音してください』は当時文壇で謎の言葉とされたが、「発音」は異界への通行手形であり呪文なのだろう。与謝蕪村に『河童の恋する宿や夏の月』があるが、この俳聖は確かに異界を覗いていた。

 ・・・真っ暗な穴に吸い込まれそうになりながら辛うじて踏み止まった。しかし転倒して足腰をしたたか撃ち、暫くは身動きできなかった。散策もこれまでと蹌踉うように来た道を引き返す。梓川は霧に隠れて見えず、それでもやっと愛車の許へ。ところがポケットの車のキーが転んだ弾みで折れ曲がってしまった。河童橋たもとの社務所で水神様のマスターキーを求め、祈るような気持ちでエンジンをかけ帰路に就いたのだった。

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            (2021/03/03)

 

806『わが夢十夜()

国道二十号線の道幅10余メートルをはさむ、向かいの建物の二階の窓から男が叫んでいる。絶叫の内容はわからないが口唇をパクパクさせ、私の隣の男と何やら掛け合っているようだ。

罵倒なのか談笑なのか喜怒哀楽がトント読み取れない。やめさせなければ事態が悪化しそうな予感がして、私も声のかぎりに叫んだが声が出ていない。続けざまに三回叫んだとき、夢から目が覚めた。夢中で叫んだせいか涎がたらたらと垂れていた。

前夜にユーチューブやBS放送を観ながら、私は家人と演芸や漫才の話をした。漫才の和牛の「旅館の仲居さん」「洋服屋の店員」はドラマ仕立てでおもしろく、川西&水田の掛け合いの切れがすばらしい。ミルクボーイの「コーンフレーク」「最中」のオカンが菓子の名前を忘れちまったという駒場に、内海が応ずる口舌の烈しさ。かまいたちの「怖い話」「お父さん」の穏やかな濱家に、不条理なボケを絶叫する山内が笑わせる。エトセトラ。

家人は漫才師の出自や出身校や家族構成などに興味を示すが、私はコンビのキャラの対比やネタの種類やしゃべくりに興味をいだく。演者がここぞと盛り上げて笑いを取る箇所も、家人と私とではビミョウにずれがある。

・・・・私は夢から覚めても、しばらくの間は「夢のシチュエーション」を覚えていた。覚えてはいたが朦朧体のような不確かな記憶であり意識であった。向かいの建物の窓でがなりたてる男の言葉は意味不明だが、どうやら私の隣の男と漫才をしているらしい。「隣の男」といったが実は男ではなく女で、私の義姉さんの見覚えのある着物の裾がひらひらと翻っているではないか。

そして私自身は自宅のベランダで声を嗄らして叫んでいたが、それは私ではなく誰か知らない人かもしれないと思えてきた。

・・・・フロイトの『夢判断』によれば、夢の多くが意味不明なのは願望充足の願望が歪曲されかたちで現れるためという。また複雑で混沌としたものを繋ぎ合わせて編集し、物語風に仕立てる二次加工を無意識に行う。さらに精神分析用語の検閲(けんえつ)とは、憎い人を殺したい危険な願望を抑える心的機能であり、そうした機能は自己を消滅させたい願望でもある無私化にも及ぶとされる。

漫才の絶叫シーン、物語的なストーリー、家人と私との興味や意識のずれ、私の隣の男が義姉に入れ替わったこと、何よりも私自身に感情がなく自分が確認できないこと、などなど。フロイトの『夢判断』を繙きながら思いをめぐらせた。「私はそもそも何者で、無意識では何をしているのだろうか?」。

夏目漱石「夢十夜」に倣っての「わが夢十夜」だが、できれば十夜までつづけたいものだ。(2021/03/01)

 

805『冬遊び』

冬遊び

手を逸れててんてん手毬誰のもの

独楽澄むや地球どこかに芯があり

富士山を大縄跳びの輪に入れぬ

竹馬の太郎 赤門ひとっ跳び

LOTO6投扇興で試すらん

双六のGOTOトラベル箱根の険

あやとりの君の手の内絡め盗る

口目鼻ばらけ トランプ福笑ひ

ジョーカーが決める西洋骨牌かな

花合せ三十一文字のおいちょかぶ

ドローンと追ひつ追はれつ奴凧

果てしなく曠野はつづく雪まろげ

     「書留」

日暮らしつれづれなるままに、以下のよう

な短歌を詠んだ。「二度ぼこと言ひたくば言へ

二度までも子供時代を楽しんどるわい」。「ぼ

こ」とは主として甲信地方で赤子や子供のこ

とで、「二度ぼこ」とは年を取ると幼い子供の

ようになるという、悪い意味に使われること

が多い方言だ。

お正月や閉ざされた雪国の遊びは限られる

のだが、青っ洟たらす近所の悪ガキや、着飾

っても芋っぽい女子たちと興じた遊戯の記憶

は忘れられない。当季の遊びの季語を総動員

し、「二度目のぼこ」としてのプライドもある

から昨今の新しい題材にもトライした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上は俳誌「詩あきんど」第42号の「Ⅰ」に掲載された俳句12句と留書。ここに転載させていただく。なお留書は筆者が便宜上つけたもので俳文ともいわれるものだ。(2021/02/27)

 

804『マスクして・俳句』

2月26日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  マスクして虚妄の街を遠ざける  義人

「虚妄」は「きょもう」とも「きょぼう」とも読み、うそ、いつわり、そらごと、をいう。「虚妄の街」とは、繁華街の強調された配色のネオンサイン、看板に偽りありの大安売り、ぼったくりバーの客引き、着飾った厚底の男や女の発する言葉遣いや過剰なアクション。それらをひっくるめた佇まいの街だ。

「マスク」は三冬の生活の季語であるが、約一年前から厳密の意味での季節感を失ってしまった。新型コロナウイルスの大蔓延で四季を問わず用いられ生活様式になったので、いわゆる「雑の季語(無季)」というカテゴリーに入ることになるだろう。

それはそれとして、現在のところ俳壇的にはマスクは季語として踏襲されている。恐らく保守的な俳句伝統からして歳時記から駆逐されることは当分ないかもしれない。

季語である、マスク、サングラス、カンカン帽、頬被り、耳掛けなどは人間の顔面のそれぞれのパーツを保護、養生を目的とする用品である。しかしながら同時に、作為あるなしに関わらず自分の顔形をカモフラージュし、相手から見えにくくする効用があることは否定できない。つまり匿名性の効果が多少なりとも望めるという代物なのだ。

さて掲句であるが、「虚妄」「マスク」「遠ざける」の用語には、真面目だが時代風潮に乗り切れない、いささか偏屈な人間がイメージできまいか。マスクを隠れ蓑にして斜に構えた姿勢で世の中を窺っていまいか。深読みすればそんな人物の心の底が垣間みえる。

俳句における「表現に値するものは人間心理」だと筆者は思っている。(2021/02/26)

 

803『川柳あれこれ』

筆者は昨年の11月から12月にかけて川柳をあまた詠み、「公募川柳募集中」というインターネットのサイトから応募先をみつけて投句した。愛知県瀬戸市のFM局の「ラジオサンキュー」の「川柳の時間」では、お題「笑」で「お正月ウオーキングして膝笑い」(河太郎)が採用され1月1日の電波にのった。筆者は聞き漏らしてしまったが。

また兵庫県伊丹市のFM局「ハッピーエフエムいたみ」の「関谷たかこの川柳senryu」には、自由題の「三密を避け公園の雪だるま」(河太郎)が放送され、さらに12月1月二か月放送分から入賞作品として選ばれた。上位優秀4賞は逃したが10賞内だった。

成績をいいながら成績に拘らないとは変梃(へんてこ)だが、とりあえずは成績よりも、現代の川柳がどんなものなのかを知りたいたがため投句している。川柳もラジオや新聞などの時事的な素材や、柳人たちの川柳専門誌の傾向も知りたいのだ。

落語の落ち(サゲともいう)には12種あるとされ、トントン落ち、逆さ落ち、見立て落ち、仕草落ち、考え落ちなど、咄の種類や結末によって変わるといわれる。川柳の滑稽や諷刺や時事の表現も一様ではなく、それぞれの題材に対する対応のちがいが窺える。

筆者は俳句における「異化」(異化効果ともいう)の表現方法を最大のテーマとしているが、滑稽や諷刺や揶揄や批判性の追求には、川柳のものを見る視座、さらに落語や漫才のものを語る視座を知りたいと思っている。視座とは一口いうとスタンスだが、スタンスによって対象や本質が、まったく異次元の別物になることをゆめゆめ忘れてはならない。

俳句は自然風景を写し取る写生や、日常生活の茶飯な出来事を詠み込むだけのものだけではない。それだけに終わらせたくないのだ。(2021/02/11)

 

802『着ぶくれ・俳句』

2月5日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  着ぶくれと言ひ張りメタボひた隠す  義人

「着ぶくれ」とは重ね着して体がふくらむさまをいう「三冬・生活」の季語。着ぶくれではなく実際はメタボであるが、それをひた隠しに隠しているという句意である。(「メタボ」はメタボリック・シンドロームのことで、内臓脂肪が蓄積される結果、血圧上昇や高血糖などの異常値があらわれる意味の略称)

句意はいたって平明で誰にでもわかる。句意が分かり過ぎると詰まらなくなり、逆に難解すぎると手に負えなくなるといわれる。

ネットのデーターベースによると、俳句は65%理解できる程度がよく、残りの35%に対して想像力を働きかけるものが名句の定義だそうだ。しかし難解だったものが不意に理解できたりするのが文芸文学であろうから、この種のデーターベースは無用の長物かもしれない。いずれにしても俳句は判じ物だ。

俳句は一人称の文芸とされるが、一人称とは「自分または自分を含む仲間を指す人称。すなわち「おれ」「私」「僕」「おのれ」「われわれ」などの類」(広辞苑)であり、その立脚点からでしか事物が描写できない。「咳をしても一人」(尾崎放哉)は放哉自身が咳をしていると定義されるだろうが、見方をかえれば、他者が咳をしているという解釈も成り立たたないことはない。

二人称、三人称で表現しようとすれば更におのずと難解になる。「戦争が廊下の奥に立ってゐた」(渡辺白泉)は戦争を擬人化した二人称とされるもので、擬人化した戦争と対峙している作者自身がいるという解釈だ。

いずれにしても世に流布する多くの一人称俳句が、実際は事実現実でなくても自分自身の出来事だとあえて認識するしかないということだろう。リアリスティックな題材を詠む場合は、作者として出来上がった俳句に対して違和感を覚えるのである。17音はやはり判じ物だ。

今回は自句自解というよりも「わき道&迷い道あれこれ」を書いてみた。(2021/02/06)

 

801『モナリザ・俳句』

1月29日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し併せて「自句自解」を試みたい。

  モナリザの鼻に止まりし冬の蝿  義人

句意はいたって平明で、世に知られるレオナルド=ダ=ヴィンチ描く肖像画のモナリザ、即ちフィレンツェの貴婦人の鼻に蝿が止まったというのだ。夏場の蝿は五月蠅く飛びまわるが、動きの鈍い寒い季節は数時間止まったままのときもある。

この俳句は壁に飾った複製画(レプリカ)のモナリザの写生と見做せるが、鼻に蝿が止まる描写は作為的で、モナリザと蝿の「二物衝撃」の企みであり、こうした発想法は俳句には古くからある。

ロシア・フォルマリズムの芸術説の一つにも、「日常見慣れた表現形式に或る「よそよそしさ」を与えことによって異様なものに見せ、内容を一層よく感得させようとするもの」(広辞苑)とあり、いうなれば「鼻に蝿」が「よそよそしさ」だ。

筆者には「今朝からよピカソの鼻の冬蝿は」「手の平で蝿を叩きて写楽顔」の先行句がある。ピカソ・写楽・モナリザと「蝿の二番煎じ」と突っ込みを入れたい向きもあろうが、この三者は筆者にとって人間にして概念(芸術作品)であると考える。ピカソなり写楽なりモナリザなりはそれぞれ、思考の形式であり本質の特徴であるので、蝿を出して衝撃させることによって批判や諷刺や諧謔がうまれると思う。異化効果がうまれるはずだ。従って筆者はいずれの俳句も「一番煎じ」と自負したい。

話はわき道に逸れるが、自作の俳句や短歌の解説や評釈をするのはみっともないとよく言われる。句歌は詠み終えたらシーザーではないが「賽は投げられた」のであり、すべては読み手の解釈&評価に委ねられる。漱石が「夢十夜」の意図を語ったり、龍之介が「蜘蛛の糸」の意図をもらしたりすることはない。しかし俳句や短歌の総合誌には名のある俳人や歌人が、自作の説明や解釈をするページをみかける。誤解を招きやすい短詩形ゆえの読者へのサービス精神なのかもしれない。

筆者「コラムアーカイブス」で「自句自解」「自歌自解」を長年つづけてきた。漫才のボケとツッコミの説明、落語のオチの説明のようで恥ずかしい反面、みずからの文芸道の再確認とか再認識などの意味でもある。新しい「コラムcolumn」でもつづけるがご容赦を願いたい(2021/02/01)

837「ふんころがし補遺譚」
836「クリニック【ふんころがし】」
835「ヨーデル」
834「作句フィールド」
833「美術展出て・俳句」
832「近況片片」
831「マジッ句・詩あきんど44号」
830「いないいないじい」
829「警察24時プラスα」
828「代替シンドローム」
827「ロボットと・俳句」
826「水切りが・俳句」
825「行水を・俳句」
824「川柳20句」
823「自分への・短歌」
822「筍を掘れば・俳句」
821「ロールシャッハテスト」

準備頁