870「AIが・俳句」
869「躁過ぎて・短歌」
868「噴水の・俳句」
867「失せ物・川柳」
866「形状記憶スーツ・短歌」
865「シャガールの馬・短歌」
864「主役張る・短歌」
863「異化・楽器論」
862「バーチャルの・川柳」
861「戦なき国・川柳」
860「言霊の幸ふ国」
859「私たちの三吟大賞受賞」
858「閻王が・俳句」
857「銀ちゃん昇天」
856「アカデミー・短歌」
855「擬人法詩あきんど46号)
854「いたずらに・短歌」
853「お借りした地球・短歌」
852「「考える葦」・俳句
851「セザンヌ・短歌」
850「広辞苑十段黒帯」
849「七五調など」
848「わが余生・俳句」
847「マルメロ・短歌」
846「大くさめ・俳句」
845「この辺で・短歌」
844「ETが・俳句」
843「産卵を・短歌」
842「放屁論」・俳句」
841「近況片片2」

コラムcolumn/

900『星屑を・俳句』

4月29日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  星屑を絡めてゆるる糸柳  義人

「星屑」とは「たくさんの小さな星」をいうと【広辞苑】に載る。星については星座のほか星影や、水性・火星・木星・土星・海王星など個別の呼称があまたある。「星影」は燦燦と煌めくような美しい言葉だが、宇宙の屑に見立てる「星屑」というのは塵芥のようでイメージがわるい。しかし逆に表現手法として、宇宙の広大さに視線や意識を向けさせる効果はある。

「糸柳」は枝垂れ柳のことで、晩春の「柳」の季語の傍題の一つであり、枝や葉が細くて糸のように見えることからの呼び名。優雅で美しい呼び名から旅館や置屋の屋号に冠する例も多い。筆者の住む地域の諏訪湖の湖畔にも糸柳は多くみられ、柳は水辺にふさわしい植物のトップテンに挙げられるだろう。更に加えれば柳には幽霊も添え物だ。

さて掲句だが、糸柳の根元から空を見上げたら糸柳の細い枝葉に絡まって星屑が揺れていた。それが実景であり、それが写生句であろう。しかし作者である筆者が敢えて「星屑」と措辞したこと、「絡めてゆるる」と措辞したことについて触れてみたい。

「星屑」は宇宙の広大さに視線や意識を向けさせる効果があると先に書いたが、地上の「糸柳」の枝や葉のか細さ、その傍らに佇む人間の身心の小さくてたよりなさ。星と柳を通して天と地が絡まって揺れているさまが筆者には見えるのだ。

【天上天下、か弱い人間】。そんなモチーフをライフワークとして作句する筆者でもある。「か弱い人間」にプラスαとして「か弱い動物&昆虫」も掲げなくてはならない。筆者はこれまでにこんな俳句も詠んでいる。

  ・地動説やはり蜈蚣の脚もつれ   (蜈蚣=むかで)

  ・天界の大工が建てし蜃気楼

  ・独楽澄めり地球の芯を探り当て

  ・まろうどの御馳走とせん鮭颪    (鮭颪=さけおろし)

以上。お後がよろしいようで・・・(2023/05/03)

 

899『没の海』

筆者は知る人ぞ知る投稿マニアである。少年期より老年期まで延々とつづけてきた作業で、主として「詩歌句」を雑誌や新聞やインターネットの文芸欄に投稿してきた。現在は朝日新聞の全国版と長野版への俳句・川柳・短歌のみ。作品数も絞って年間「句歌」合わせて300作品くらいだろうか。

後期高齢になっても「マニア(熱狂)のつく投稿かい?」という大向こうのお節介も耳にするが、これがどうにもとまらない。例えば俳句の表現技法として季語や主語を上五におくか下五におくか、はたまた中七に措辞するか。漢字がいいか平仮名がいいか、それによって読み手に与える詩的インパクトが段違いになるから。なんせ短詩形は助詞一つで世界がひっくり返る文芸である。

も一つ、選者は何を考えて選考しているか。一徹なまでに主義主張を貫く人、逆に新しいテーマでも柔軟に受け入れる人などなど、スタンスはそれぞれである。選者の傾向を観察すること、そしてその傾向に迎合したり敢えて反発したりして、「入か没か」の「篩の目」を見分けることも投稿者としての研鑽の腕の見せ所であろう。

投稿作品が毎度落選すると「没の海」に溺れそうになる。それでも自作の表現方法を読み返し、没に納得したり反発したり、後日に検証すれば第三者の眼で眺められるようになる。ときに選者の俳句観に拍手喝采したり、ソリが合わなければ選者をぽいと屑籠に放り込んだりもする。

以下は「没の海」に溺れた俳句&川柳&短歌を適宜救助し、それぞれ五句()ずつアップした。

・G線上アリアの波の白鳥よ

・四辻にふぐり落として勿体なや

・寒鵙の声はムンクの叫びなり

・短夜も「終末時計」時きざむ

・風神のロックにも似て虎落笛

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・見える化にやっと取り組む閻魔庁

・お岩さん「顔認証はやめとくれ」

・パリコレの衣装きらめく蛇の衣

・寝惚けて廊下の猫を踏んじゃった

・ペイペイを使い目黒の秋刀魚買う

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・ピテカントロプスの果てが槍に変へ核ちらつかせミサイルを撃つ

・雷屋いたずらっ子の臍取って「臍の唐揚げはじめました」

・躁と鬱を繰り返すわが救ひとは長き舌出すアインシュタイン

・千曲川めざし波越え瀬を遡り鱗光らせカムバックサーモン

・八百もあるから一つ嘘言うぞ朝日歌壇の入賞のおれ

多くの選者は、比喩や異化や皮肉や社会への批判性、人情の機微のくすぐり、おどけ、ユーモアやバーチャルが嫌いらしい。頭脳で考える「机上作」も嫌いらしい。而して俳句の「俳」を疎(おろそ)かにしてきた罪は小さくないだろう。折しも行く春、与謝蕪村に「行く春や撰者を恨む哥の主」(撰者は旧字・哥は歌)がある。古今「没」にされた作者の恨みは深いものがある。(2023/04/18)

 

898『わが市にも・俳句』

3月25日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  わが市にも銀座ありけり柳揺れ  義人

「銀座」は東京都中央区の地名で,旧京橋区の地域にある。現行行政地名は銀座一丁目から八丁目。余計なことながら郵便番号は104-0061である。

銀座は名にし負う「地域ブランド」であり、銀座三越をはじめとして、貴金属から高級什器や和洋料理などの老舗や有名商店が軒を争う界隈として知られる。

大正時代から「銀ぶら」なる言葉があり「銀座の街をぶらぶら散歩する」という意味で、これが出来る人はステータスの称号が得られる。そうした類の宣伝広告のキャッチコピーにも使われ、銀座の名称は全国津々浦々の憧れの的でもあろう。

銀座という呼称はじつは日本全国の至るところにあるようだ。長野県においても長野銀座、松本銀座、飯田銀座、上田銀座、岡谷銀座などなど。このうち正式の行政地名のところと商店街の通称とがあって、筆者には区別さえつきかねる。個々の店舗で銀座の名を冠するところもあり賑やかな限りだが、どうしたわけか筆者の居住地の諏訪市にはない。

銀座の街路樹といえば柳が夙に知られる。柳といえば幽霊が相場であるが、よりによって街路樹に銀杏でも唐楓でも鈴懸の木でもない柳だろうか。ところがどっこい、習近平国家主席よりずっと以前の古代中国では柳は縁起のよい樹木とされていた。

(ことわざ)の「柳に風」は、柳の枝葉は細かくて枝垂れるため風に逆らわず、しなやかに受け流して折れない。また「柳の下に泥鰌(どじょう)はいない」とは「一度柳の下で泥鰌をつかまえたからといって何時もいるとは限らない」という意味だが、ひるがえって「泥鰌はいるかもしれない」の対語が裏側に隠されている。言外の語意がにょろにょろと蠢いているというわけだ。

掲句を自己流に解釈するというのが当コラムの「自句自解」の建前だが、ついつい筆が逸れてしまった。要らんことを書きすぎた。このたびは、大向こうの読者のご不満ご叱責を「柳に風」と受け流すことにしよう。(2023/03/28)

 

897『成るようになりし・俳句』

成るようになりし身の果て半仙戯 硯水

「半仙戯」は、三春季語で「ぶらんこ」のこと。「鞦韆(しゅうせん)」とも言う。この季語いて成るように成りし」のが、ぶらんこにれているよう。そして「身の果て措辞で作者の自身を振り返える。季語「半仙戯」は、12音重量を受け止めてぶらんこの如くだと言うのです。特に「成るように成りし」の「」は過去の事実を表しており、「成りて」ではなく、もう成ってしまった老いの身くのでも寿ぐのでもなく事実として投げ出している。リズムとしては「」に無意識れが入った点に作者の現在を感じるのである。二上貴夫。

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上記は「詩あきんど」第5回Web句会の特選2位の拙句と、主宰の貴夫先生の講評を新「詩あきんど」ブログより転載させていただいたもの。思いつくままに自句自解を書いてみたい。

「成るようになりし」は「なるようになる」が成語で、四字熟語では「行雲流水」を当て「物事というものは自然のなりゆきに従うもので、人為でどうなるというものではない」という意味。東洋的な諦観に通ずる考え方とか、仏教の悟りにつながるフレーズと思われがちだがそれにとどまらず、アメリカ映画のヒッチコック監督「知りすぎていた男」でドリス・ディが歌ったスペイン語「ケ・セラ・セラ」も「なるようになるさ」という意味とされる。

ところで筆者の常日頃の口癖乃至は呪文は、「なるようになる」である。「為せば成る」というが「為しても成らぬ」のが人世の常。「ならぬようにはならぬさ」と不貞腐れ、捨て鉢になったりもした過去もある。努力を怠り呆うけ、あなた任せ風任せに過ごしてきたような気のする境涯ではある。

「半仙戯」はぶらんこのことで、黒澤明監督の「生きる」は主人公が末期がんに冒され余命いくばくもない身でなりながら自力で公園をつくり、「ゴンドラの唄」を口遊んでぶらんこを漕ぐシーンがあり、志村喬の鬼気迫る演技が忘れられない。

1950年台の日米の映画二作品「生きる」「知りすぎていた男」とも筆者は観ていた。ストーリーはほとんど忘れたが、「なるようになる」という言葉とぶらんこのシーンだけは印象が強く折に触れて思い出される。

掲句について「・・・そして「身の果て」の措辞で作者の自身を振り返る。季語「半仙戯」は、12音の重量を受け止めて、ぶらんこの如くだと言うのです」。という貴夫先生の講評は心に深くひびく。「12音の重量」・・・ここに我が境涯の時空を閉じ込め、ぶらんこに乗って揺らすという叙法に苦心した。共感していただけて有難いかぎりである。(2023/03/20)

 

896『詩あきんど50号・道具考』

   allegory 道具考

あらたまの年 指揮棒を振り行かん

エイプリルフール滑車へ乗る我ら

龍天に登るタイムスイッチ切れ

薇の「の」の字を廻す螺子回し

叩き使って桜花散らさば万華鏡

噴水のクラフトナイフ 世を斬って

梅雨入りの砥石にて研ぐわが余命

  一掬の涼 トング以て詩を掴む

  糸とんぼ過去刺す千枚通しかな

  明け易き吊り具に掛けよ夢判断

  クリップに神々留めるハローウィン

  三日月の 把手つかんで身を委ね

  文房四宝灯下親しみ句を詠めば

  飛び道具を飛ばす軍拡の大野分

  鼻毛切り おのれ確かむ秋愁ひ

  ブルドーザー時代押しゆくからっ風

  ハンマーで氷を叩きながら生きよ

  行く年やぐらりかたむく水平器

  我とわが捕へる罠を仕掛けたり

  風花は たかまのはらの篩より

      「留書」

allegory=アレゴリー」とは抽象的な概

念や思想をもつことがらを具体化する修辞法

の一つで、おもに絵画や詩文の表現芸術の分

野で用いられる。寓意・諷喩・比喩と訳され

るが、語源はギリシア語の「別のものを語る」

という意味からきている。

絵画では寓意画(ヴァニタス)といい、ヨハ

ネス・フェルメール「信仰の寓意」の、原罪

を意味する転がるリンゴと死を意味する折れ

た矢でカトリック教の矛盾を表す。ルーカス

・クラナッハ「正義のアレゴリー」の、天秤

と剣を描いて正義か邪悪か男女の性の相克の

メッセージが込められる。

詩文では寓意小説があり、坪内逍遥「内地

雑居未来之夢」の、外国人の居留地制度を設

けないで自由に住まわせる夢の矛盾や願望。

安部公房「砂の女」「箱男」「幽霊はここに

いる」の、不条理をテーマとする作品もカテ

ゴリーに属するだろう。他の物事にかこつけ

て、それとなくある意味をほのめかす。まさ

しくギリシア語の語源の通りだ。

「道具」とは物を作ったり事を行ったりす

るための器具の総称で、家財道具・大工道具

や舞台装置の大道具・小道具などよく知れて

いる。しかしながら道具の概念の原野は限り

なく広くて深く、その守備範囲はめくるめく

ばかり・・・言うなれば人間社会のオールラ

ンドプレイヤーだ。

ヒトは原猿類からホモ・サピエンスへ進化

できたのは道具を考案し、言語を使えるよう

になったからとされる。人間の手足や目口や

耳鼻など各部位の延長線上に、それらの機能

を補完し遮断する媒介としての道具が存在す

る現代社会である。

たとえば日常生活において「手・足」は缶

切りや履物、「目・口」ではメガネやスプーン

という道具が使われる。さらには拳銃という

道具を使って人を殺し、眼帯という道具で現

実を隠蔽して警官の職務質問をのがれる。道

具とは人間が必要とするものごとの欲求と願

望の代物だが、それだけに留まらず芸術のオ

ブジェにも思えてならない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上は俳誌「詩あきんど」50号より転載。当コラムの体裁上俳号を省略し留書を書き加えた。(2023/03/09)

 

895『阿羅漢・俳句』

3月4日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  阿羅漢の眼と遭ふ残る寒さかな  義人

「阿羅漢」は羅漢ともいい、「仏教の修行の最高段位。また、その段位に達した人。もとは仏の尊称にも用いたが、後世は主として小乗の聖者を指す」と『広辞苑』に載る。広辞苑を噛み砕いていうなら、「悟りを開いた人で、慈悲を受けるに値する者。徳を積みかさねてもう学ぶものがないという意味で《無学》の人」という。

阿羅漢と引き合いに出される閻魔王は、地獄に落ちる人間の生前の善悪を審判・懲罰するという地獄の王神。冥界の総司だ。死んで閻魔と向き合えば「八百も嘘をついた私メが悪うござんした。舌抜いたって構わんよ。死んでるから痛くもねえだろ」と開き直りの心境になろうというもの。

しかし慈悲深い阿羅漢と向き合えば「金子(きんす)をごまかしたのは私メ、ほんの出来心で慙愧に堪えません。どうかお許しくだされ」と徳高き聖者に哀願これ努める心境になろうというもの。

キリスト教でいうアダム(人間)の背負う原罪は、仏教徒であっても多かれ少なかれ背負っているだろう。ただし閻魔王と対峙するときと阿羅漢と対峙するときとでは、おのずからスタンスが異なるように思えてならない。焼け糞になるか反省するかに分かれるだろう。つまり神仏それぞれの「人柄」による。

さて掲句だが、阿羅漢には十六羅漢、五百羅漢などあまたの羅漢像が並んで祀られることが多い。お顔はそれほど慈悲深いものではないが、先入観があるので自分だけは助かりたいという下心が働いてしまう。

そんなこんなで阿羅漢と眼を合わせることには戸惑いが起きる。折からの残る寒さが身に沁みる。阿羅漢と眼を合わせることと残る寒さとに因果関係はないが、それを突き合せることの詩的な「衝撃波」を表したかった。

余談だが、御殿場には阿羅漢という屋号のラーメン屋があり、大宰府には阿羅漢という焼きそば店がある。理髪では飛んでる若造のドレッドヘアは、羅漢カットというそうだ。食べログもバーバーショップも辛くて尖がっているようだ。(2023/03/06)

 

894『鳩時計・俳句』

2月19日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  鳩時計進み勝ちなり日脚伸ぶ  義人

「鳩時計」は機械式で、決められた時刻になると小窓が開いて鳩が現れ、時刻の数だけ鳴いて時を告げる。昔も今もある壁掛けのインテリア時計だ。カッコー・クロックといって郭公仕立ての北欧の時計も販売されている。

そのかみの河童庵には鳩時計があったが、さんざん時を告げたのちに壊れてしまった。その後に文字盤の十二箇所それぞれに別個の鳥類をあしらった壁掛け時計を親父が買ってきた。いちいち時計を見なくても「鳥」の鳴き声で時刻が分かるという利便性はあったが、いつのまにかいずれの鳥も鳴かなくなってしまい、時だけが無常に流れた。今はその時計すらもない。

「日脚伸ぶ」は晩冬の時候の季語。まだ寒い時季だが夕暮れどきの日脚が少しずつ伸び、春の近いことを感じさせられる。屋外よりも室内に射しこむ日射しに、よりそれを感じさせられるようだ。

掲句は鳩時計も暖かさに元気づけられ、「進み勝ちになる」という句意である。機械式鳩時計の機械に塗ったグリースが暖かさに溶け、時刻が進み勝ちになったとは言わない方がよろしい。(2023/02/19)

 

893『寒鴉・俳句』

2月11日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が入選一席として掲載された。その作品と講評をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  寒鴉おのが谺と鳴きかわす  義人

「寒鴉は寒中の鴉、時には雪の中にいたりする。寒中とて周囲には鴉の仲間を含め生あるものはほとんどいない。仕方なしに自分の声の谺と鳴き交わすという、鴉に託した究極のさびしさ」仲寒蝉氏。

()はスズメ目カラス科カラス属および近隣の鳥の総称で、日本にはハシブトガラスとハシボソガラスの二種が生息する。

今は亡き志村けんさんの替え歌「♪カラス なぜなくの カラスの勝手でしょ」は野口雨情作詞、本居長世作曲「七つの子」が元歌。さらにはエロえぐい昭和俳句「行水の女に惚れる烏かな」は高浜虚子。そのかみ神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導をしたとされる八咫烏もあり、鴉は雀や鳩とならんで詩歌に歌われ、日本人のもっとも身近なスーパー・バードだろう。(「三羽がらす」という慣用語もあったっけ)

鴉の羽は黒くて光沢があり雌雄とも同色。胡桃などを通行する車の車輪で割って中身を啄むなど、知能は七歳児くらいといわれる。しかし羽毛の黒さと鳴き声から不吉なものとされ、鴉に似た点があるところから、①口のうるさい人。②物忘れする人。③意地のきたない人。④火の消えた炭に例えられる。

また「鵜()の真似をする鴉」などと、自分の力量も顧みないで人の真似をして失敗する俚諺もある。他方で「髪は鴉の濡れ羽色」は女性の髪の褒め言葉だが・・・

さて掲句は寒蝉氏の評言でほぼ言い尽くされている。「おのが谺」なる言葉を措辞したのは「鳴きかわす」という、「自問自答」の比喩をイメージしたかったのである。(2023/02/14)

 

892『Xカッパ』

「男であること」「女であること」が、身心にわたって厳然と峻別されているか、いないか。明確な境界があるという考え方と、緩やかな融合地帯があるという考え方とがある。身体的な差異や心理的な差異は果たしていかがなものであろうか。

精神医学者のSフロイトは、人間の心理生活を下意識または潜在意識の領域内に抑圧されたリビドー(性欲衝動)として五段階にわける。幼児から成人までのリビドーの発達段階をさぐり、性欲が男女両性に及ぼす心理を示している。

旧約聖書には「男(アダム)の一本の肋骨から女(イヴ)が造られた」とあり、陰陽学には「一人の人間のなかには男性的、女性的な部分がある」とし、生物学的な両性具の部位(パーツ)を挙げる。ここまでの極論ではないが、性は男と女の二択ではなく、Xジェンダーという第三のブロックがある。身体的性とは関係なく「性自認」が男にも女にも属さないもの。無性、不定性ともいう。

話は逸れるが、樹木には人間と同じように男と女がある。雌雄同株とは一本の木の雄蕊&雌蕊により花を咲かせて実をつける。樹木の七割がこれで、残る三割は異性木の花粉をミツバチや風に運んでもらう雌雄異株だ。カエデ属のある樹木は老木になると雌から雄に性転換するという。驚き、ももの木、山椒の木だ。

下等動物には雌雄同体が多い。ナメクジ・カタツムリなど。海水魚のクマノミは両性でお父さんが成人しお母さんになって卵を生む。タコは恋の鞘当てで負けそうになった雄は、赤くふくらんで可愛く雌ぶる。これは雌雄同体とはいわず、単なる女装とか。人間さえ食うという巨大なコモドドラゴンは単為生殖で、雌が雄なしで赤ちゃんを生む。処女懐胎であり恐竜の聖母マリアだ。進化あなどるなかれ。退化あなどるなかれ。

「LGBT」とは、レズビアン・ゲイ・バイセクシャルの性的指向と、心と性が一致しないトランスジェンダーの頭文字を組み合わせたもの。少数派の人たちの人権や多様性の尊重で注視されている昨今だが、人間にとどまらず、魚類・動物・樹木までも巻き込む「雌雄の原野」は古くて新しいセクシャル磁場だ。

もしも神仏が人間を造るならクローン人間は造らない。神仏はそもそも文系であるが、理系の手腕もあって「性の調合」が特技だが、文系ゆえにドラマチックな心理葛藤を好む。したがって無味乾燥なクローン人間は嫌いだろう。女好きの女、男好きの男とは畢竟人間好きの人間であり、人類愛的な尊厳にも通じる。まさに「神カップル」「南無カップル」である。

男女のいずれにも属さない「性自認」を主張するXジェンダーについてさきに触れたが、これはLGBTのカテゴリーには入らないから心理学の学説はおいおい整ってゆくだろう。このブロックには画家・詩人・作家・俳優などの表現者や芸術家が多いといわれる。

筆者も男でありながら、心理生活では「男好み」があるように自覚されてならない。男であれば男の美醜には無関心であるはずが、男の顔についてはかなり五月蝿い。女の顔についても一家言あるから、Xジェンダーかもしれない。Xカッパかもしれない。(Xとは未知数とか謎とかの意味)

カウボーイの禁断の愛を描いた2005年のアメリカ映画「ブロークバック・マウンテン」には何度泣かされたことか。筆者が「いいね」をタップする映画にはこの種の作品が多い。

ところで「LGBT法案を通すことについて」最近の国会がもめている。まるで高速道路にお駕篭を入れるような感じで、時代錯誤も甚だしい。世界の人権や多様性の尊重の流れに乗り遅れる、この国の政治は情けない限りである。(2023/02/09)

 

891『ドローンが木曽・俳句』

1月28日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  ドローンが木曽の氷壁映しをり  義人

木曽の山脈のあれこれの中で、木曽郡木曽町三岳「白川の氷壁群」や、木曽駒ケ岳の「千畳敷カールの氷壁」は二大氷壁スポットと言っても過言ではない。

数十条の氷壁が日の光に乱反射し、燦燦と輝くさまは実に素晴らしい。あたかも氷の刃が太陽に呼応し、光の雄叫びをあげているかのようだ。

二大氷壁スポットと書いたが、桜橋を渡れば「是より木曽路」の案内標識が立ち、道路の至るところから氷壁や氷柱が眺められる。冬季の木曽路は氷壁&氷柱のオンパレードだ。

家人が木曽の奈良井出身なので、筆者は数えきれないほど木曽を訪れている。とりわけお気に入りの名勝地である寝覚ノ床には、たびたび観光を試み満喫した記憶がある。

島崎藤村の長編小説『夜明け前』の書き出しは「木曽路はすべて山の中にある」だが、木曽街道の家並みの「軒端はすべて山の端につづく」と表現したい思いだ。家と山がストレートに繋がっている。これぞ山国である。

自句自解と言いながら木曽の説明&案内に終始してしまった。ご寛容願いたい。(2023/01/29)

 

890『わが余命・短歌』

1月21日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  わが余命二、三年かと計りしが

    敢へて十年日記買ふなり   義人

この短歌の「歌意」は明々白々で説明を要しない。したがって筆者の最近の境涯に少しくふれ、歌意のもう一歩踏み込んだ解釈にも触れることにする。

筆者は現在87歳だが、町内や縁者で80数歳の特に男性がバタバタと死んでゆく。遭難や事故など特殊な死亡ではなく、基礎疾患を持っていて疾病の重篤化によるもの、持って生まれた天命を全うした、いわゆる普通の死に方で亡くなっている。

日本の男性の平均寿命が2022年の統計で81・47歳というから、この年齢での死亡は至極ご尤で、80数歳は天国乃至は地獄への死出の旅の「お年頃」であるだろう。

週2の休肝日はあるが晩酌はするし、テレビの国会中継の応答や、雛壇で何言っているか分からん脳科学者を蔑視するし、台湾の女性サックス奏者の日本演歌の演奏に現を抜かす。この分なら後一年くらいは生きられそうだが、掲歌の「わが余命二、三年」はあくまでも言葉の綾、言葉の収め方から措辞したもので実感では「一年」というのが腹積もりである。

「十年日記買ふ」は「敢へて」とあるように、事を大きく言ったものでいわゆる大言壮語。つまり空元気(からげんき)である。この用語から、この短歌の制作者の自らは御しがたい性格が窺い知れるのである。このたびは、○で第三者の短歌を評釈するようスタンスで自作を眺めてみた。嗚呼・無上。(2023/01/22)

 

889『諏訪湖産鮒寿司・俳句』

1月14日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  諏訪湖産冬の鮒寿司さあ食うべ  義人

「鮒寿司」(鮒鮨とも書く)は、「馴鮨の一種。ニゴロブナの腸(はらわた)を取り去り塩漬にしたものを、飯と麹(こうじ)をまぜたものに漬け込んだ鮨。酸味と臭味が強い。近江名産。季・夏」と『広辞苑』に載っている。

ニゴロブナは煮頃鮒の漢字を当てるが、諏訪湖に該当する鮒はいないが近似種はいる。長鮒(赤鮒)といって約40センチまで成長する大きな鮒だ。煮頃鮒の臭味の強さは世界で6番目といい、嘔吐する人もいるが、その臭味が垂涎の的でリピーターもいるそうだ。諏訪湖の長鮒の臭味はいかがだろうか。筆者は正直のところまだ食っておらず掲句は想像作である。

鮒寿司は琵琶湖の名物として夙に知られるが、近年諏訪湖でも売れないものかと、漁業や飲食業の関係者を中心にイベントなどが開かれている。寿司は夏の季語だが、諏訪湖の鮒寿司はあくまで試作段階であり、上記の句では「冬」の文字を入れた。

「さあ食うべ」という話し言葉を用いたのが売り。「さあ」は標準語だが「食うべ」は北関東あたりの訛りといわれ、エセ東京弁としても使われているらしい。諏訪地方でも、田舎じみたチョイ悪男が発する訛りでもある。

浪曲・広沢虎造「石松三十石船」の遠州森の石松の「江戸っ子だったね、さあ飲みねエ 寿司食いねエ」がこの句の面影で、「本歌取り」ならぬ「石松取り」である。(2023/01/17)

 

888『戦争の押しくら・俳句』

戦争の押しくら饅頭 餡われら  硯水

「押しくら饅頭」は、多くの辞書に「押し競饅頭」の文字を当て「多人数がぎっしり寄り集まって、互いに押しくらべをする遊戯」と載っている。(競争だから「競」の漢字でいいのだろうが「くら」と読ませることに違和感があったので筆者なりの表記にした)

「おしくらまんじゅう」の曲名の童謡もあって、「♪おしくらまんじゅう、ぎゅぎゅぎゅ、押されて泣く子はどいとくれ」という歌詞である。掲句はロシアによるウクライナ侵攻の一進一退の戦況を「押しくら饅頭」になぞらえたもので、戦争は遊戯であり餡(あん)はわれわれ人間だと断ずるのが句意だ。

饅頭(まんじゅう)の皮は薄力粉や砂糖にベーキングパウダーでこねてもの。薄皮に包まれた中身、つまり餡は砂糖で甘く煮込んだ小豆や白隠元など豆類が多く使われる。押しくら饅頭は遊戯ではあるが、童謡にあるように餡にとっては「圧縮&拘束」であり、泣きの苦しみであろう。苦しさに鞭打って「どいとくれ」と唄われる始末だ。

饅頭の形状はざっくりいうと戦争の組織体によく似ている。破れやすい薄皮に包まれた餡である兵士や銃後のわれわれ。ひたすら甘く茶請けに喜ばれが、真っ先に突き出されて消え失せる。押しくら饅頭という戦争において、われわれ人間は餡であるという組み建て。余談ながら掲句は、1939年渡辺白泉が詠んで無季俳句「戦争が廊下の奥に立ってゐた」の本歌取り。これがあって作句できた。

ジュリアス・シーザーではないが「賽は投げられた!」。人間は愚かで生きている限り「押しくら饅頭」という戦争をつづけるのであろうか。

ちなみに押しくら饅頭は三冬の生活の季語。この俳句は「詩あきんど」第三回Web俳句会へ投句したもので結果は未定だが、投句した時点で筆者の手を離れたのであり、まさに賽は投げられたのである。(2022/12/30)

 

887『酔ひ痴れて・俳句』

12月10日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作、「信州歌壇」(草田照子選)には短歌が佳作として掲載された。その両作品をここに転載し、併せて「自句自歌自解」を書いてみたい。

  酔ひ痴れて屏風の虎に睨まるる  義人

「屏風(びょうぶ)」は室内に立てて風をよけ、また仕切り・装飾として用いる具で、木枠の上に紙や絹を貼ったものを二枚・四枚・六枚など複数つなぎ合わせ、折り畳めるようにしたものをいう。和室に使われるものだが、洋室の多くなった昨今では見かけることも少なくなった。三冬の生活の季語。類似品に衝立(ついたて)がある。

屏風の絵柄といえば虎・龍・波浪・風神・月花など、また漢字や平仮名の凝りに凝った書体もあり、下地に金粉や銀粉をあしらった神々しいものもある。河童寓には北斎の裏波と翆石の茶虎の絵(印刷)の屏風があってが、二十七年前に築九十年の旧家を取り壊したとき、ボロボロに痛んでいたそれらを廃棄処分にした。

したがって掲句はその屏風の虎を思い出し、小半酒(こなからざけ)に酔い痴れた筆者が虎に睨まれたと錯覚する付け筋である。小半酒とは二合五杓のことで少量の酒という意味だが、高齢者の晩酌の目安は一合だと、市役所の保険衛生課から「健康な暮らし」というパンフレットが来ている。小さな親切、大きなお世話だ。

年賀状しまひの知らせ送りたり

     刎頚の友・ちょい悪の友  義人

「年賀状しまひ」は間違いではないが「年賀状じまひ」(歴史的仮名遣い)が正しい。ケアレスミスだ。筆者は親戚縁者や俳句や詩人の仲間に年賀状を仕舞いにする趣旨の葉書をだした。年に一回だけの賀状交換は健康状態や生存確認をするような気がしてならない。それが大事だといえばそれもそうだとは思うが・・・

清水の次郎長は「人間日頃が肝心!」と言っていたそうで、浪曲の名跡の初代・広沢虎造はその口伝を唸っている。筆者にはそのカセットテープがある。

病気のとき死んだとき、見舞ってくれても苦しくて返事もままならず、棺桶の窓から死に顔を覗かれても愛想笑いもできない。それならお互い元気のときに、葉書でもメールでもいいから「やっているかい?」と聞いてくれる方がよい。筆者の場合「刎頚の友」は少なく「ちょい悪の友」が多いが・・・(2022/12/12)

 

886『高く心を悟りて』

「高く心を悟りて、俗に帰るべし」松尾芭蕉。「詩精神は高く保つように心掛けて、その後俳諧固有の俗な対象に帰っていくべきである」と師は説いたと、門人の服部土芳はいう。一方に普遍的で高い志があり、もう一方にきわめて具体的な暮らしの情景がある。対極にあるこの二つがじかに接するところ、高い理想と泥まみれの現場感覚との往還が、俳諧にかぎらず大事なのであろう。『三冊子』(復本一郎校注・訳)朝日新聞2022・12・7鷲田清一 『折々のことば』より。

話は飛ぶが、筆者は知る人ぞ知るユーチューブ愛好者である。主たる視聴はド演歌や懐メロの、「女のみち」「昭和枯れすすき」「上海帰りのリル」「名月赤城山」「北国の春」「旅の夜風」などの歌手や東京大衆歌謡楽団による歌唱、妖艶な台湾Sax・Ru bY によるサックスや電子バイオリンなど。その合間には「イマジン」「レットイットビー」「監獄ロック」「ジンギスカン」の洋楽も耳目にふれる。

さらには灘康次とモダンカンカン・東京ボーイズ・玉川カルテットのボーイズから漫才・落語・物まね・コントまで、真っ昼間から就眠時間の二十時まで視聴。ユーチューブ側も気を利かせて再生カウントを調べ、筆者好みのマイ・ミックスリストを作ってくれた。ありがたいことにタダである。

音曲も楽しいが歌詞も楽しい。歌詞から情景や感情が浮かび、音曲が情景や感情のグラデーションをつける。漫才や落語や物まねのボケとツッコミに、人間心理の綾が透けて見えたりする。わが意識と無意識、識閾を飛び越えたり舞い戻ったりするのであろうか。

たとえば森進一「お袋さん」からカンガルーや荒野が、八月真澄「バナナボートソング」からネス湖のネッシーが、長渕剛「蝉semi」からカフカ小説「変身」のザムザがイメージされ連想される。げんに視聴し目視しているものとは別個のイメージや連想が、筆者の詩精神を高めて俳句へと落とし込まれる。そんな作句スタンスだ、

冒頭の芭蕉の文言に照らすと、筆者は「俗な対象に帰っていたら、結果として心を高く悟った」のだろうか。ユーチューブと俳句という俗&雅の「対極にあるこの二つがじかに接するところ、高い理想と泥まみれの現場感覚との往還」を行ったり来たりする筆者であるのであろうか。(2022/12/09)

 

885『癒し系・俳句』

12月3日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が入選として掲載された。その作品と講評をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  癒し系ロボットを抱き日向ぼこ  義人

仲寒蝉氏「最近こちらの反応を見てしゃべるコミュニケーションロボットが何種類も登場し独り暮らしの老人の相手になったりするようだ。日向ぼこと言えば老人が定番。そこで現代的風景として癒し系ロボットと組み合わせた」。

「ロボット」はチェコスロヴァキアの作家チャペクの造語で、複雑精巧な装置による人工の自動人形。人造人間ともいう。オートマトンとも呼んで作業や操作など産業用が中心だったが、時代が進むにつれ人間そっくりのロボット「アンドロイド」が誕生。さらにはAIの知能が加わって、「人間性」を一段とレベルアップさせ進化しつづける傾向の昨今である。

ロボットの概念はたいへん幅が広く捉えにくい。工場や物流システムの物品の運搬、イベント会場での案内嬢や介護士を補助する着るロボットもあり、癒し系と称して婦女子に模した人型で一定の会話ができるもの、犬猫の可愛いらしさや鳴き声をするペットロボも大人気という。

日本語でいう「ロボット」の語意は次の文言をふくむ。「他人に操縦されて動く人、実力がなくて地位にいるだけの人。傀儡(かいらい)」と『広辞苑』に載る。つまり傀儡=操り人形や操縦されて動く人までふくむと、ふなっしー・くまモンなどのぬいぐるみ、隠然たる陰の実力者に操られる首相や官僚もカテゴリーに入る。

さらに広義に捉えれば、達磨さん・藁人形や・ダッチワイフ(別称ラブドール)もロボットのカテゴリー。ことのついで蘊蓄を傾けると、夏の季語でもある竹夫人も堂々と名乗りをあげる。竹夫人とは夏期に涼を取るための竹製の籠で、抱き籠・抱き枕・竹奴(ちくど)といい、抱いたり頭や足をのせたりして寝るグッズ。

これらグッズは普及品で、嚆矢の中国伝来のAランク品ともなれば、美しい竹夫人の体にエロい特殊細工が施されてある。佐藤春夫の俳句に「永き夜の紅毛竹夫人(ダッチワイフ)を去らんとす」がある。余計なことだが「奴(やっこ)」は下僕のことで、竹奴とは男性専科の若衆遊びの細工が施されたもの。これも立派な季語だ。

ロボットの生い立ちや性格を辿ってきて、さてさて掲句だが、キーワードは「日向ぼこ」。夜中の「癒し系」ならば艶めかしさが想像されるが、真っ昼間であればせいぜいプラトニック・ラブであろう。いやいや品行方正の筆者ゆえペットロボをイメージしてくれる読み手が多いのではないか。・・・例によって他人事のような自句自解をるる述べる筆者ではある。(2022/12/06)

 

884『擬態(詩あきんど49号)

擬態

疣飛蝗地球の凹へ背を似せて

子午線へ疣掠めつつ飛ぶ飛蝗

茸蝿つぎつぎ増えて目眩まし

蛾の翅の何あざむくか大目玉

  黄金虫 金ピカ翅の騙しテク

  脚揺すりムーンウォーク黄金虫

  角芋虫苔むすまでに成りきって

枯枝と化して永らえ 竹節虫よ

竹節虫の枯蔓が描くクエスチョン

  花蟷螂ピンクパンサー以って生き

  花蟷螂ファーブルだます蘭化かな

  ご馳走にされて屁っこき 放屁虫

  なんまいだ三井寺斑猫死んだふり

     留書

「タクソン」という言葉があり、生物分類

においてある分類階級に位置づけられる生物

の集合をいう。ちなみに「飛蝗」はその分類

群でいうと「綱」の下で「科」の上の「目」、

すなわちバッタ目(直翅類)、バッタ科の昆虫

のカテゴリー。「飛蝗」は三秋の動物の季語だ

が、歳時記の傍題にも収載されていない「疣

飛蝗」は季語に認められるだろうか。

昆虫学の余話によると「芋虫」はエロティ

ックな虫といわれる。なるほどある種は緑色

をしたヌーディストで美麗な斑紋をもち、

脚を使って蠕動するさまが艶めかしい。幼虫

の「角芋虫」も無毛で肢体を波打たせ、尻角

をつんつんさせて苔に溶けこむ姿はコケット

リーだ。これも季語に認められるだろうか。

もっとも絶対有季定型派ではないので、無季

なら無季でもかまわないのだが━━。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

俳誌「詩あきんど」49号(11月20日発行)「Ⅰ」より転載。当コラムの編集体裁上筆者の俳号は省き、「留書」を加筆した。注「疣飛蝗(いぼばった)」「茸蝿(きのこばえ)」「角芋虫(つのいもむし)」「竹節虫(たけふし)」。

筆者は過去に「詩あきんど46号」誌上において、「擬人法」という題名で広い意味での擬装をテーマとする連作俳句を発表している。このときは「枯蔓」「白息」「雪女郎」など「擬人」を中心に据えて詠んだが、今回は「昆虫」の擬態に絞って作句した。

「擬人」は修辞法だが「擬態」は比喩と言えるのではないだろうか。昆虫の生態を比喩表現することによって、人間の皮膚感覚や意識&下意識にいささかなりとも肉迫できた手応えがある。比喩って素晴らしい。(2022/11/30)

 

883『瓜坊の早くも・俳句』

11月20日付の朝日新聞全国版【朝日 俳壇・歌壇】の【俳壇】に筆者の俳句が一席として掲載された。その作品と選者の評言をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

初めに朝日新聞の文芸欄について触れておく。朝日俳壇では四人の選者(大串章・小林貴子・長谷川櫂・高山れおな)による共選で、選者はそれぞれ10句選んで簡単な評言を記し、毎日曜日に欠稿なく掲載される。五大紙の文芸欄のなかではもっともレベルが高く、一週間に約六千句の応募があると公募雑誌に載っている。

  瓜坊の早くも猪突猛進す  義人

上記の筆者の俳句を選んでくれたのは小林貴子氏で、「猪の子は可愛いが、性格は親譲りという句」という寸評だった。

「瓜坊」は猪(いのしし・しし)の子で、体の模様が甜瓜(まくわうり)に似ていることからの呼び名だが、この模様は数カ月で消える。甜瓜猪(まくわじし)の別称や、「うりぼん」「うりんぼう」という愛称もある。晩秋動物の季語である。

成長した猪は時速50キロで走るという。これは一秒間に約14メートル走る計算だから簡単に曲がることができず、ひたすら一直線に突っ走るので「猪突猛進(ちょとつもうしん)」「猪突豨勇(ちょとつきゆう)」なる四字熟語がある。瓜坊はそこまでのスピードは出せないが、競馬ならぬ「うり坊レース」という競争もあり大人気だそうだ。掲句は瓜坊ながら早くもその片鱗を見せ、山里を猛然と駆けるという句意である。

猪は鯨偶蹄目・イノシシ科の野生種で、これを家畜化したものが豚。猪の幼少期である瓜坊は可愛らしく愛嬌もあって、さまざまなグッズのキャラクターとして広く愛玩され、インターネットではキッツ中心に被り物からパンツまでよく売れるという。

猪についてあれこれ書いてきたが、何を隠そう筆者の干支は12番目の「亥()」すなわち猪である。名は体を表すではないが、亥年の筆者の性格は「おっとり慌て者」、どっしり落ち着いているように見えて急に慌てふためく。「のん気の短気」、穏やかな表情をしているかと思いきや急にいちゃもんをつける。あとさき構わず前触れなく突き進む性格は「猪突」そのものだと、友人や縁者たちの間で専らの評判らしい。

話は逸れるが・・・十二支はそもそも動物ではなく、植物の種苗や生育や収穫の状態をいい、三千年前の殷王朝時代につくられた暦がその嚆矢とされる。それによると「亥」は「植物の種に生命を閉じ込めた状態」だそうな。

なるほど、なるほど。「言葉の種に生命を閉じ込めた状態」と、「植物→言葉」と変えれば筆者の文才そのものではないか。きんきじゃくやく、欣喜雀躍!(2022/11/21)

 

882『くっさめ・短歌』

11月19日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

 くっさめをすれば射手座が吹き飛びぬ

   気をつけるべし老いの湯上がり  義人

この短歌の意味は誰にでもわかるもので、シルバーセンターなどでの老人の湯上がりの注意なので省き、ここでは作り手側からの、言葉の措辞や表現のからくりについて書いてみたい。

「くっさめ」は「嚏」の字を当て、クサメ、クシャミの促音化したもので三冬生活の季語。地方によって「嚏」の読み方はさまざまあり、方言、俗信、呪文、まじないも多い。くしゃみは人の噂が原因で、その回数により「一はそしり、二は笑い、三は惚れ、四は風邪」という俗信がニッポン列島のほぼ共有認識とされる。

くしゃみした人にスペインでは「ご健康に」、フランスでは「頑張れ」という。沖縄では「クスケー」クス=糞、ケー=喰え、つまり「糞喰え」と罵倒する。信濃では「ご尤も、ご尤も」と安心させる・・・くしゃみの人への語り掛けや呪文も世界さまざま、ところ変われば品変わる。夏目漱石『吾輩は猫である』には苦沙弥先生(くしゃみせんせい)が登場するし、「♪クシャミ三回ルル三錠」の製薬会社のコマーシャルもあった。

「くっさめ」という促音化の四音が短歌の初句に勢いをつける。俳句の上五、中七、下五にこれを措辞して表現の誇張や勢い感を表すこともでき、ちなみに筆者は促音化大好き人間である。

「射手座」は我が誕生日(11月23日~12月21日)の間に該当する。占星術などに凝っているわけではないが、短歌に敢えて取り込んだ。「射手座が吹き飛ぶ」とは、自分が湯上がりでくしゃみをして自らが吹き飛ぶことでもあるが、これは誰にもわからない個人的な「歌意」の隠し玉だ。

「気をつけるべし」の「べし」とは、「個々の主観を超えた理のあることを納得して下す判断であることを示す」と『広辞苑』に載る。つまるところ、自らがくしゃみをして風邪を引きそうなのに、老人たちに「湯上がり」の有り方についてお説教を垂れているのである。ちょいと横柄なこんな作歌スタンスに、横柄な作り手として北叟笑んでいる次第である。(20022/11/20)

 

881『諏訪鯉・短歌』

11月5日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  諏訪鯉を旨煮にせんと買ひ求む

   破れんばかりレジ袋跳ねる  義人

「諏訪鯉」という言い方はない。諏訪湖には鯉(こい)・鮒(ふな)・公魚(わかさぎ)・鰻(うなぎ)・鯰(なまず)・蝦(えび)・蜆(しじみ)などあまたの魚介類が棲息するため、鯉だけに諏訪を冠してはいない。県下では「佐久鯉」が夙に知られるが、佐久は鯉単品の養殖のためもあって地名を冠するようだ。

鯉料理での「旨煮」は、鯉を筒切りにして醬油・砂糖・みりん・生姜・唐辛子などの下味で煮込んだもの。「甘露煮」は醬油&砂糖に加えて水飴・酒などの調味料のもと中火で長時間煮詰めたものをいう。いずれも甘辛い濃い味でたいへん美味しく、太骨まで柔らかく食べられ、祭事や盆暮れの大馳走であり、かつては内陸農村部の貴重なタンパク源でもあった。

食い意地張りついでに書き足すと、鯉には「鯉濃(こいこく)」といって輪切りにして赤味噌で炊き込んだ味噌汁。清水に三日三晩泳がせて泥臭さを抜き、淡い桃色且つ野性味で味蕾をよろこばせる「刺身」。メキシコ湾の自然塩をまぶして焼き上げる「塩焼き」もあっさりした味わいで捨て難い。

すでに述べたように、諏訪湖には多種類の魚介類がいたが年々その数は減少している。現在は公魚・鮒・鯉・蝦がメインだろうか。諏訪市の人口はざっくり5万だが、約50年以前には、いわゆる川魚を専門に商う商店が数軒あった。水槽にいきのよい鯉や鮒を泳がせ、陳列棚には鯉や蝦の佃煮をならべて売っていた。

当家の亡き母者は海の魚や刺身は食べないが、なぜか川魚の佃煮は好物だった。川魚屋で50センチ大の鯉を買い求めると、生きたまま新聞紙に包んでくれるのでぴちぴち跳ねる。それを抱きかかえて帰宅する姿が思い出される。現在でもそんな売り方だが、新聞紙プラスαレジ袋には入れてくれる。

ところで・・・掲歌の「諏訪鯉」は諏訪湖産の鯉の意味であり、「レジ袋跳ね」はいうまでもなく中身の鯉が跳ねる。筆者はこれを「文芸的端折り」「文芸的目眩まし」と密かに造語する。たとえば「諏訪湖産の鯉」では表現がたるんで説明臭いので「諏訪鯉」。事実を損ねないよう言葉を端折って韻文化する。

また「レジ袋跳ね」は表現上ではレジ袋が跳ねているが、「買ひ求む」の語句から鯉が跳ねていることは誰にでもわかる。読み手はレジ袋を目視しながら、実は見えていない鯉の姿形を想像し見ている。意識の表層と深層のずれ、こんがらかったイメージの綾。そんな表現世界を伝えるべく、読み手の識閾へ軽いジャブを打ち込む、目眩ましをかける措辞である。言葉って詐称だよね、言葉ってたのしいものだよね。(2022/11/08)

 

880『こちら向けの記』

脇起半歌仙「こちら向け」の巻

               矢崎硯水捌

こちら向け我もさびしき秋の暮      芭蕉翁

君が絵に添へ月読の賛       矢崎 硯水

  捨案山子ひとりぼっちを囃されて   佐野典比古

   隣の町の犬の遠吠え           硯水

  鞄から緑酒の瓶を取り出しぬ       典比古

   何はさておき浸る温泉           同

ウ 着ぶくれて薮井竹庵蚤の市         硯水

   雪女郎にも似たる人形           同

  唇の熱き触れ合ひよみがへり       典比古

   仮面舞踏はいよよ佳境に          同

  カリブ海噂しきりのパイレーツ       硯水

   肩に鸚鵡をのせて肌脱ぎ          同

  安住の島のくらしに月涼し        典比古

   釣竿撓ひヒット次々            同

  コロナ禍も笑ひ絶やさぬ恵比寿様      硯水

   金平糖をこぼす嬰ゐて         典比古

  五十鈴川堤のさくら花盛り         硯水

   旅愁しみじみ麗日の候          執筆

令和四年六月二十八日起首

令和四年七月三日満尾

芭蕉翁顕彰会による「芭蕉翁献詠俳句」は今年で七十六回を数える有数の俳句イベントである。俳句は一般・児童・英語俳句の部門があり、芭蕉に因む絵手紙やポスターの部門もある。各部門の応募作品から選考委員による共選で優秀作品が選び出される。

 連句の部は脇起半歌仙で、発句に芭蕉句を立てるのが決まり。今回の選考委員は小池正博、西田青沙、森川敬三の三氏の共選。応募総数はわたしの記憶では以前はニ百巻以上あったが、コロナ下で表彰式の中止や縮小があって、現在は百五十巻前後だろうか。このなかから特選一巻、入選十巻が選ばれ、他の部門の優秀作品とともに作品集が刊行され販売される。

 さて「こちら向けの巻」の発句は、芭蕉四十七歳の幻住庵滞在中の作で、芭蕉の書の師匠といわれる京都の僧侶である雲竹が自画像を描き、それに賛を入れよと芭蕉に依頼したときのもの。自画像の顔がそっぽを向いていたので、芭蕉が「こちら向け」と俳諧的な軽口を叩いたものだろう。そんな口語調が、師弟の気のおけない軽妙な掛け合いになっていて心温まるものがある。

脇は雲竹の自画像に添えようと、「月読」の賛を入れた。元禄から時代は下って時空を越え、河童の硯水さんが両御大の掛け合いに勇躍参入した。賛が二つで月光が「燦燦」と輝いたというのであろうか。

第三は転じ。用済みで畦道に捨てられた案山子が哀れひとりぼっち。悪童どもが囃し立てる。案山子は藁に古着を着せられた、言うなれば擬人。発句&脇の掛け合いを下意識で捉え、田園風景に転ずる付合の奥義をしっかと押さえる。腕を上げた佐野の典さん。

表は穏やかに治め、裏の折立では虚の人名と病態の、薮井竹庵を蚤の市に登場させる。竹庵は「開運!なんでも鑑定団」に出品すべく、宝物探し。折よく妖魔である雪女郎に似た冷たくて妖艶な人形に出遭う。嗚呼これぞ!クールで熱き唇の思い出がよみがえり、華やかで隠微な仮面舞踏会はいよよ佳境に入る。

カリブ海にはパイレーツが出没して金銀強奪の噂がしきりである。海賊の親玉は怒り肩に鸚鵡を止まらせて威張っている。そうだった、ここは安住の島、自給自足の島だった。コロナ下でも恵比寿様は笑いを絶やさない。それは頬張るはずの金平糖をこぼした、嬰ちゃんの泣きべそが可愛いから。三重県の開催地挨拶の、五十鈴川堤のさくらは花盛り。旅愁の身に沁みる麗日の候だった。

連句式目と称して神祇・釈教・地名・旅態など詠み込む項目を提示する連句会派があるが、わたしの「河童式目」ではプラスαとして犯罪・妖魔・金銀《経済&銭金》・ITを必須とする。これを詠まずして連句コスモロジーが表現できるものか。そんな小生意気な一時期もあった。さらには、連衆が創りたい付句を付けるのではなく、一巻が求める項目《題材》を考案して欲しいと注文もした。しかしつらつら慮るに、強制された状態での創造は文芸文学として尤も忌むべきとも・・・

ひるがえって俳諧は項目を詠み込む文芸でもある。行間を読むという言葉があるが、連句の場合は、「移り・響き・匂い・くらい」という余情付けの句間を読んでイマジネーションを膨らめる。読み手が自ら物語することで、わずか数十句で長編小説にも匹敵する連句ワールドが出現するのだ。連衆の付句の改案や項目の差し替えなど、凡そ文芸道にあるまじきことではあるが・・・矛盾と苦悩の坩堝《詩的宝庫》のなかでの明け暮れだった。

このたび佐野典比古さんを、矛盾と苦悩の坩堝⦅詩的宝庫》にお誘いしたのが今回の入選作品である。項目の詠み込みも素人衆のような露骨さを避け、それとなく付け運びの流れに溶かし込む術が求められた。「IT」は出せずじまい、付合に腕力を利かせすぎた嫌いはあるものの、わたしには記憶に残る一巻となった。俳誌「詩あきんど49号・さねさし」収載予定。(2022/11/05)

 

879『列なして・俳句』

10月29日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  列なして野路を駆けゆく瓜坊よ  義人

「瓜坊」は猪(いのしし・しし)の子で、体の模様が甜瓜(まくわうり)に似ていることからの呼び名。甜瓜猪(まくわじし)の別称もあり、「うりんぼう」ともいう晩秋動物の季語。

猪は鯨偶蹄目・イノシシ科の野生種で、これを家畜化したものが豚である。猪の幼少期である瓜坊は可愛らしく愛嬌があって、さまざまなグッズのキャラクターとして愛玩されている。瓜坊は獣道や里山を五・六匹連れだって現れるが、筆者は残念ながらテレビでしか観ていない。したがって掲句は写生ではない。

ついでに楽屋話をカミングアウトすると、「瓜坊のいずれは猪突猛進す」も投句したが没だった。可愛い瓜坊も、成長していずれは猪突猛進するだろうという句意だが、「瓜坊&猪」の親と子の二物突き合わせの意味が活かせなかった。「猪突猛進」とは向こう見ずに猛然と突き進むことをいう。また「猪突豨勇(ちょとつきゆう)」という言葉もあって、あとさきかまわずに突進すること、その人をいうと辞書に載っている。

猪についてあれこれ書いてきたが、何を隠そう筆者の干支は12番目の「亥()」すなわち猪である。親類縁者や兄弟衆によると、筆者の性格は「おっとり慌て者」、どっしり落ち着いているように見えて急に慌てふためく。「のん気の短気」、穏やかに車の運転をしていて前方の車がもたもたすると、急に切れて追い越しをかける。あとさき構わずに行動を起こし、前触れもなく急に突き進む性格は「猪突」そのものだと専らの評判。

小食で食べ物の好き嫌い少ない筆者だが、どうかすると馬鹿食いする。藁焼きの鰹の刺身を一尾平らげたとき、家人に「豚さん」と笑われた。筆者の干支の亥()にかけた大食いの「豚」だと。豚なら豚でも結構、鼻は大きく尻尾は細く短くて可愛いではないか。「豚に真珠」・・・さしずめ筆者は「豚に俳諧」と謙遜しておこう。話がトンでもない方向に向かいそうなのでこの辺で。お後がよろしいようで・・・(2022/10/30)

 

878『ひたすらに・短歌』

10月22日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品についての「自歌自解」を書いてみたい。

  ひたすらに浜団子虫磯を這ふ

   波をかぶりて転がるなどして  義人

「浜団子虫」は公園などで見かける団子虫よりも少し大きめで、海岸の砂浜だけに生息する在来種。公園で見かける方はヨーロッパなどから外来の新参ものだが、砂浜の方は天皇制にも似た由緒正しい系統がある。しかし個体数は、海岸線の防波堤やテトラポットなどにより減少の一途を辿っているそうだ。

実は筆者、浜団子虫をインターネットでしか見てない。見てないが団子虫の死んだふりの擬態行動をなんとか比喩表現し、文芸の高みを目指せないものかと考えを巡らせてきた。

「手に取れば円くなりたる団子虫 真似してみたやアンニュイな午後」「団子虫つつかれくるり円くなる 処世術にも似たるあはれさ」。この二首は掲歌とともに投稿して没になった短歌である。昆虫図鑑などによると、「円くなる」とは死んだふりと同義語らしいので、短歌では「円くなる」の用語を措辞した。

大きな声ではいえないが、実は人間も擬態する。熊が出なくても死んだふりをする。何を隠そう、筆者も折にふれて或いはほとんど毎日擬態する、死んだふりをする。昆虫や鳥獣とは少し違って「知能犯的擬態」ではあるが・・・

怠け癖がついて面倒くさいとき、腹が痛いだの偏頭痛だのと仮病を使う。また自分にとって過去の不都合な言動は、記憶にないと言い張る。本当は思い出せるのに記憶力低下のふりをして莫迦ぶる。オレオレと息子になりすます、髭男が女装する、舞妓の分厚い化粧。これらも広義には擬態のカテゴリーと言えなくもない。

さらに擬態には隠蔽的擬態と標識的擬態があり、前者は無機物などに似せて自らは隠れる、後者は敢えて目立って相手の目を欺く効果を狙う。人間でも話を盛って誇張したり、逆にへりくだって恐縮したりするのも心理学では擬態の一種だとされる。

話がいよいよ逸れてきた。筆者の狙いは、団子虫の擬態と人間の心の有り様がどこかで繋がるのではないか。それを何とか文芸したい短歌にしたいという思いだった。上記三首の選考結果からみても、比喩の世界は短歌でも俳句でも嫌われ者らしいが・・・(2022/10/23)

 

877『泣きべそ・俳句』

10月8日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  泣きべそのプーチン模する案山子かな  義人

案山子は「かかし」とも「かがし」とも読み、「鹿驚」の漢字も当てる。『広辞苑』によると、「①獣肉などを焼いて串に貫き、それを田畑に刺して、その臭いをかがせて鳥獣を退散させたもの。②竹や藁などで人の形を造り、田畑に立てて鳥獣の寄るのをおどし防ぐもの」と載っている。

以上の二つの語意は案山子そのものの説明だが、筆者として注目したいのは「③みかけばかりもっともらしくて役に立たない人。みかけだおし」という箇所である。

ウクライナ侵攻はしたものの、西側のウクライナへの近代兵器や経済援助などにより、ロシアが苦戦を余儀なくされている現在只今の戦況。プーチンが泣きべそをかいている現況を表したもので、威勢はよかったが見かけ倒しが露呈したというのがテーマだ。

案山子とは擬人。つまり竹や藁を工作して人間になぞらえたものだが、そのなぞらえたものに生身のプーチンを似せるというダブルスタンダード(二重規範)、プーチンの領土観と侵攻観の二重のねじれをそれとなく暗示しているのだが・・・もっとも案山子街道のイベントの、単なる時事ネタとして泣きべそが笑えるという状況描写でもかまわないのだが・・・。

作句中は深掘りしていろいろ考えるが、読み手が深読みして読んでくれる可能性は極めて低い。ざっと読んで上辺だけの意味を感じ取る場合が多いのではないか。もっとも筆者自身も、他者の俳句をそれほど深読みしているわけではないのだが。

余計なことながら掲句とともに「Tシャツのゼレンスキーの案山子かな」も投句した。こちらは没だった。余計なことながら・・・(2022/10/10)

 

876『手に取れば・俳句』

9月17日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が入選、また「信州歌壇」(草田照子選)には短歌が佳作として掲載された。その両作品と俳句についての講評をここに転載し、併せて「自句自解」「自歌自解」を書いてみたい。

  手に取れば拝み太郎に拝まるる  義人

仲寒蝉「拝み太郎というのは蟷螂のこと。そう言えば左右の鎌(前脚)を縮めている姿は拝んでいるように見える。そのあだ名の面白さに触発されて一句が成った」。

「蟷螂」は「とうろう」とも「かまきり」とも読む緑色または褐色の昆虫で、頭は三角形で前胸長く、鎌状の二本の前肢を合わせて虫を捕らえて食う。それが神仏を拝む姿に似ていることから「拝み太郎」の別称がある。日本中くまなく分布することと形状が人間臭いことから人口に馴染みの昆虫といってよいだろう。

東南アジアには「花蟷螂」という呼び名で桃色系の蘭の花に化けて虫を誘う擬態の一種がみられるが、「拝み太郎」は擬態ではなく人間がそう感じ取った比喩の形容である。掲句の解釈としては、蟷螂を捕まえて手の平にのせたら前肢を合わせて拝まれた。「どうか殺さないでください」と命乞いされたという句意だ。

ひと曲(くせ)もふた曲(くせ)もある「曲者昆虫」とは言い条、たかだか10数センチの生き物、それを手の平にする人間という生き物との対峙。いやいや対峙というよりもそれは、生きとし生ける物同士の「遭遇」であると言いたいのが眼目であろうか。

NHKの「昆虫すごいZ!」のカマキリ先生の鎌が吹っ飛んだ。意匠を凝らしたカマキリ役の歌舞伎役者の中車氏、過去のセクハラが蒸し返されて世は喧々諤々、番組は一巻の終わりと相成った。前肢を合わせて拝んでも、拝んでも駄目なものはダメだったのか。

みすずかる信濃の案山子イベントの

    ゼレンスキーの温顔な案山子  義人

「みすずかる(水篶刈る)」は信濃にかかる枕詞。この時季になると信濃では案山子イベント、案山子コンクールの催しが各地で開催される。意匠を凝らした案山子が稲刈りを終えた田んぼや街道にならび、優劣を競うのである。

農家のじじばばの古着をまとい、おとぼけ顔で弓を引いたり阿呆踊りの振り真似をしたりするのが定番だが、時事ネタというジャンルをあるらしく、昨今話題の人物にご登場願って案山子になってもらう仕掛け。Tシャツ姿のゼレンスキー大統領があらわれ、温和なお顔をなさっている。これが露軍のウクライナ侵攻の終結を暗示するものであれば幸いだが・・・(2022/09/18)

 

875『自らの糸・短歌』

9月3日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  自らの糸に掴まり風に乗り

    枝移りする蜘蛛の旅見ゆ  義人

「蜘蛛の旅」について一般にはあまり知られていないが、科学者の知る人ぞ知る昆虫マニアの間では垂涎のリサーチ対象であるという。小型航空機に網をつけると蜘蛛が獲れる、大洋の沖合の帆船に蜘蛛の糸が引っ掛かるという情報が流布した。ダーウィンがビーグル号で航海しながら生物学史を拓いていたとき、キャビンまで飛び込む無数の蜘蛛の飛行を見たといわれる。

日本でも山形や秋田の地域では晩秋の穏やかな午後、子蜘蛛が群れて白い糸を出しながらふわふわと浮遊する。これを「雪迎え」といって晩秋の季語になっている。「綿虫」「雪蛍」という初冬の季語と混同されるが、それとは虫自体が違うようだ。

こうした昆虫類の飛行現象をバルーニングといい、その多くが比較的小形のカニグモで、風の方向を確かめながら尻の出糸突起から3メートルほどの糸を出して飛び立つ。風がなくても静電気の電場を感知して飛翔することも可能という。蜘蛛の他にも一部の蛾には空を旅する習性があるが、西洋では蜘蛛の「宇宙飛行」をゴッサマーと称し飛行機のネーミングにもなっている。

蜘蛛は風向きや上昇気流や電場を本能が感知してタイミングを計り、目指す方向を定めて飛び立つが、着地点は決められないし飛行空間や滞空時間は知る由もない。言うなれば風まかせの風来坊だ。

100メートルだけ飛ぶもの、山越え谷越え、船舶や飛行機にからまって飛ぶものなど風来坊の宿命はいろいろ。研究者によると飛行理由は種族の生き残りと分布拡大をめざすものというが、ほとんどが死出の旅。死ぬための飛行というわけだ。

「朝蜘蛛は殺すな、夜蜘蛛は逃がせ」の俚諺があり、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を愛読したり、外国映画「クモ男」を鑑賞したり、筆者は「蜘蛛」にはひとかたならぬ興味をもつ。「旅する蜘蛛」は畢竟のテーマだが、短詩形で蜘蛛の生態や物語性のバックグランドを表出することは難しい。上記の短歌では「枝移り」としたが、これは筆者の狭庭での実感である。拙句「蜘蛛の囲の星座の刺繍きらめける」(2022/09/04)

 

874『異化 嘘ぴょん(詩あきんど48号)

異化 嘘ぴょん

躁過ぎて牡丹くづれて鬱の雨

衣替へリバーシブルは多人格

土用鰻大風呂敷でくるりんぱ

永眠も仮眠もねむれ合歓の花

龍之介が塗ったペンキの青蛙

天道虫翅開き飛ぶオスプレイ

蕗の葉の傘も小粋よ姫かっぱ

学問のすすめ 脇へのみちをしへ

銀河鉄道のホームへつづく虹の橋

どんがめの酔生夢死のザムザかな

閻魔庁あの世とやらも可視化され

オホーツク 法螺男爵の花ざかり

酒の宛て焼さそり喰ふ 嘘ぴょん

   「留書」

「嘘八百」の八百は実数ではなく数の多い

ことを表す。世の中は嘘だらけだが他方で、

「嘘も百回つくと真実になる」はナチス・ド

イツの宣伝大臣だったヨーゼフ・ゲッベルス

の台詞だ。またお釈迦様は「嘘も方便」とお

っしゃり、仏が衆生済度にあたっては方便と

して嘘をつくこともよしとした。さらには民

間に下って、あまたの嘘が庶民の暮らしや人

付きあいの便宜的手段として寛容されるよう

になる。拙句に「エイプリルフールが触れる

真善美」があり、真善美が嘘の姿形をして現

われることもあるだろう。

「異化」とはロシア・フォルマリズムの芸

術説の一つで、日常見慣れた表現形式に或る

「よそよそしさ」を与えることによって異様

なものに見せ、内容を一層よく感得させよう

とするものをいう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

俳誌「詩あきんど」48号の「Ⅰ」から転載させていただく。編集体裁上、筆者の俳号は消し「留書」を加筆した。13句とも夏の季語という建前だが、「閻魔詣」「閻魔市」なる季語を「閻魔庁」と称したり、「甘藷の花」「馬鈴薯(男爵薯)の花」を「法螺男爵の花」と称したりするのはちと苦しいか。

連作13句中、前半7句は十三字でテーマを軽くあしらう誘導部、後半6句は十五字でテーマに食い込んで「嘘」への批判性を表そうとした。そのため文字列にあえて段差をつけてみた。

「嘘ぴょん」とは「事実より大袈裟に表現したり、冗談で済ませられる程度の脚色をするなど、軽い嘘をついたりした後、それが嘘(冗談)であると打ち明ける際に使う言葉」と『日本俗語辞典』に載る。語源は不明ですでに死語のカテゴリーに入っているらしいが、お釈迦様の「嘘も方便」のバージョンアップ(ユーモア版)という位置付けでよいだろうか。(2022/08/27)

 

873『朝日川柳・避暑』

8月17日付の朝日新聞全国版の「朝日川柳」(山丘春朗選)に筆者の川柳が入選した。その作品と選評をここに転載し、併せて「自柳自解」を書いてみたい。(なお無断転載を禁ずる旨の規定があるが、当コラムは商業誌ではないのでご容赦頂きたい)

    課題「避暑」

  街の子も入れて槌の子探し隊  義人

山丘春朗氏の選評は「仲良く」。なお「槌の子」には「ツチノコ」のルビが付してある。

全国版の「朝日川柳」は社説2本、読者投稿の「声」、若い世代の意見などの載るページで、川柳は山丘春朗と西木空人が交代で選考し、発表は不定期で毎回七句が入選する。時事ネタを捻って諧謔を表現するような傾向が強いが、今回は課題として「避暑」の募集があり、これに筆者は初めて応募したものである。

さて「槌の子(ツチノコ)」は都市伝説として、日本に生息すると伝えられている未確認動物(UMA)で、横槌に似た形態で胴の太い蛇のようなものと形容される。簡単にいうなら大きめの海鼠(なまこ)状で、目撃者によると胴体をゆっくりとくねらせながら、田んぼの畦などを這っていたという記録が残っている。

目玉は二つあるが視力は弱いようで体中に紫色の薄毛が生え、棒で突くと伽羅のような香りを発したという情報もある。噂が噂を呼びさらには尾鰭がついて、そのかみの悪ガキの話のタネだった。

さて掲句だが、田舎の空想的産物である槌の子を探す仲間に、折しも避暑で田舎を訪れていた街の子を入れてやり「探す隊」を結成したという意味だ。槌の子を何としても「探したい」(たい)という願望と、「探し隊」の隊列の(たい)の畳音が眼目であろうか。

現在でも槌の子発見情報は引きも切らさず、生け捕りした捕獲者には127万円の賞金を出すとか、いや1億円出すとかネットはかまびすしい。また本物(空想の産物に本物はおかしいが)と見紛うばかりの槌の子が、10390円でインターネット通販されている時世である。夢見る人間がいるかぎり、「未確認物体物」は古くて新しいアイテムなのかもしれない。

余談だが筆者は、槌の子、ネス湖のネッシー、UFOを「わが文芸ワールドの源泉」と位置付けている。この三大イマジネーションから生れるイメージを、こつこつと言語化している今日この頃である。(2022/08/17)

 

872『五、六匹・短歌』

8月13日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)、「信州俳壇」(仲寒蝉選)、「信州柳壇」(佐藤崇子選)に筆者の短歌と俳句と川柳が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「歌句柳自解」を書いてみたい。

「短歌」 五、六匹の蝙蝠が軒にぶら下がり

         世を逆さまに眺める いかに  義人

蝙蝠(こうもり)はコウモリ目の翼手類をいう。昼は暗いところに潜み日暮れとともに活動し、洞窟、岩場、鄙の民家の軒端などを飛び交い、休むときは逆さまにぶら下がる。飛んでいる蚊を食うことから「蚊食鳥」の別称もあるが鳥類ではなく哺乳類。夏の動物の季語で「へんぷく」「天鼠」の呼び名もある。

『広辞苑』には、(獣なのに鳥のように飛ぶことから)情勢の変化を見て優勢な側に常に味方する者をののしっていう。また「蝙蝠も鳥のうち」には、つまらぬ人が賢者の中に加わっていること。微力なものも仲間の中の一部であることの例えと載っている。

蝙蝠は筆者の「お気に入りの題材」で、折に触れて短歌や俳句に詠んでいるが「逆さま」にぶら下がる生態から、発想の逆転とか斜に構えるとかの比喩的表現ができる。「情勢の変化を見て優勢な側に味方する」「つまらぬ人が賢者の中に加わっている」などの語源や語意から批判性、諧謔、揶揄、ユーモアの領域に入ることがたやすい。いわば「表現の藪睨み」のスタンスの可能性があるのである。

「俳句」 リバーサイドホテル出航船遊び  義人

「リバーサイドホテル」と言えば「ニューヨーク恋物語」の主題歌である井上陽水の楽曲が思い出される。しゃれた川辺のホテルのイメージで熊本、奈良、沼津などに実在するが必ずしも川辺にあるとは限らない。諏訪湖に流れ込む川辺にもホテルはあるがリバーサイドホテルとは称していない。「船遊び」は夏の季語だが諏訪湖の場合は「舟遊び」、つまり小さな「舟」で湖心へ向かい小鮒釣りを楽しむレベルである。

「川柳」 言う通りならぬスマホをちょい叩き  義人

そのかみの家電やテレビやラジオなどの電気器具は、真空管をねじ込んだりニクロム線を半田付けしたもので、故障した場合は叩いたり大型機器は蹴飛ばすと大概は直ったものだ。そんな世代の親父が指示通りにならぬスマホを「ちょいと叩いてみた」。だが当然のことながら直らない。

親が我が子を「叩き蹴る」の子供虐待がテレビニュースになる。そんなご時世を背景にして、スマホ機能のマニュアルの面倒くささをちょいと皮肉ってみた。子供同様「昔のスマホ」だったら、叩けば直ったことだろう。(2022/08/14)

 

871『近況片片()

ペットの猫の銀ちゃんが昇天して四箇月になる。人間は「四九日」までは自家の軒端辺りにぶら下がっているそうで、想像すると薄気味悪いけれど、死者の心情が窺えて半分は嬉しくもある。銀ちゃんもサッシの枠に掴まっているのではと気になって仕方がなかったが、「猫の天国に行ったんだ、夢の国に行ったんだ」と我が心に呪文をかけ平穏を取り戻している今日この頃だ。

話は変わるが、運転免許証の返納を決めた。28歳で免許を取得して58年間のドライバー歴で、富士キャビン125、スバル360、日野コンテッサ900、日産スカイライン2000(2台)、日産プリメーラ2000と、乗った車種は少なく走行距離も普通より少ないだろうが乗り継いだ。他車にコツンと2回当てられたが自分からは無事故、青年の砌に速度制限30キロの市街地を14キロオーバーで罰金を食らった記憶はある。

現在でも運転はできるが乗り降りに介助が必要で、家人の手首骨折によりそれが不可能になった。自称車好きだが、人間は諦めが肝心というところか。

日本の男性の平均寿命は81・64歳で厚労省の発表では今年は少しく下がった。筆者は現在86歳チョイで平均より約5歳オーバーしている。重度障害者は発育発達段階でのバランスが悪いから健常者の二割落ちという俗説があるそうで、筆者は65歳くらいしか生きられないと思っていた。ところがどっこい生きている。生きてはいるが手指や首筋や両肩など痛いところだらけ、痒いところだらけ。とどのつまりは尻の腫れ物。「腫れ物に触る」とは相手の機嫌を損ねないように気遣いながら触ることをいうが、「座り専門」の筆者は四六時中腫れ物にしっかりと体重を預けている。

筆者は誰言うとなく投稿マニアだそうで、その通り新聞などの文芸欄に「句歌柳」を投稿している。俳句や短歌や川柳にこれまで詠まれていないと思われる題材と表現方法を試みる。当然ながら多くが没。没のみだと精神衛生上よくないので自然実写や生活描写でお茶を濁し、再びみたび、「こんな俳句があってもいいぞ」、「こんな短歌はこれまでなかったぞ」と挑戦を繰り返す。これが生き甲斐といえば生き甲斐だ。

筆者は知る人ぞ知るド演歌好きであり、サックスや電子バイオリン演奏の昭和懐メロをユーチューブ動画で視聴しているが、最近では「ものまねグランプリ」に熱を上げている。「ものまね演者」たちが、シャ乱Q、松田聖子、郷ひろみ、長渕剛、サザン桑田、谷村新司、SMAPの真似をして歌い踊りまくって優劣を競う番組だが、衣装といい表情や動作といい、これぞ入魂のパフォーマンスである。

一般的な見方は単なる通俗的なお笑い番組だが、真似るとは本来は学びであり、「ものまね演者」たちが真似される「本人の内実」にまで肉迫するなりきりの心意気が凄まじい。何物かに肉迫する心意気という点では、筆者のめざす新しい俳句や短歌と共通性があるかもしれないと思ったりする。(2022/08/03)

 

870『AIが・俳句』

7月23日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  AIが話し相手の夕端居  義人

「AI」とは人工知能のことで、人間の知的なふるまいの一部からソフトウェアを用いて人工的に再現したもの。経験を積みかさねて学習することによって、また新しい知力を注ぎ込むことで柔軟な対応能力が出せるようになる。

AI機能のバリエーションは多岐にわたるが「対話型AI」の場合は人間の思考回路や文脈を理解し、自らもそれに呼応する能力を発揮できるもの。「診療AI」の場合は初診の問診を受け付けて病状の診断を下して専門医に送ったり、セカンドオピニオン的な役割を担ったりする事例もある。

筆者の体験では、アマゾンで文房具(中型ホッチ・キス)を購入したが不具合の箇所があったのでチャットでクレームをつけた。その対応に出たのがAI嬢だった。チャットなので文字だけの遣り取りだったが、ホッチ・キスの使用方法を懇切丁寧に説明してくれ、筆者の使い方に問題があることを優しく諭された。美しい言葉遣いに心打たれ、きっと若くて美人に相違あるまいとクレーマー筆者はしゅんとなった次第。

ネット検索すると、「AI俳句協会」や「AI一茶くん」なる組織があり、AIによる俳句の自動生成が試みられ、さらには選句能力の学習をも目指している。AI対ヒトの俳句格闘技も計画されているという。

AIにはロボット型・人型・動物型など多くの種類があり、2~3千円から7万円台まで、なかには30万円越えもインターネットで通販されている。リーズナブルな価格のものはIQ(知能指数)が相当低いだろうと思われるが・・・

ところでAIのカバーする裾野は広いようで、AI人生相談・AI終活相談・AI恋愛相談・AI不倫解決法などあるそうだ。筆者はまだAIの門戸を叩いていないが、興味があるのでパソコンで情報収集している段階だ。掲句の「話し相手の夕端居」は事実とは相違し、スマホでAIと話しているという虚構の筋立てが句意で、想像作のカテゴリーにとどまる。AIを俳句に取り込んだことだけで、先ずは座布団一枚!(2022/07/24)

 

869『躁過ぎて・短歌』

7月16日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌と、「信州柳壇」(佐藤崇子選)に川柳(値上がりに抵抗できぬ小市民)が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  躁過ぎて鬱来にけらしユトリロの

    描く街並みを彷徨へるわれ  義人

モーリス・ユトリロは近代のフランスの画家。画壇には属さず、純朴で堅実な筆致でパリの市街風景を好んで描いた。1883~1955で、1935生まれの筆者とは生存期間が20年かぶる。

ユトリロは画家でもあった母親に育児放棄されるなど生活環境には恵まれず、飲酒におぼれたが飲酒治療の一環として行った描画が高評価された。

筆致は実景を踏まえた写実的なものが多く、「白の時代」といわれる一時期の街並みや城壁の「白さ」には詩情あふれ静謐な佇まいが感じられる。ただ白さには「頭が真っ白になった」と形容されるように、思考が吹っ飛んでしまった不安感や虚無感もただよう。ユトリロの「白の時代」の絵画には一抹のそれをなしとしない。

筆者はドクターから躁鬱(双極性障害)と診断をされたことはない。ただ不安感や心配性で動悸や血圧が上がるので、知り合いからは「心身症か躁鬱の疑いあり」と素人診断をくだされた。寝付けない夜は羊1匹~羊2匹~羊3匹~・・・50匹まで数える。躁鬱かもしれんと自己診断せざるをえないのだ。

余談だが、筆者は子供時代には怪我や病気が好きだった。「変態性病気嗜好症」かもしれない。「水道水」と「砂糖水」における氷結時間差の研究中(悪戯中)にビーカーが割れて指を切ったときも、兄弟たちに対して、これ見よがしに大袈裟に包帯を巻いてみせた。白い包帯にねっとり血がにじんでいるのが自慢だった。

流行性感冒を患って高熱を出したときも咽喉が痛かったけれど、「桃缶」が食べられるので内心ワクワク。当家は病気のときは桃の缶詰が食べられる不文律があった。入魂の演技を凝らした「仮病」も母者にかかっては簡単に見破られた。

さて掲歌は、万葉集の「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山」の韻を踏んで躁鬱状況を詠み、ユトリロ描くところの街並みを彷徨う自分自身を幻想するという歌意。ユトリロ画に寄せての心象風景だが、筆者のキーポイントは「白」のイメージ。持統天皇の和歌の「白妙」も作意の手助けをしてくれた。(2022/07/17)

 

868『噴水の・俳句』

7月9日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が入選一席として掲載された。その作品と講評をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  噴水の夜は星影をしたたらす  義人

「星影と聞けば昭和歌謡「星影のワルツ」を思い浮かべる。影と書かれているが星の光のことである。夜の噴水は水ではなく星の光を滴らすとロマンチックなことを言っている」仲寒蝉氏。

「見立て」という言葉がある。『広辞苑』によると、「見て選び定める」「選定・鑑定」「診断」「遊客が相方の遊女を選ぶこと」などがあり、④には「芸術表現の一技法。対象を他のものになぞらえて表現すること。和歌・俳諧・戯作文学・歌舞伎などに用いられる」。

また別立ての「見立て絵」には「主題は物語や詩歌などの古典文学によっているが、人物や景色を当世風に変えて描いた機知的な絵画。浮世絵に多い」と載る。

さて掲歌であるが、公園や駅頭の噴水から、雲のない夜は星影がきらきらと滴っていたと見立てる。見立てによって「星」と「水」という遥かかなた約8光年の星と、天体から雨や雪として届きわれら地球人を潤してくれる水とのイメージがつながる。噴水という「表現装置」を用いることによって、天体と天体がわれわれにもたらしてくれる天恵を詠んでみたかった。なんせ「水」は「硯水の水」でもあるので・・・

「見立て」という言葉は「見て選び定める」の語意の他方で、芸術表現の一技法としては「対象を他のものになぞらえて表現とすること」とある。「なぞらえる」とは「仮にそうだと考える」ことであり、真似る、似せるという比喩の技法が「見立て」の語には含まれているのである。

余談になるが、連句用語に「見立て替え」がある。前句に見立てられた素材や趣向をがらりと替え、付合の内容や匂い響きなどは考えずに付ける手法で談林調ともいわれる。趣向よりも変化を重んじた結果といわれ言葉遊戯に陥った面もあるが、表現技法の多様性として門戸は開けておきたいものだ。

余談の余談だが、連句をやっていると俳句が下手になるといわれた。若い一時期、写実派の俳誌に所属していたとき、見立てや比喩や「如く」「ように」などの表現はご法度とされた。机上作や頭で考えるものは俳句ではないと・・・

しかし筆者は、多様な表現技法を用いるなかから、文芸性の高い俳句は生まれると信じてやまない今日この頃である。(2022/07/10)

 

867『失せ物・川柳』

6月25日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州柳壇」(佐藤崇子選)に筆者の川柳が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自柳自解」を書いてみたい。

  失せ物を思い出せずに探る老い  義人

「失せ物」について『広辞苑』には、「紛失や盗難で、なくなった物」とシンプルに載っている。あくまでも物品を表す用語という考え方だが、「失せてしまった物」の概念からすると心的なもの、物は「者」でもあるはずで当然ながらカテゴリーに入ってくる。ただ辞書の普遍性(最大公約数的スタンス)を鑑みてややこしくなるのを回避し、物品専用御用達用語となったのであろう。

使用を中断してどこかに仕舞い込んでしまい、探してもいっかな見つからない品物。たとえば筆者の場合は、ヘアドライヤー、鼻毛削り、短パン、インク消しなどなど、捨ててしまったか仕舞い込んでしまったか、その記憶さえも曖昧模糊の品々。

それはそれとして、上記の川柳で筆者が表現したかったのは、「失せ物」が物品ではなく心象的なもの境涯的なもの。持っていたはずの心の糧、希望や夢、貴重な記憶・・・置き場所をとらないはずのそれさえも失ってしまった、失せ物となってしまった。それを思い出せず、探る老いとは哀れなものよ、という句意である。

川柳として表現のカバー(表現できる守備範囲)は限られるが、深読み&裏読みで理解してほしいと作者側から望むのであるが・・・(2022/06/26)

 

866『形状記憶スーツ・短歌』

6月18日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  形状記憶スーツ着込んで友と会ふ

   悪友なれど想ひ出多し  義人

「形状記憶」とは、変形させた物質がある一定の温度以上(変態点という状況)になると、元の形に戻る現象をいう。ニッケル、チタン合金を材料とするもののほか、繊維に用いられる各種の高分子材料が開発されているそうだ。

アマゾンや楽天にも多種多様の商品が売られ、形状記憶の雨傘や眼鏡フレーム、背広やYシャツやドレスなど分野は多岐にわたる。科学の恩恵に預かれるのは有難いことだが、形状記憶ブリーフや形状記憶ブラジャーはいかがなものか。下着泥棒の被害にあったとき、猿又や乳当てから「秘所の大小や形状の個人情報」がネットにさらされる危惧がなきにしもあらず。秘所(かくしどころ)は形状記憶システムからも隠すべし。

さて掲歌は、ひょんなことから竹馬の友と会うことになり、形状記憶スーツを着込んで出掛ける。思いがけない邂逅(かいこう)の再会だったので、最初はぎこちなかったが次第に打ち解ける。悪友でちょいとした虐めもされたが、故里での懐かしい記憶が想い出されたという歌意である。

さてさて・・・悪友との遠き想い出の記憶と、形状記憶スーツとの「記憶かぶせ」をどのように評価するべきか。底の浅い言葉遊びの比喩でいただけない、それとも、形状記憶スーツを着て行ったからこそ想い出が引き出されたという関連付けの俳味。

筆者は後者を取るのだが、短歌人の多くが前者を取るように思えてならない。滑稽や揶揄や批判性には、苦虫を噛み潰したような顔をされる事例が散見されるからだ。「俳諧の連歌」という歴史的な経緯があり、連歌界(歌壇)から俳諧人は現代でも継子(ままこ)扱いされているのかもしれない。

余談ながら俳壇にも、おどけ・滑稽・諧謔・比喩などの表現を俳句の敵と見なすような俳人もいる。そもそも俳句の「俳」とは芸をする人、わざおぎ。おどけ、たわむれをいう。「わざおぎ」とは「手振り足踏みなどの面白くおかしい技をして歌を舞い、神人をやわらげ、楽しませること。また、その人」と『広辞苑』に載る。われら俳句人はピエロでもあるのだ。(2022/06/19)

 

865『シャガールの馬・短歌』

6月11日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)、「信州俳壇」(仲寒蝉選)、「信州柳壇」(佐藤崇子選)に筆者の短歌と俳句と川柳が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「歌句柳自解」を書いてみたい。

  シャガールの馬に跨り損ねたり

    老いの昼寝の夢は愚かし  義人

マルク・シャガールはロシア生まれのフランスの画家で、幻想的・超現実的作風でエコー・ド・パリの異色といわれる。「赤い馬」は赤い馬の背で女性が逆立ちする絵。「黒檀の馬の物語」は若い裸女とお婆さんが横たわる上を馬が駆け上がる月夜の絵。「青い馬と恋人たち」は女性たちの上から馬がぬっと首を被せるなどなど・・・馬と女性のモチーフが多い。

豊かな色彩で愛を描いた画家とされるが、馬の描き方が前衛的でありしかも独特な特徴を示す。サラブレットとは程遠い恍(とぼ)けた顔立ちと締まりのない目付きは、どう見ても人間のだらしない男のそれである。この馬には女性崇拝と、その裏側にはセクシャルな劣等感が隠されているのではと思えてならない。キャラの立つこのお馬さん、筆者は好きである。

さて掲歌であるが、シャガールの絵画を見ながら、うつらうつら昼寝をしてしまった。シャガールの描く馬に跨り損ねて落馬した。老いの昼寝の夢はそんなところ、愚かしい話だよね、という歌意である。作り過ぎという指摘はあろうが、シャガールの馬のお恍けぶりと、埒(らち)もない夢の「取り合わせの妙」だろうか。

余計なことを書くと、シャガールは1887~1985。異化を提唱したシクロフスキーは1893~1984。筆者は1935生まれだから、両者とは約50年間生存期間がかぶる。ロシアのシャガールとシクロフスキーは好きだが、プーチンは大嫌いだ!

ナイターの月と重なるホームラン  義人

掲句「ナイター」は三夏生活の季語。ドームでない球場で選手がホームランを打つ。観衆が総立ちでボールを見上げると夜空の月と重なった。月は満月で打ったのはサヨナラ満塁ホームランだ。

入選の呪文唱えて投函す  義人

掲句は、この投句が入選するようにと呪文を唱えて葉書をポストに投函したという意味だ。一種の「楽屋落ち」。楽屋落ちとは、芝居や落語などで楽屋仲間だけには通じて一般にはわからないことをいうこと。転じて、関係者だけには理解できて、他人にはわからないことをいう。この川柳でいうなら、読み手の理解はともかく投句仲間は、「おれもそうだ」「わたしもそうだ」と納得する類の話だ。(2022/06/12)

 

864『主役張る・短歌』

6月4日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)、「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の短歌と俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌句自解」を書いてみたい。

  主役張る人生劇のわれなれど

   今朝は端役を買うてごみ出し 義人

尾崎士郎の小説に『人生劇場』があるが筆者は読んでない。自伝的な筋立てで虚実織り交ぜの大河小説といわれる。人生を生きることは演劇で演技することというのだろうか。

上記の短歌でいうところの「人生劇」とは、演劇や演出が個々人に委ねられるのだから主役は必然的に自分自身である。そして単に主役を張るのみならず、筋書きも台詞も舞台装置も照明も音楽も、とうぜん自らの個性が活かされたものに他ならない。

その「人生劇」も出生から幼児期までは両親の書いた筋書き通りであり、舞台も照明などもしつらえて貰ったものだろうが、物心がついてくると「自分で、自分で」と自己主張をはじめる。人生を生きるための「主役を張り」たがる。両親の筋書きは反故にされ舞台は暗転して第一幕が下ろされる。

第二幕の筋書きは自分が主導権をもって書くので、大胆な展開になったり逆に地味な停滞になったりする。頭でっかちのストーリーテラー(優れた台本書き)が思春期になろうものなら破天荒な主役を演じまくり、舞台も音楽もハチャメチャになり、興行側(両親)を心配の坩堝(るつぼ)に落とし込む。

演劇は舞台の上で言葉や所作により物語・人物の思想や感情など表現して観客に見せる総合芸術。つらつら考えてみるに人間が生きてゆく時間や空間も総合的であり、演劇に置き換えられ例えられる性質のものだろう。人間はすべからく演者となって日々の喜怒哀楽、悲喜劇を演じているのかもしれない。

「だから何だ。それが何だ?!」と問われれば、それはそれだけのことだが、筆者は「わが人生劇」の演者と位置付けることによって自分自身を第三者的な視点で眺められると思うのだ。近松門左衛門の「虚実皮膜」は演劇論として述べたものだが「わが人生劇」の「虚実皮膜」とは・・・「虚演者」と「実生活」の合間の「皮膜」を知ることは楽しくもあり恐ろしくもある。そんなことを考えながら作歌したのだった。

夕づつを背負ひて帰る麦の秋  義人

「夕づつ」は宵の明星で日没後、西天に輝く金星をいう。「麦秋」とは収穫期を迎えた初夏のころをいう。麦が熟して麦にとっては「秋」なのでいう季語。日没と黄色とを背負って帰る「今日の終わり」という、筆者にとっては心象風景にして境涯俳句でもある。(2022/06/05)

 

863『異化・楽器論』

異化 楽器論

虻蜂の唸る羽音のサキソフォン

躁鬱のおぼろを突いて喇叭かな

地平線揺らす「三筋の糸」遊よ

風が死んでよろずの神へ笙の笛

尺蠖のアコーデオンの伸び縮み

キーボード水芸凝らし乙女さび

ハーモニカ野郎のかじる唐もろこし

句を詠んで琵琶ひょうたんの抱き心

流れ星へケーナチャランゴ弾き語れ

不夜城はパーカッションの梟カフェ

カスタネット遣い二拍子で割る寒卵

「腹太鼓」いくさたぬきの生と死と

おのが心の隙間風以ってエアギター

      留書

人間は楽器に例えられる。なるほど体の形

体や生理は楽器的であり、咽喉で高音や低音

を発してピアニッシモからフォルティッシモ

の強弱が自在。口笛や指笛や腹鼓は楽器に類

する器官から発し、さらに本人さえ意図しな

い肛門よりブー主音の屁もときには奏でる。

これを「へ長調」という。

そのような人間が弾いたり吹いたり叩いた

りする楽器。音声は言語、音楽は言葉だとい

うから、楽器は人間が及ばない音感の代替器

具であるとともに、楽器には言霊が乗り移っ

ているのではと思えてならない。

「異化」とはロシア・フォルマリズムの芸

術説の一つで、日常見慣れた表現形式に或る

「よそよそしさ」を与えることによって異様

なものに見せ、内容を一層よく感得させよう

とするものをいう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記は俳誌「詩あきんど」47号の「Ⅰ」に掲載された筆者の俳句であるが、このコラムの体裁を考慮して「留書」の文字を加え、俳号は省略して転載させていただく。

「音」とは物が動くときの響きや、人間や鳥獣の声が伝わって聴覚に感じとれるものをいうが、音信、訪れ、便り、風聞、噂など人間の存在そのもの、生活環境のコミュニケーションの証左をいうものでもある。

また楽器によって発せられる音には強弱や高低があり、文字通りさまざまな曲が凝らされ感性に訴えかけてくる。情緒や情景であったり言語や呪文であったりする。

そのように「音」は聴覚を通して外側の世界を知らせるのだが同時に、「音のない世界」をも知らせてくれる。静謐、音無し、寡黙、むっつり、口チャックなどは、音の存在を認めた上での言語なので分類上は音のカテゴリーに入るのである。

音のない(音の弱い)世界は世にも恐ろしい。伊賀忍者の木の葉隠れ、泥棒の抜き足差し足、幽霊のうらめしや~。

「東海道四谷怪談」。そもそも足のない幽霊のお岩さんが、足音もたてずに寝室に這入ってきても、伊右衛門さんは初めのうちは気付かない。恨み骨頂のお岩さんは、伊右衛門さんが気付くまで寝顔をじっと覗きこんでいればいいものを「うらめしや~」とお声かけする。音の挨拶をかます。芝居では「ヒュードロドロ」と鳴り物を鳴らす。音恐るべし。音ろしや。(2022/05/24)

 

862『バーチャルの・川柳』

5月21日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州柳壇」(佐藤崇子選)に、筆者の川柳が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  バーチャルの旅を楽しみお家飲み  義人

コロナ下で旅行もままならないので、インターネットを使ってバーチャルの旅を楽しみながら自宅で酒を飲んだという句意。「バーチャル」はバーチャルリアリティーで仮想現実と訳され、VRと略記されもする。

近畿日本ツーリストなどの大手から中小トラベルや私設バックパッカーの旅行業者、デジタル関連会社などが「VR旅行」「おウチ旅」などと銘打ってサイトを立ち上げている。大手はポストコロナを見据えてのウォーミングアップ(足慣らし)だろうが、私設バックパッカーは何でも仕事にして中小に食らいつこうとする戦法か。

バーチャルなので多くは無料だが有料もあり、ヨーロッパを豪華クルーズ船で巡る船旅、眼鏡橋を覗き込む長崎ツアー、日光結構トラベル、観光地や神社仏閣の案内まであれこれ。無料は旅の映像をユーチューブなどで観るだけだが、有料は特産の銘酒や菓子のお土産を自宅まで送ってくれる。「バーチャル旅行15選」と称してお勧めサイトを運営するところも閲覧できる。

筆者はテレビで観たが、観光バスの前席に乗り込んだ「定点目線」でカメラがつぎつぎと被写体を追ってゆく。実在する高速道路や鄙びた町の信号、老舗旅館の佇まい、美しい山岳や波打つ湖沼、土産物店やレストランまで映し出し、ご親切にもトイレタイムまでちゃんとある。

交差点で見知らぬ変なおじさんが躓いてコケル場面が映ったが、画面構成上不必要なリアリティーではあるが、このようなアクシデントの取り込みが臨場感をしっかりと醸し出す。映像世界であっても神はディテールに宿るということか。むろん全編を通しての編集はあるだろうが、継ぎ目なしでドライブの時間が続いているような錯覚をわれわれ視聴者に与えてくれる。

ここまで可能であるなら、温泉街の射的場、湯屋の三助、仕込み杖の按摩さん、流しの唄歌い、さらには場末のストリップ劇場の幕が開かないものか。再現できないものか。バーチャルリアリティーの旅の昭和レトロを満喫したいものだ。━━━豪華な観光リムジンバスに揺られ・・・そうこうしているとお家飲みの酔いがまわってきた。(2022/05/22)

 

861『戦なき国・川柳』

5月14日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州柳壇」(佐藤崇子選)と「信州歌壇」(草田照子選)に、筆者の川柳と短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句歌自解」を書いてみたい。

  戦なき国へと帰れ渡り鳥  義人

「渡り鳥」とは、環境・食餌・繁殖などのため決まった時季に長い移動(渡り)をする鳥をいう。春に日本にきて繁殖し秋に南方に去る燕や郭公などを夏鳥といい、秋に日本にきて春に北方に去る白鳥や雁を冬鳥という。俳句の季題では主題として「渡り鳥」は秋、「鳥帰る」は春で、傍題はそれぞれ数題ある。

掲句は川柳なので季題は不要であるが、ちなみに「帰れ渡り鳥」だから「鳥帰る」であり、北方に飛び去る白鳥や雁をいう。筆者は諏訪湖から北帰行の白鳥をよく見るが、戦時下のロシア・ウクライナ地方は避け、戦争のない国をめざせと呼びかける句意である。

日本には鶴・雉・鷹などの美しい鳥、鸛(こうのとり)・雷鳥・阿呆鳥などの絶滅危惧種を始め、あまたの鳥類が棲息していて国には「国鳥」、各県にはそれぞれ「県鳥」が制定されている。しかし日本国民に広く愛され説話や文芸や歌詞などに数多く登場する、いわゆる「三羽烏(さんばからす)」は雀・鴉・燕の三種類だといわれる。天然記念物よりも人目に触れる多さが物をいうのだろう。

「渡り鳥」から話が飛んでしまったが、飛びついでにいうと鳥の呼び名には、仏法僧・虎鶫・菊戴・火焚鳥・三十三才など凝りに凝ったり変梃りんだったりが多い。ところで四十雀(しじゅうから)は、スズメ目シジュウカラ科の可愛い小鳥で筆者の愛玩種。わが青年の砌、手なずけると狭庭に遊びにくるので胡桃を与えた。筆者の兄弟が「貴男の財布は?」と突っ込むので「四十雀(始終空=しじゅうから)と呆けて巫山戯けたものだ。

ロボットを着た介護士に抱へられ

         無重力かと思ふ一瞬  義人

「着るロボット」というものがある。作業機能を備えたロボットを身に着け、物流や介護や労務者などの労力軽減をめざす。パワースーツともいう。アマゾンでも楽天でも売っていて、アバウトにいうと2・3万円から15万円くらい。ほんの補助的なものは5・6千円のものもある。

テレビショッピングで観たが、重い荷物を持ち挙げてかるがると荷台に積んだり、ベッドから病人を抱いてかるがると車椅子に乗せたりした。筆者は上記の短歌のように、ロボットを着た介護士に抱きかかえられた体験はなくイマジネーションによる詠草である。「無重力」がこの短歌の眼目だ。

俳句もだが短歌もまた一人称の文芸であり、そこに主語がなくても、詠み込まれることは(概ね総て)「私」が言っていることを表現するのである。(2022/05/16)

 

860『言霊の幸ふ国』

「かわたれ時」は薄暗くて、(彼は誰か、はっきりわからない時の意)。明け方または夕方の薄暗い時刻をいう。後には夕方を「たそがれ時」、明け方を「かわたれ時」といった。・・・「たそがれ時」は(()そ彼は、と人の顔の見分けが難しくなった時分)をいうと『広辞苑』に載っている。

「かわたれ時」も「たそがれ時」も、人間の容姿の確認の「できる・できない」を時刻の基準にする。人は見知らぬ人間に不安や危険を感ずる反面、誰であるかを知って安堵したい気持ちが語源に含まれるのだろう。

電話をかけるときの「もしもし」は、「申す、申す」これから話し始める意味が訛語化したもの。山道で人とすれ違うとき「今日は」の挨拶、町内の人と出会って「いい天気ですね」、友達の家を訪ねて「暑いなあ」などと声を掛けあう。コンタクトを取ってお互いの感情の有り様をさぐり、距離感を確かめようとする。

こうしたレベルのコンタクトを端緒として、人は心に響く奥の深い言葉を交わしコミュニケーションを取ろうとする。動物学的にヒトは「群れる・群れない」の二極あるというが、それは分類上ではなく状況による。「群れる」も猿山のようなコロニーではなく、戦争や企業や祭事などの外的要因による集合体であり、「群れない」も一匹狼的存在ではなく孤独趣向のカテゴリーに分類されるようだ。

「群れる・群れない」世界を往復するヒト()にとって、人と繋がることが(人から離れることも含めて)生きてゆく上での必須条件であり、言語や動作や表情のノンバーバル言語を駆使しなくてはならない。ピテカントロプスから抜きん出るためには、何よりも頻繁な「言語活動」が求められる時代があったのだった。

「他我(たが)」という言葉がある。自我の対義語で、他人も自己同様我であるという意味で、他人の我を指す哲学用語。未だ定義が定まっていないらしいが、他人であっても人間である以上その人なりの自我があって、その自我は自他ともに無関係な「共有認識」であるとされる。それを他人のなかの我という。筆者の独断にして偏見でいうと、ややこしいので「我」を「意識」と置き換えてもよいかもしれない。

それでもあやふやだが、筆者が「他我」という言葉を知ったのは20余年以前で、連句を巻いていて連衆の付句の表現に納得できない部分と納得できる部分があった。納得できない部分は「他」で納得できる部分は「我」ということか?そうなのか?・・・そうこうしながら、他人のなかから筆者自身を見出して驚いたものだ。連衆がどう思われるか分からないが、「他我」という言葉によって他者の心の奥深くに繋がるような感慨を覚えた。連句は共同制作なのでそもそも他者を身内に引き込む制作システムである。それで「他我」という言葉にピンと反応したのかもしれない。

しかし連句に限らず、公開する俳句や短歌でも読んでくれたり、投稿を採ってくれたりすると、筆者という他者から「我」を見つけ出して共感してくれたのだろうと欣喜雀躍する。俳句や短歌を生きた記録や旅や思い出など自分のためだけに詠む人もいるが、筆者は文芸の礎である言葉を以って、文学文芸の高みをめざす読み手と繋がりたいために詠んでいる。

磯城島の大和の国は言霊の

助くる国ぞま幸くありてこそ   柿本人麻呂

・「磯城島(しきしま)」。「ま幸く(まさきく)」。

「言霊」は言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされたと信じられた。「言霊の幸ふ国(ことだまのさきはふくに)」とは「言葉の霊妙な働きによって幸福をもたらす国。わが国を指す」とこれも辞書から引用する。

言葉の働きによる言霊は、呪文や祈祷や読経など多くが「白呪術」であるが、白と黒を取っ換え「黒呪術」のフェークニュースを流す国や、SNSであれこれ誹謗中傷する輩(やから)もいる。心して言葉を使わなくてはと自戒する今日この頃である。(2022/05/10)

 

859『私たちの三吟大賞受賞』

第26回「えひめ俵口全国連句大会」で私たちが巻いた三吟が大賞を受賞した。4月29日に表彰式や実作会が行われ作品も公表されたので、このコラムでもUPさせていただく。

歌仙「髪洗ふ」の巻       衆議判 

   妻でなく母でもなくて髪洗ふ     鈴木千恵子

    窓を訪ひ来る蛍にキス       杉本  聰

アリーナの音楽会が始まりて     矢崎 硯水

 座り心地は上々の椅子           千

うただのし眷属集ふ月今宵          聰

庭の隅には笑茸見え            水

ウ  西鶴忌デルフト陶器取り出しぬ        千

    招くブロンド眼は真青なる         聰

福耳をちょっと抓んでうふふのふ       水

 意外な未来告げる八卦見          千

「次期総理」言はれて消えてはや十年     聰

月虹やがて涸れ沼に落ち          水

   カムイコタン神は柳葉魚を哀れみて      千

    コロボックルがひょいと跳びだす      聰

歌付きの絵本にも飽きぐうすかぴぃ      水

 気ままな猫はうちの三男          千

   塀越しの揺れたをやかな枝垂花        聰

袋小路も風光るなり            水

ナオ 開帳の帷覗けば薄暗く            千

    転寝誘ふカント・ヘーゲル         聰

ハッシュタグ夢の国行き切符売れ       水

 夏休みには自由研究            千

夕焼けの浜辺に続く足の跡          聰

地球の丸さ妙にくっきり          水

   蓬莱に不老の薬あると云ふ          千

    艶につれなき姫のためなら         聰

分捕った宝飾贈るパイレーツ         水

ゴブレット揚げ呷る葡萄酒         聰

月照らす富士の名を持つ里の山        千

雁の群るるは乱数に似て          水

ナウ 定点に秋のストール巻いて立ち        千

次を回れば文房具カフェ          水

   今日もまた思ひも寄らぬ新製品        聰

    舌を噛みさう特許許可局          千

花散らす高天ヶ原の手品師よ         水

 稚の浮かべる笑みののどろか        聰

    令和三年六月七日起首 令和三年七月二日満尾

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「衆議判」とは歌合わせで判者に任せず、左右の方人(かたうど)が合議して採否をきめるもの。この用語を連句の捌きに転用した。連句の付句の採否は主として宗匠の捌き、衆議判、付廻しがあるが、付廻しは順番がきたら付けて次に廻す。私たちの三吟は付句を五句付けて次に廻すと、その人が採否を決めて(治定して)自らも五句付けて次に廻す方式。こうした付廻しと衆議判がドッキングしたような方式が可能になったのは電子メールの恩恵が大きい。

杉本聰さん企画&執筆でお声をかけられ、三人は連句界でそれぞれ所属や流派が違うが、全国レベルの連句大会の選考委員を務めるなど一家言も二家言もある宗匠だ。興行が始まったはいいが喧々諤々、刃傷沙汰にでもなったらと懸念したものだ。

序破急の「序」はややぎこちなかったが、筆者の提案で杉本聰様を「さとちゃん」、鈴木千恵子様を「ちえちゃん」、矢崎硯水を「けんちゃん」と幼児並みに呼び合うことにした。これが奏功し「さとちゃん、君の句変えた方がいいかも」と、下手すれば匕首(あいくち)が飛んできそうな懇願にも「だよね、けんちゃん」と快く応じてくれた。

流派の主義主張などは棚上げし、「ゆるキャラ」のようにおっとり構えて進んでゆくと、従来作品には見られなかった素材や付け筋、ユニークな三句の渡りが繰り広げられた。こうした作品にありがちな瑕瑾はあろうが、共同制作というか連衆心というか「連句のこころは母心」を大いに楽しんだ次第である。(2022/04/29)

 

858『閻王が・俳句』

4月16日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」に、筆者の俳句が一席入選として掲載された。その作品と選者の仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  閻王が舌を抜くとき春の雷  義人

仲寒蝉「・・子供の頃よくうそをつくと地獄の閻魔さんに舌を抜かれると脅かされた。この句はまさにそのことを詠んでいる。春の雷がバックグランド音楽のように遠くで不気味にうなる」。

民間説話に「嘘をつくと閻魔さまに舌を抜かれる」があり、子どもが嘘をつくことへの戒めとした。裁判官である閻魔は刑の執行まではせず、亡者の生前の嘘が立証され判決が出てから、大叫喚地獄という地獄で鬼に舌を抜かせるのが正しい筋道。

閻魔は地獄におちた人間の生前の罪業を審判・懲罰する王神にして冥界の総司。閻魔大王、閻王ともいう。筆者は閻魔が好きで(句に詠むことが好きで)折にふれて俳句や川柳に詠むが、選者はなかなか採ってくれない。「閻王が釘抜き落とすおぼろかな」「世が世とて見える化進む閻魔庁」「臍を取る神鳴り叱る閻魔かな」(「神鳴り」は雷神という神)など多くが没没だ。

ところで「舌を抜く」のはどんな道具だろうか。筆者は針金や板金を挟む鋼鉄製の工具「鋏(やっとこ)」がまず思い浮かぶが、「釘抜き」の方がぴったりくる。大工道具の一種にその名も「エンマ用具」があり、「喰切り」「二枚口切り」「口金押さえ切り」など恐らく閻魔さまはこれら類(たぐい)を使っているものと推測される。閻魔の庁も「見える化」して残虐シーンをやめないと、SNSのこの時代には総叩きを食らうだろう。

「饅頭の盗み食いばれ轆轤首」(咽喉の膨らみが見える)「スキャンダル一反木綿でくるりんぱ」「逆流の三途の川で河童生き」(河童とは筆者のこと)「奪衣婆が六文銭を抜き盗った」「唐傘のお化け振り向き 何か用かい?(妖怪)」。以上は近作の化け物川柳。

筆者は子供のころからの投稿マニアだが、新聞や雑誌の文芸欄の選者がどんな文芸観をもち、何を考えて選考しているか。言葉や表現や素材の選り好みなどを推し量りしながら投稿する。選者の「文芸指向」に合わせるのではなく、むしろ筆者の作りたい作品を投稿し「さあ、採るか採らぬか。勝手にしやがれ」という、ファイティングポーズで挑む場合が多い。乗り気でない作品もときには投稿するが、それがたまさか入選してもあまり嬉しくはない。

最近では絶対に採らないであろう「おちょくり句歌」を敢えてレベルの高い朝日新聞全国版に送った。「八百もあるから一つ嘘言うぞ朝日歌壇に入選のおれ」「春愁ひ顔認証へあかんべえ」。選者の誰かがこれを採ってくれたら、近未来の句歌は明るいだろうが()・・・。(2022/04/17)

 

857『銀ちゃん昇天』

3月30日早暁、飼い猫の銀ちゃんが昇天した。アメリカンショートヘアの♂(男の子)で、享年14歳(正しくは13歳と345日)。早起きした筆者が、それよりも早起きした家人が毛布を添えてくれた銀ちゃんの死骸に頬摺りすると、温かさが少しだけ毛並みに残っていた。

――若猫のころ、その当時は西新宿住まいの息子から譲り受け、諏訪っ子になった。長年の諏訪暮らしだったが寄る年波には勝てず、昨年の7月頃から食が細くなり足腰や手足が痩せて元気がなく、ケージ内の二階への上り下りもやっと。ときどき嘔吐や糞尿の粗相をし、その後始末をしている家人を申し訳なさそうな顔で眺めている姿が哀れを誘った。

高齢のため食が満足に摂れなくなって以降、家人がお八つのカリカリを湯に浸したり、鮪缶をペースト状にして味付けを変えたり、人用の鶏肉をチンして与えたりして命をつないできた。初めは体調を崩しても、しばらくすると小康状態を取り戻した。それを繰り返して最近では呼吸も荒くなり、腹部を波打たせて苦しがった。死を覚悟したことも数回。筆者は「♪銀ちゃんは~よい子だ~寝んねしな~」につづく替え歌を、何回唄ってやったことか。安らかな死への「送り歌」でもあった。そんな状況で10個月がんばった。

午後ケージから出て筆者のいる洋間まで足を運び、体調がよいと小袋のお八つを二つ食べて日向ぼっこをする。ケージを出て廊下を10メートルほど歩くのだが、家人のいる台所前で必ず立ち止まる。家人と一緒に筆者のいる洋間に行くべく待っている。筆者と家人と銀ちゃんとの「三人」で、一緒の時間を過ごしたいらしい。「三人」が揃うと安心してのんびりと毛繕い。子は鎹(かすがい)というが、銀ちゃんが鎹の役目を引き受けてくれていた。

自分の名前が「銀ちゃん」であることも分かり、呼べば跳んできたり振り向いたりする。「ご飯」「お八つ」「食べる~」「トイレ」「待て」「危ない」「ダメ」「お利口さん」「寝んね」「ちゅうちゅ(小鳥)」などの人語が理解できたらしい。

「銀ちゃん」は息子の命名でシルバーの毛色からが第一義的だが、第二義的には「金・銀・銅」の二番目に控え、せっつかない生き方を望んだのだろうか。

世評では多くの猫は気まぐれで勝手な性格らしいが、銀ちゃんは当家のライフスタイルを学習し、我を通さず無理をせず人に合わせるようなところがある。その性格から「いぶし銀」のフレーズが銀ちゃんには似合う。

銀ちゃんは、3月31日茅野市蓼科の「どうぶつの森」で火葬し、合同霊園に埋葬した。10時30分霊園からの迎えの車に乗り、最後まで食べていたお八つと花束を供えて貰うべく用意して渡した。霊柩車は長音で一声鳴らし発車した。しばらくして「どうぶつの森」から「お骨に病気の跡はなくアメショーとしては長生きの方で、大往生ではないでしょうか」という電話が入った。好きな親父の死に泣かなかった筆者だが、猫の死にはなぜか泪が止まらなかった。家人も空のケージを見ては涙ぐんでいた。

ほとんど毎朝開いていた銀ちゃんとの「豆句会」(小さな句会のこと)も終わった。銀ちゃんには以前から俳号を与え、辞世は「爺ちゃんと猫が句を詠む春の宵」銀水。「曙を突いて銀ちゃん昇天す」硯水。(20022/04/01)

 

856『アカデミー・短歌』

3月5日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」「俳壇」「柳壇」に、筆者の短歌・俳句・川柳が佳作として掲載された。それぞれの作品をここに転載し、併せて「自解」を書いてみたい。

  アカデミー演技賞なぞ貰へるか

    人生劇のひねくれ者のわれ  義人

上記の短歌は草田照子選。尾崎士郎の自伝を踏まえた創作長編小説に『人生劇場』があり、その「青春篇」が昭和10年から『都新聞』に連載された。川端康成の称賛を得てベストセラーになり、映画化され流行歌にもなった。

昭和10年といえば筆者の生年だが、それはさておき、人生は劇であり生まれてこのかた主役を張り、ときに脇役もいとわず演技するという観念が筆者の脳裏から離れない。身体の不具合や思考力の欠落などさまざまな境遇も、そうした役割を台本や演出から与えられて演じている。しかし演じていながらも、本当の自分自身は別にあるという気がしてならないのだ。

演技者と素の自分との齟齬の悩みは苦しかったり、ときには楽しかったりもする。「異化 サファリパーク」「俳句 西部劇」など多くの俳人は「変梃りん俳句」と切り捨てるだろうが、筆者の嵌り役の「ひねくれ者」の役者が首をもたげ「劇中劇」を演じていると思えてならない。演技部門のアカデミー賞なぞ貰えるかなと、内心では期待しているという短歌である。

  ドローンが撮る結氷の諏訪の湖  義人

上記の俳句は仲寒蝉選。ドローンの性能や飛行させる技術は大変向上しているそうだが筆者にはそのノウハウは全くない。ドローンで撮影したという、結氷した諏訪湖の写真をローカル紙で見るくらい。それだけの俳句だが、新聞の文芸欄としてこのような「リアル表現」が必要なのかもしれない。

  雪女この頃見えず温暖化  義人

上記の川柳は佐藤崇子選。地球温暖化は現代的なテーマであるが、ざっくりした表現になる。「雪女」は春の淡雪のような水分を含んだ雪はふさわしくなく、山深い極寒の雪国がイメージされる。『仁勢物語』の「蟻腰の雪女といふありけり」ではないが、「蟻腰」が決め手。粉雪が細い蟻腰をイマジネーションさせ、淡雪は太腰をイマジネーションさせてしまう。したがって温暖化は雪女伝説の妨げとなり、雪女を見かけなくなった今日この頃である。(2022/03/05)

 

855『擬人法(「詩あきんど」46号)

     擬人法

枯蔓が虚空にゑがく「?」

ほそ道を探しあぐね 神の旅

寒がらす人声真似るオノマトペ

日脚伸びダリの時計は怠惰なり

見える化の縮緬じゃこの目ん玉よ

コロナ飛ぶ 白息として人として

狂句詠んで おのれけんけん狐憑き

生きものは死にもの狂ひ 鬼やらひ

ふくろふが人を見る目 梟カフェ

雪女郎尿もしづくとなりけるを

熊穴に入るやそれより引き篭り

寒鵙の叫喚は「ムンクの叫び」

土凍つる活断層のこむら返り

      「留書」

修辞法の一つに擬人法があり、人でないも

のを人に見立てて表現する技法で「海は招く

」の類。また擬物法は人間を無生物になぞら

えていうもの。「生き字引」の類と『広辞苑』

に載っている。

歳時記をひもとくと、春は「蛙の目借時」

「別れ霜」「針供養」、夏は「道教へ」「猿滑

り」「破れ傘」、秋は「茶立虫」「吾亦紅」「盗

人萩」など、人や物になぞらえる季語に出合

う。「なぞらえる季語」の多さに驚く。

修辞法(レトリック)を用いて表現される季

語はすでに文芸作品と言ってもよいだろうが、

さらに深く掘り下げるにはプラスアルファが

求められる。滑稽や皮肉や揶揄や批判性など

が肝要であろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記は俳誌「詩あきんど」46号(令和四年二月二十日発行)の「詩あきんど集Ⅰ」から転載した。筆者の俳号は省き、また「留書」は便宜上書き加えさせていただいた。

筆者は「詩あきんど」への投句についてはテーマを決めて「連作」と位置づけ、一句独立ではあるが「十三句」を以って一遍の詩篇であると考えている。一遍が作品なので内容はむろん、俳句の配列や類語や体言止め用言止め、発想の被りがないかなど心掛ける。

さらに俳句に用いる漢字や平仮名、文字数の多少も配列方法に大いにかかわる。十三句がならぶと語頭は一直線だが語尾は揃わないことが多いので、「諧調の妙」を得るべく工夫する。音楽でいうなら「ハニホヘトイロ」の階音、譜面と見なしたいのである。

「文字面(もじづら)」という言葉があり、「文字の並んでいる姿。文字が示す表面的な意義」とあり、「――にとらわれていては、この文章は理解できない」と否定的な用例が『広辞苑』に載る。しかし短詩形においては語句が並ぶとき、文字面のイメージが有効に働く場合と無効に働く場合とがあり、有効技法を用いるべきだ。

さて冒頭の「擬人法」は、俳句のそれぞれの文字数を利し、十三句を以って「短・長・短」の波形を描こうとした。「文字面」による音楽的な譜面、さらには演劇でいう序破急のイメージを読み手に意識させようと意図したのだった。

短い文字数(12字)「枯蔓」「神の旅」の穏やかな「序」ではじまり、長い文字数(16字)「狐憑き」「鬼やらひ」で暴れる「破」、短い文字数(13字)に戻って「引き篭り」「活断層」の素材をスピーディーに治める「急」で終わる。「」付き、一字空けの出し方の均衡性や統一感にもこころした。貴夫先生が十三句をすべて掲載する投句規定に変更したので、はじめて試みた次第である。(2022/02/25)

 

854『いたずらに・短歌』

2月19日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  いたずらに馬齢重ねてまだら呆け

    枯れてしまった「考える葦」  義人

「考える葦」については当コラム「852号」に解説したので、ここでは省略する。

拙句『「考える葦」は枯れ果てわれ老いぬ』。俳句では「考える葦」を括弧付きで上五におき「われ老いぬ」を下五に措辞したが、短歌の場合は「考える葦」を結句に措辞した。短歌は俳句より字数が多いので「われ老いぬ」という抽象的表現をより具体的に詠んだ。

筆者は俳句も短歌も創作していて、同一テーマでもチャレンジしている。俳句は表現したいテーマ(主題)を一つに絞って言葉を単純化させる。筆者はそれを「テーマ芯」と名づけているが、絞りにしぼると読み手に伝わらないことがあるので、どこかで妥協することになるのだが・・・

短歌の場合は「テーマ芯」を二つ設定する。複眼的に内容を伝えようとするものだ。上記の短歌でいうと、「枯れてしまった考える葦」と、「馬齢を重ねてまだら呆け」の二者を呼応させようとするもの、深みを探ろうとするもの。そんなスタンスで作句&作歌している。

今回の「考える葦」のテーマは、自然のなかで葦は弱くて脆いが人間は考える力のある葦である。しかしながらその葦も枯れてしまった。「枯れた葦」の情態を探究するというものだ。

だがしかし、筆者の最重要のチャレンジは、パスカルの「パンセ」の「考える葦」という言葉を俳句と短歌に持ち込んだこと。「枯れ」から起想する「老い」「呆け」はステロタイプで再考の余地があるが、今後の作句作歌の足掛かりにはなるだろう。(2022/02/21)

 

853『お借りした地球・短歌』

朝日新聞の全国版「朝日歌壇」(2月6日付)に筆者の短歌が入選した。朝日歌壇は毎日曜日に四人の選者が10首ずつ発表する。一週間に5千首から6千首の短歌が寄せられるという。四名の選者が応募したすべての短歌に目を通す共選制度を取っているが、筆者の短歌は高野公彦選に選ばれた。

  お借りした地球を返し礼言うて

   銀河鉄道に乗って逝きたし  義人

「お借りした地球」について触れてみる。筆者は66坪の土地付き二階建て住宅に住んでいる。土地も上物も所有なので「お借りした」という表現は私的には正しくない。

しかし筆者は、そもそも土地(地球)の所有権を認めないという考え方。法律がどうであれ、地球は誰のものでもなく皆のものである。現に生存している人間と動植物たちのものである。さらにいうなら、領土や海域や国家という概念すら、領有権を認めてはならないものであるはずだ。

地球という水の惑星は、人間や動植物が所有権を主張できないという概念のもと、筆者は心のなかで地球は「借り物」だとつねづね思っている。したがって死んでしまえば必要がないので、当然のことながらお返しするのである。

死んでゆくとき、家を建て庭造りさせてくれ、山河や道路を使って旅行させてくれた礼を述べ、葬式などしなくてよいから銀河鉄道に乗って逝きたいものよという歌意だ。

ところで「銀河鉄道」とは・・・宮沢賢治の童話の星座巡りの列車は「銀河鉄道の夜」といい、松本零士のSF漫画は「銀河鉄道999」といい、「ウィキペディア」には宇宙空間を走る架空の鉄道、もしくはそれをイメージして命名された実在の鉄道・バス事業者とある。

さらに松山には氷結純米大吟醸生原酒「日本酒銀河鉄道」もあり、千代の亀酒造オンラインで販売している。「氷結オンライン」と称するのもいかにも銀河鉄道にふさわしい。

上記の短歌でいう「銀河鉄道」のイメージは宮沢賢治作のそれが一番近いが、単に銀河の一群を鉄道と列車に見做すのでもかまわない。宇宙空間を乗物に乗って、ゆったりと寛ぎたい。その辺にいる筈のお岩さんが酌をしてくれるなら、「氷結銀河鉄道」を飲んでもいい。

筆者はそこそこ元気でも、俳句や短歌の辞世を遺していると以前「コラム」にも書いたが、この短歌は辞世の「上書き」ということになろうか。(2022/02/08)

 

852『「考える葦」・俳句』

2月5日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が入選として掲載された。その作品と仲寒蝉氏の講評をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  「考える葦」は枯れ果てわれ老いぬ  義人

「「考える葦」はパスカルの『パンセ』の中の言葉で人間を指す。それが枯れ果てているというのは実景でもあり、老いた自分への自嘲の言葉でもあろう。機知に富んだ面白い句である。「われ老いぬ」と言いながら本心ではまだまだ老いてはいなと思っている」仲寒蝉。

「考える葦」は、人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎないが、しかしそれは「考える葦」であるとする。人間の自然のなかにおける存在としての脆弱さと、思考する存在としての偉大さを言い表している。

それがなぜ「葦」なのかというと、十字架に差しのべられた葦の棒と、「傷められた葦を折ることはない」という『マタイ福音書』によるといわれる。

ちなみに「葦」は、日本国の美称「豊葦原の瑞穂の国」と祝詞にうたわれ、『古事記』にも載る水辺の植物で「葦の角()」「青葦()」「枯葦()」と季語になっている。

「考える葦は枯れ果て」と読み下して冬の季語にできるのは、俳句の詠み手としてラッキーである。気難しい筋は、偉人の言葉の「葦」と「枯れ」を突き合わせても季語にはならないと言うかも知れない。であれば無季でもかまわない。

この俳句の句意は寒蝉氏の評言にほぼつきるが、一つ加えれば「枯れ」は「涸れ」「嗄れ」「渇き」に通じ、和歌の修辞法の掛詞的な用い方として老境の心と身の枯渇をいう。も一つ加えれば、俳句に「パスカル」を取り込んだところに俳句としての主張があろうかと思う。はなはだ手前味噌ではあるが━━。(2022/02/07)

 

851『セザンヌ・短歌』

1月29日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  セザンヌの絵を眺めつつ計るとき

   何故か知らねど低き血圧  義人

ポール・セザンヌはフランスの画家。後期印象派の巨匠で、印象主義によって失われてしまった固有の色彩、堅牢な画面の構成を取り戻したとされる。そして常に画面の形や色の造形的な価値を追究し、画風は明るい色彩で太陽にもっとも近い画家とも称賛される。

河童寓にはセザンヌの「リンゴとオレンジのある静物」がある。インターネットで調べると原画でも買えたが、敢えて複製画(原画67億円。複製画5800円)を買い求めたのだった。リンゴやオレンジの色合いの移ろい、瓶の色合いの光線による変化が心象に重なって心穏やかになる。

筆者は四十歳ころから血圧が高いので降圧剤を服用。現在は起床後・昼食後・午後4時の三回の計測で最高血圧は140台と130台、薬石効あり安定している。ただストレスが掛かると170~190台に急上昇する。そんなときはセザンヌの「・・静物」を眺めていると落ち着きを取り戻す。

また耳が過敏症なのでテレビは「消音」にし、森林風景や鳥類や昆虫などの番組を観ながら血圧測定することもある。これも悪くはないが、どちらかというと対象物体が動かない「セザンヌの静物」に軍配が上がる。

ところで上記の短歌であるが、「何故か知らねど」の箇所が悩みの種だった。「心寧(こころやす)らぎ」「静謐(せいひつ)を得て」「薬効ほどに」など複数案浮かんだが、しばらく寝かせておいた。そして結局は「自分では知らんことにしよう」と。読み手のイマジネーションに委ねることに決めたのだった。

筆者は実生活を詠んだり境涯を縷々述べたりするような短歌は苦手だが、歌壇の主流はそうした作品が幅を利かせている。人間心理の綾、生きる不条理、諧謔や揶揄や批判性をテーマにして作歌し投稿しても選者は見向きもしてくれない。与謝蕪村ではないが「行春や撰者を恨む哥(うた)の主」。己んぬる哉!(2022/01/31)

 

850『広辞苑十段黒帯』

久方ぶりにネットサーフィンしていたら、「広辞苑十段」というタイトルを見出した。これは1994年、岩波書店の「広辞苑第四版」出版の際の販売促進のための企画で、「広辞苑段位決定試験」において100点満点で十段黒帯が付与されるというもの。

「十段の黒帯を持っている人いるのかな。知っている人いるのかな」という免状取得者の呼びかけのブログも見受けられた。

「あれれれ?」そういえば筆者も、免状を取得したような遠い記憶がよみがえった。しかし何分にも28年も以前のことで記憶があやふや、夢幻だったのではないかとも思え、書庫の奥を調べてみたら免状と黒帯と問題集が出てきた。

免状には「広辞苑十段」と大書され筆者の本名も毛筆で書かれ、「貴殿は広辞苑を常に傍らに置き日本語の執心修業に懈怠なく広辞苑段位認定試験に於いて頗る優秀なる成績を収めたり之により十段を免許すよって免状件の如し」。1995年1月1日。広辞苑段位認定委員会とあり、十段・広辞苑・広辞苑段位認定委員会の茶朱印が捺印され、割り印までされていた。

筆者がこの企画を知ったのは書肆の店頭だったと記憶するが、「広辞苑番外第二版」という小冊子の「問題集」を耽読して問題を解いたことをお朧気ながら覚えている。広辞苑に載っている対象語からの出題ではあるが辞書を引いて解答できるものではなく、言うならば広辞苑の言葉列のタテとヨコの理解に加え、辞書の全体を俯瞰して解答を出すような問題集だった。

免状は立派だったが十段の黒帯の素材は本絹ではなく、茶色がかった黒色の紙製なのがミソ。ちょっと残念だった記憶がプレーバックするのだった。

しかるのち何処かのムックに、この企画には20万余の応募があり、十段黒帯賞は180名だったいう記事をみておどろいた。段位が下の茶帯や白帯の人数は知らず、この企画も一回だけだったのか、何回か行われたかは知る由もない。

余談だが、広辞苑の岩波書店の創業者である岩波茂雄は諏訪市中洲の農家の出身。奉職するも教師として自信を失って退職。神田は神保町で古本屋「岩波書店」を開業し、破格の定価販売が注目されたという。夏目漱石の知遇を得て漱石の「こころ」を出版し、事業を軌道にのせた。

諏訪市中洲には岩波書店全書籍が閲覧できる「風樹文庫」があるが、この中州地区の真言宗の卍「小泉寺(しょうせんじ)」は筆者の菩提寺だ。ちなみに筆者、この辺は数限りなくマイカーを走らせているのである。(2022/01/29)

 

849『七五調など』

筆者は演歌好きをコラムで公表したが、考えてみると好きな理由は、演歌の歌詞によくみられる七五調にあると思われる。

昭和の演歌の多くが七五調で、五七調、七七調をまじえて韻を踏んでいる。七五調は七音・五音の順にくりかえす形式で、古今和歌集からの影響とされるが、言葉のリズムが軽快で優しさ穏やかさを響かせるといわれる。

湯の町エレジー「♪伊豆の山々 月あわく 灯りにむせぶ 湯のけむり」。大利根月夜「♪あれを御覧と 指差す方に 利根の流れを ながれ月」。こうした語音のリズムの音感は、日本人のDNAに刷り込まれているようだ。

いっぽう五七調は、五音・七音の順にくりかえす形式で、言葉のリズムは素朴で力強く荘重な響きといわれる。

筆者は八歳くらいから俳句をひねり、親父が代筆して地方紙の俳壇に投句して入選もした。十代には短歌や自由律俳句も詠んでいたが、七五音、五七音、七七音の音数の言葉が頭のなかでつねに渦を巻き、生来の寡黙に輪をかけてお喋りがブッキラ棒になってしまった。

演歌のカテゴリーでは洋風の、上海帰りのリル「♪船を見つめていた ハマのキャバレーにいた 風の噂は リル 上海帰りのリル リル」。筆者はこのような、七五調でも五七調でもない歌詞にも反応し、新しい詩の押韻のように思えて刺激的だった。

筆者の俳句は、七五調や五七調の言葉のリズムが寝ても覚めてもメリーゴーランド状態で、それを破壊する「上海帰りのリル」のような破調への欲求にも捉われた。そのように語音の数をいつも気にかけながら作句している次第である。

話はわき道に逸れるが、連句の付句の短句について・・・「四・三」、「二・五」は避けるべきと宗匠(宇田零雨)に教えられ、自分でも語調の悪さを感じて捌手を仰せつかったときも厳守してきた。

しかしあるとき、一巻の作品のなかで敢えて一句くらい、語調の悪い短句を付けてもよいのではと考えた。ある種の効果が狙える内容の付句なら、それが文芸の高みへの「加算ポイント」になるのではないかと思ったのだった。

「七五調貫いてゆく去年今年」(2021/12/30)

 

848『わが余生・俳句』

12月25日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  わが余生量りて二年日記買ふ  義人

単純明快、読んでの通りの句意である。「量る」の文字について推敲の時点でいろいろと考えた。「はかる」の漢字は『広辞苑』によると、計る・測る・量る・図る・謀る、・諮る、の六種類ある。

似たり寄ったりのようで微妙に違いがあるし、語意がかぶったり離れすぎたり・・・謀略とか設計図とか、計算や測量などは使い慣れていて納得だが、考える、分別する、考慮するに「図・計・測」の字を当てるのは、いささか気になるところ。筆者は「推し量る」という慣用句の「既知の事柄をもとにして、未知の事について見当をつける」という意味で「量る」を措辞した。(広辞苑参照)

筆者、十余年以前から「二年連用記」を使っている。三年連用日記、五年連用日記、十年連用日記もあるが、三年、五年、まして十年などとても生きられると思えない。一年は何とか大丈夫そうだが、多少の未練と見栄もあって二年にしている。二年なら「前年の今日のページ」が左側に読めるので、参考にしたり思い出を辿ったりすることもできる。

事のついでいうと、筆者は手回しよく「辞世の詩」と「辞世の俳句」を詠んでインターネットで発信し、紙のプリントも手許に遺している。詩は書き直してないが、俳句の方はときどき上書きする。

朝起きてみたら死んでいた・・・枕もとで誰かが、「長きにわたって現代詩や俳句をやってきたそうだが」「辞世もないかい?」なんぞと言われたら小っ恥ずかしい。

「ぽっくり死」だったら辞世なんぞ吐句している暇もなかろうと、生前辞世作りは思案の挙句の苦肉の策ってわけ━━━

話がだんだん脱線してきたので、この辺で筆を擱く。(2021/12/27)

 

847『マルメロ・短歌』

12月25日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  マルメロの香る並木を越えたれば

    北斎ゑがく諏訪の湖  義人

「北斎ゑがく」は、葛飾北斎の浮世絵「富獄三十六景」「信州諏訪湖」をいう。

諏訪湖から富士山までは直線距離にして約90キロで、諏訪湖周辺には諏訪市、下諏訪町、岡谷市がある。富士山がよく見える場所といえば塩嶺峠や高ボッチが知られるが、諏訪湖畔をグルっと周遊すると、思いがけず富士に遭遇できるスポットがいくつかある。

さて北斎の「信州諏訪湖」は、諏訪湖と山並みの向こうの富士山と、浮城と称される高島城が描かれる。近景には二本の松の巨木と祠がひっそりと佇む。遥かかなたの凛とした富士山と、松の巨木との途方もない距離感、遠近法の大袈裟なデフォルメが心を打つ。そして湖面に浮かぶ一艘の小舟が、見る者を静謐な時間へと導いてくれる。

「マルメロ」についても少しく触れておこう。マルメロはバラ科の落葉高木で中央アジアの原産。果実は黄色で丸く外面は綿毛を被り、味は甘酸っぱくて香気があり、堅いので生食はできないが砂糖漬けとして食用される。別名西洋かりん。

諏訪地方ではマルメロと呼ばず、江戸時代から「榠樝(カリン)」と呼んできた。実物の名称はマルメロが正しく「カリン」は間違っていると一時は議論になったが、名産地の諏訪で長らく呼ばれてきたので、「カリン」で通すという結論になった。榠樝を「まるめろ」の読みで季語扱いにする歳時記もある。

諏訪の湖岸通りに「かりん並木」が実在するが、筆者の「富士」「見」スポットは下諏訪町の高浜というところ。従って「マルメロの香る並木」から、すぐに北斎がスケッチした地点に行けるわけではないが、その辺はご容赦あれ。六法に作為は許されないが、文芸に作為はつきものだろうから。(2021/12/27)

 

846『大くさめ・俳句』

12月18日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  大くさめ北斗七星吹き飛びぬ  義人

「北斗七星」は七つ並んで斗(ひしやく)状をなすのでいう。北天の大熊座にある七つの星。斗柄に当たる第七星を揺光といい、一昼夜に十二方を指すため、古来よりこれによって時を測ったと、『広辞苑』に載っている。北斗星、北斗、七つ星、七曜の星ともいう。道教で北斗七星を神格化し、「北斗真君(ほくとしんくん)」と称して信仰されている。

北斗七星の名は、天文学や星座に疎くても多くの人の耳目にふれているであろうし暇にまかせて天空を仰ぎ、確かめたことがあるかもしれない。夏で冬でも見られる明るい恒星なので、勘さえよければ指さして「あれが北斗七星だろう」と適当に言ってみたら「図星」で、星博士から「金星」を頂戴するかもしれん。

とある夜のこと、虚空を仰いでいるとき「大きなくさめ」をして頭がぶれ、涙目になって北斗七星が吹っ飛んで木っ端みじん。視界から完全に消えてしまった。

そうした生理的現象を表現した俳句という捉え方はいかにも表面的で、くさめする人間という地球上の生物一個と、何光年かは知らぬが遥か彼方の北斗七星とがつながった。少なくとも、「くさめをした者」は「つながった」と感じたのであろう。そこまで解釈・解説してほしいのである、作者としては。(2021/12/21)

 

845『この辺で・短歌』

12月18日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  この辺でスイッチバック人生の

登山電車に入れるひと息  義人

「スイッチバック」とは、列車や電車を折り返し運転するため鋭角的に設けられた線路のこと。山間地の急勾配を迂回しないで運転する駅や、急勾配の箇所の途中に本線から分岐して水平または緩勾配に停車場を設け、ふたたび急勾配の本線に戻る場合などをいう。

スイッチバックという装置(システム)を、簡略化して平たく「高所稼ぎ」と言ったりもする。

「スイッチバック」について、くどくど説明するまでもなく多くの人がご存知だろうが、この装置を状態として情景としてイメージし、頭の片隅に留めて置いていただくと、「人生の登山電車」という表現の本意がより確かに受け取って貰えるのではないか。

二十代三十代の頃は「なんだ坂こんな坂」と大車輪で飛ばし、疲労や怪我でも六すっぽ休みもしなかった。しかし四十代五十代ともなると身心がきつくなるので休息し、あれこれと身辺を整理して次のステップに挑戦したものだ。

それは筆者の場合、俳句などの「文芸の坂道」やコラムの題材の「険阻な道」や、実生活のあり方の方向やその転換など、厳しい「境涯の山岳道」にも例えられるものであった。筆者としては「スイッチバック」という用語は、より高みをめざすための「高所稼ぎ」の意味も込められた比喩(メタファー)であった。車両の操作装置を人間の身心の状態&情景に置き換えた、いわば「状態置換(じょうたいちかん)」「情景置換(じょうけいちかん)」にほかならない。

この短歌の「この辺で」という初句が、筆者自身は気に入っている。歌意に入りやすい「掴み」だと思っている。(2021/12/20)

 

844『ETが・俳句』

12月11日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  ETが月を目指すはこんな夜か  義人

「ET」は1982年のアメリカのSF映画で、製作&監督はスティーヴン・スピルバーグ。この作品は映画史上類をみない世界的大ヒットをとばした。

アメリカの杉の森に球形の宇宙船が着陸したところからストーリーは始まり、地球の植物を採集して宇宙に帰るはずが、宇宙船に取り残されてしまった一体の異星人(ET)と、エリオットという少年との切なくも温かい絆を描いたもの。

交流のエピソードがあれこれあって、白布に包んだお茶目なETを自転車の前カゴに乗せ、エリオット少年が漕いでいると自転車がフワッと浮遊して月に向かって上昇してゆく。鳥肌的感動シーンである。筆者は20余年以前にテレビの洋画劇場で観たが、満月の月面をめざす自転車と、少年の人差し指とETの人差し指が突き合わさる場面が永らく脳裏から離れなかった。

化け物、幽霊、河童、UFO、地球外生命体など「霊界物」に特段の興味があって文献や浮世絵を漁ってきたが、映像技術を駆使し物語性を追求した「ET」には心打たれた。詩情や人情のあふれるヴィヴィッドなSF映画だった。

俳句に「自転車」を入れたかったが、字数的に叶わなかった。自転車には思い入れがある。筆者の祖父は恐らく諏訪地方で初めて自転車を所有した人物とされる。明治30年(1897年)頃と思われるが、祖父は穀類(大豆や小豆)の卸売業で北海道から貨車で仕入れて長野県下に卸売り。金中「金子屋」の屋号で盛業だったという。

自転車を颯爽と乗り廻していて転倒したが、怪我の痛みを我慢して作り笑顔で帰ってきたと母親から聞かされた。むろん筆者と会うこともなく49歳で病死したが、「死出の旅」は自転車で逝ったのだろうと勝手にイメージし、月に向かう「ET自転車」と重なった。

筆者にはこんな俳句もある。「星流れ猿の惑星この辺り」「逝くときは銀河鉄道飛び乗って」「ジェラシックパーク風蘭臭い立つ」。(2021/12/13)

 

843『産卵を・短歌』

12月11日付の朝日新聞長野版の文芸欄「歌壇」に、筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  産卵を了へたる鮎の赤錆びて

   川の淀みに鰭を休める  義人

三秋の魚類季語の「落鮎」は本題で、夏に上流にのぼった鮎が秋になって下流へ卵を産みにくだることをいうが、副題には「下り鮎」「残る鮎」「錆鮎」「渋鮎」などがある。

産卵を終えた鮎は痩せて背は黒ずみ、腹は赤茶けてくる。動きも緩慢で見るからに哀れをさそう。そんな鮎の情景を詠んだ短歌であるが、写生歌というよりも筆者自身の心象を表出したかったものだ。「情景置換(じょうけいちかん)」といったらよいだろうか。

「川の淀みに・・・」には「身を休める」「体やすめる」が分かりやすいかもしれないが、「鰭(ひれ)」は魚類や水生哺乳類の運動器官であり、生命力の証(あかし)なので敢えて「鰭」を措辞。作者としての拘りだった。

そのかみの拙吟に、こんなのがある。「落鮎の幾夜の星をくぐりしぞ」。(2021/12/13)

 

842『「放屁論」・俳句』

12月4日付の朝日新聞長野版の文芸欄「俳壇」に、筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  「放屁論」読むや折しも芋の旬  義人

「屁()てふもののある故に、への字も何とやらをかしけれど、天に霹靂(へきれき)あり、神に幣帛(へいはく)あり、鷹に經緒(へを)あり、船に艦(へさき)あり、草に女青(へくそかづら)あり、虫に気蠻(へひりむし)あり、狐鼬鼠(きつねいたち)の最後屁は一生懸命の敵(かたぎ)を防ぐ。人として放()らずんば、獣にだも如()かざるべけんや・・・」。

上記は平賀源内『放屁論』の自序である。源内は江戸中期の博物学者で、「放屁論」はあまたの戯作のなかのれっきとした評論。彼は戯作家にして寒暖計を模製したり、エレキテルを製作したりの科学分野でのオーソリティでもあるが、乱心して人を殺傷し獄中で没したと伝えられる。

源内における屁についての研究成果はさておき、「屁」とはいったい何であろうか。屁は「飲み込んだ空気や、腸の内容物の発酵によって発生したガスが肛門から排出されるもの。倍比流ともいう」と辞書に載る。別の言い方をすれば屁は気体で「一定の形と体積とを持たず、自由に流動し、圧力の増減で体積を容易に変化するもの」とこれも辞書から引用する。

人間の口唇から肛門までを圧力によって増減しながら変幻自在に流動し、糅てて加えてお尻から発するときのブー、スー、ピーの音と臭い・・・これはある意味で「音楽」であり「聞香」であり、好事家にとってはアーチスティックな領域にほかならない。

「蜃気楼」は空気が局部的に層をなして温度差をもつときに現れるもので、大蛤(おおはまぐり)の吐きだす気息という古説があり、海を司る神・綿津見の「御鳴ら(おなら)」であるという俗説もある。

蜃気楼まで持ち出したが、屁は空気、気体、風力なので宇宙空間に満ち満ちている。同様に人間の腸内にも満ち満ちている。

古典落語に、体調のすぐれない和尚が医者に「転失気(てんしき・屁のこと)」があるかと尋ねられる。「転失気」を知らない和尚は小僧に調べさせるが、小僧は調べもせず「酒器」だと出鱈目を教える。知ったかぶりの和尚は後日医者に、「転失気」は当寺には「ナラ、屁エあんの昔からあります」と返答する屁。これが落ちだ。

―――以上の屁について傾けた蘊蓄は、すでに筆者の筆になる「コラム837」の再掲載である。ご了承いただきたい。

さてさて当該の俳句であるが、「芋に屁」は「梅に鶯」「月に芒」同様のステレオタイプで陳腐な趣向のそしりは免れないが、そもそも俳句の「俳(はい)」とは「おどけ・たわむれ・こっけい」だ。多くの俳人たちが「ただごと俳句」にうつつを抜かし、「俳」を軽んずることへのレジスタンス、俳句をもって「一発」ぶっかましたのである。(2021/12/05)

 

841『近況片片2』

「河童文学館」ホームページ「コラム」が満杯になったので増ページしようとするが、これに手こずる。ページを新設してリンクを張っても繋がらない。以前はらくにできたものが・・・。三日三晩悪銭苦闘しても駄目なので、別のページを転用してなんとかかんとか出来上がった。不調の原因不明。そもそも「ホームページビルダー17」も旧型だけれど。

わが愛車の日産プリメーラ2000は、平成7年5月登録だから26歳になる。人間の年齢に換算すると・・・それでも地球2周走って法令定期検査しているので機嫌はいいが、車椅子での乗り降りのスロープの傾斜が困難。よって車の使用不可能。

家人も足腰の宿痾や手首の怪我で往生している。猫のギンちゃんは16歳で人間の年齢に換算すると・・・トイレ躾は万全だったが、最近はときどき粗相する。(「粗相」の後始末をしていると申し訳なさそうな顔をするのが可哀相だ)。人間も猫もPCソフトも「ポンコツ」になってしまった。

廊下の黒い糸屑など見ていると蠢蠢(うごうご)と動き出すので、慌てふためいて叩きつぶす。眼鏡かけても小さい文字は読めず、ワード誤変換に気付かず、新聞は見出しだけで読みとばす。明治の文豪や人間国宝のことをエッセーに書いていて、顔は分かっちゃいるが名前はさっぱり出てこない。

就寝時の玄関の戸締り、コンセント点検などの「指さし確認」を欠かさないが、確認したことを忘れるので、「指さし」した「指」をつねくる。しばらく痛いので確認が「確認できる」という寸法だ。浴槽で背中を掻いたら二の腕が激しくつって、痛っタタ、こむらがえりになった。etc.

駄目ダメ尽くしだが、最近ハマっているのがユーチューブ動画の「サックス・レディー」。台湾の若い女性サックス奏者が数人それぞれ「心に沁みる昭和歌謡」を演奏するもの。

「誰か故郷を想わざる」「女のためいき」「旅の夜風」「湯の町エレジー」「大利根月夜」から「喝采」「昴」「襟裳岬」など、アルト・サックスやソプラニーノ・サックスで聴かせる。視聴者(カメラ目線)の可愛いらしいお色気はさておき、曲目の情緒をしっかり受け止めた吹奏はすばらしい。これを聴かなくちゃ夜も寝られない。

「異化 サファリパーク」「ぽるのぐらふぃー」「俳句 西部劇」など、異化や比喩を手法の俳句を詠んできたが、手控えには「不条理」「日本残酷拷問史」「道具考」「アンドロイド」「DNA」など10余のテーマが順番待ち。体力や気力はとんとないが、やるべき事は目白押しで、死んでいる暇はない。(2021/12/05)

 

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