引用Wikipedia/Ammestre

アムマイスター

「ラメストル、L'ammestre」あるいは「アマイストル、ammeistre」というのは市参事官職、つまり、市の代表者としての機能を果たす行政官、に対応するストラスブールの肩書きである。一般的な語源は、amt(アムト、職務)とmeister(マイスター、指導者)を合成したドイツ語のambahtmeisterという術語を短縮した単語に対応している。この術語は、後にストラスブールの市長を指すこととなった。

歴史

  13世紀から17世紀の間、ストラスブールの街は三つの会と一人のアムマイスターによって統治された。この集団は、その単語を大文字で示す単数集合名詞を使い、「le Magistrat、ル・マジストラ」と呼称された。この組織は、ストラスブールの大きな名門貴族が寡頭政治システムに従い権力を保持することを許した。

ストラスブール市の統治

 このストラスブール市のシステムは、変形や追加を伴ったが、13世紀の後フランス革命まで、権力の三極構造として組織された。

ストラスブールのルーツは紀元前12年にまで遡ることができる。その年、ローマの将軍ネロ・クラウディウス・ドルーススアルゲントラトゥムと呼ばれる軍事前哨基地を作った。イル川とライン河が合流するこの地点の重要性はのちにアウグスブルグとマインツとの間に作られた道路により高まった。通りが直角に交わる配置図はローマの植民地に典型的なものであり、主要な十字路をなした。このパターンはいまなお現在でも大聖堂の北で交叉するドーム通りとアルバルド通りの配置で認識できる。

Strasbourg の 歴 史

 フランク王ルートヴィヒー世によってストラスブールに与えられた公課免除特権(インムニテート、immunity)は、彼の死後856年、東フランク国王ルートヴィヒ2世によって確認された。それ以来、ストラスブールは自治権を有する自由都市として存在したのだが、権力の主体は

          司教

          市民(1263

          市民の中でも手工業者(1322

と移り変わった。最後に実権を握った手工業者代表がアムマイスターであり、第五都市法が成立(1322年)した。第五都市法への宣誓がはじまったのは1334年からである。

画像アムマイスターの宣誓式。大聖堂前広場、毎年1月始め。

旧サン=テティエンヌ教会(中世)。もとは8世紀にアルザス公アーダルベルトによりローマの要塞跡に建てられたストラスブール最古の大修道院(尼僧院)。その娘、聖アタル(聖オディールの姪)が初代大修道院長となり、死後はその聖遺物により多くの巡礼を惹きよせた。 11世紀初めから小教区聖堂としても再編された。代表的なロマネスク様式建築物。最古のカテドラル(5世紀初め)の跡とする説もある。第二次大戦で破壊され、今日では礼拝堂(カトリック系コレージュの一部)しか残っていない。

(引用:『物語ストラスブールの歴史』内田日出海 中公新書2027 P29

画像:ストラスブールのサン・テティエンヌ教会。19世紀の状態。リトグラフ。

 ストラスブールでもっとも古い大聖堂は4世紀末から5世紀初頭のもので、その遺跡はサン=テティエンヌ教会の地下に残っている。

その後、8世紀カール大帝の時代に現在の地点に初期の大聖堂が建てられたらしい。842年のストラスブールの誓いがこの建物で結ばれたことは確実なのだそうだ。(

 現在の大聖堂は1176 - 1439年に建設されたのだが、1225年からゴシック様式に転換された。というわけで、ロマネスク様式の聖堂はサン=テティエンヌ教会しかない。

画像アルゲントラート。サン・エティエンヌ中学校の教会の下で発掘された5世紀のローマン・バジリカの後陣。写真と図はJ.J. Hatt, 1959

3. ストラスブールの誓い842.02.12

 カロリンガ王朝は、シャルマーニュ大帝の子ルイ敬虔王が継承したが、ルイ敬虔王の子三人の間で継承権につき争いが発生した。

 フォントノワの戦い841.06.25)の後、勝利した西フランク王国国王シャルル2禿頭王と東フランク王国国王ルートヴィヒ2ドイツ人王の間で「ストラスブールの誓い」が結ばれた。舞台はストラスブール大聖堂。シャルルとルートヴィヒが協力してフランク王国の主導権を狙った長兄ロタール1世に対抗することが誓約された。

画像Text of the Oaths

これと平行してコンスタンティウスはライン川上流に進軍し、南北からの挟撃が行われた。まもなく、ライン川上流をアラマンニ族から奪回する目的は達成された。アラマンニ族との戦いをコンスタンティウスに引き継いだユリアヌスは北上し、コロニア・アグリッピナをフランク族の手から取り戻した。

コンスタンティウスは357年にはガリアを離れたが、ユリアヌスの成功は続いた。アルゲントラトゥムの戦いにて、3倍近いアラマンニ族を相手に勝利を収め、その後はライン川を渡ってアラマンニ族の土地に攻撃を加えた。358年には下流域にも断固とした軍事行動をとった。さらに上流域でも別働隊がライン川を越えて征服したため、ローマ帝国の支配領域を、リメス・ゲルマニクスとライン・ドナウ両大河の源流の扇形の区域(アグリ・デクマテス(Agri Decumates))にまで戻すことに成功した。こうしてガリアの安定は取り戻された。それを示すように、359年になるとユリアヌスの軍事行動も少なくなる。

画像4世紀、ローマ帝国のライン河前線

引用

  355年末、ユリアヌスはコンスタンティウスとともにガリアに向かっていた。配下に置かれる予定の軍は、すでにガリアにて待機していた。この道中、フランク族によってコロニア・アグリッピナ(現ケルン)が陥落したとの報告を受ける。ここからユリアヌス自身の指揮による戦闘が始まる。

 翌年6月、ウィエンナ(現ヴィエンヌ)での越冬を終えたユリアヌスはまず、攻撃に晒されていたアウグストドゥヌム(現オータン)を救援し、そこからアウテシオドゥルム(現オセール)、アウグストボナ(現トロワ)で敵を破りつつ、ドゥロコルトルム(現ランス)まで北上し、その地の駐屯軍と合流した。戦力を整えたのちは東進し、ディウォドゥルム(現メス)を経由して、ライン川中流の西岸まで進出した。

ストラスブールの歴史ほど複雑でヴァイタリティにあふれたものはフランスでは他にみあたらない。この都市がライン河沿いにあり、欧州物流の要としてなくてはならぬ戦略性を持ち、そしてそれゆえに昔から独立権を与えられた自由都市で、いわば一国一城の体をなしていたからだろう。だがその仕組みは複雑で、理解しようとしても一筋縄ではいかない。

 次の順序で図解したい。

画像:アムマイスターと彼の役人

画像:サン・エティエンヌ埠頭とイル川の噴水。後方に、見えるのはストラスブール大聖堂。右にサン・エティエンヌ教会、左に中学校。

注:
1. ルートヴィヒ2 (東フランク王) (在位:843 - 876年)
2. 911年の東フランク王国ルートヴィヒ4の死をもってカロ
  リンガ朝は断絶した。

3. 自由都市ではあるが、宗主国があり、フランク王国、東フ
  ランク王国、神聖ローマ帝国、フランス王国と変転した。
  フランス革命にて独立権は消滅した。

画像カロリンガ朝のコイン。ストラスブルグで鋳造されたディナール銀貨。重量1.47g

4. フランク王ルートヴィヒー世(Louis the Pious)による公課免除特権(インムニテート)の授与
               
――司教による絶対権力のもとに自由都市の基礎が確立された。

最後のフランク王ルートヴィヒー世(敬虔帝)は(アルザス司教Ratoldが王のアルザス司教領統治権を認めることと引き替えに)この司教領全体に関して公課免除特権(インムニテート、immunity)を与えた(856)。この領地においては、いかなる課税も免除とされ、王国の代官も巡回裁判を開くことはできなかった。また873年、司教はルートヴィヒニ世(ドイツ人王)から貨幣製造権を獲得した。それより前に数度にわたって、王国の貨幣がこのまちで打造されていた。しかし今度の造幣は、王権力の単なる象徴的な示威ではなかった。国王大権の一つである造幣権の委譲がおこなわれたのだ。実際に流通する貨幣である。十世紀には司教のイニシャルが刻みこまれ、すでにこの頃からこのまちの貨幣はいまのドイツ諸地域はもとよりスカンディナヴィア、ロシアにまでわたっていった。

(『物語ストラスブールの歴史』内田日出海、中公新書20272009P48

 このとき結ばれたSerments de Strasbourgフランス語で書かれた最古の文書である。原本は残っていないが写本がパリの国立図書館に保存されている。

 この結果、ヴェルダン条約(843.08)が成立した。

画像:ヴェルダン条約、843年の分割

ロタリンギア・・・・ロタール1世・・・・・エクス・ラ・シャペル
                                                (アーヘン)

西フランク王国・・・シャルル2世・・・・・ランス
東フランク王国・・・ルートヴィヒ2世・・・ストラスブール

画像:(リーメスについてはを参照せよ)

2:「アルゲントラトゥムの戦い」に関する
                『ローマ帝国衰亡史』の記述抜粋

1:リメスの位置

1. ローマ時代−ドルーススによる軍事前哨基地

画像:ローマ時代のストラスブール(ラテン語名:アルゲントラトゥム1世紀)

Argentorateを参照せよ。

 その後に作られた軍事キャンプと市民植民地は4世紀にリメス(ローマ帝国時代の防砦システム)が陥落したのちは維持されず、5世紀には放棄された。ローマの植民地時代からの遺跡の大部分は第二次世界大戦ののちまで発見されることがなかった。これらの遺跡のなかには、寺院と劇場の残滓が含まれる。

注:ドーム通りとアルバルド通りが交叉する。(赤矢印)

写真:(ローマ神話)ヤヌスの噴水。ストラスブール市の西暦2000年を記念してTomi Ungererが製作した。ストラスブールのブログリ広場にある。

6. アムマイスターによる統治13世紀から17世紀)

画像:普仏戦争終了後のサン・エティエンヌ埠頭

5. 大聖堂とサン=テティエンヌ教会(中世)

2. ローマ時代−アルゲントラトゥムの戦い

画像:バッカスの行列を描くモザイクの細部。クレべール広場で発見されたこのモザイクは、疑いもなくローマの将校の邸宅を飾っていたもの。時期は1世紀末、ストラスブール考古学博物館蔵。

画像:Google Map, 2015

1. ローマ時代−ドルーススによる軍事前哨基地紀元前12
2. ローマ時代−アルゲントラトゥムの戦い357
3. ストラスブールの誓い842年)
4.フランク王ルートヴィヒー世による公課免除特権(インムニテート)の授与(856)
5. 大聖堂とサン=テティエンヌ教会(中世)
6. アムマイスターによる統治13世紀から17世紀)
7. カウフハウスの建造1358年)
8. ライン河に架橋1388年)
9. グーテンベルクの印刷術発明1440年)
10. ストラスブール鳥瞰図1572年)
11. ルイ14世軍に降伏1681930日、以降普仏戦争後のヴェルサイユ条約までフランス領)
12. ストラスブール女性の盛装姿170311
13. ルイ15世の歓迎式(174410月)
14. マリー・アントワネットの取引邸宅の見取り図177057
15. フランス革命1789722
16. La Marseillaise1792426日)