破壊の時代がこの修道院を悲しい状態にした。修道院は百年戦争中英国軍によって略奪され、幾隊もの傭兵軍によって略奪された。;修道院は宗教戦争の間、また代理人制度(大修道院長が国王によって指名されたり、収入のみにしか関心がなかったりした場合)下で被害を受けた。この修道院はフランス革命の間に売却され、製糸会社になった。1906年以降、その持ち主達がこの修道院を原初の状態に回復させるべく努力した。

聖壇飾りか?

聖ベルナール(1091-1153)

 11世紀末までに宗教生活上、クリュニーによって実現された富と権力によってでは満足されえなかった精神上の姿勢、つまり、禁欲主義、霊性、自己放棄がより強く熱望されるようになった。一つの返答は1198年ロベールによるシトー修道会の設立であった。ディジョンの南23km-14マイルのシトーでのモレーム(Molesme)修道院である。ディジョンの近くのフォンテーヌ城で生まれた一人の若い貴族、ベルナールは、1112年シトーに来て、まもなく困難な時期に没落していたこの修道院の繁栄を回復させた。彼はオーブ川のクレルヴォーの修道院設立責任者となり、次に1118年、27歳で、フォントネー、即ち彼の「次女」を設立した。

 聖ベルナールは中世における偉大な精神的指導者のひとりであり、著述家、説教師、神学者、哲学者、そして政治家であった。断食と自己禁欲によって肉体的に減ぜられたとはいうものの、彼はまったく疲れを知らなかった。彼は穏和で控え目であったが、とりわけ教会の勤行にたいして尋常ではない意思を持っていた。クレルヴォーで死ぬまでに、彼は167のシトー派僧院を設立させた。13世紀末までにその数は700に達し、寄進によって富裕となったこの修道会はクリュニーを凌駕するに至った。

猟師、14世紀

 以上、では皆様ご機嫌よう。

 修道院教会は1139年と1147年の間に建てられた。これはサン・ベルナールによって奨励された建築の特徴「僧院の単純さ」の最初の事例であり、もっとも率直な方法で配置され、四角い内陣と四角形の礼拝堂をもつ。身廊は半円筒天井で、交叉したアーチ型天井(クロス・ヴォールト)の側廊によって堅固にささえられている。野心的なアーチ型天井が1125年に崩壊したクリュニーの教訓がはっきりと生かされている。(翻訳終了)

鍛冶場

修道院 
Michelin Guide, France,1991. P131の翻訳)


フォントネーは聖ベルナールの理想を建築学的に表現したものである。;その建築形態は聖ベルナールの規則に従って導かれる僧院生活を完全に体現している。祈祷、仕事(クリュニーと違い、手作業ならびに知的作業)と睡眠とに時間は調和して割当てられ、外的世界と内的世界の機能配置は物理的に均等となっていた。:教会、回廊、参事会室、筆写室(ここで写本が書き写された)、共同寝室、鍛冶場・・・。

回廊

画像:Michelin Guide, France, 1991. P132

教会内の騎士墓横臥像

教会最奥部

鳩小屋、納屋、修道院長宿舎、奥に教会

教会内部

前庭噴水

フォントネー修道院Michelin Guide, France,1991. P131の翻訳)

 ブレンヌ川近くの寂しい谷間にひっそり佇むフォントネーは、12世紀のシトー修道会の自給自足生活をうまく思い浮かばせてくれる。

門前に立つ十字架

フォントネー修道院

                   2015/05/23