1.
 テイラーは、この時(187011月)の事情をビスマルクの伝記『男と政治家』のなかで次のように語っている。

出典:
Bismarck Vol.2
The man & the Statesman
Otto von Bismarck
Vol , ---9  P129
Cover Copyright ©2007 by Cosimo, Inc.


 バヴァリアの委員達に加えて、ヴェルサイユにいたのは、国王ルードヴィヒの特別の腹心の友、ホルンシュタイン伯爵であった。彼は主馬頭としてバヴァリア君主国と密接な関係をもっていた。王位名称が危機的な問題となり、バヴァリアのだんまりとヴィルヘルム王の嫌気の理由で壊れてしまうように思われた瞬間に、彼が私の求めに応じて、私の手紙を彼の主君に手渡すことを請け合ってくれたのだ。その手紙は、急を要するために、ディナーテーブルで、テーブルクロスが取り払われたあとで、薄っぺらな紙に、耐火性インクで書いたのである。この手紙のなかで明らかにした私のアイデアは、バヴァリアの王は、バヴァリア国の同意は既に実務上は与えられているのだが、(理論上は)プロシャ王に統帥権を与えることにはならない、だから、バヴァリア人の自尊心を傷つけることにはならない。:すなわち、プロシャ王はバヴァリア王の隣人である。そして、バヴァリア国が過去に行ない、かつこれから行おうとしている譲歩にたいする非難は、種々の民族関係の観点からして、激しくなろうし、ドイツ民族の競争相手達によって簡単に影響される(のを承知願いたい)。バヴァリアの領地のなかでプロシャが権利を行使することは新しい経験であり、バヴァリア人の感受性を傷つけることになろう。しかるに、ドイツ皇帝は血統を異にするバヴァリアの隣人ではない。隣人ではなくて、同胞人なのだ。;私の考えでは、ルードヴィヒ王は適切にドイツ皇帝のみにたいして、統帥権について既に行った譲歩を認めればよい。プロシャ王にたいしてこれを認める必要はない。このケースについてのこれらの主要な観点に加えて、私は個人的な議論を付け加え、(ルードヴィヒ皇帝個人において)ブランデンブルクの行進の際バヴァリアが支配した時期に、バヴァリア王朝が私の祖先に対し一世代以上にわたり恩をきなければならないだろう特別の善意を思い起こさせた。私はこの人身攻撃を、国王としての立場を護りたい一君主にたいして申し入れるためには有効であると考えた。けれども、私の信念は実際は、ドイツ皇帝とプロシャ王の統帥権の間にある差異の政治的、動的な評価は規模がことなっているということだった。

2.
出典:
『ビスマルク-白色革命家』
ロタール・ガル著
大内宏一訳
創文社
昭和63
P581

敷衍説明すると、デンマークのクリスチャン九世王はもともとドイツのオルデンブルク家の血統である。

彼の三女ティラ(Thyra)がハノーファーのエルネスト-アウグスト二世の妻となった。

彼の次女ダグマールMaria Feodorovnaはロシアのツァー、アレクサンドル三世の妻であった。(ロシア最後の皇帝ニコラス二世の母親)

この場合、アレクサンドル(ロシア)皇帝妃が自分の妹のことを案じ、父の主家のオルデンブルク家に仲介を頼んだのである。


簡略に大意を述べると、

ブラウンシュワイクのヴィルヘルム公爵には直系の世継ぎがいなかった。だから、彼が亡くなったあとの相続については、イギリス=ハノーファー王国ジョージ4世まで遡って考えると、正当な相続人はエルネスト・アウグスト(二世)しかいなかった。だから、彼がブラウンシュワイク家を相続するという告知を行っても、プロイセン王室には反対できる筋合いはまったくなかった。だから、ビスマルクがこの相続を承認しなかったことについては根拠がまったくないのであり、ビスマルクによる無法行為であった。

 このハノーファー王国が普墺戦争でプロイセンに敗れ、プロイセンに乗っ取られたからたまらない。まかり間違えれば、大英帝国がプロイセン王国にたいして宣戦布告する可能性すらあった。

 普墺戦争におけるハノーファー王国の敗北は、このようなきわどい国際問題をはらんでいた。

 しかし、実際には大英帝国は豪州、ニュージーランド、カナダ、インドなどの海外植民地の経営に追われ、対象国があまりにも多く、英国本土は軍備も手薄になっていた。かりにプロイセンが英国に攻め込んできた場合には、プロイセンと互角に戦う実力はなかったかも知れない。こういう背景があったのであろう。英国政府はきわめて慎重な態度をとり続けた。

 なお、ヴィクトリア女王がザクセン=コーブルク=ゴータ公爵の子息アルバートと結婚したので、ヴィクトリア女王の次の代のエドワード七世からはサクス=コバーグ=ゴータ朝と改名され、第一次大戦で英国とドイツが対戦したので、改名して現在のウインザー家となっている。

画像:ブラウンシュワイクお城広場のダンクバルデローデ城Burg Dankwarderode。獅子王が1175年に建築した。ドイツ・ヴェルフの本拠。右手に獅子像(コピー)が見える。

B. ブルンズヴィック(=ブラウンシュワイク ヴィルヘルム八世(1830–1884)

ブルンズヴィックの相続権

注:ヴィクトリア女王

ハノーファー王朝とはなにか?

 皇帝による免責行為

画像:アントン・フォン・ヴェルナー描くところの「ヴェルサイユ鏡の間でのヴィルヘルムの皇帝宣言」;バーデン大公(上段で手を挙げている)が万歳の先導役を務めている。ビスマルクは中央右の白服である。(1871118日)

   伯爵は、1127日に、二時間以内にホーエンシュバンガウへの旅行を始め、幾多の困難を乗り越え、しばしば中断もありながら、四日間で成し遂げた。王は歯痛でベッドに閉じこもっておられ、最初は彼との面会を断わったのだが、伯爵が私の依頼で手紙を持参したのだということを聞いてから面会に応じた。彼は伯爵の面前でベッドのなかで私の手紙を注意深く二回にわたり読み、筆記用具を取り寄せ、ヴィルヘルム王への連絡事項を筆記させた。その草稿は私が作ったものだった。この草稿のなかで、帝位についての主たる議論を再説し、もっと説得力のある提案として、バヴァリアはプロシャ王にたいしてではなくて、ドイツ皇帝にたいしてのみ譲歩するのだと論じた。これはすでに同意されてはいたが、まだ裁可されていなかったのだ。私は、私の王(主人)が帝位にたいしてもっていた嫌悪感を乗り越えてもらうために、特にこの表現方法を選んだのだ。ホルスタイン伯爵は彼が出発してから七日目に、すなわち123日に、(バヴァリア)王からのこの手紙を携えてヴェルサイユに帰ってきた。この手紙は即日、現在の摂政であるレオポルド王太子から、われわれの(プロシャ)王に正式に手渡され、これまでの困難な仕事を成功に終わらせるための重要なファクターとなった。この成功はいままではヴィルヘルム王の抵抗があり、また、バヴァリア国の見解が明確に書面となっていなかったので疑問視されていたのだ。寝るのも惜しんで一週間に二回の旅行をしてくれたお蔭で、また、ホーエンシュバンガウでの役割をうまく遂行してくれたお蔭で、帝位問題に残っていた外的な障碍が取り除かれたことにより、ホルスタイン伯は私達の国家統一の確立に重要な役割を果たしたこととなった。

説    明   (4)

 もちろん、だからといって、1870年の10月から11月にかけてヴェルサイユで南ドイツ各邦国の代表たちとの間で個別に行われた加入交渉が、容易になったわけではなかった。むしろ逆に、いっさいが将来のパートナーたち自身の自由な決意に基づくのでなければならないという、ビスマルクが打ち出したスローガンは、個々の点をめぐる粘り強いと同時に退屈な値切り交渉へと通じていったのであった。そして、交渉が終了した後も、バイエルン国王から最終的な同意を取りつけるためには、さらにプロイセンの国庫に手を突っ込むことを必要としたのである。すなわち、ルートヴィヒ2世は、多額の一時金を受け取ったほかに、1866年にプロイセンに押収されたハノーファー王家の財産、いわゆるヴェルフ基金から毎年一定の贈与を受ける保証を手に入れ、彼の親密な顧問で、この件を取りもった主馬頭のホルンシュタイン伯は、そのつど総額の10パーセントを受け取ることになった。

 自分の建築熱にこれほどまでに鷹揚に理解を示してくれたことに感銘を受けたバイエルン国王は、プロイセン国王にドイツ諸侯の名において帝冠を差し出すことをもはやためらわなかった。そのような意向を表明したバイエルン国王の書簡の下書きを執筆したのは、ほかならぬビスマルク当人であった。このような形を通して、主権者たる君主たちの同盟体としての新国家の性格をもう一度はっきりと強調しておきたいと、彼は望んだのである。

バイエルンのルートヴィヒ二世王への秘密資金の提供

画像:バイエルン、ヘレンキームゼー島の新宮殿。宮殿は未完に終った。訪問記

画像:ヘンリー獅子王 (ca.1129/30-1195)バヴァリア=ザクセン公が、統治下の1166年頃、ブラウンシュワイク宮殿に造らせた獅子像。Dankwarderode Castle内に展示されている。ドイツ・ヴェルフの象徴。

画像:ヴィクトリア女王

注:ジョージ一世

 1883/01/05(明治16年)付の免責決定は、ドイツ国家の最高権威者であった皇帝により、ビスマルクの不法行為が承認されたことを意味する、と考えられる。

 この事実は日本国民に知らされなかったようだ。福沢諭吉だけが外字新聞でヴェルフ基金の存在を知らされた、と考えてよいだろう。

画像ルートヴィヒ二世とピアノを演奏するリヒアルト・ワーグナー。オペラ「ニーベルンゲンの指輪」と「パルシファル」はルードヴィヒ二世の資金援助なくしては成立しなかった、と言われている。

画像:ヴィクトリア女王が最後にバーデン・バーデンを訪れた1880年の飲泉場の光景。http://www.bad-bad.deから引用。彼女の姉のFeodoraがここに別荘Villa Hohenloheをもっていたのだ。

チャールズの兄弟であるヴィルヘルム八世が1830910日にブルンズヴィックに到着したときには、彼は大衆によって喜んで迎えられた。ヴィルヘルムはもともと彼自身を彼の兄の摂政であると考えていたのだが、一年後、自らを支配する公爵であると宣言した。チャールズは、彼の弟を退位させようと種々の捨て鉢な試みを行ったが、うまく行かなかった。

ヴィルヘルムは政府関係の仕事の大部分を彼の使臣に任せ、自分の時間の大部分を国外のエルス(現在はポーランドのオレスニツァ)の彼の領地で過ごした。

ヴィルヘルムが1866年にプロイセンの率いる北ドイツ同盟に参加したとき、彼のプロイセンとの関係は緊張した。なんとなれば、プロイセンは、彼のもっとも近い男子系の親類である、ハノーファーのエルネスト・アウグスト二世、第三代カンバーランド卿を彼の後継者として認めることを拒絶したからである。

 1866年に、ハノーファー王家がプロイセンによって併合されたとき、ブルンズヴィックは主権を有し、独立していた。ブルンズヴィックはまず、北ドイツ同盟に参加し、1871年にはドイツ帝国に参加した。

1870年代に、その時点で支配していたヴェルフ家の兄系が断絶することが明らかとなった。家系法により、ハノーファー家は公爵王座にあがることとなった。しかし、ハノーファー家の人たちは彼らの王国がプロシャによって併合されることを拒絶した。その結果、強力なプロイセンは、カンバーランド公爵でもあるハノーファーのジョージ五世とその息子に圧力をかけ、ブルンズヴィック家を相続するためには、ドイツ憲法への服従を誓わせ、ハノーファーにたいするすべての請求権を放棄させる、という厳しい条件を付けた。

 公爵の死亡に接し、1879年の法律により、ブルンズヴィック公爵領は一時的な摂政会を設定し、もしカンバーランド公爵が相続できない場合には、必要ならば、摂政を任命することとした。1884年にヴィルヘルム公爵が死亡すると、ヴォルフェンビュッテル系は断絶した。カンバーランド公爵はヴィルヘルム公爵の死亡に際し、自分でブルンズヴィック公爵を宣言したのだが、帝国協議会は、ハノーファー家がブルンズヴィックの相続を許されるならば、ドイツ帝国の平和が侵されると規定した。交渉は長く続いたが、解決しなかった。(出典

画像:©2013 Google ブラウンシュワイクの位置関係

A. ブラウンシュワイクの相続問題

イギリス・ハノーヴァー朝第3代国王ジョージ3の第四王子であるケント公エドワードの一人娘。3人の伯父たちが嫡出子を残さなかったため、1837年に18歳でハノーヴァー朝第6代女王に即位する。

ハノーヴァー朝の国王は代々ドイツ邦国ハノーファー王国(選帝侯国)の君主を兼ねていたが、ハノーファーではサリカ法典による継承法を取っており、女性の統治が認められていない。そのためヴィクトリアはハノーファー王位を継承せず、彼女の叔父エルンスト・アウグストがその地位を継ぎ、イギリスとハノーファーの同君連合は解消された。1851年、エルンスト・アウグストの長男がゲオルク五世に即位した。幼児のときの出来事により盲目であったことに注目する必要がある。

同君連合は解消されたが、大英帝国とハノーファー王国の関係は親密であり、ハノーファー王国を侵害することは大英帝国を侵害することとほとんど同義のように受け取られていたことは事実であった。したがい、このヴェルフ資金の処理についてもヴィクトリア女王は強い関心を寄せ、宰相をプロイセンに派遣してビスマルクと折衝させることにもなった。

 ハノーファー家の当主ゲオルク五世は、その父親ハノーファー国王エルンスト・アウグストと大帝国女王ヴィクトリアの父親ケント公エドワード・オーガスタスとが兄弟であったから、ヴィクトリア女王とは「いとこ」の関係にあり、また、ヴィクトリア女王が即位する前までは、(ヴィクトリア女王の伯父にあたる)ハノーファー王朝第五代国王ウイリアム四世が同君連合として大英帝国とハノーファー王国の国王を兼務していたのだ。つまり、ハノーファー家の当主ゲオルク五世は純然たるイギリス王族のひとりであり、事実、カンバーランド公という英国の貴族称号をあたえられることとなる。

 だから、ヴィクトリア女王は、ハノーファー家を自分の家の庭先のような感じでうけとっていたのである。事実、ヴィクトリア女王は、(夫君アルバートがザクセン・コーブルク・ゴータからの婿入りであったこともあり)、夏休みには里帰りする感覚でドイツに帰り、ドイツの温泉に遊ぶのを常としていた。

171468日、ステュアート家のアン女王が死去した。イングランド議会はカトリック信者であったアン女王の異母弟ジェームズを嫌い、イングランドジェームズ1の孫娘ゾフィーがプロテスタントであったことから、ゾフィーの子孫のみが国王となることを取り決めていた。そこで、ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグストとその妃ゾフィーの長男ゲオルク・ルートヴィヒがイギリスに迎えられ、イギリス(グレートブリテン)王ジョージ1世として即位した。彼は、1698年にハノーファー選帝侯位を継承し、ドイツ領邦国家の君主となっていたので、イギリス王とハノーファー選挙侯を兼ねた同君連合を形成したわけである。

イギリス(グレートブリテン)王がハノーファー家からきたことから、これ以降六代、ヴィクトリア女王にいたるまでイギリス王朝はハノーファー家を名乗ることになった。

画像:ジョージ一世

 二つの資料が事実を物語る。

1. A. J. P. Taylor著『男と政治家』(The man & the
    Statesman, Otto von Bismarck
)、1955
2. ロタール・ガル著『ビスマルク-白色革命家』

画像:テムズ川上のジョージ1世とヘンデル。ジョージ一世の即位が1714年、テームズ河で「水上の音楽」が演奏されたのは1717年。三回演奏されたというのだが。

画像(ハノーファー家)
1857-67年に建てられたマリエンブルク城。王妃とメアリー王女が1867まで一年間住んだが、1867年に国外亡命したので、その後80年間管理人だけがいた。(つまり、ドイツは第二次大戦が終了するまでこの城をハノーファー王室に返還しなかった、ということか?)