ヴェルフ基金の受益者

説    明  (2)

ルードヴィッヒ二世王
   1871年ドイツ帝国を成立させるため、浪費
     癖のあるバヴァリア国王に継続的な賄賂の支
     給。

ハンガリー義勇軍
   普墺戦争の際にプロイセンに内通したハン
     ガリー義勇軍にたいし報奨金を支給

フランス軍のバゼーヌ元帥
   普仏戦争のメス攻囲戦でプロイセンと内通
     したフランスのバゼーヌ元帥に年金支給。


カトリックの高位聖職者(枢機卿クラス)
          文化闘争の達成のための賄賂

ヴェルフ基金の事務方
   ヴェルフ基金から年金支払(年金の二重支
     払を実施?)。

ハノーファーのヴェルフ党員
   のうち内通者に年金。

ビスマルク自身に報奨金
          18903月、ビスマルクの引退の際、内密
     の退職金
231,000マルクを自分にたいして支出
     した。

注:
 この結果、「政治的判断は法治精神に優先する」とするプロイセン主義が確定した。
 このプロイセン主義は第二次大戦終了まで続いた。ドイツ国は「法治主義」をこの時点
188315日)で放棄した。
 このプロイセン主義は後に非常に悲惨な結果を生むこととなった。

画像2005年にハノーファー家の財産はオークションにかけられて売却された模様。

 「これまで政府が秘密資金として使用してきた押収財産の使用は違法」とする司法長官の法律的な解釈にたいし、ビスマルクの反論は、「政治的合目的精神がすべてに優先する。王朝的判断、ならびに法律的判断よりも政治的判断が優先する」というもの。

 188315日、皇帝は、国家政府にたいしヴェルフ資金の今までの業務執行について免責を与えた。

皇帝による免責行為

 プロイセン王国は、ハノーファー王国その他にたいする補償金ならびに個人資産を押収し、それを国庫には入れずに、いわば受託資産として受け入れ、この受託資産から揚がる収益を『ヴェルフ資金』と称して任意に使った。『ヴェルフ資金』の一部はハノーファー、カッセルなどの旧領地の公共事業資金として使用され、残りを外務省と内務省で分割した。当初は公共事業資金の割合は大きかったのだが、時間とともに縮小された。外務省分と内務省分については当初から機密扱いだったので、詳しい詳細はわからない。また、188315日の皇帝命令で、それまでの証拠書類はすべて焼却(!)されてしまったので、ルートヴィヒ二世王への秘密資金を証拠立てる資料はすべて消え去ったように見える。ところが実は、(多分ビスマルクの助平根性で)『ヴェルフ資金』は継続したから、188315日以降の資料が残った。これを調べ上げて、ハンス・フィリッピはルートヴィヒ二世王への秘密資金を解明した。

ヴェルフ基金の使用開始

議院での1869126日付(議会での政府当局に対する)質問に答えて、「収入と支出は国庫勘定で行われたのではない」。そして支出に係わることは、「プロイセンに反する画策を政治的に取り締まるために割かれるその金額の利用は、その性質からして、公開を避ける」。

 1892410日、押収の破棄命令が出され、プロイセン王国とカンバーランド公間で協定が成立した。補償交渉がスタートした。

さらに、

「ヴェルフ基金の著名な年金受領者を一瞥すると、まず筆頭に挙がるのがバイエルンのルートヴィヒ二世であろう。年数ははっきりしていないが、バイエルンの内閣出納局は年額30万マルク受け取っていた。そのうち、主馬頭ホルンシュタイン伯爵が(一定のパーセントの)歩合を徴収した。伯爵の全権委任者である枢密顧問官ベームにたいし、文献で立証できる最後として188810月にベルンの公使館を通じて17,000マルクを受け渡した。」

ヴェルフ基金の秘密性と機密保持

画像:この賄賂で造られたとされるノイシュバンシュタイン城

186948日に初めて、ハノーヴァーおよびヘッセンの収入から自由裁量で使用できる金が配分された。外務省と内務省は秘密の政治目的のために合計26.5万ターレルを受け取った。1870年は外務局が15万ターレルを別除したようである。結果的に、それゆえ、政治目的のために、四分の一が請求され、その一方で大部分がハノーヴァーとヘッセン州の公的活動ならびに建設計画に資することとなった。

画像:マリエンブルク城、マリー王妃の図書室

1884211日、バイエルンの参事官フィステルは百万マルクの額面の領収書に署名した。極秘の任務で、バイエルンのルートヴィヒ二世の政務次官であるフィステルは、過大に債務を負った内閣会計のための借入を目的として、王の名代として、ビスマルク並びにブライヒレーデル銀行と交渉するために、二月の初めにベルリンとフリードリッヒスルーエに行った。協議は望んだ結果にはならなかった。ミュンヘンでの差し迫った危機を避けるため、ビスマルクは、百万マルクの金額を前貸しして苦しい立場に置かれた王を助けるつもりだったらしい。その際の、この金額が供与されたときの条件は不明である。」

差し押さえられた財産の使用については、ハノーヴァー州の州長官による職務権限のもとに王立事務委員会が創立された。事務コストの査定ののち、計算書作成費用を除外したあとの収入の分配を審議するために、国務大臣が年間を通じて会議を招集した。内務大臣と外務大臣が申し立てによって配当額の割合につき話し合いがつかなかった場合は、所管上級部局長が彼らの希望を代弁することになっていた。交渉はもっとも強い秘密保持の下に行われ、1873年には帝国宰相がきっぱりと大臣達に、「当然の根拠」に立って、ヴェルフ基金の関係する前任者すべての機密保持を諄々と申し聞かせた。

画像:メスで降伏したフランソワ・アシル・バゼーヌ元帥

ヴェルフ基金の終焉

 これで少なくとも、バイエルン王国へのヴェルフ資金の供与は立証された。
  ところで考えていただきたいのは、これはプロイセン王国の外務省に渡った金額の半額以下なのである。下にヴェルフ基金のほかの受益者が列記されているが、彼らに渡された金額は高の知れたものである。ビスマルクが外交機密費として継続的に多額供与した相手先はどこか、これが本当の問題なのである。

バイエルンのルートヴィヒ二世王への秘密資金の提供