1868年2月28日付ジョージ王ならびにナッサウ公爵のアドルフに対する補償支払法案に依り、3月2日、一通の国王命令が公布された。それらに基づいて、1867年9月29日付条約の対象物件は、プロイセン国家に所属しない有価物件と補償残高も含め押収された。
この国王命令の第2項は次のように述べる。押収された物件ならびにそれらからあがる収益から、王にたいしての決算報告なしに、差押えと管理のコスト、ならびに王とその臣下の反プロイセン的策動に対する監視と対応の措置にかかる費用を賄うべし、と。所謂ヴェルフ基金はこの条項に依拠する。
1866年9月23日、退位させられたハノーファー王ジョージ五世は9月20日付けの法令によりプロイセンが彼の国土を併合したことにたいして抗議した。
(補償金契約の成立)
1967年9月29日、協定が成立。
英国ならびにロシアの宮廷から出された調停もあって、その結果停戦の翌週から交渉開始。ハノーファー王に忠誠を誓った役所と兵隊達を解放し、彼の資産状態を整理することが目的だった。
ハノーファー王国との協定の内容は:
1. 16百万ターレルの補償金
2. 御料地、山林伐採や上級封建君主の権利などの失われた収入の補償ならびに宮殿、庭園と土地の代償としての補償金の金額は後に算定されることとなった。
協定の締結は、年金を与えられた君主が暗黙のうちに将来の玉座請求権の主張を断念するように仕向けられた
賠償の承認は彼らにとってまさに政治的な観点だった。外交政策上の干渉する諸宮廷にたいする和解的な作用とか、内政的にはハノーヴァー州の全住民の鎮静とかである。
ビスマルクが心血を注いだプロイセン軍は、丈夫で装填時間が短い鋼鉄製の後部装填式大砲や世界初の後装式軍用ライフルを装備し、装備の面でもオーストリア軍を遥かに凌駕していた。プロイセン軍の新兵器の圧倒的な火力と速射力の前に、従来通りの銃剣突撃を繰り返すオーストリア兵は次々になぎ倒された。
オーストリア軍はイタリア戦線ではリッサ海戦に勝利するなど優勢であったが、ケーニヒグレーツにおける惨敗を補うことはできなかった。
プロイセンの悲願であるドイツ統一のためには、オーストリアと戦うことは避けられない。そのためビスマルクは先の戦争で共同作戦に誘い、オーストリア軍の装備や指揮系統など、様々な要素を調べ上げ、研究した。オーストリア軍はナポレオン時代とあまり変わっていない旧態依然とした軍隊であり、このこと を知って勝てると踏んだ上でビスマルクは開戦に踏み切り、果たせるかな、オーストリア軍はプロイセン軍に一方的に敗れた。
説 明 (1)
1866年8月23日のプラハの講和
戦後処理にて、プロイセンは
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国全域と
ハノーファー王国、
ヘッセン選帝侯国、
ナッサウ公国 (en) 、
フランクフルト自由市
を領有することとなった。
この際、プロイセンに併合された国々の
ハノーファー王ゲオルク5世、
ヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世、
ナッサウ公アドルフ(後にルクセンブルク大公を継承)
は廃位された。
戦後成立したのは、北ドイツ連邦。
著者:
Hans Philippi、 1916 マインツ-2010 ラオバッハ
マインツの医者の息子として生まれる。
歴史家、1945よりドイツ外務省の公文書館勤務
1954 年国家試験により博士号取得、ボンの外務省勤務
1962 マールブルグ大学の古文書担当長
主たる研究領域は30年戦争、ナポレオン
(Wikipediaドイツ語版(旧版)による)
所謂ヴェルフ基金はこの条項に起因する。
同日(1969/2/15)、そして同一の理由づけで、元の選帝侯であったヘッセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルムの収益の没収(押収)が定められた。
年間百万ターレルに達するヴェルフ基金のほかに、さらに35万ターレルがプロイセン政府ヘッセン州の歳入として、退位させられた選挙侯家の敵対的な画策の防衛のために自由に使用されることとなった。
プロイセン近辺でオーストリア側に与したのは:
ザクセン王国
ハノーファー王国
ヘッセン大公国
ヘッセン=カッセル方伯
ロイス・エルテレ・リーニエ侯国
ザクセン=マイニンゲン公国
シャウエンブルク=リッペ
ナッサウ
画像:Löwenburg, Kassel 。(ヘッセンの首都)カッセルの獅子城
画像:マリエンブルク城の守護神
1867年初頭以来、いわゆる「ヴェルフ義勇軍」が結成された。ウイーン近郊のヒーツィングに住んでいた亡命王はやる気は薄かったが、この義勇軍は彼の承認と経済的な支援なくしては存在しえなかった。この義勇軍の有効性は限定的であったので、プロイセン国家にとって本気で相手するほどの敵対者ではありえなかったが、現地の諜報によってベルリンへもたらされた情報をみると、その(義勇軍の)存在そのものが、戦争を引き起こすであろう様々な憂慮を肯定するものであった。そしてビスマルクでさえも、ハノーヴァーの状況とヴェルフ派の扇動の影響は懸念がないわけではない、ように見えたのである。
画像:
画像:ケーニヒグレーツ(チェコ語で Hradec Kralove)の戦い
画像:ハノーバー 1865年 ブレーメン ゲオルグ5世 1ターレル銀貨
英国の外務大臣スタンレーは、彼がベルリンにおけるハノーヴァー王室の運命につき彼の政府の無関心をやむをえず認めていた。
補償金契約の成立とともに、プロイセン政府とハノーヴァー家との間の戦争状態は終結した。
賠償は今後のハノーファー王家の譲渡のできない家族世襲財産の一構成要素として統一体にまとめ上げられていたが、その利用は当分は利子の受領に限定されていた。
画像:ゲオルク五世(ジョージ五世)、ハノーファー王
外部の勝敗予想は五分五分であったが、当時のプロイセンには軍事的天才がいた。参謀総長大モルトケである。プロイセン参謀本部は軍隊の迅速な移動のため元々道路整備に熱心だったが、大モルトケは当時の最新技術である鉄道線と電信設備を重視し、オーストリア国境までこの2つをあらかじめ整備させていた。そのため、開戦してからのプロイセン軍は、オーストリア側の予想を超えた迅速かつ整然とした進撃を行うことができた。分散進撃してくるプロイセン軍の前に、オーストリア軍は7月3日ケーニヒグレーツの戦い (en) で包囲され、大敗してしまう。
1866年6月15日プロイセンは宣戦布告を行って、ホルシュタインのオーストリア管理地域を占領した。プロイセンの行為を侵略的と見たバイエルン王国、ザクセン王国、ヴュルテンベルク王国、ヘッセン選帝侯国などはオーストリア側に就いたが、北ドイツの小邦はプロイセンに就き、オーストリアのヴェネツィア領有を不満とするイタリア王国もプロイセンと同盟した。
画像:一部改変
画像:ドイツの将来。「果たして一つの帽子におさまるのか? 私の信じるところでは、一つの戦闘帽におさまる」。Kladderadatsch紙の風刺画、1864年