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 金剛力士像

 島崎藤村ゆかりの長野県のK市に、大変古くからある海応院というお寺があります。400年ほど昔、関が原の合戦の際、3万8千の兵を率いて中仙道を進んだ徳川秀忠が、わずか2000の兵で上田城に篭る知将真田昌幸を攻めて大敗し、関が原の合戦に遅参したという名高い「第二次上田合戦」という戦いがありました。その際、秀忠の宿舎となったのがこの海応院なのだそうです。(海応院に関してはこちら、上田合戦に関してはこちらをご参照下さい。)

 実はこの由緒あるお寺には、23年前に私たちが作った「金剛力士阿形像」があるのです。先日、親族の不幸があってこの海応院に伺ったのですが、そのとき、本当に久しぶりにこの金剛力士像と再会しました。

 この像を作ったころのことを、久しぶりになつかしく思い出しました。「あそびのコラム」の趣旨とは少々異なる内容になりますが、「日々のひとこと」に書くには少々長くなりそうなので、ここに書いておこうと思います。





 私の通っていたU市のU高校では、当時は8月の最後の30日、31日あたりに文化祭をやっていました。長野県は昔も今も夏休みは3週間ほどしかなく、お盆明けから学校が始まります。夏休み明けの2週間くらいで文化祭の用意をするのが、忙しくも楽しかったものです。

 文化祭では「アンデパンダン展」と称して、各クラスごとに造形物を製作し、コンテストを行っていました。1年生のときにはまだ様子もよくわからないのでたいしたものは作れないのですが、学年が上がるに従って熱の入った製作をするようになりました。私たちのクラスが3年生のときに作ったのが、この金剛力士像でした。

 写真では大きさがよくわからないかもしれませんが、この像は高さが2.4mほどあります。素材は、角材で骨格を作って、金網を巻きつけて針金で縛り、そこに新聞紙をちぎって水につけて練った紙粘土をつけて造形を施し、最後に塗装をして仕上げる、という作り方をしています。

 夏休み明けの2週間、朝は6時過ぎに来て授業が始まる前の2時間ほど作業し、帰りは授業が終わった後、午後3時半くらいから夜8時過ぎに門が閉まるまでずっと作業をします。私は主に骨格の担当で、造形担当の指示する位置・角度に骨格を作ったり、施工方法を工夫したりする係でした。骨格は一寸角(3cm×3cm)の六尺(180cm)の木材を使ったのですが、当時まだ元気だった私の父がトラックで学校まで届けてくれました。うねうねとした衣、微妙な角度の腕、突き出された手など、特に苦労をした覚えがあります。

 腕などの角度に関しては、実際に骨格となる角材をあてがって造形担当者に角度を決めてもらって、その場で「のみ」で簡単に接合部を作って仮組みして、それでOKならば針金等でしっかり固定する、という作業をしました。(その作業のときに、左手に持ったのみで右手の人差し指の根元付近を突いてしまって1cmほどの傷を作ってしまった傷跡が今でも残っています。)この工法だと関節部分がかなり大きくなってしまって、造形担当からは不評でした。

 金剛力士像の左手の指の1本1本は割り箸を芯にしているのですが、その角度を安定させるのが難しかった覚えがあります。造形の仕上げを一生懸命してもらっているときに指がとれてしまったりして、「あーやり直し」ということが何度もありました。

 また、像の後ろを取り囲むようにうねる衣ですが、これは角材を芯にすることができないので、どうしても強度が弱くてちょっと触ると振動してしまいました。そのため仕上げの段階で紙粘土を付けてゆくと、揺れて粘土の塊がごっそりとれてしまったりして大変でした。乾燥して軽くなると、大変丈夫になってくれているようです。

 この金剛力士像は東大寺の南大門の阿形像がモデルなのですが、乏しい写真の資料から見えない部分を想像して作るしかなく、特に後ろ側が大変でした。

 他のクラスも、特に三年生は大変な力作が多かったと記憶していますが、コンクールでは幸い優勝することができて、確か1週間ほど壊さずに飾っておく権利がもらえた、ような記憶があります。その期限が過ぎたとき、「せめて頭の部分だけでも切り取って保存しようか」という意見も出たのですが、幸運にもクラスに、父親が冒頭に紹介した海応院のご住職をされている同級生がいて、この金剛力士像を引き取ってもらえることになったのでした。

 久しぶりに見た金剛力士像はかなり大きくて、よくもまあこんなものを作ったなあと思います。本来ならお祭りが終わったら壊してしまうはずの「作品」を、こうして時間が経ってから見ることができるのはとても幸運なことだと思います。

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2006.10.18 hhase