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神戸山:もみじ山  
 

この近くに紅葉の綺麗な所があるという事で寄ってみることにしました。 

 旧道の細い道を少し行った坂を上ると、四賀小学校の校庭に出ます。 

 そこでバスを降りて右手の山へ登ります。 

 少し上がると見晴らしの良い所に社がありました。 

 北アルプスの眺めが絶品で、中央線を走る列車も見れて、

鉄道写真マニアの穴場スポットになりそうな眺めです。 

 そこから山にそって右へ行ったあたりが、丁度もみじの紅葉が見事でした。 

地元のもみじの里の会の方達が、20数年前から、京都のもみじを取り寄せて植えたものだそうで、

1600本以上植わっているそうです。 

 道も良く整備されていますが、案内板もないので、

何処がはじめで、何処が終わりかちょっと迷ってしまいます。

   
諏訪大社上社神宮寺跡:
昼食にはまだちょっと早いという事で、上社神宮寺に寄ってみました。 

     法華寺は最初は天台宗の寺だったそうですが、鎌倉時代に臨済宗になったそうです。
 
 江戸初期には、法花寺として釈迦堂の近くに有ったそうですが、

上・下・本坊と並んで宮寺として大きくなり、釈迦堂・五重塔等を管理する

法華寺となったのはもう少し後になってからの様です。

  廃仏毀釈のおりは、仏像・仏具は地蔵庵に移転されたそうです。

本堂は江戸中期に大隅流・伊藤儀左衛門により造られ、廃物希釈の時に取り壊されず、

庫裏とともに神宮寺小学校として暫くは使われていたそうです。 

 大正
15年に寺として復帰したそうですが、平成11年火災で焼失、

昭和
6年仁王門のあたりに再建した山門のみが残ったそうです。 

 現在本堂のある辺りは、釈迦堂が有った所になりそうです。  
 
五重塔跡。  普賢堂跡。
   

鎌倉時代に諏訪市の支族・下伊那神之峯城主・知久敦幸によって、普賢堂・釈迦堂・五重塔・鐘楼が、

東大寺の工匠・藤原肥前守を招いて再建されたそうです。 

  普賢堂・五重塔の棟札ものこつていたそうで、どうやら

信長の甲州征伐のおりには、焼失を免れていたようなので、本尊の普賢菩薩が焼かれたとあるのは、

普賢堂から信玄の崇拝した諏訪大明神の普賢菩薩の部分を壊して焼き捨てたことになりそうです。

  廃仏毀釈のおりに、普賢堂本尊の普賢菩薩騎象像は、仏法紹隆寺へ、

五重塔本尊・五智如来像は四賀の万福寺へ移されたそうです。

 

弘法大師の手の跡があると言われる神力手石。

普賢堂・銅灯篭の礎石。  灯篭は盗難にあって行方不明だとか。

本杉・市指定天然記念物。

樹齢は390年ほどだそうで、一本は落雷にやられたそうです。

旧権祝家・矢島氏所蔵・江戸初期の上社古図。

普賢堂へと上る階段からの眺め。 落ち葉を焚く、諏訪大社上社境内。

ちょっといっぷく:シェ岩波

今日の昼食は、茅野のステーションパークの先にある、創作フランス料理のシェ岩波さんです。 

 以前からこの近くで営業されていたそうですが、20周年を機に移転オープンしたそうです。 

   自家製野菜を使った料理でも知られているそうです。 

 以前のお店よりは、ちょっとこじんまりした素敵なお店で、今日はマリオ倶楽部のメンバーで店はいっぱい。 

  まずは、ビールで乾杯し、のんびりと美味しいランチを頂きました。 

  満腹になった所で、店の皆さんに送られて、最後の訪問先の守屋史料館へ向かいます。

   
茅野市神長官守矢史料館:  
神長守矢家祈祷殿・市指定文化財。  

前宮の少し手前に守矢氏の屋敷があります。       

守矢家の祖先は、洩矢神で建御名方命・諏訪明神・大祝を補佐する上社五官の筆頭で、

代々祈祷と政務事務を行って来た家だそうです。  

祈祷殿の隣には、勅使殿があります。 

 勅使殿の方は、立派な勅使の玄関はありますが、住居としても使われていた様です。

最初に屋敷内にある、ミシャグジ神社にお参りします。
 
  守矢氏によると、ミシャグチ神は樹・笹・石や生神・大祝に降りてくる精霊だそうで、

縄文時代から有った信仰で、東日本特に中部地方に広まった先住民の信仰だそうです。

   洩矢氏の守っていた前宮本殿・大御社宮司は前宮のあたりを大祝に渡したので、

現在の守矢邸内に移したのは、総御社宮司
(御左口総社)で、御左口信仰の中枢をなすものだそうです。

 社叢・梶・栗・カヤは市天然記念物。 梶の実が落ちていました。 

   

神長官裏古墳。  

 ここ高部扇状地は古墳・神長官家・神官住居等が多く有った所だそうです。

この古墳は高部古墳群の中で唯一墳丘・石室が保存されているものだそうです。

  円墳で七世紀頃のものだそうで、市指定史跡にもなっているそうです。 

   一説には、守屋山山頂に奥宮を持つ物部守屋の次男、武麻呂の墳墓との説もあるそうですが、

守矢氏との繋がりも不明だとか、いずれにしろ守矢氏に繋がる豪族がいたのかもしれません。

   

オカメザサに囲まれた、縄文住居を思わせる守屋史料館。 

 四本の御柱はミネゾウで、薙鎌が打ち込まれていました。 

  明治維新になって、神官の世襲制も廃止になり、中央神官が派遣される様になったので、

守矢家も神長官としての役割がなくなったそうです。 

 それを機に、78代目となる守矢早苗氏が、鎌倉時代から伝わる守屋家文書1600点以上の文書を市に寄贈、

れを受けて茅野市が守屋家の文書を保管・公開する史料館を造り、平成3年にオープンしたものだそうです。 

  ユニークな建物は、地元建築家で東京大学名誉教授でもある藤森照信氏のデビュー作だそうで、

中鉄筋コンクリートで、屋根は鉄平石と天然スレート、壁土をぬって、一部にサワラ手割板を被せるという凝りようです。

   この近くに、藤森氏の造ったユニークな茶室があるという事で、史料館の見学の前に見に行くことにしました。

   
   
空飛ぶ泥舟(茶室)・このはしごで上るのかな。 

空飛ぶ泥舟は2010年茅野市美術館で製作・展示、2011年に移築されたそうです。

  高過庵は茶室としては高過ぎるので、名前が付けられたそうです。 

 米誌・タイムで世界で最も危険な建物トップ10にとりあげられたそうです。 

 建っている所は、藤森氏の畑だそうです。

   

御左口神社の近くに大祝御廟がありました。 

 ここは、もとは守矢家の墓地だったそうですが、江戸時代初めに大祝邸が前宮から宮田渡に移した時、

大祝家の墓地が必要になり、守矢家の墓地を上の高部の共同墓地に移し、

大祝御廟としたものだそうです。 

 大祝でも神葬はゆるされなかったそうで、仏式の法名が付いているそうです。 

  諏訪の字は、藩主は諏訪で、大祝うは諏方としたそうです。 

 かなりの墓が諏訪頼水の廟所の頼岳寺にあったそうですが、

明治の神仏分離のおり、大祝の墓は墓石が土中に埋められたものをここに移したのだそうです。

   

最後に、守矢史料館を見学しました。 

 館内を案内して下さったのは、史料館の小平さん。 

 ロビーには今も前宮で行われている酉の祭り・御頭祭の神饌の実物が復元展示されていました。  

春先に神前に75頭の鹿・魚・鳥獣の肉を供えて、神と御頭(奉仕の人々)が一体になって饗宴を催したものだそうです。 

  江戸中期の宴の様子を菅江真澄のスケッチをもとに復元したものだそうです。

サナギ鈴(鉄鐸) 鹿食免・鹿食箸の版木。
   

神野の耳裂鹿・御頭祭の75頭の鹿の中には、必ず1頭は耳の裂けた鹿が居るそうで、

諏訪の七不思議にもなっているとか。 

 サナキ鈴・神器は御杖柱・御贄柱と共に、神使に関する人身御供の儀式に関係したとされるそうですが、

時代と共に人身御供の扱いも変わり、鈴の役割も変わった様で、詳しい事は不明の様です。 

 ただ、洩矢神が建御名方神と戦った時は鉄輪を使ったそうですが、サナギ鈴も鉄製で、

日本の鉄器は農業より先に、狩猟民族の縄文人の方で発達様です。

常設館は、ちょっと狭かったですが、今回は信玄が守矢氏に宛てた書状が展示されていました。

  他には、神長官裏古墳の出土品等の展示もありました。

武田晴信が守矢氏に宛てた書状。

晴信が守矢氏の子に信の字を与えた名字書状。

名字書状が半分おられているのは、折り紙付きという事だそうです。

今日は、一日薄日が時々さすちょっと寒い一日でしたが、

諏諏訪における他よりちょっと早い神仏分離の動き等、諏訪の歴史も堪能出来た一日でした。

  帰りも西山公園・湖畔の桜の紅葉も楽しみ旅を終える事が出来ました。

   
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