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若宮八幡社:町指定有形文化財

銀杏の敷き詰められた境内で、後半の案内をして下さる古林さんと合流しました。

  若宮八幡社は、若宮新田の氏神だそうで、この辺りには鎌倉街道も通っており、

鎌倉時代の文献にものっている古社だそうです。 

 祭神は、八幡宮・誉田別命(応神天皇)とその子・仁徳天皇と神功皇后の三神だそうで、

甲斐との国境近いこの地では諏訪明神は合祀されなかった様です。

左が若宮八幡社、右の茅葺の家は念仏堂、葉の落ちた大木は樹齢200年の柏の木だそうで

町指定の天然記念物にも指定されているそうです。

見事な子抱きの狛犬・大正9年・上社前の石工・北原柳太郎の作だそうです。 

 諏訪明神は祀られていない様ですが、御柱が建っていました。 

 この御柱には何故か文字が彫られていました。

八幡宮は弓矢の神でもあつたそうです。

本殿は奥の鞘堂に納められていました。

本殿は江戸末期に立川流・藤森廣八門下・白鳥彌四郎の作だそうです。 

 一間社流造り、正面に千鳥破風・軒に唐破風の屋根を持つお社です。 

 町指定の文化財にもなつているそうです。

念仏堂脇には沢山の石像が集められていました。 

顔が欠かれた六地蔵。 立派な石造宝篋印塔。 馬頭観世音。

木の間から、若宮にかけては朝廷の大きな牧が有った所だそうで、

平安時代の頃から伏屋氏が支配していた所だそうで、ここには馬頭観音の碑が多くありました。

   伏屋氏は渡来系の人で、ここでは牧と鉱山開発をやっていたのではないかとも言われているそうです。

 

風月寺。

念仏堂は以前は蔦木にある曹洞宗の寺・三光寺の末寺・風月寺の本堂だつた所だそうです。 

 今は念仏講で時々使われているだけだそうです。

建物には、風月寺の文字が残っていました。

若宮の百庚申: 町指定有形文化財

江戸時代末期になつて、この辺りで大洪水や伝染病が流行した事があつたそうで、

村役の細川藤四郎氏が先立となり百基の塔を造ったそうです。 

 当時の部落の戸数は63戸だつたそうで、大事業だつた事が偲ばれます。

 

九ッ塚跡:瀬沢合戦  

百庚申からさらに甲州側へと行った、武知川の先に九ッ塚はありました。 

 小笠原・諏訪・村上・木曽の信濃連合軍と武田信玄が瀬沢で合戦を行い、

その時の戦死者を九っの首塚に分けて葬ったそうです。 

 この石塔はその塚の上に有ったものだそうですが、

洪水や田普請で塚はなくなり石塔が一つだけ残ったものだそうです。 

  近くを流れる武知川も六日の間、血でそまっていたそうです。

 

木の間観音堂:
六地蔵石幢・町指定有形文化財。

これらも観音堂と一緒に山を下りてきたのでしょうか。

観音堂の横の辻に有った道祖神。  

観音堂は入笠山を越えて長谷へ抜ける石堂越の堂ケ平の助小屋として使われていたそうですが、

南北朝時代になって石堂越の利用者も減って村の南口の観音坂に移され、

室町時代になつて現在の場所に再建されたものだそうです。

この記録は、観音堂の敷地にある六地蔵石幢の胴石に刻まれているそうです。

  現在の建物は、江戸時代のものだそうで、三間堂茅葺だったそうです。

 昭和62年に改修されているそうです。   

中央は聖観世音、脇侍は両脇とも抜けていましたが、

右の壁には虚空蔵菩薩と書いた札がかかっていました。

 ここは諏訪百番観音三十番札所にもなつているそうです。

木の間大弥堂:

観音堂をちょっと行った所に大弥堂があります。

  現在の建物は江戸時代初期に火災がありその後に建てられたものだそうですが、

向かいに公民館が出来るまでは村の会合に使われていたそうです。 

 ここは三光寺の支所の様な形になっており今でも年に20回以上念仏講の人達が使っているそうです。 

 元は阿弥陀如来をご本尊とする阿弥陀堂だったそうです。 

  今は諏訪百番観音の東三十一番札所になつているそうです。 

 軒にちょっと気になる額がかかっていました。 

 無量壽殿でしょうか、この額がさらに古いものだとすると、

渡来人であつた伏屋氏とのつながりを考えてしまいます。

ここで午前の部は終了、昼食所へと向かいます。  

途中に御柱の立った神社が見えました。 

  ガイドブックによると、大山祇神社だそうで、

境内では集落のあちこちに散らばった石像物が集められているそうです。  

 

ちょっといっぷく:おぐさんち
今日の昼食は、テレビ・人生の楽園でも紹介された事のある、「おぐさんち」でいただく事になりました。

  若宮の細い田舎道を上った所にあるのすが、一人で来た時に無事に着けるかちょっと心配です。 

 営業は通常金・土・日・月で木曜は休日だそうですが、

お願いして特別にやってもらったのだそうです。 
 
ここは、オーナーの小倉さんが、築
200年の古民家を購入し、

古民家の良さをのこした形でリニューアルし
2013年にオープンしたお店だそうです。

   黒ネコに迎えられ、奥座敷のコタツに入りまずは冷えたビールを一杯。  

後は地産の食材を使った豪華なランチをいただきました。  
法華道:

午後から最初に案内していただいたのは、おぐさんちからさらに上った所にある法華道です。 

 木の間からは、大阿原湿原を越えて長谷へと向かう石堂越と言う古道が有ったそうですが、

ここ若宮からは、室町時代初期に身延山の高僧が、伊那の山室谷布教の為に通った道があるそうです。

  伊那側の道は整備されているそうですが、富士見側は崩落等で道は整備されていないそうです。 

 以前横山先生から教わった、入笠山の首切清水の辺りから沢を下る道がここに続いているのかもしれません。 

 ここで、古林さんともお別れし、最後の訪問先の御射山神社へと向かいます。 

 八ヶ岳もやっと顔を出してくれました。

 

上社御射山神社:町指定史跡

御射山神社へは、朝見た参道入り口からは上りませんでしたが、

バスで諏訪南インターへ入る道のちょっと上の道を入ると、神社の参道の松並木へと出ます。

  少し上がった所でバスを下りて参道を歩いて、御射山神社へと向かいます。

境内に近づくと杉やヒノキが増えてきます。矢場の看板。

やがて鳥居をくぐると御射山神社にでます。

まずは、皆で参拝。

向かって左が御射山社。 右は国常立命社。

冠木門の奥には御射山神社に対向して、大四御庵・磯並・子安・神功皇后の四座があります。  

 神社の方は客間で、こちらは居間と言う所でしょうか。

 

もう一つ冠木門の奥に大四御廬(大己貴命・事代主命・建御名方神・下照姫命)があります。

上社から来た神輿は最初にここに置かれ、御射山社祭りが始まるのだそうです。

北のはずれにある三輪社(大物主命)まで行ってみました。 

  脇を流れる川・もう少し下流で鰻を流すのでしょうが結構な水量の川でした。

御射山神社本殿と神楽殿。

新しく梶の木が植えられていました。 

  このあたりは原山と呼ばれる所だそうで、諏訪明神の御狩場だった所で人の立ち入りの出来ない神野だつたそうです。

  上社の祭事の一つ風祭りは、台風被害をさけ五穀豊穣を願うものだそうですが、

その一っとして年四回の御狩神事が、御射山・押立・御作田・秋尾で行われたそうですが、

最も盛大だったのが旧暦七月御射山御狩だつたそうです。 

 神域も明治以降は激減して、狩りが行われる事もなくなつたそうですが、

現在は御射山社祭・原山さまのお祭りとして、八月二十六日から三日間行われているそうです。

  祭りと同様、最後に入り口にある浅間神社にお参りして今回の旅を終えました。

 

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