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加茂神社拝殿と御神木・杉。

ここ鬼無里には、紅葉伝説の他にもう一つ遷都伝説があるそうで、

飛鳥時代に天武天皇が遷都の地を検分するのにこの地に三野王を派遣したそうで、

この時遷都予定地として推薦した水無瀬に三つの神社を造ったそうです。 

 時に685年、その後境内に勅使の屋方を造り、

866年になつて勅使により加茂神社と改名、この地も東京となつたそうです。 

 天武天皇の頃は国家も小さく、代変わりのあつた10年ごとぐらいで遷都が行われており

天武天皇も壬申の乱の後近江・大津宮から飛鳥淨御原宮へと遷都の後に即位しており、

永続的な都の建設、先代・天智天皇の時の白村江の戦での敗戦による外敵への備え

等の配慮もあの鬼無里も候補の一つに上がったのかもしれません。 

  京都にある上・下加茂神社も社殿の基礎がつくられたのが678年なので、

最初からこの神社には加茂神社の祭神・加茂別雷大神が祀られていたわけではないのかも知れません。

加茂神社(村社)本殿は、一間社流造りで江戸中期に造られたものだそうで、市指定文化財にもなっているそうです。

   拝殿とは別になつておらず、拝殿の奥の内陣にありました。

  祭神は、武御雷命・建御名方命・天恩兼命だそうです。  

 神楽殿は明治20年に再建されたものだそうです。 

  御神木の杉の木は、樹齢約600年市指定の天然記念物にもなつているそうです。  

 ここ鬼無里からは、奥裾花自然園を通り、糸魚川へとぬける越後古道があったそうで、

諏訪神の建御名方命もここを通った事があつたのかもしれませんが、建御名方命を祭神とする神社が幾つもあります。

   加茂神社は、朝廷の陰陽道を一手に行っていた、古代豪族加茂氏が京に建てたのが始まりだそうで、

皇城鎮護の神・鬼門の守り神でもあるそうです。

ここ加茂神社の辺りの地名は東京だそうで、神社の前の通りが二条通り、

雨が降っていましたがブラブラと下の三条通りまで下ってみる事になりました。 

  通りはまだ四条、五条があるそうです。 

 道の脇の畑には、今時珍しいキビが収穫を待っていました。

 

紅葉の住んでいたとされる内裏屋敷は、向かいの山の山裾の辺りでしょうか、

今回はそんな紅葉にも思いをよせつつ次の訪問先の春日神社へと再び国道までバスで下ります。

春日神社:西京

春日神社は、東京への上り口を白馬の方へ少し行った、西京にありました。 

 神社への道は細そうなので、国道の入口でバスを下りて神社へと向かいます。 

 ここ鬼無里の春日神社の祭神は、春日権現・四神の内の一人、天児屋根命と建御名方命・八坂刀売女命です。

  春日大社は藤原氏の氏神で、平城京の守りとして768年にたてられており、

この神社も三野王が685年に造った三神社の一つだとすると、加茂神社同様最初から春日神社ではなく、

産土神であつた、諏訪神二柱を祀った諏訪神社だったのかもしれません。   

春日神社本殿は、加茂神社と同様拝殿の内陣にありました。

 三間社流造りで江戸末期に造られたものだそうです。 

  市指定文化財にもなつているそうです。 
 
 拝殿は明治
24年に、そして神楽殿は明治12年に建てられたものだそうです。 

午前中の見学はここまで、昼食所の鬼無里の湯へと向かいます。 

  この辺りは、海底が隆起して出来た地層だそうで、裾花疑灰岩のもろい地層だそうです。

国道406号線の西京の法面が4月に崩落したそうで、

今だ通行止め、細い迂回路を通って白馬方面に向かう国道406号線へと出ます。

  奥裾花自然園への道も通行止めで、紅葉時の101日開園をめざして復旧工事が進められているそうです。

 

ちょっといっぷく:鬼無里の湯

今日の昼食は、公共の宿・奥裾花温泉・鬼無里の湯でいただく事になりました。

   奥裾花温泉は単純硫黄冷鉱泉だそうで、古くは柳沢の湯(柳沢峠)として親しまれており、

以前国民宿舎・鬼無里荘だったものか2003年にリニューアルされて鬼無里の湯となつたのだそうです。 

  ビールもそろそろ秋色になって来た様で、紅葉の映える冷えた秋味をいただきます。 

  食事の合間には、かつて湖だった頃の鬼無里の様子を描いた、

会長さんの絵に見入りながら、美味しく昼食をいただきました。  

白髭神社:郷社  

午後は再び鬼無里の村の中心街の方へもどり、最初にこれも三野王が造ったとされる、白髭神社を訪れました。 

 加茂・春日神社は後で改名されたのではと思われますが、

ここ白髭神社は祭神も滋賀の白髭神社と同じく猿田彦命1柱であり、

滋賀の白髭神社の創建は弥生時代だそうで、天武天皇により比良明神の号をたまわったというから、

鬼無里の白髭神社も最初から白髭神社として造られたものと思われます。 

 本殿は室町時代後期のもので、和様の一間社流造の社だそうで、国の重要文化財に指定されているそうです。 

  本殿は拝殿の後方のコンクリートの鞘堂の中で見る事は出来ませんでした。 

 白馬の方もそうでしたが、雪国の鞘堂は密閉されており、中が見える様にはなつていません。

  拝殿もなかなか凝った造りですが、何時頃のものかはわかりません。 

 平維茂が紅葉討伐の祈願をした所であり、木曽義仲が平家追討の祈願をした所でもあるそうです。

 

凌雲山松巌寺:曹洞宗

次に訪れたのは、紅葉伝説に関係のある松巌寺です。 山門は江戸初期のものだそうです。

 これは平安中期の物語で、京の鎮守府将軍・源経基の官女だつた紅葉が、

跡目相続の争いの為か戸隠に流罪になつたそうです。 

 この頃までは、皇朝は多数の部族との間で闘争を繰り返しており、

京にいた部族の落人も多数ここ鬼無里に居たのかも知れません。

  紅葉は医薬・手芸・文芸にすくれ村人には貴女として慕われていたそうです。  

 紅葉の子・経若丸が成長するにつれて、一大勢力となり、

皇朝への反乱軍となるとして、冷泉天皇は金吾将軍・平維茂に討伐を命じたのだそうです。 

 紅葉軍の籠っていた洞窟は、守護仏の地蔵尊が祀られていたそうで、

平維茂は供養のため、ここに鬼立山地蔵院を建て、釜岩紅葉大禅定尼の戒名をあたえたそうです。 

  ここ鬼無里では、飛鳥時代の天武天皇の時にも、反乱軍がおり、阿部比羅夫を派遣して鬼退治を行った事があり、

それ以降は水無瀬村を鬼無里村と改称されたそうです。  

 この辺りは、鬼の集まり安い場所でもあつた様です。 

  平維茂は後に信濃守となり、北向観音の火災後の大改修も行っているそうです。  

 別所温泉には墓・将軍塚もあるそうです。 

  鬼女紅葉祭りは、当初は内裏屋敷跡で行われていたそうですが、

現在はここ松巌寺で10月の第4日曜日に行われているそうです。  

 江戸時代初期になつて、穂高・青原寺の松巌芳祝禅師を開祖として、松巌寺となつたそうです。 

 地蔵院は現在の観音堂の辺りにあったそうです。

格天井に明治の文人画家・児玉果亭の高弟藤原紫僊の花鳥画。

欄間には曹洞宗開祖道元禅師一代記。      本尊・釈迦如来。

昨年11月にあった神城断層地震の時は、鬼無里も震度6弱の揺れだつたそうで、

ここ松巌寺もかなりの被害があつたそうで、今日は修復の終わった仏具の陳列に工事の方も来ておられました。 

  庭の石仏も倒れたものもあつた様ですが、これも今は修復されていました。

 
 
 
 
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