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ちょっといっぷく:ヒカリヤヒガシ

 

今日の昼食は光屋さんで頂く事になりました。 

  光屋さんは、安曇野市光地区の出でここで商家(質屋さんだつたとか)を営んでおり、

食事をした建物は明治20年に建てられた黒漆喰蔵造りの建物で、

店舗兼主屋だそうで、国指定の登録有形文化財になつているそうです。 

  今は松本扉温泉・明神館さんが手がけるレストランとして平成19年から営業されているそうです。 

  東と西が有って、東は和食、西は洋食だとか。 

 ビールで乾杯して、三段重ねのお洒落な丸箱膳をいただきました。  

 午後からは、以前会長さんが諏訪の本田さんのお宅で見た事がある時計コレクションが

時計博物館で見られると言う事で、そちらを訪れる事にします。  

 雨はまだ降ていますが、ブラブラと縄手通りを散策しながら、時計博物館へと向かいます。 

 松本時計博物館は古時計の研究者でもあった諏訪の本田親蔵氏が

昭和49年に松本市に自分の時計のコレクションを寄贈、

市立博物館の代表的コレクションとして展示されていたそうですが、

平成14年に本田コレクションを中心に博物館の分館・時計博物館として開館したものだそうです。

 

しばらく行くと女性群はたい焼き屋を発見、先ほど昼食を済ませたばかりなのにと思いましたが、

どうやらお土産の買い物だとの事でした。  ちょっと行くと四柱神社がありました。

  明治4年の廃仏毀釈で寺が排除された後、明治5年に明治政府の指導で神道の布教機関として

、神道中教院が置かれたのが最初だそうで、後にそこに祀られていた四柱の神を祭神として四柱神社となったそうです。

  社殿は明治の松本大火で焼失、現在の社は大正13年に再建されたものだそうです。

女鳥羽川の千歳橋の近くに大きな蛙の像がありました。  

 ガマ侍だそうで、2005年に東京芸大の学園祭で学生が作った御神輿だそうで、

カエルの街縄手がもらい受けたものだそうです。 

 橋の向こうに、大時計の下がった時計博物館が見えてきます。

 

松本市時計博物館:

博物館では、市役所の博物館担当主事の山下さんが案内して下さいました。 

  この博物館の特徴は時計を出来るだけ動いている状態で展示している事だそうです。 

 時刻は丁度二時になる所で、珍しい時計が時報を知らせる所から見学すると言う事で、

二階の奥の常設展示室へと向かいます。 

  そこには、珍しい海外の時計が展示されていました。 

 到着した時は、二時をちょっと回ってしまったので、

この館の時計のメンテナンスもやつておられる時計技師の武田さんも来て頂いて、

時計が時報を鳴らす所等実際に時計を動かしながら見せて下さいました。

15分ごとに時を知らせる鳩時計・15分にして鳩が顔を出す所を見せて下さいました。 

 理髪店用の柱時計。 シャンデリア型の時計。

エジプト美術置時計・19世紀・フランス。   天文水晶振子両面時計・19世紀・イギリス。

総体振時計・大正・日本/降子回転置時計・19世紀・ドイツ。

両面時計は針が両面に付いていて、右端まで来ると一気に左へ跳ね帰ります。

大きな時計が展示されていました。  

 フランス製だそうで、2m以上あるので、グランドファーザークロックと呼ばれるそうです。 

 ちなみに、180cmはグランドマザークロックだそうです。 

 歌におじいちゃんの古時計とかいうのがあったと思いますが、

それはおじいちゃんが持っていた時計ではなく、グランドファーザークロックの事だったのかな。

250年ほど前のイギリス製グランドファーザークロック。   

こんな古い時計で秒針があるのが特徴だとか。 

 時計に分胴が2個付いているのは、1個は時計を動かすもので、もう一つからくりを動かす為のものだそうです。

本田親蔵氏の銅像当博物館では、300点以上の本田コレクションを中心に600ほどの品を収蔵しているそうで、

そのうち110点ほどの時計を動いている状態で常設展示しているそうです。

銅像の右にあるのはローリングボールクロックで、本田氏が自分で作ったものだそうです。 

 イギリス・ラッセル社製の時計は、陸軍陸地測量部所有の時計で、

戦後は松本に疎開した移転先の波田国民学校に寄贈されたものだそうです。 

 分胴が水銀なので、移動は大変だとか。

この博物館のコレクションにはね時計の他に蓄音器・SPレコードがあるそうで、

今回はコンソールタイプの蓄音器でSPレコードの曲2曲を聞かせて下さいました。

蝋管式蓄音器・19世紀・アメリカ製。  蝋管・割れやすいそうです。

最後は和時計の勉強です。 天符式櫓時計。印籠時計・江戸中期。

  記録上で日本に最初に機械時計が持ち込まれたのは、スペイン宣教師・フランシスコザビエルの献上品だそうですが、

日本では明け六つと暮れ六つを境とした昼と夜を6等分した不定時法の時間だつたので、

これを取り入れた時計が作られたそうで日本独特のものだそうです。 

  不定時法の時計では、昼・夜で時間の差が有り、

それが季節によっても変わるので、調節が必要だつたそうです。 

 棒天符の時計では、最初の天符が1個の場合は、朝と晩と一日に二回分胴の位置を調整していたそうですが、

昼用と夜用の天符を持つ二天符式が出来て、調整は季節変動の調整・15日に1回になったそうです。

 (季節変動の調整は二十四節季に合わせて行ったそうです。)

何れも携帯用の時計だそうで、尺時計は昼用と夜用の文字盤が付いており、

印籠時計の方は昼夜で文字表示が移動出来る様にした、割駒式文字盤が使われたものもあるそうです。

  明治6年からは明治政府は、太陽暦を採用、時間も定時法に移行したそうで、

和時計もそこで役目を終えたのだそうです。  

旧開智学校校舎:重要文化財  

今回最後の訪問先は、旧開智学校校舎です。 

 外からは、何回か眺めた事はありますが、中に入るのは今回が初めてです。 

  開智学校は、明治5年の政府の学制発令を受けて、翌6年に明治4年の廃仏毀釈で廃寺となつた全久院を校舎とし、

第二大学区筑摩県管下第一中学区第一番小学開智学校として開校したそうです。 

 江戸時代からの松本藩校・崇教館の流れもあり開校当初から教員33人、生徒1051人と大規模な学校となつたそうです。

  明治9年には住民の寄付もあって、女鳥羽川沿いに1300人収容の擬洋風造りの大校舎を建てたのだそうです。 

 建てたのは、松本東町の棟梁・立石清重氏だそうで松本藩関係の御用も務めていたとか、

明治5年に東京・横浜の西洋建築を見学に出、古材・洋材をうまく使って学校は建てられているそうです。 

 学校は昭和38年に閉校、39年に現在地に移築復元されたものだそうです。

校舎は現在、博物館の分館の教育資料館として公開されているそうで、指導方法の資料等も展示されていました。 

 開設当時の教科は、読本・算術・習字・英学課だったそうで、英学課は県下ではここだけだったそうです。

明治8年・太政官布告・学制布告文。 筑摩懸開智学校之図。 

開智学校図に描かれているのは、八角塔を持つ校舎ではないので、

開設当初の全久院を校舎としていた時の物の様です。 

 先ほど入って来た、下駄箱のある建物は似た建物が描かれていました。

外観同様、内部もとてもお洒落な造りになっていました。桟唐戸・原田蒼渓が修復。

桟唐戸は8面あるそうですが、最も古いもので、淨林寺から転用された扉だそうです。

明治十三年六月御巡幸松本御通図。     明治天皇休憩の部屋。
不思議なドアー

講堂。 ステンドグラス付きの窓、ガラス戸とお洒落な板戸が付いていました。

不思議なドアーは、小学校時代は、教室と準備室を繋ぐ通路だつたそうで、

移築時に建築当初の姿に階段をもどしたらこうなったのだとか、扉はそのまま残したのだそうです。

   松本城の天守の様子がちょっと思い浮かびます。  

  正面玄関や、校内には幾つもの伝統的な彫刻がありますが、

これらは立川専四郎門下の立川流彫刻師・原田蒼渓氏が古い立川流の彫刻を修復したり、

作ったりしたものだそうです。   思わぬ所で立川流に出会えました。

さらによりみち:旧司祭館・長野県宝

開智学校の向かい側に旧司祭館はありました。 

 博物館の分館にもなつているそうで、ここも見学する事になりました。 

 司祭館は、松本カトリツク教会のクレマン神父が設計した純西洋館で、明治22年に建てられたものだそうです。

  各部屋に暖炉とバルコニーが有る、アーリーアメリカン風の建物だそうです。 

 松本城周辺の街路拡幅を期に取り壊されそうになったそうですが、

平成元年に市に寄贈され平成3年に、ここに移築復元されたものだそうです。

見学を終える頃にはすっかり晴れましたが、冬の日は短くすでに日暮れも近くなっていました。 

 途中買い物ツアーにも寄らず、諏訪へと戻りました。  

 今回は、あまり歩く所は有りませんでしたが、たっぷりと松本を体験出来た一日でした。

   
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