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多宝小塔・国指定重要文化財。  多宝塔は、法華経に出てくる多宝如来の塔だそうです。 

 この塔は1502年・戦国時代初期に高遠の名工・池上左衛門太夫間政清とその一族によるもので、

県内では最古のものだそうです。

  須彌檀の上では、配置はこれで良いのかわかりませんが、

四天王に守られて、釈迦如来が祀られていました。 

 遠照寺の牡丹は今は、160種・2000株ほどになるそうですが、最初は先代住職夫人が、

この須彌檀の牡丹を見て3本植えたのが始まりだそうです。

牡丹の新芽も元気に伸び出していました。

ここには、大奥御年寄・絵島の遺言により歯骨と毛髪が納められた墓と、かんざしが鋳込まれたという釣鐘があります。

  絵島は高遠藩に幽閉の折、八代将軍になり多少自由になってからは、

当寺の日耀上人に帰依し、61歳で亡くなったそうです。

 

寺には、織田軍高遠城攻略の際の遺留品(町宝)があるそうで、

坂上田村麻呂が蝦夷征伐の戦勝のお礼に、諏訪の神宮寺普賢堂に奉納した陣太鼓、

もう一つは鰐口で土岐郡高田郷の高山大神宮御宝前鰐口だそうです。 

 これ等は、織田軍が諏訪から高遠城を攻略の折、当寺を拠点としたなごりだそうです。  

 現在、上の七面堂(市指定文化財)は修復工事中だそうで、天井絵が保管されていました。 

  七面堂も、戦国初期に建立されたそうですが、現存するのは江戸中期に改築されたものだそうです。  

 天井絵は地元・山室の絵師北原清介・画号雪村によるものだそうです。

   
小堀遠州流の鶴亀合掌の庭・町宝。 江戸初期に造られたものだそうで、枯山水の亀島の石組は珍しいとか。
熱田神社:国指定重要文化財

次に向かったのは、溝口にある熱田神社です。 

  前回マリオ倶楽部で訪れたのは、第22回の時で、本殿覆屋の改修が終わったばかりで、

中に入って見学する事が出来ませんでしたが、今回は市の教育委員会の方が案内して下さる事になりました。

   熱田神社は、日本武尊が東夷征伐の帰りに、戸台の赤河原で大蛇を退治し、

溝口の桑の木の下に祠を造り埋めたとする弥生時代の話が発祥の様ですが、

後に日本武尊と関連の深い尾張の熱田神宮から、形影を迎え産土神としたものだそうで、

南北朝時代の歌に出て来るので、その頃にはすでに存在していたそうです。 

 現在の本殿は、江戸中期に溝口の人々の浄財で造られたものだそうです。

鞘堂は本殿とほぼ同じころに造られたそうです。

本殿。

本殿は三つの社殿からなり、中央の扉の上の扁額は熱田大神宮となつているので、

尾張の熱田神宮と同じ形影とすると、草薙剣で左右の相殿は、一つは日本武尊だと言う事だと思われますが、

もうひとつは剣の御霊代とする天照大神でしょうか。 

 尾張熱田神宮は、熱田大神(草薙剣)と相殿には5柱の神が祀られているそうで、

当神社でいう、形影(三方三ツ辻)とはどの神をさすのか、私にはわかりません。 

  屋根の下には、麒麟・獏・龍・唐獅子等の彫刻がされています。

脇障子の寿老人・裏は松竹梅かな。     もう片方は福録寿だとか。

本殿は江戸時代中期に大工棟梁は地元溝口の池上(本姓 高見)善八と

彫り物師は上州の左甚五郎と言われた関口文次郎によって造られたそうです。 

 御用材は境内の御神木の欅を用いたそうで、

その時御神木の中から大蛇の骨が出て来たそうで神木の下に祠を造り祀ったそうで、

後に本殿北側におかみ社として祀ったそうです。 

  床下の唐獅子と唐子、宝珠を持った龍がいるそうです。  

 向拝柱の上の目貫の龍は、文次郎のの作ではなく、40年ほど後に造られたものだそうです。

  平成15年に、彫刻の補色を行ったそうでまだ色は鮮やかです。

おかみ神社。   

最後に、全員で参拝して次の訪問地へ向かいます。
 
 
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