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四脚門(勅使門)・国指定重要文化財。 

口御門を通って、布橋を渡ります。  

 江戸末期に造られたものだそうですが、以前は諏訪湖がこの近くまで来ており、

増水時にも渡れる様に橋を造ったものだそうです。 

 祭典の時には、ここに布を敷いたので布橋と言われるのだそうです。

上社本宮は、織田軍の甲州攻めの際に、織田信忠の軍に焼かれたそうで、

その後徳川家康が、大久保長安に命じて造らせた門だそうで、本宮最古の建物だそうです。 

  門は、勅使や大祝が使う門だそうで、一般入場門はもう少し先になります。 

  四脚門の左奥の柵に囲われた岩は、硯石と呼ばれ、諏訪明神の天降り給う場所でもあるそうです。 

  他にも神の宿る所は六っあるそうで、諏訪七石と呼ばれているそうです。 

 右側の新しくなった宝殿は、西宝殿で2年前の御柱の時に建て替えられ、

左にある東宝殿から神輿ともども遷座したものだそうです。

天之逆鉾。 

四脚門の階段下には神楽殿があります。  

 江戸初期の古図には、神楽殿は拝殿の正面に有ったそうですが、今は宝殿に向かって建っています。  

 神楽殿は江戸末期に造られたもので、市指定文化財。  

 中の大太鼓も殿と同時に奉納されたものだそうです。 

 天流水舎は、どんな晴天の日でも雫が3滴は屋根の穴から降り落ちると言われてるそうで、

屋根中央の丸い筒の様な所が落ちる穴がある所の様です。

天之逆鉾の上に一度で小石を乗せる事が出来ると大吉だとか。 

  先生によると、出征した父親の無事を祈って石を投げたそうです。  

この下に、諏訪七石のもう一つ御沓石がなります。 

 七石とは、前回上社を訪れた時(6)に行った、小袋石、他に御座石、児玉石、蛙石、亀石があるそうです。 

重門は通行止め、奥の社務所近くの入口から中に入ります。  

 堀重門は江戸時代は境内もこのあたりまでで、ここが一般の入口だつた所の様です。

拝所。   境内が広くなつてからは、一般参拝者が入れるのはここまで、ここで一同お参りします。

勅願殿(天皇の祈祷所)。 :元禄三年の建物、屋根等改修された。

神饌所。
   
   

本宮幣拝殿は、江戸末期になつて諏訪藩主の命により再建されたもので、

旧殿は桃山時代のもので、富士見町乙事の諏訪神社へ移築されました。 

 本殿の無い諏訪造りの建物で、向きは江戸初期の古図をみても御神体の守屋山の方角ではなく

前宮の方を背にしているとかで、山を背負っているのは祈願殿・東西宝殿だけの様です。

  建築は二代目・立川和四郎富昌の作だそうです。 

 弊殿・拝殿・左右片拝殿・脇片拝殿が国の重要文化財になっているそうです。 

 今日の本題はここの彫刻ですが、離れていてカメラでのぞきながらの鑑賞です。

   
左右の拝殿に置かれた大黒様。

大黒様は、それぞれ作者は違う様です。宝物殿を守る鷹。

高島神社。 江戸初期の高島藩中興の藩主三代を祀っているとか。
波除け鳥居・一の鳥居。

波除け鳥居は本宮唯一の木造鳥居。  このあたりまで諏訪湖だつたとか。

鳥居を出ると西街道へぬけます。
大国主命社:  

本宮境内にも大国主命社はありましたが、一の鳥居を出たちょっと先にひっそりと神社はありました。

  近くにある萱の木・雌・市天然記念物は樹齢380年ほどだそうで、神社もかなり古くから有ったものと思われます。

社の脇の三山権現。 このあたりにも出羽信仰が有った様です。 

 入口の庚申塔の前で、御柱年の話を聞きます。

諏訪大社上社神宮寺跡:市文化財  

再度本宮に戻り、二之鳥居を出ます。 

 鳥居の前の御手洗川の所で、先生に元旦に行われる蛙狩神事の話・蛙にまつわる裏話もしていただきました。 

 少し昇って、法華寺を過ぎると墨繩神社・大工の神様だそうです。

五本杉。

 五本杉は樹齢380年以上だとか。  1本は落雷によって無くなったそうです。

  この辺りは、上社の本地仏・普賢菩薩を祀った普賢堂が有った場所だそうで、

弘法大師が建てたものを鎌倉時代に下伊那郡神之峯城主・知久敦幸が

東大寺の工匠・藤原肥前守を招いて再建した御堂があったそうです。  

織田軍の焼打からは免れたたものの、明治になって廃仏毀釈の時に取り壊されてしまったそうですが、

壊したものは自由に持ち帰って良いということで、各寺に移されたものが色々と残っているそうです。

   本尊の普賢菩薩は山門等とともに四賀の仏法紹隆寺に移されたそうです。 

 先生にお宝の説明をしていただいている場所にある六角の石は、銅灯篭の礎石だそうです。

  灯篭は後に盗難にあい行方不明だそうです。    

前の坂には、土留めをされた階段が続いていますが、

ここは下の神宮寺大坊の下り仁王門から上り仁王門へと続く階段が有った所だそうです。

   手前の五重塔跡へと戻ってくる途中に、神力手石というのがありました。  

 弘法様の手つき石とも言われるそうで、石に手形の様な跡が付いているそうです。

五重塔跡。   ここ神宮寺には、知久敦信の寄進した五重塔があったそうで、

ここも明治の廃仏希釈のおりに取り壊されてしまったそうで、長野県内では五重塔があったのはここだけだとか、

今残っていれば素晴らしい事だと先生も残念がっておられました。 

五重塔の本尊・五智如来像は四駕の万福寺に移されたそうです。

鵞峰山法華寺:臨済宗妙心寺派 

今回は、途中にある法華寺にもよってみました。  

前回のマリオ倶楽部・6回の時は、平成11年の放火による復興途中で見学しませんでしたが、

今回は綺麗に復興して居り中を見学させていただきました。 

 法華寺は当初は天台宗のお寺だったそうですが、鎌倉時代に領主・盛重が建長寺蘭渓道隆を招いて禅宗に改めたそうで、

神宮寺の一坊にもなつていたそうです。 

 織田軍の甲州攻めの時の本陣としてここでは論功行賞も行われ、

後の本能寺の変にもつながったとされる明智光秀愚弄事件もあったとか。 

明治になつて神宮寺も無くなりも大正15年までは、神宮寺学校校舎としても使われていたそうです。

 ここには、赤穂浪士討ち入り後、諏訪に流され21歳で死亡した吉良義周の御墓もありました。
   
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