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日高照山兎川霊瑞寺:真言宗智山派
 

民芸館を出て、さらに美ヶ原から流れる薄川の流れに近づいたあたりに、兎川寺はありました。

  開山は、聖徳太子だと言われているから、随分と古いお寺です。  

代々、松本藩主に披護されており、中世には、天台宗、真言宗合わせて24坊を持つ寺として栄えたそうですが、

南北朝の騒乱で天台僧達が死去、真言宗の寺となつたそうです。 

  高句麗王族・卦晏真老にまつわる須々岐水神社の別当でもあつたそうです。

大屋根の兎はちょっと強面。     

寺紋は、ここが小笠原氏の祈願所でもあったそうで、小笠原氏の三階菱に兎のマークが入ったものでした。

小笠原氏の祈願所でもあつた寺は、武田信玄との戦のおりに焼かれてしまつたそうです。
  
現在の本堂は、江戸後期に大隅流・藤森廣八包近(乙事諏訪神社も造った)の建造によるものだそうです。

御本尊は、平安時代の千手観音・県宝だそうですが、今は代わりの千手観音様がお堂を守っておられました。

三河の旗頭・家康の最古の家臣でもあり、豊臣方に移り、松本藩主となった石川数正公夫妻の供養塔もありました。

  松本城の整備と同時にこの寺の修復もやったのかな。

 
   

兎川寺のすぐ前に、旧山辺学校校舎・県宝がありました。 

  兎川寺は、明治の廃仏毀釈のおりに廃寺となり、本堂は、明治6年に兎川学校として発足し、

明治18年にこの校舎が完成し、山辺学校となったそうです。 

 校舎は開智学校と同じ、地元の棟梁・佐々木喜重によって建てられたそうで、

開智学校はガラス張りの豪華なギャマン学校に対し、こちらは障子貼りの質素な造りになっているそうです。

昼食は、蔵の町・中町商店街へ戻って、竹風堂さんで栗おこわをいただきました。 

 食後のデザートは、栗あんみつか栗しるこ。  

 食事の後は、このあたりでお土産の買い出しか、自由散策となりました。

蔵の町:中町商店街  
   

中町は、善光寺街道に面した町でしたが、江戸・明治に大火にあつた為、

商人達はなまこ壁の土蔵造りの家を造ったそうです。 

 又ここは、民芸・工芸の町として職人達の町にもなつているそうです。

そんな蔵造りの街並みに、民芸館の創始者・丸山氏がオーナーをしていた民芸店・ちぎり屋さんもありました。

蔵シック館・大禮酒造の母屋・明治21年建築を移築して、資料館としたものだそうです。

鉢伏窯:高野栄太郎氏工房  
   

最後の訪問地は、横山先生のお知り合いの陶芸家・高野氏の工房・鉢伏窯です。 

 工房は、山麓線を牛伏寺の方へ上り、右手の山の方へ上った丘の上にありました。 

お忙しい所わざわざお迎えいただいて、さつそく窯場から案内して下さいました。

窯は2基あって、その一っが穴窯。 

 斜面に出来たトンネルの様な窯で、2000点ぐらいの作品を一杯につめて赤松の薪を2000足ぐらい、

56人の助っ人と共に1週間ぐらいかけて焼くのだそうです。 

 幸い、赤松の原木が近くにあるのでやっておれるが、

薪作りでチェンソウの使い方がうまくなったと笑っておられました。

もう一基の窯は、登り窯で斜面に階段状に3室から出来ている窯だそうで、

これは4年ほど前に出来た2号目の窯だそうです。 

  こちらは、800点ほど入り、34日で焼きあがるそうです。 

 窯の後は、工房を見せていただきました。  

素敵な玄関を入って、展示室に案内していただきました。

展示室では、暖かい御茶を御馳走になりながら、作品について説明をしていただきました。

釉薬をかけたものは、登り窯で。 自然釉の作品は、穴窯で焼くのだそうです。

この黒い茶碗は、引き出し黒盃は、途中で窯から出して焼入れの様に水に入れるのだそうです。

  土もそれ用に藻草土を使うのだとか。  

 皆さんがお茶を御馳走になった茶碗の中に、幾つか左馬の茶碗がありました。  

 これは、2号目の登り窯を造った時の初窯の作品だそうで、左馬は、初窯の成功を願って焼くものだそうです。

   陶芸家としても、初窯はそう何回もある訳ではなく、高野さんも3回目だとか。 

貴重品を見つけて、さっそく皆さんおねだりしてお買い上げ。  

 あちこちで皆さん、手元においてめでる事の出来る、お気に入りの一品を探して、

御土産として調達しておられた様でした。

帰る頃には、北アルプスの山並みもすっきりと顔をだしていました。  

 今日も一日たっぷりと、美しきものにふれられた日でした。  

 最後に、マリオさんに戻って、会員の方達が作られた、吊るし雛を眺め春の訪れの近いのを感じながら、

今回の旅わ終える事が出来ました。

 

   
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