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遂に経蔵の扉が開きました。 

 諏訪の地で経蔵があるのは、ここと温泉寺さんだそうです。 

 この経蔵は火災をまぬがれており、江戸・文政9年のものだそうです。

この寺は江戸時代は、僧侶の学問所でもあったそうで、関東18談林の一つでもあったそうです。 

 当時の本も残っているそうです。

次に本堂に上げていただき中を見せていただきました。

陣欄間の上の百体観音。   乗りきらないのは経蔵にありました。

ご本尊は阿弥陀如来。  脇侍には、右に勢至菩薩、左が観音菩薩。

内陣の欄間には、立派な細工がされていました。  

幕末になって、天保の火災で本堂も焼け、弘化になって再建されたそうで、

その時の立川流四代目・和四郎冨惇の作だそうです。 

 立川流の本流の和四郎は、この四代目で絶えてしまったそうです。

正面中央の竜。

左側の、粟穂と鶉。

最後に経蔵の前で記念撮影。

撮影後に庫裏でお茶をご馳走になる事になりました。

牡丹の襖の向こうは、上段の間になっていて殿様が来られた時の部屋として使われたそうです。

  廊下は杉戸で仕切られ、上は竹の節欄間になっていました。  

 ここらは、飯田の小笠原家を見学したのと同じ様な造りになっていました。

 
本堂と庫裏をつなぐ橋。

経念寺は、住職がお亡くなりになって今は、同じ知恩院の末寺である貞松院の御住職が

兼務で管理しておられるとかで、以前お世話になった貞松院の山田住職が挨拶に来てくださり、

教念寺の説明をして下さいました。 

 教誉浄念という念仏者が村人の信仰を集めお堂を造り、名前から取って教念寺としたのが最初だそうで、

後の戦国時代の元亀2年に一袋上人により開山されたものだそうです。

  又現在の地に移ったのは、高島城築城にともなって移動したのだそうです。  

 このお寺には、国の重要文化財の絹本着色羅漢像、市の文化財でもある紙本着色当曼荼羅図

という大きな曼荼羅もあるそうですが、これも718日のご開帳の時に見る事が出来るとか。 

  飾る時間もあるので、夕方の方が良いそうです。

立川家:立川義明氏住宅
八劒神社の近くに、立川氏の住宅があるという事でよってみました。
八劔神社:
次に向かったのは、八劔神社です。   

   中間にある社務所の前から境内に入ります。

正面に廻ると、社務所から突き出る様な建物があります。  

 神楽殿だそうで、天正の頃武田信玄の寄進によるものだとか、蛙股には武田菱も見られました。

蛙股の紋は他に諏訪梶、諏訪家の鶴丸、五三の桐等がありました。 

 御社殿は社務所の奥にありました。 

 神社は八千矛神(大国主命)を主神に日本武尊・誉田別尊を配神とする、

小和田の氏神で、海上守護神、温泉開始の祖神とされていたそうです。  

ここも教念寺同様、高島城築城のさいに現在の地に遷され居城鎮護の神とされてきたのだそうです。

拝殿は八棟造りで江戸末期に造られたものだそうで、彫刻は立川流三代冨重の弟の専四郎冨種の作だそうです。

  専四郎は、立川流三四郎(和四郎冨昌・専四郎冨種・音四郎種清)と言われた彫刻の名人だそうで、

建物はあまり造っていないそうで、この建物を建てたのも専四郎ではなく、冨重の方ではないかとのことでした。

彫刻は金網でちょっと見ずらいですが、見事なものでした。

 
   
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