西暦1603年(慶長8年)江戸幕府開かれる。
――江戸時代における箔類の製造販売の特徴は、幕府の厳重な統制下
におかれたことである。幕府の統制は、全国の主要鉱山を直轄経営し、
地金を完全におさえていたので、比較的容易に実行された。
統制の目的は、箔の使途が主として織物、屏風、仏壇、仏具、飾り
金物、漆器、陶器、水引などの工芸品ないしは奢侈品であるため、金、
銀の消耗を防ぎ、奢侈を矯正し、さらに運上の取立てなどが眼目であ
った。
西暦1667年(寛文7年)、幕府による貨幣鋳造禁止令
――貨幣鋳造権を幕府が独占するだけでなく、貨幣
の材料である金銀銅の地金を、幕府の集中的管理
統制下におくことを意味した。
西暦1,674年、『静庵随筆』黒川道祐、
――銀箔の錆止め方法、大根の絞り汁を引く。
西暦1,691年、『本朝画史』狩野永納、
――箔押しの技術に関する記述。
「ふのり」に膠をくわえる。
西暦1696年(元禄9年)、箔座の設置
――幕府の製箔管理機関として箔座が設置された。
江戸に本座、大阪に出張所がおかれた。
箔屋に免許を与える機関であり、自ら打立ては
行わなかった。
「箔打申候者共、箔出来候はば、不残箔座へ致
持参、御運上差出の上、箔座極印(ごくいん)を
取、売買可仕事」とあるように、箔屋が打立てた
箔類の販売のさいはもちろん、上澄屋から上澄を
買取る場合も、上澄屋が下金屋から下金を買取る
場合にも、一々箔座の封印あるものを買取ること
を要し、かつ一定の運上(箔運上と称された税金)
を納入すべき義務があった。
江戸文化の爛熟期にあたって旺盛な金銀箔の需
要を示すもの。
金沢の製箔も表面上製造を中絶したが、製造箔
技術の命脈が絶えるほどの絶対的なものではなく、
なんらかの名目をもって内々少量の製造が続けら
れた、と考えられる。
西暦1,712年、『和漢三才図会』
――箔の品名、
「極上を大焼貫、次を中焼貫、次を仏師(およそ10分の1半
の銀が加えられている)、次が江戸色、次が青箔(3分の1銀
が混ぜてあり、色が青い)」これは金の純度の順で、ほぼ現在
の箔の基準と似ている。
箔の寸法は、時代とともに大きくなり、
2寸半(2.5寸X 3.03cm= 7.575cm)
2寸8分(8.484cm)
3寸3分(9.999cm)
大正時代には、
1尺角(1尺とは10/33m、30.3cm)
まで出来たが、現在は
3寸6分(10.9cm)
4寸2分(12.7cm)
が主流で、一部
7寸箔(21.2cm)
もある。
画像:
伝統的工芸材料
『金沢箔』
石川県箔商工業協同組合
出版年度不明
より借用。
ちなみに
東照宮の造営。正保三年(1646)
資 料 ( 2 )
画像:
いづれも
伝統的工芸材料
『金沢箔』
石川県箔商工業協同組合
出版年度不明
より借用。
西暦1,212年頃、『宇治拾遺物語』、
――京都の箔打が大和国金峰山の金18両を持ち
帰って、箔7,8千枚を打ったという記事がある。
一両で400枚の勘定。1両は10匁強であるか
ら、その当時の箔は1匁で40枚、1枚0.09gで
あり、現在の0.02gと比べると5倍あまりの厚
さだった。
――「いまはむかし七条にはくうちあり、みた
けまうでしけり」。昔から「箔打」の称号が
使われていた。
西暦1,279年、『沙石集』
――「仏師を呼びて金箔をおさするに」
画像:
山越阿弥陀図(全図)<京都国立博物館蔵>
絹本著色
120.6×80.3cm
鎌倉時代(13世紀)
国宝
(極楽浄土へ連れていってくださる
阿弥陀如来は常に身金色である。
浄土信仰は現在も続いている。)
http://www.kyohaku.go.jp/meihin/kaiga/butuga/mh4201j.htm
を引用した。)
西暦1,397年、金閣寺
――足利義満が創建。柱、壁、勾欄などに金箔を貼った。
西暦1,417年、東大寺大仏
――足利義持が東大寺大仏を金箔で化粧した。
使用した金箔は相国寺で打たせた。