山門伝道掲示板 令和6年1月1日~  トップページへ

     
 12/15  「道の為に頭を聚(あつ)む。衣食の為にする事なかれ」
自分は何の為に生きているのか。年の暮れに考えてみる。

 「光陰矢の如し」年の瀬にあって、年を歴る毎に月日がどんどん速く過ぎ去っているという実感があります。皆様も年末にあってこの一年をふり返っておられるのではないでしょうか。
 一年を人生に例えてみると、年の瀬は人生の最晩年であります。この期に及んで「こんなはずではなかった」と悔いのないようにしたいものです。その為には「自分は何の為に生きているのか」がはっきりしていていなければなりません。これが曖昧な状態のままでありますと、日々を徒らに送ることに繋がります。
 私たちは誰しも日々の生活に追われ、自分自身を見つめ直す時間をなかなか持てません。ただ、これは時間がないから持てないのではありません。本当に自分を見つめる必要性を感じている人は時間をなんとか作り出されると思います。当山の坐禅会の皆様は一様に多忙な方とお見受け致します。世間のことで忙しく飛び回っていますと、自分自身を見失いがちになります。忙しいは心を亡くすと書きますが、自分の本来の心を見失いそうになるという自覚を持たれるが故に、貴重な早朝の時間を捻り出して坐禅に来られるのだと思います。
 今回の言葉は「興禅大燈国師遺誡」の冒頭部分であります。大燈国師(宗峰妙超)は鎌倉時代末期の臨済宗大徳寺のご開山であります。また弟子には大本山妙心寺を開かれた関山慧玄禅師がおられます。以前、大燈国師は師匠である大應国師(南浦紹明)にこの「雲門の関」を与えられ、三年間刻苦された後、忽然としてこの関字を体解したときの投機の偈をご紹介しました。
「一回雲関を透得し了って、南北東西活路を通ず。夕処朝遊賓主没し、脚頭脚底 清風を起こす」
 その大燈国師の晩年遺言であり、弟子達に対しての戒めの言葉「遺誡」を残しています。
汝等諸人此の山中に来つて道の為に頭を聚む。
衣食の為にする事なかれ、
肩有つて着ずと云ふ事なく、
口有つて食はずと云ふこと無し。
只須らく十二時中無理會の處に向つて、
究め来り究め去るべし、
光陰箭の如し、謹んで雑用心すること莫れ、
看取せよ看取せよ。(以下略)

 私たち僧侶(仏弟子)が頭を剃っているのは、本来儀礼のためだけではありません。もちろんご葬儀やご法事などのセレモニーは人生の中で大切な節目であります。そのような節目に関係者が集まって今までの慣例に従って、きちんと儀式をお勤めすることで心の整理が付いていきます。ですから、一ヶ寺の住職として法の如くしっかりとお勤めするように心掛けております。頭髪も浄髪といって、前日または当日の朝に頭を剃るなどして身だしなみを整え、正装をして失礼の無いように心掛けております。
 仏弟子が頭を剃るのは
「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」
断ちがたき世間の執着を断ち、仏道修行に専心していくことで真の報恩行を行うためであります。
 要するに道の成就ために執着の象徴たる頭髪を剃っているのです。
道元禅師は「閑(いたず)らに 過ごす月日は多けれど 道をもとむる 時ぞすくなき」とお詠みになっておりますが、本来の自分の進むべき道をはっきり見極めることこそ仏家の一大事であるのです。そのためにはいたずらに無駄に時間を過ごすことは慎まなくてはなりません。何としても無理会のところ、生まれてきた原点、本来の面目を自覚する必要があるのです。

最後に大燈国師は次のように締めくくっています。
専一に己事を究明する底は、老僧と日々相見 報恩底の人なり、
誰か敢て軽忽せんや。
勉旃。勉旃。

訳:ひたすらに本当の自分の道を追求し、明らかにするものは、私(仏祖方)と毎日同じ見方ができ、それこそ真の報恩者であります。このようなものこそ本当に道を得た人であり、誰からも尊敬されるものである。さあ励めよ、さあ励みなさい。

年末にあたって自分自身の人生について見つめる時間。坐禅に参じてみては如何でしょうか。
 12/1
 從門入者不是家珍「門から入るものはこれ家珍にあらず」
苦心して吸収したものこそ人生の宝

  出典は前回の無門関の序でも紹介しました。この言葉は他にも、無門慧開禅師より更に遡ることおよそ百年程前の禅の公案集「碧巌録」第五則にも出てきます。中国唐代末の禅僧の言葉でありますので、無門禅師の宋代にかけて使われていた禅の常套句であったかと思われます。
 無門関では「仏語心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且らく作麼生か透らん。豈に道うことを見ずや、「門より入る者は是れ家珍にあらず、縁によりて得る者は始終成壊す」と。」あります。
 無門関では名の由来である何処にも門が無い世界に目覚めよ(何処にでも仏道がある)。という門という入り口を設定して、外の世界(門)から入ってきたものは宝物ではないし、縁故によって得たものはいつかは壊れていく儚いものであるとしています。外の世界や縁に依らなくても、自分自身が生きている今此処が既に仏道の門の真っ只中ではないのかと迫ってきます。外に門はない、自分自身の中にあるもの気付きなさいと。

 また、碧巌録第五則では圜悟克勤禅師は唐代の巌頭全奯禅師が弟弟子の雪峰義存禅師を悟らせた言葉として載せています。
「你知らずや『門より入る者は是れ家珍にあらず。』といえるを。須是く自己の胸中より流出し、天を蓋い地を蓋って、方めて少分の相応有るべし。」
 雪峰禅師が同じ師匠である「徳山の棒」で有名な徳山宣鑑禅師にかつて三十棒を叩かれてはじめて桶の底が抜けたと話します。するとすかさず、巌頭禅師が「外から入ってきたもの(叩かれたという外からの刺激)は宝物ではない。本当の宝は湧水の如く自分の胸の奥に湛えられている。その湧水に気付き、自らを潤すだけでなく、天地一杯に活用していってこそ、やっと少しは本当の自分が見えてきたというものだ。」と応えました。雪峰禅師はその兄弟子の言葉を聞いて、師匠である徳山の棒の真意が自己に眠っていた本当の宝の倉が開くためのものであったと気付いたという説話が載っています。
 雪峰禅師はこの問答に至るまで、大変な苦労して三度投子山、九度洞山に修行し、それも常に飯炊きの漆桶と杓子をもって行く先々で典座になって陰徳を積まれたという修行の鬼のようなお方です。ただ叩かれたから気がついたのではありません。それまでの修行の積み重ねとご苦労があってこそ、全身を持って師匠の真意を覚ったであります。

 十二月一日。今日から一週間は臘八接心です。お釈迦様がただ身体を痛めつける苦行を止めて、乳粥を供養され体力を回復して、坐禅にひたすら打ち込まれました。そして一週間後の十二月八日の暁の明星を見て悟りを開かれたという故事によるものです。苦行自体には悟りを開く直接的な機縁は無かったかもしれませんが、その苦行に耐え抜いたことで、一週間の坐禅三昧に耐えうる精神力を養ったかもしれません。その意味でいえば、間接的に苦行にも意義があったのかもしれません。

「苦心して吸収したものこそ人生の宝物。」
 石霜楚圓禅師(慈明禅師)は禅関策進の中で「古人刻苦、光明必ず盛大なり」という言葉を遺し、江戸時代の名僧白隠禅師に大きな影響を与えました。慈明禅師は当寺の中国の大変寒さの厳しい山中の寺で、多くの僧が夜の坐禅を休んでいても、ひとり夜通し坐禅していたそうです。眠気に襲われるとこの言葉を唱え、股を錐で刺して坐ったというのです。
「先人達は苦しみに対して忍耐に忍耐を重ねて坐禅した。この労苦があってこそ、心の宝蔵が開くことにつながった。そして、その中にある宝の光明はとてもたとえられないほど盛大な輝きであった。」

 瑞雲寺でも十二月一日~七日まで朝六時、夕七時から集中坐禅会(朝四時は住職ひとりで坐っています)を行います。全国の修行道場には遠く及びませんが、先人達の苦心に少しでも近づきたいと思います。
 11/15  「大道無門 千差有路」
本当の自分を発揮する道場は至るところにある。

  今回は無門関の自序の偈から紹介します。無門関は中国南宋時代の無門慧開禅師(1183年-1260年)によって編まれた四十八則の禅書・公案集であります。無門関には序が二つあり一つは習庵という官僚によって、もう一つは無門自らが記したものです。
 その冒頭には「仏語心を宗と為し、無門を法門と為す。既に是れ無門、且らく作麼生か透らん。豈に道うことを見ずや。門より入る者は、是れ家珍にあらず。縁に従りて得る者は始終成壊す。」とあります。
禅学大辞典によると「仏語心」は馬祖道一禅師の言葉で仏の語られた心であり、仏心、一心、妙心とあります。仏教・禅の真髄・大本・根本とは何かといえば、仏心、本来の心がはっきりと自覚すること。本来の心には門という入り口や境界があろうはずがありません。ここから先が仏道で、この門以外は仏道ではないということではありません。
「既に是れ無門、且らく作麼生か透らん」門はもともとないのだから、通る、通らないはありません。
「門より入る者は、是れ家珍にあらず」しかし、この本来の心は教えられて理解できるものではありません。知識や他者、外から入るものは宝物ではない家の外から運んで来たものは、その家の家宝となることはありません。自分の中にある本来の風光、本来の面目こそ唯一無二の宝物であるのです。
「縁に従りて得る者は始終成壊す」また、様々な縁によって収得したように見えるものであっても、結局別の縁がはたらいて壊れて失われていくことを繰り返していくのが定めであります。
 結局、自分自身の宝物は自分自身で見つけるほかにありません。そして、その宝物を実際に使っていく道は、特に限定された門があるわけではありません。逆に言えば至るところに入り口があるというのです。ただし入り口は何処にでもあるといっても宝物に気がついていなければ、本当の自分自身を十分発揮できません。誰でも既に最尊最上の幸せという宝物を持ってこの世に生まれてきました。その宝物を活かすか否かですが、それ以前にその宝物に気がついていなければ発揮しようがありません。事前準備としてその宝物をまず発見することです。これを関といいます。関門です。門が無い世界・大道を自覚するための関門・関所です。
序にはこのようにも示されています。
「衲子の請益に因んで、遂に古人の公案をもって門を敲く瓦子と作し、機に随って学者を引導す」
この無門関は熱心に求道して修行するもの達のために古人様々な公案を取り上げて、関所の門をたたいてくる熱心な修行者の瓦として、その修行者の力量に応じて導いていく指針としたいとしてこの無門関を編纂されたとあります。

そして、この自序の最後に頌で締めくくっています。
「大道無門、千差路有り。 此の関を透得せば、乾坤に独歩せん」
本来の生き方(宝物)・道には門などという入り口はない。至るところ本来の生き方を発揮できる道ばかりではないか。
もしも、この無門ということに目覚めるための関門を通り抜け、会得したならば、誰に頼ることなく、他人の言葉や考え方を鵜呑みにして振り回されることなく、自立して自由自在に歩き回れるぞ。そのためにこれから四十八則の先人達の逸話や禅問答からその境涯を参考にして参禅してみよ。必ずや祖師方と肩を並べて、同じ眼で物事を見ることが出来るぞ。と私たちに奮起を促しているように思います。

 11/1
 「尽大地是薬」
真実に目覚める薬は何処にでもある。

 碧巌録の第八十七則「雲門薬病相治す」に出てくる言葉です。碧巌録、そしてこの公案の雲門文偃(うんもんぶんえん)禅師につきましては前回の「体露金風」に説明がありますのでご覧下さい。
【本則】
「挙す。雲門、衆に示して云く、「薬病相治す。尽大地是れ薬。那箇か是れ自己」
私訳:雲門禅師が、修行僧たちに次のように示した「薬はもちろん病でさえも治療になる。薬が病を治すのは当然であるが、病が薬となって本当の病を治すことも知っているか。どんなことでも本当の自分に目覚める薬となり得るのだ。どうだ本当の自分が如何なるものかわかるか」

 身体や心の不調や病気は誰もが通る道であり、年を経るごとに関心が高くなってくるものであります。当然ながら病気になればお医者さんに看てもらい薬をもらって身体を治します。しかし、世の中には薬を服用だけでは治らない病気も沢山あるのです。発病の機構が明らかでなく、かつ、治療方法が確立していない国の指定難病などもあります。また、病名はつかなくても身体のだるさや不調も薬で快癒することもなかなかありません。ですので病気を治すことはやっかいなものであります。
 ただ、病気と向き合い治療をする過程で、自分自身の生き方を見つめざるを得ない状況になり、苦しい状況が時として心を開いていくきっかけになることもあります。日蓮聖人は「病によりて道心はをこり候ふか」と病に苦しんでいる夫を持つ信者さんを励まされました。人間は幸せすぎるとなかなか心の眼を開くことはできません。苦しみによって、本当の生き方に目覚める道心が発動してくることを示された言葉であります。
 ですから病も時に自らの素晴らしい心に目覚めていく良薬になるといえます。もちろん病だけではありません。「尽大地是れ薬」何処にでもどんな状況であっても受け止め方次第で良薬となり得ると言っているのです。自分自身を見つめる、見直すきっかけとなる薬は何処にでもあるのです。
 「那箇か是れ自己」ただし、通常、病や苦しい状況はとても受け入れられるものではありません。どのように受け止めていくかは自分自身であります。薬として前向きに受け止めていくのは容易ではありません。ただし、自分自身の受け止め方次第では、誰でも、どんな状況でも目覚める薬にすることは可能であるという雲門禅師の激励の言葉と受け止めたいと思います。
 この則の圜悟克勤禅師が評唱に次のような話が出てきます。文殊菩薩が、ある日善財童子に「薬でないものを取って来なさい」と命じました。しかし、薬にならないものはないことに気がつき、文殊菩薩に報告しました。すると今度は「薬になるものを取って来なさい」と命じました。すると、善財童子は、一枝の草を取って文殊菩薩に手渡しました。すると文殊菩薩は、その草をみんなに見せながら、「この薬はよく人を殺し、よく人を活かす」と言われました。
 「尽大地是れ薬」といっても、使いようによっては、薬にも毒にもなるということです。もし困難を苦にして自暴自棄になってしまえば、さらに状況が悪くなることもあります。しかし、どんな状況であってもそこには必ず救いが隠されている。自分自身、世の中が良くなるきっかけが隠されていると信じてみる。そう思えなくても「尽大地是れ薬」を信じて希望を捨てず、前向きに一歩一歩進んでみよと聞こえてくるのであります。
 最後に雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)禅師の頌を紹介します
尽大地是れ薬、古今何ぞ太だ錯れる。
門を閉じて車を造らず、通途自ずから寥廓たり。
錯、錯。鼻孔遼天たるも亦た穿却たれたり。

すべてが薬だというと、今も昔もその言葉を鵜呑みにしてあやまった理解をするものが多いから注意せよ。
車(本当の自分)は門の外で幅を測るような作為がなくても、それを道に引っ張ってくれば自由自在に動くことがで出来るではないか。
いやいや、口が滑った、余計なことを言いすぎた。本当の薬というものを手に入れた(本来の自分を悟った)と鼻高々でいたら、鼻に手綱が通されるぞ。その薬(本来の自分)をどう生かしていくか。そこからが本当の修行のはじまりなのだから。

全てのことが薬だと気づいたら、そこからが本当の修行がはじまることを付け加えています。人生修行の厳しさを示していると言えましょう。

 10/15   「体露金風」
最期の最後まで天地の風に生かされている。
   今年の夏は過去最も暑い夏となりました。標高九百㍍の当地でも連日三十度を超え、身体に堪えました。そして、季節は移り変わり、色づいた木の葉を駆け抜ける涼しい秋風が体も心も癒やしてくれるようになりました。この秋風のことを俳句の季語で金風といいます。これは古代中国で自然界に存在するすべてのものを五つの性質「五行」に分け、その関係性を考えてきました。 その分類の基準となるのが「木、火、土、金、水」になり、秋はこの「金」の季節にあたるので秋風を別名「金風」といいます。
 この「体露金風」は碧巌録の第二十七則にある話です。
碧巌録は宋代の禅僧で雲門宗四世中興の祖といわれた雪竇重顕禅師が、唐代の禅者の古則の中から百則の問答を選んで、それぞれに頌という古則を褒め讃える詩をつけたものに、約百年後に圜悟克勤禅師が序文となる垂示と、著語という短評と、評唱という総評を加えたものです。
では二十七則の本則を見ていきましょう。
「僧、雲門に問う、樹凋み葉落つる時如何」。雲門云く「体露金風」
ある修行僧が禅宗五家のひとつ雲門宗の開祖である雲門文偃禅師(864-949)に。樹木が枯れて枝葉も落ちた時、どういった心境でしょうか。即座に雲門禅師は「体露金風」と応じました。

 樹凋み葉落つる時とはまさしく初冬の風景であります。その風景に修行が一通り済んで、悟りも得終わった境界、迷いも悟りもすっかり捨て去った雲門禅師の心境を問うています。これはこの初冬の景色を借りてきて問うことから「借事問」といいます。さらに、この修行僧は自分の仏道修行についての方向性などを聞こうというのではなく、師匠の力量を試して見るような問い方をしています。これを「検主問」といい、同時に自分の見所を相手に呈する「呈解問」も含まれています。ですから、この修行僧はただ者ではなく、相当に修行を積んで、迷いも悟りもすっかり捨てきった「樹凋み葉落つる時」をすでに体解している上での問答であります。
 そこで雲門禅師は「体露金風」と応えました。露は「つゆ」ではなく動詞の「あらわになる」であり、体はそのまま身体・全身・素っ裸であります。ですから「秋風に身体全身素っ裸で吹かれている」と提示されたのです。
 先月諏訪中央病院で268回続いている「ほろ酔い勉強会」に行ってきました。題名は「幸せな最期を迎えるために」で、臨済宗円覚寺派管長の横田南嶺老師と漢方医の桜井竜生先生のお二人が講師でありました。桜井先生が多くの方の最期を医師として見てこられた中で、エビデンスがあるわけではないとの前置きがあるなかで、死期が近づくにつれて人間が関心がなくなっていくには次のような順番があるように思えるとして「趣味→お金→異性→食事→家族」の順としていました。ただ、人間最後の最後まで残るものがあり、それは「自然とのふれあい」だといっておられました。よく患者さんから「窓を開けてくれ」や「星が見たい」といわれることがあるそうです。そして、窓を開けて風を肌で感じるとホッとされるのだそうです。その話をきいてこの体露金風そのものだと思いハッとさせられました。
 毎朝坐禅と朝課を済ませた後に散歩に出かけるのが日課でありますが、日々自然の風を肌で感じる悦びがあります。暑いとき、寒いときそれぞれに趣があります。そして、自然と接することで自分自身の原点に帰れるような気がします。確かに、いつかはこの身体もこの風に帰って行くのです。仏教で死のことを四大分離といいます。 私たちの身体は地・水・火・風という四つの要素でできていて、たまたま条件が調い「縁」によって集合してこの世に生まれてきました。そして、「死」によってこの四大分離して自然に還っていくという考え方です。
 私たちは本来「風」なのです。もちろん風に限定しません。「地・水・火・風」であるのです。大自然・天地そのものがこの自分であるのです。ですから、私たちが生きているということは、天地いっぱいの存在に生かされていることです。最期の最後まで天地の風に生かされるのです。
 修行が円熟してもし悟りに至っても、さらにその悟りにすら執着しない境地になっても、今この身体を生かしている天地自然に、「風」に生かされて存在していることには何の変わりもありません。

この問答に対して雪竇重顕禅師が頌を詠んでおられます。

問既に宗有り、答も亦同じき攸なり。
三句辨ず可し、一鏃空に遼る。
大野、涼颷颯々、長天、疎雨濛々。
君見ずや、少林久坐未帰の客。
静かに依る熊耳の一叢々。
意訳
この修行僧の問いそのものが答えであり、一番肝心要の部分が現れている。
この体露金風の中に、師弟ピッタリ、凡俗一切を断ち切った、修行僧の境界に相応じたもの全てが含まれているが、ただ一矢で射抜いた。
大野に涼風颯々と秋風が吹き渡り、天を仰げば秋雨がしとしとと降っている。
あの少林寺の達磨大師は今此処に活き活きとはたらいているではないか。
いまでも熊耳山(達磨大師の墓所といわれる)で全身全霊で静かに坐禅しておられる。

 10/1  「心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす」
食べ方は心の栄養となる。

 五観の偈の三番目に出てくる偈文で、本文は「三つには心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす」となります。
 ここで出てくる「心」とは迷いの心、散乱する心のことを指します。その心が日頃から起こらないようにまず身と心を調えていくことです。心の散乱が起こってしまうのは貪りの心、瞋りの心、道理をわきまえない心(貪瞋癡・三毒)に起因することが多いので、その三つを克服することを常に心掛けていくことを根本とすることを意味しています。
 心の安定を計ることは釈尊が説いた八正道では最後の「正定」にあたります。禅学大辞典では「正しい禅定の意。心の散乱を防ぎ、身心を静かにし、真空の理に住すること。」とあります。この八正道は釈尊が菩提樹のもとでさとりを開かれた後、五人の修行者にはじめて説法された教えの一つです。この「正しい」とは、偏りのない、バランスが取れたという意味が含まれています。ですから「正定」は言語行動(言葉遣い)や身体行動(日常の身体動作・習慣)に気をつけて、常に心を平静に保つ努力をすることです。そのために坐禅をすることも大きな要素ですが、五観の偈に含まれているように、食事を通して心の安定を養っていく、保っていくことを目指そうとしているのです。
 現在瑞雲寺において月例朝粥坐禅会の中は、赴粥飯法に基づいてお唱えや作法を行っています。その偈文やお唱えは、応量器を展ずるお唱え、食事をよそる前のお唱え、布施に対するお唱え、施食のお唱え等々、それぞれの場面において、最大限の敬意をあらわした言葉を、坐禅または正坐をした状態でお唱えするのです。食事作法そのものが正しい言語行動と身体行動によって行うようになっています。ですから、日常の食事とは違って、たったお粥一杯でも心の充実感を得られるのです。まさに心の栄養補給でもあるのです。
 さて、この心の散乱が起こってしまう要因を「貪・瞋・癡」の3つを仏教では挙げています。これを仏教では総称して「三毒」といいます。毒は薬の反対であり、身体、心、更には命までも傷つけてしまうものです。簡単に説明しますと、「貪」はむさぼりで、今既に恵まれているもの、具わっているものに満足できずに過剰に欲しがる心です。瞋はいかりで、貪りの心から欲求不満や思い通りにいかないことことに対して腹を立ててしまうことです。「癡」は貪りやいかりのため心が不安定になり正しい判断ができない状態のことです。
 これを踏まえて食事にどう向き合うかを考えてみます。「貪」は美食・過食・偏食の三つを過度に求めてしまうことであります。私自身はこの何れにも心当たりがあります。食べることは人間の生理現象であり、生命の本能であるので、コントロールは難しいものです。しかし、当然この美食・過食・偏食が過度にはたらくと、身体の健康に悪い影響を及ぼし、心の状態も貪瞋癡の三毒へと発展してきます。たかが食事(作法)、されど食事(作法)なのです。ですから、五観の偈の三番目にお唱えして常に心掛けていくのだと思います。

最後に、四・五つ目を紹介します。
「四には正に良薬を事とするは形枯療ぜんが為なり。」
仏道を修行していくためにはどうしてもこの身体を大切養っていかなくてはなりません。大自然から頂いた恵みや食事を選り好みすることなく、良き薬を服して正しい健康を得るという気持ちをもって頂くこと。

「五には成道の為の故に今此の食を受く。」
仏道を成し遂げる為に、仏道を成していく為に食事を頂くということを忘れてはいけません。
道元禅師の学道用心集に「但だ仏法の為めに仏法を修する、乃ち是れ道なり。」とありますが、食事をすることは即ち仏道であるという気持ちでもって頂戴しようと結んでいます。

さらに赴粥飯法では続いて次のように述べられています。
「然る後に出観す。未だ作観を出ざるに、出生することを得ざれ」
この五つの事柄について自分自身を顧みたり、食事に対して観察した後は、ひとまずその想いから離れる(出観)。想いにとらわれたまま、他のものへの供養(出生)してはならない。目の前のことに念を戻していく。集中して次の事柄に取り組むみなさいとあります。
 食事作法は順序通り次から次への粛々と進んでいきます。その場その場、即今に取り組んでいく姿勢も大切なのです。皆さんも瑞雲寺の朝粥坐禅会で禅門で古くから伝わる作法のもとお粥を食してみませんか。是非ご参加下さい。
以上三回に渡って五観の偈について解説させて頂きました。

 9/15
 「己が徳行の全欠を忖って供に応ず」
食事の前に自らの行いを顧みて、天地の恵みにふさわしく生きる。
 前回の五観の偈の二番目を紹介します。全文は「二つには己が徳行の全欠を忖って供に応ず」です。

 石井修道先生監修の最近発刊された『道元「赴粥飯法」』の解説によると「二つには私自身の日頃の行い(徳行)を省みて、この食事をいただくに値する営みを為しているかどうか(全欠を忖って)、よくよく考えて頂戴する。」とあります。また、曹洞宗発行の子ども坐禅会用の箸袋には「ふり返ろう 私のおこない その心」と訳してありましたが簡潔でわかりやすいですね。

 この五観の偈には「観」の字が使われているように、食事をする前に5つの項目を通して自分自身の行いや心をよくふり返って観察し、食事を頂戴するのにふさわしい生き方かどうかを問う文言であるともいえます。特にこの二つ目の偈は自分を省みることが主眼として示されています。

 ある雑誌に、孟子の有名な「其の心を尽くす者は、其の性を知るなり」の解説として「心を尽すというと、心の限りお尽くして全力で物事に取り組めと理解して、そのように語る人が多いのですが、それは誤りです。真意は『自分の心の隅々まで、余すことなく見落とすことなく、徹底して見詰め尽くしなさい』といっているのです」とありました。

 私自身この孟子の言葉は座右の銘として、法話やこの伝道掲示板の解説などで前者の解釈をしていました。私自身はそれが完全な誤りであるとまではいえませんが、この雑誌の解説を見て、道元禅師の有名な「仏道をならうとは自己をならうなり(現成公案)」がまず思い浮かびました。孟子も同じように自分自身を徹底して見詰め、見尽くすことを第一に大切にしていたことに感銘を受けました。

 また、この解説にある「心の隅々」という表現から、伝教大師(最澄)の「一隅を照らす」という有名な言葉を想起しました。
全文は「国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。」(山家学生式)

 一般的な解釈は、それぞれ各自の役目・持ち場を照らしていくという意味や、この世の一隅にいながら、世の中を照らすという意味のようです。そこで、さらに私は先ほどの解釈も取り入れて「自分の心の隅々まで、余すことなく見落とすことなく、徹底して照らして見詰め尽くし、まず自分を照らし出すことによって、他人も周囲も社会も世の中も照らすことができる人こそ、国の宝である」と受け取ってみました。

 釈尊はじめ祖師方はまさに自分自身を見詰める(観つめる)修行と衆生済度の道を歩んでこられました。この二つは車の両輪なのです。前者は智慧、後者は慈悲と捉えてもよいでしょう。この伝教大師の「一隅を照らす」にはこの二つの意味が含まれていると解釈してみてもよいのではないでしょうか。

 ただし、自分の心を徹底して見詰めてみることは容易ではありません。まさしく懺悔行であります。一・二回で済む話ではありません。無限の懺悔行です。私などこれまでの人生を振り返ると悔い改めることがありすぎます。ですから、意識的に自分を顧みる機会を持たないと、いつの間にか謙虚さを失い、独りよがりになってしまうことは今までの経験上自分自身よくわかっています。ですから、朝晩礼拝・坐禅・読経を通して日々何回も何回も自分自身を見詰め、顧みる修行をするのです。まさしく論語の「吾日に吾が身を三省す」の精神です。

 道元禅師は先ほどの「仏道をならうとは自己をならうなり」の後に「万法に証せらるる」と示しています。自分自身を徹底的に見詰めることによって、天地宇宙の恵みに生かされていることがはっきりするというのです。はっきりすれば、その恵みにふさわしい生き方をしなくてはなりません。

 食事はその天地の恵みに生かされている事実を目の前にする場面です。自分自身を見詰め(観つめ)、生かされている命にふさわしい生き方をしているか問われる一日三度の大切な機会なのです。
 9/1  「功の多少を計り彼の来処を量る」
感謝の心は想像力から
 この言葉は全文が「一(ひとつ)には功の多少を計り彼の来処を量る」で、禅宗において食事の前に唱えられる偈文のひとつ「五観の偈」の一番にでてくる言葉です。
 この偈文は道元禅師の「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」という書物に出てきますが、修行道場では現在でもこの「赴粥飯法」に則って食事作法が厳格に決められています。朝はお粥、昼はご飯を応量器という自らが保有する鉢を用いて禅堂で食事をする作法です。入堂の仕方、鳴し物、偈文、箸や匙の取り扱い、心構えに到るまで事細かに記載されています。
 瑞雲寺では平成十二年から二十四年ほど月に2回朝粥坐禅会を行っており、もうすぐ四百八十回を数えます。坐禅と朝課が終わった後に、修行中の典座配役の際に覚えた玄米のお粥(白米の時もあり)を参禅者と作法に則って略式応量器で頂戴しております。お粥はコロナ禍で5年中断していましたが、今年より復活いたしました。
 瑞雲寺の坐禅会では復活にあたり、以前は略していたお唱えごとを「赴粥飯法」になるべく近づけるようにしました。皆さんプリントを見ながら、同時並行で作法を行います。古くは一一〇三年に禅苑清規がもとになり、道元禅師が伝えてきた食作法ですのでなかなか難しいものです。しかし、実際におこなってみると、食事に対する考え方が変わってきますし、、丁寧に作法に則って食することが心や身体に及ぼす善い影響を実感していただいていると思います。
 さて、五観の偈でありますが、全員の給仕が終わり応量器に食事が盛り付けされた状態で、一同で合掌・低頭してお唱えします。
 まず、「一には功の多少を計り彼の来処を量る」です。
 この第一句の意味するところは、この食事に到るまでにどれほどの天地の恵みと人の手を経ているか、その労苦を思い量ることです。目の前の食事が出来上がるまでに費やされた様々な労苦、自分のもとに届くまでに関わった全ての物事に想いを巡らすのです。
 まず、この食事を料理をしてくれた人、運んでくれた人、食物を生産してくれた人を想像します。さらに想像力を広げて、調理の手間、それも前日から下準備をしてくれたこと、火加減を見たり、味を調えたり、盛り付けをしてくれたことなどが思い浮かべます。また、生産者の視点から観てみます。田んぼを作り、苗を植え、稲を収穫し、ゴミを取って脱穀する等々、肉体労働を含めたお米が出来るまでの労苦に想いを致します。
 たった一杯のお粥をいただくまでにどれほどの功があったか、その多少に想いを馳せることによって、食事を頂戴することの重みを知り、それによって命を生かしていただいていることへの感謝の念を忘れてはいけないという先人から伝わる教訓であります。これは食事を頂戴する上で、まず第一に感謝の気持ちを持つことが大切であることを示しているのです。
 「感謝の心は想像力から」といわれます。感謝は、「ありがとう」という言葉と結びつけがちですが、言葉だけでなくどれだけ想像力を膨らませ、形として、行動として表わしていけるかも大切なことだと思います。
 また、今此処に自分が存在している背景についても想像力を膨らませて考えてみます。沢山の人の労苦があり、沢山の人に支えられて、沢山の人に見守られて自分が今此処に存在していることに気がつくはずです。このように想像力によって、他人への共感や思いやり、物を大切に扱うことにも繋がっていくのです。また、論語にある「己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」のように相手の嫌なことをしないことにも繋がります。
 普段の食事の時にも、食べ物や関わった多くの人たちに感謝の念を持ち、食器の取り扱いや食べ方に到っても敬意を持って頂戴することを大切にしたいものです。


 8/15  「自覚覚他」 
自分に火がつけば、他人や環境さえも変わってくる。
 自覚覚他とは禅学大辞典によると「自利利他。小乗声聞は自らのさとりを求める自覚行である上求菩提の自利のみを目的とするのに対して、大乗菩薩は自覚行とともに一切衆生さとらしめる覚他行である下化衆生の利他の面をそなえる。この二つの覚行が円満することにより仏陀となる。仏陀に自覚・覚他。覚行円満の三相があるとされるのはそれである。」とあります。

 具体的に言うと「自覚」とはみずからが本来の自分・命の世界に目覚めることであり、「覚他」とは他をしてその命の世界に目覚めさせることです。自覚のみあって覚他のはたらきをしないのが声聞・阿羅漢であり、この自覚と覚他の二つを実践し行じているのが仏・菩薩であるというのです。

 また、自覚は智慧、覚他は慈悲であるともいわれます。智慧がはたらけば自ずと慈悲も発動してきます。本来はひとつのものであって、紙の裏表と同じで切り離せるものではありません。お釈迦様はお悟りを開いた後に、梵天に勧請されて法を人々にお説きになったといわれていますが、そのことによって、お釈迦様は覚行円満(窮満)、仏としての自覚覚他のはたらきが共に円満に具わりました。

 ひとり本堂で朝坐禅をしていることは、周囲には何の影響も与えていないように表面的には見えます。私自身もそう思っていましたが、以前坐禅と読経を終えて散歩に行ったとき、道端のいわゆる“雑草”からそのことを感謝された経験があり、自らの目覚めは心の奥深くでは地球の裏側の人だけではなく山川草木全てに影響を与えていると信じるに到っています。自ら坐禅することによって、意図していなくても自然と周囲になんらかの影響を与えているならば、寝ぼけ半分で坐ってはもったいありません。真剣に余念無く只管打坐すること以外を選択する余地はありません。

 今まで私がお世話になった老師方は皆、日々怠ることなく坐禅を行じられておられました。老師方は自ら坐禅の宣伝などなさらなくても、その境涯が風に逆らってでも漂い、逢うものは不思議と感化され、多くのものを坐禅の道に導かれてました。坐禅に徹した方にお逢いするとそのお姿を拝見しただけでも感銘を受けるものです。そして、自然に教えを請うようになり、生きるお手本として、自分自身も同じように日々坐るように変わってくるから不思議です。まず自らが坐って目覚めることが原点であり、後は自然に広がっていくものです。

 最近同世代方のご葬儀で思ったことがあります。その方は闘病中に痛みと苦しみの中、死と真剣に向き合った最期だったそうです。枕経にお伺いし、安らかな表情をされていたのがせめてもの救いでした。帰山してその晩、夜中に目が覚めて「死」ということが頭から離れなくなって眠れなくなったのです。おそらく故人が、本当に生きること、命の大切さをご自身の死を通して訴えているのではないかと思いました。まさしく「生死事大 無常迅速 各宜醒覚 慎勿放逸」であります。人間の一大事とは生死の問題です。死は「真剣に生きる」ということを教えてくれます。故人が死を体験して気がついたことは、たちえ肉体がなくなっても、生きている私達に、なんとか自覚を促そうというはたらきは必ずあると思います。

 その意味で、お通夜・ご葬儀のお別れは故人の死と向き合うことを通して、自分自身の人生の一大事に目覚めていく大切な場でもあるわけです。生の世界だけをみていると命の世界が霞んでしまいます。死者が訴えてくる人間の一大事に耳を澄ましてみることこそ遺された者の最大の学びではないでしょうか。その葬儀やご法事の導師を執行する住職の任の重さを今回改めて感じた次第であります。

最後に正法眼蔵弁道話の言葉をご紹介します。
「自覚覚他の境界、もとより証相をそなへてかけたることなく、証則おこなはれておこたるときなからしむ。」
意訳:「自覚覚他」「自利利他」の心には、もとより仏のさとりの姿が完全に具わっていて、少しも欠けたることはない。そのはたらきは、怠ることなく無限に続いていく。

私たちの本当の命は無限に終わりのない目覚めと、目覚めさせるというはたらきを続けていると。なんとも生死を越えた壮大な命ではありませんか。


 8/1  「放てば手に満てり」
手放せば、大切なものが満ちてくる。
これまでご紹介した道元禅師の正法眼蔵弁道話にある言葉で、原文はひらがな表記になっています。

「この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならむや。かたればくちにみつ、縱横きはまりなし。」
(自ら自分を乗りこなしていく能力は、誰しも持ち合わしている普遍のものであるが、その性能を発揮しなくては、生活上に、人格の上に、身の上に実現してあらわれてこない。それがはっきりと仏からいただいた使命であると自覚できてこそ法を得ることができたと言えよう。さあ、自他、善悪・好き嫌い・憎愛などいつも頭の中で分けて考える癖を手放してみましょう。きっと一番大切な真の自分、大いなる存在から生かされ、同時に使命をいただいている自分に目覚めることができるでしょう。手放してみると、全てのものが自分を越えた、仏の命としてはたらき出してくる。それはとても多い少ないで計ることはできない。もし、その状態を語ろうとすれば、言葉では言い尽くせないほど満ちてきて、空間を越えて自由自在極まるところはないほどである。)

 身近な例で説明してみましょう。我々は自分と他人の境界線を引きたがります。この自他の区別が比較になり、さらには人の良し悪しや好き嫌いに発展し、それがもとで人間関係の悩みや苦しみが生じてきます。特に土地建物など所有物の権利問題はこの人間社会ではなくすことは出来ません。しかし、これはあくまでも人間世界での約束事だけであって、大自然では通用しません。いくら電気柵を張り巡らしても鳥獣は入ってきますし、どんなに自分の土地に草が生えないようにと思っても、自然に生えてきます。草木や土、石、水、空気、動物などは決して人間の所有物ではありません。もとより大自然には「所有物」「〇〇のもの」という概念すらありません。我々は個々別々に見えるものでも、すべてひとつのものであるというのが本来の姿であるのです。
 時には、その本来の姿に一端戻ってみる。本来の世界から物事を見る目も持ってみる。そうして自らが作り出している自他の壁を手放してみれば、大切なものが身と心に満ちてくるのです。
 ではどうしたらよいか。無限の昔から仏さまによって伝わってきている坐禅(心を集中し、落ち着かせる行い)が間違いありません。坐禅は、様々な事物に心をとらわれ、執着して悩み苦しんできたことから身体全体をもって手放す修行なのです。手放してみれば本来の自分の使命に気がつき、その使命に生きる事が出来るようになる。というのが道元禅師のお示しだと思います。
 7/15  自受用三昧
我がままな自分を、命の聲を受信しながら乗りこなす。
  これは正法眼蔵弁道話に出てくる言葉であり、弁道話から重要部を抜粋し、抄本したものを「自受用三昧」と呼び、現在でも御本山や修行道場で拝読する宗門の要ともいえる巻です。その正法眼蔵の第一巻である弁道話の冒頭部分はまさに仏道の核心部であります。

「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。これただ、ほとけ仏にさづけてよこしまなることなきは、すなはち自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。」
(全ての仏たちが、仏道を実践された教えを、ひとりからひとりへと、心から心へと正しく伝え、究極の道に目覚め、実証するのにこれ以上ない方法がある。これは仏から仏へと少しも歪曲されることなく、添減されることなく、そのまま授けられてきたもので、それはすなわち、自受用三昧が標準・基準となる。その三昧に全力でなりきっていくには、坐禅に参ずることが入り口としては正しいのである。)

 なんともスケールの大きな格調高い書き出しです。「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、阿耨菩提を証するに、最上無為の妙術あり。」は、釈尊を起源とする仏教ではありますが、我々の世界(娑婆国土)にかぎらず、無限の過去(久遠)、無限の宇宙の仏国土をも含まれたどの世界でも展開されているということです。仏の世界で何処でも何時でも行われているまさに王道、本丸を示そうというのです。それは「自受用三昧」だと示しています。
 その「自受用三昧」とは何か。禅学大辞典によると「仏陀が自ら悟った法楽を、自ら受用する境界。法身の境界であるから、他からはうかがい知れないもので、仏祖正伝の坐禅はこの境界にいたる妙術である。」とあります。
私なりに解説しますと、「自受用」は本当の自分を受け入れて生きること。それは命を自己の利益を重視する利己主義で生きることから、本当の自分の命(仏の使命、天命)に目覚めて生きることです。「三昧」はその目覚めて生きている状態にまったく気がつかないほど「自受用」になりきっているという意味です。
 よくよく自分というものを観察してみると、他人の利益よりも、自分はああしたい、こうしたいという利己主義がはびこっていることに気がつきます。その我がままな自分は目先のことだけにとらわれ、本来自分がこの世で生まれてきた使命、本来やるべき事が見えなくなってしまいます。もし、その状態のまま人生を終えてしまうとなると後悔することになるでしょう。
 そこで、その我がままな自分を制御し、調教してうまく乗りこなすことが必要となります。如来の十の尊称(如来十号)のなかに「調御丈夫」がありますが、自分を見事に乗りこなすことができる人を大丈夫、大人と呼ぶのです。
 この方法の標準として、諸仏如来も坐禅を伝えてきたというのです。ただ坐禅をしているようですが、実は諸仏如来が無限の過去から脈々と伝えてきた最上無為の妙術であったのです。

最後に参考までに、大本山總持寺を開かれた瑩山紹瑾禅師は坐禅用心記の中でおそらく弁道話の冒頭部分を意識してご自身の言葉で同じことをお示しされている部分をご紹介します。
「今、坐禅の者は、正に仏性海に入り、即ち諸仏の体を標す。本有妙浄の明心、頓に現前し、本来一段の光明、終に円照せん。海水、都て増減無く、波浪も亦、退転無し。是を以て、諸仏は一大事因縁の為に世に出現し、直ちに衆生をして、仏の知見に開示悟入せしめ給う。而も寂静無漏の妙術有り、是を坐禅と謂う、即ち是れ諸仏自受用三昧なり、又、三昧王三昧と謂う。若し一時も此の三昧に安住すれば、則ち直ちに心地を開明す。良に知る、仏道の正門なりと。」
意訳:坐禅をすることによって、まさに本来の自分の世界に入り、仏の命をこの身体で実感することができる。本来の明るくて綺麗な清浄な心が現れ、本来持っている光明が光り輝いて、周囲をまどかに照らすようになってくる。その命の世界から見れば、すべては全くの平等の世界。自他を区別する壁はもちろん、目に見える世界も、目に見えないはたらきの世界もすべてひとつである。仏はすべてはひとつ命を、皆繋がっている命、みな同じく仏の命を受けてここに生まれてきたということを、人間に知らせ、自覚させるために出現したのだ。そのためにに心の静かに清浄にする方法がある。これを坐禅という。すなわち諸仏自身が本当の自己に目覚めてなりきるもので、三昧の中の王様であるともいいます。もし、ひとときでもこの三昧になりきれば、本当の自己の心が開けて明らかになってくる。だからこそ、仏道の正門であるといえる。
 7/1  弁道
やりたいことより、今やるべき事を。
  弁は「辨」、「?」とも書き、「辨」はわきまえる。「?」はつとめるという意味がありますが、共に同一字音を通用すること(音通)として同じ意味で用います。ですから、道に力を致すこと。仏道修行に全力を注ぐことの意で用います。 道元禅師の正法眼蔵などの著書にはこの弁道という言葉がよく使われます。特にそのまま題名として使った正法眼蔵九十五巻本の第一巻に「弁道話」という有名な巻があります。 

 道元禅師は中国の宋に渡って天童山の如浄禅師のもとで修行し、印可証明を受け、帰朝してすぐに京都の建仁寺で普勧坐禅儀を撰述され布教の第一歩を踏み出されました。しかし、当寺の仏教界からの圧力などもあって、二年後に、深草の安養院という廃寺に移られて、悟後の修行に励まれながら閑居中に書かれたのが、この「弁道話」であります。この巻を著そうとした気持ちが本文中の次の一節に表れています。

「貧道はいま雲遊萍寄(うんゆうひょうき)をこととすれば、いづれの山川をかとぶらはむ。これをあはれむゆゑに、まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持(ぼんじ)せしを、しるしあつめて、参学閑道の人にのこして、仏家の正法をしらしめんとす。これ真訣ならむかも。」
(私は今ところが定まらぬ行雲流水の身であるので、求道に燃えた者が私を訪ねてきても、何処を探してよいかわからないのをあわれみ、私が大宋国に渡って目の当たりにしてきた道場の修行の実際や、仏法の玄旨をあつめて、真剣に修行しようとする参禅学道の人に書き残して、仏家の正法を知らしめようと思う。これこそ正真正銘の仏法の真髄だ。)

 道元禅師は純粋に道を求め日本の名だたる名僧を尋ねても納得のいくものを得られず、宋の国まで行って正師を探し求め、やっとのことで仏祖正伝の仏法に出逢うことができました。そのためにどれほど苦労し、時間を費やしたことでしょうか。ただ、これから同じように道を求める人たちが遠回りすることがないようにとの老婆親切から著されたことが覗えます。 

 この弁道は「坐禅弁道」(坐禅弁道して、仏祖の大道を会通す:弁道話)や「功夫弁道」(功夫…修行に専念すること。直に仏位に到らんためには、ただ教えに随って功夫弁道すべきなり:正法眼蔵随聞記)など、弁道の意味合いをより強めたり、具体的に坐禅を示して使っています。 では、道元禅師の示す道とはいったい何でしょうか。それは仏道、無上道であります。四書五経のひとつである中庸には「天の命ずるをこれ性と謂い、性に率(したが)うをこれ道と謂い、道を修むるをこれ教えと謂う。」とあります。道とは天から命じられた人間という性能・性質を最大限発揮して生きることだと私は解釈しています。儒教でいう「天」は「仏」でも「神」でも、全く同じものだと私は考えています。要するに大宇宙の大いなるはたらきのことです。 

 大自然から生まれたものは皆、今やるべき事に全力を注いでそれぞれの能力を最大限発揮し、全力を尽くして生きています。人間も大自然の一部ですので本来そうあるべきなのですが、「他にやるべきことがあるのではないか。」「もっと楽をしたい。大変だからなんとか理由をつけてやめたい」等々、頭の分別が自分勝手に判断して邪魔をすることがしばしばあります。特に輪をかけて、テクノロジーが日進月歩に発達して便利になる一方、本来人間がやるべきことが簡略化したり、なくなってきて、ますます退化の一途をたどっているように思います。 道元禅師は人間として与えられた性能能力を最大限発揮し、全力を注いでつとめていくことこそ生きている証である(修証一如)と示しています。私自身などは、やりたいことばかりに思いをなして、今自分がやるべき事がなおざりになっていることがよくあります。確かにそのときは生きているという実感があまり伴っていません。その時我に返って、今やるべきことは何かと自分自身に問いかけてみると、必ず見つかります。それこそ脚下照顧。目の前にあるやるべき事に全力を注ぐことです。 

 道元禅師はさらに、求道者達への教訓として、自ら仏祖方がつとめてきた坐禅を紹介して、自分の身心で直に体験していくことの大切さをこの「弁道話」で弘めようとされました。 

 では次回からしばらくこの弁道話の中から言葉を取り上げてみたいと思います。 
 6/15  人身得ること難し
「(命は)何年も何年も月日がたってやっと神様から与えられるものだ」
 修証義第一章総序にある、この言葉は正法眼蔵帰依三宝からの引用です。スッタニパータとならび現存経典のうち最古の経典といわれている法句経にも同様の言葉が見られるので、釈尊が実際に語られた言葉だと思います。
その法句経182には
「人間の身を受けることは難しい。死すべき人々に寿命があるのも難しい。正しい教えを聞くのも難しい。もろもろのみ仏の出現したもうことも難しい。」中村元訳
「ひとの生をうくるはかたく、やがて死すべきものの、いま生命あるはありがたし、正法を耳にするはかたく、諸仏の世に出ずるもありがたし。」 友松円諦訳

 世の中に生きとし生けるものは無数にいるわけですが、この人間として生まれてきたことについてはよくよく考えなくてはいけません。人間として生まれてきたことがいかに難しく、容易ならない尊いことかです。「爪上(そうじょう)の土」という有名なお話しがあります。
 お釈迦様がお歩きになって、ふと土を拾って爪の上にのせられました。
「この爪の上の土と大地の土とどちらが多いか」と弟子にお尋ねになりました。もちろん比較にならないほど大地の土の方が多いのですが、同じように「生きとし生けるものは数限りなくあるけれども、人間界に生まれてくるこということは、爪の上の土ほどに有難い、滅多にない稀なことなのだ」と説かれたそうです。

 また、涅槃経の中には「大海の中に、盲亀の浮木に逢うが如し」という故事もあります。どちらも人間に生まれることは本当にかけがえのない、よくよくのご縁であるという喩えです。

 私はその人間に生まれて既に五十年。日本人の平均年齢から見ても約三分の二を経過した今、ただ命が尊いというだけでは済まされなくなってきます。道元禅師の典座教訓に「古人云く、三分の光陰早く過ぐ、霊台一点も揩磨せず。生を貧り日を遂ふて区区として去き、喚よべども頭を回らさずは爭奈何せん」(人生の三分の二は早く過ぎ去ってしまったがほんの少しも心を磨こうとしない。ただただ生をむさぼって一日一日をあくせく日を過ごしているだけで、呼びかけても一向に振り向きもしないのを一体どうしたらよいか)とあるように、ただ惰性で生きていては命を無駄にしているようなものなのです。
 論語にある「五十にして天命を知る」という有名な言葉にあるように、その類い稀なるこの命のあり方、やるべき事、天から与えられた使命がはっきりしてこなければ、ただの宝の持ち腐れに終わってしまう可能性すらあります。尊いと貴重な命を使い尽くすための最終盤にさしかかってきたのです。

 ここでもう一度命について考えようと思っていたとき、きっかけがありました。それは、六月十六日に当山で行われる宮越由貴奈さんの二十七回忌です。

命 宮越由貴奈(小四)
命はとても大切だ
人間が生きていくための電池みたいだ
でも電池はいつか切れる
命もいつかはなくなる
電池はすぐにとりかえられるけど
命はそう簡単にはとりかえられない
何年も何年も
月日がたってやっと
神様からあたえられるものだ
命がないと人間は生きられない
でも
「命なんかいらない。」
と言って
命をむだにする人もいる
まだたくさん命がつかえるのに
そんな人を見ると悲しくなる
命は休むことなく働いているのに
だから 私は命が疲れたと言うまで
せいいっぱい生きよう

5歳のとき、神経芽細胞腫という小児がんと診断された由貴奈さんは、この詩を書かれた四ヶ月後十一歳で亡くなられました。これほど私たち人間の命の正体について的確に表された詩はないと思います。きっと死と向き合う中で命の声なきこえを聞いたのだと思います。この命は自分だけものなどというちっぽけなものではなく。天から神から仏から与えられた命。与えられた使命があるのです。にもかかわらず、目の前の享楽や利益、欲に振り回されて見えなくなってはいないではないでしょうか。

「たとい七歳の女流なりとも、即ち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。(修証義第五章)」
宮越由貴奈さんが遺してくれたこの「命」の詩は、これからも多くの人たちを導くとこでしょう。

 6/1
 
礼拝得髄
「合掌礼拝は、どんな相手でも敬う姿」
 
 この言葉は正法眼蔵礼拝得髄の巻に由来します。
 中国禅宗の初祖達磨大師が弟子達に修行の出来具合を調べるために、「時が、まさに至ろうとしている。あなた達は、なぜ、会得した所を言わないのか?」とそれぞれの見解を述べさせました。
 まず道副の「私は文字に執着せず、しかもまた文字を離れずに道を行じます」には「汝わが皮を得たり」と。次の尼総持の『私の理解では、仏国を一度見ても、もう一回見たいなどとはしません。見たもの聞いたものに執着しません』には『汝はわが肉を得たり』と 。三番目の道育の『すべてのものは空であるので、執着するものはなにもありません』には『汝はわが骨を得たり』と。最後に慧可が、ただ黙って達磨に三回礼拝して、もとの位置につきました。それをみて、『汝はわが髄を得たり』と仰せになり、慧可が達磨大師の後継者となって二祖を継がれたという話であります。
 この故事から「皮肉骨髄」という言葉が生まれました。皮や肉は表面にあることから本質を理解していないことで、骨や髄は本質を理解したことの喩えとして使います。現在では相手を批難する「皮肉」のみ使われるようになりました。
 さて、この慧可大師の礼拝ですが、仏教の礼拝は五体投地礼であり、全身を大地にピッタリとつけて拝む方法です。我々禅宗では何かと礼拝をします。それも一度ではありません。三拝九拝するのです。
 先般福井県のお寺の晋山式に随喜してきました。塵一つ無い行き届いた境内、ご接待や行持も綿密であり新命和尚様や御山内、檀信徒が心ひとつになってこの日をお迎えになったことがひしひしと伝わってきました。
 その法要の一番のメインが「晋山上堂」であります。新命和尚が須弥壇上に登って歴代の仏祖方、檀信徒のご先祖様に香を焚いて法語を伸べ、ご自身の見識と境界から仏法を説く問答を行います。これは法のことであれば誰でもどんな問いをしても構いません。リハーサルはありません。ぶっつけ本番ですので、新命和尚の力量が一番問われるところです。約二十五年間坐禅修行一筋で練り上げられた新命和尚ですから期待感は高まります。問答には十五名ほど、お坊さんだけでなく檀信徒、またお子さんまで出られました(これほど数の問答は私は見たことありません)。色々な問答がありましたが、私が一番印象に残っているのは、このお寺の道場でかつて大古参であられた焼香侍者和尚との問答です。
 「一大事とはなんぞや」。おそらく聡明な新命和尚ですから如何様にも答えられたはずです。おそらく問者が違えば言葉でわかりやすく説明して下さったに違いありません。
 しばし密度の濃い静寂の時が流れたその時、お互いに礼拝されたのです。
立ち上がった侍者和尚様が「そのとおーり」と大声されました。すると本堂全体の空気が一変して法悦に包まれていきました。
 その時に私が解ったことがあります。いつも禅の祖録を読むとその殆どが、弟子が師匠に、師匠が弟子に問いかけをするスタイルです。文字からその情景を想起しながら行間を読み本意を汲み取るのですが、今回は実際に本物の禅問答を間近で拝見して、その悦びといったらありません。おそらく、これまで禅宗では多くの禅問答が遺されているのは、それを間近で拝見した人が、この感動を記して後世の為に遺さなくてはという気持ちで筆を走らせたに違いありません。ただし、その本質を見抜く力はやはり記す方にも必要で、それは坐禅から生まれます。坐禅を続けていたからこそあの感動、悦びを共有出来たのだと思います。
 さて、この礼拝ですが、道元禅師は正法眼蔵陀羅尼の巻で
「おほよそ礼拝の住世せるとき、仏法住世す。礼拝もしかくれぬれば、仏法滅するなり。」とあります。この礼拝が絶えない間は仏法は絶えないとのお示しです。礼拝とはお互いに敬い、思いやる心が全身で現れた姿です。その心が無くなったときは人類はどうなるでしょう。今世界では戦禍が広がりを見せています。これだけハイテクが進み兵器のレベルも以前とは比較になりません。人類を絶滅させる程の兵器を、これまた人類が持つという最大の矛盾を人類は抱えているのです。恐ろしいことです。お互いを礼拝する心を忘れてはいけません。礼拝こそ文明を持った人類が平和と共存していく為の、バランスを保つ行為だと思います。まさに礼拝は人類にとって「一大事」なのです。
 最後に、その福井のお寺の晋山式の前日に、瑞雲寺の本寺である頼岳寺の新しい住職の入寺式がありました。新住職の挨拶文の中に「法をおもくし、身をかるくして」という一文がありました。これは「礼拝得髄」の巻にある言葉です。
「ただまさに法をおもくし、身をかろくするなり。世をのがれ、道をすみかとするなり。いささかも身をかへりみること法よりおもきには、法つたはれず、道うることなし。」
意訳:私達が頂戴した仏の命を仏法の為に使い、身体はその為ならどんなことであっても躊躇せずに使います。世の中の名誉や欲得から離れ、仏道の中に生きる決意です。少しでも自分を計算に入れて、仏法よりも自分の欲得を優先にするなら、法は絶え、仏道を成就することはありませんから。

両御尊刹の益々の山門栄昌・仏法興隆をご期待申し上げます。
 5/15
 関 南北東西活路通
「ひとつの関門突破が、何事にも通じてくる。」
 前回紹介した「関」。この禅問答によって練り上げられた祖師のひとりに京都大徳寺の開山である鎌倉時代末期の臨済宗の僧、大燈国師(宗峰妙超)(1283 - 1338)がおられます。
 大燈国師は師匠である大應国師(南浦紹明)にこの「雲門の関」を与えられ、三年間刻苦されました。はじめは京都でこの公案に取り組んでいましたが、大應国師が鎌倉の建長寺に移るにしたがって一緒に鎌倉入りするほどの熱の入れようです。そして、修行の機縁が熟します。手に持っていた蔵の錠前を机の上にポンと投げたときに響き渡った「ガチャ」という音を聞いて、忽然としてこの関字がわかりました。すぐさま大應国師のもとに駆け込まれ、「幾(ほとん)ど路を同じうせん」と言われ、師から印可を得られたのです。

その時の投機の偈(自らの悟りの心境を詩にしたもの)があります。
一回透得雲關了 南北東西活路通 夕處朝遊沒賓主 脚頭脚底起淸風 
「一回(ひとたび)雲関を透得し了って、南北東西活路を通ず。夕処朝遊(ゆうせきちょうゆう) 賓主没(な)し、脚頭脚底 清風を起こす」
意訳:ひとたび雲門の関を通過してからは、東西南北あらゆるものに活路が通じようになった。いつでもどこにいても相手と自分とを比べるものはなにもない。全てが本来の自己であった。その心境で一歩一歩足を運んでみると、頭のてっぺんからつま先までも清々しい心境だ。

 大燈国師はこの三年間必死になって坐禅に取り組み、坐禅以外の時間も寸暇を惜しまずに「関」になりきる修行を重ねたに違いありません。何事も全身全霊で必死になって取り組む。全身全霊をもって精一杯生きてみることこそ、他の出来事の解決にも役立ち通じてきます。その時に味わう清々しさといったら他にないわけです。また、何事もまずひとつのことに専念してやり遂げてみると、その過程で、だんだんと自己というものが見えてきます。次の段階として、その自己をいかに発揮するか、活かすか、応用するかが問われてきます。ただ、この自己さえはっきりしていれば、何事にも臨機応変に対応でき、通じてくることを示されています。
 道元禅師は正法眼蔵随聞記の中で「高広なる仏法の事を、多般を兼ぬれば、一事をも成ずベからざるなり。~中略~ 努力学人一事を専らにすべし。」とお示しです。
いろいろなことに目移りし手を出してみたくなるものですが、まず一つのことに専念してみることが大切です。
そこで、弟子の懐奘禅師が問います。
「若し然らば何ごといかなる行か、仏法に専ら好み修すべき。」
では師の説かれる一事とはどのような行でしょうか。何を仏法の中で専ら取り上げて修行したらよいでしょうか?
道元禅師は「機に随ひ根に順ふべしと云へども、今祖席に相伝して専らする処ろは坐禅なり。」
それぞれの機根に応じるべきではあるが、今我々が伝えられて、専一にするところは坐禅である。ときっぱり答えています。

 道元禅師にとっての一事とは坐禅。坐禅によって自分の本性を明らかにして、命の使命役割を自覚することによって、自分を縛っていた執着や妄念から解放されて、今ココ自分に生き尽くすことが出来るようになるのです。
 誰しも経験があると思いますが、人生困難な状況になると、次から次へと無理難題が押し寄せてくるように思うことがあります。複数の出来事が同時に起こると、四面楚歌、八方ふさがりのような状況に陥り、パニックになり、逃げ出したくなります。
 そういうときこそ坐禅を組む。というより普段から坐禅を組む習慣つけておくとよいと思います。そういうときの坐禅は真剣そのものです。真剣に坐禅すると自己というものが見えて来ると同時に、沸々と生きる活力も湧いてきます。そして、辛いことや悲しいこともあるけれども、人生は精一杯生きる価値があるということに気がついてきます。これこそ道元禅師が全ての人に坐禅を勧めるゆえんだと思います。

 最後に大燈国師の遺誡(弟子達に残した遺言)の中でも、最後の一節を紹介します。
「専一に己事を究明する底は、老僧と日々相見 報恩底の人なり、誰か敢(あえ)て軽忽(きょうこつ)せんや。勉旃(べんせん)。勉旃。」
意訳:ただひたすらに「己とは何者か」「何をしにこの世に生まれてきたのか」のこのひとつのことに取り組み、本当の自分を明らかにしたならば、釈尊と祖師方といつも心ひとつに生きているといえる。それこそ真の恩に報いる者である。こういう人を誰か敢えて軽んじることが出来ようか。さあ、つとめよ。 つとめよ。
 5/1
 
「人生の関門は理屈では通らない」
  この「関」は碧巌録の第八則「翠巌眉毛」に出てくる語で、古来より碧巌中の難則といわれる有名な「雲門の関」という公案です。

「挙す。翠巌夏末、衆に示して云く、一夏以来兄弟のために説話す。 看よ翠巌が眉毛在りや。 保福云く、賊となる人心虚なり。 長慶云く、生ぜり。 雲門云く、関。」意訳:中国唐代の禅僧、翠巌令参禅師が夏の修行期間の終わり頃、修行僧を集めて云われた。「私はこの夏安居中に皆に説法したが、私の眉毛は残っているか(古来より説法の内容に嘘いつわりがあれば、眉毛が抜け落ちると言われている)。」と。 すると三人の弟子達が次々に答えます。まず保福従展禅師が「泥棒はいつもびくびくしている(師匠のこころは読めました。そのような引っかけにはごまかされません)。」と答えました。次に 長慶慧稜禅師が「眉毛は生えています。(心配ご無用。私もしっかり生えております)」と。 最後に雲門文偃禅師は、大声一喝「関!」と言い放ちました。

 雲門文偃禅師(864 – 949)は唐末から五代にかけて活躍された名僧で、中国で成立した禅宗五家(臨済、潙仰、雲門、曹洞、法眼)の一派である雲門宗(うんもんしゅう)の宗祖であります。雲門宗は途絶えてしまいましたが、禅師の言葉は、茶掛け(掛軸)や禅僧の揮毫に好んで書かれる有名なもの多く、禅宗に大きな影響を与えて今日までその宗風は引き継がれています。 この公案は「雲門の関」「雲門一字関」といわれ、今でも葬儀の引導などの法語で導師が払子を振りながら「喝」「咦」「咄」「露」などの一字を挙す場面があります。これは言葉を越えた究極の玄旨「一字関」として禅門で伝わっています。

 この四禅師は互いに雪峰禅師の門下であり、腹の内まで知りあっていたところをみると、眉毛が抜けた、生えたなど言葉遊びをしているとみたのか、雲門禅師が「関!」と大声でもって一瞬で観念を壊し、閉じ込んでしまったのです。この一声によって、理屈や観念を一瞬のうちにお掃除して、心を真っ新な状態に戻すはたらきがあったのではないでしょうか。 

 「人間は考える葦である」とは、フランスの有名な哲学者・パスカルの言葉です。人間は自然の中では葦のように弱い存在であるけれども、人間は頭を使って考えることができる。これこそ人間に与えられた偉大な力であるという意味です。考える能力は、この地球上では人間ほど発達した生物はおりません。しかし、考えることによって迷いや悩みを生み出したことも事実です。犬や猫は迷ったり悩みません。かといって、全く考えや思考を人間から奪ったら社会生活を送ることが出来なくなってしまいます。 その迷いや悩みにとらわれると、物事を複雑・深刻に考えてしまいます。心ここに在らずの状態です。そこからから一度リセットする、今ココ自分に、本来の面目、命の世界に立ち戻らせるはたらきが「関!」なのです。  

 特に死は誰にとっても受け入れがたいものです。先ほど説明した「一字関」はよくお葬式等で目にしたことがあるかと思います。その一声で亡者も生者もその大声で迷いも吹き飛んで、今ココ自分に、本来の命の世界に立ち帰ることができるのです。ですから、この場面は葬儀式の中で一番重要であり、導師の力量、境界が如実に顕れる場面なのです。かといって、引導だからといって「導いてやろう」と思って導けるものではありません。導師自身がどれだけ無心の境地で今ココ自分を尽くして、本来の面目になりきっていることによって、自然と周囲も感化され、自他同じく転じていくものです。 

 私の修行時代に小参という公開の禅問答で実際にあったことですが、先輩の修行僧が板橋興宗禅師に「これから私はどうしたらよいでしょうか」と言うような内容のことを問いかけました。普段は禅師は冷静淡々とお応えされていた印象があったのですが、問いが終わるやいなや「莫妄想!」と大声で一喝されました。周囲にいた私自身も身体に電流が走り、我に返りました。その声は今の今まで胸の奥で響いています。いつも理屈をつけて怠けようとする心が湧き上がってくると禅師の声が甦ってきて叱咤と共に遮断してくれ、今日まで坐禅に励む原動力になっています。板橋禅師の練り込まれた禅定力によって発せられたその一喝は、二十五年経った今も私にとってはまさしく「関!」であります。

最後に参考までに雲門宗の指導教化の特徴を三つご紹介します(雲門三句)。

「函蓋乾坤(かんがいけんこん)」箱と蓋のように、師家と学人がぴたりとあった指導をおこなう。
「截断衆流(せつだんしゅる)」学人の煩悩妄想を絶ち切ること。
「随波逐浪(ずいはちくろう)」相手の個性に随って指導をすること。
次回はこの「関」によって大悟した大燈国師の言葉を紹介します。

 4/15  「法王法如是」
一挙手一投足、仏のはたらき
 前回の従容録の第一則「世尊陞座(せそんしんぞ)」の続きです。「挙す世尊一日陞座、文殊白槌して云く、諦観法王法 法王法如是。世尊便ち下座。」 前回は「諦観法王法」で、その後に続く「法王法如是」を取り上げます。お釈迦様が法座に登られて、無言の大説法が繰り広げられました。文殊菩薩は、間髪入れずに、「お釈迦様が説かれた仏法の最高の教え、究極の教えは是の如し」と大声して、更にカチーンと槌を打たれた。という問答です。 

この「如是」ですが、禅学大辞典には「かくのごとし。このままこの通り。その解釈には種種の立場がある。」とされ、この場合は「印可を証明する語」として用いられています。

 この大辞典の「如是」の解釈が私には正直わかりにくかったのですが、秋野孝道禅師(1858 - 1934、曹洞宗大学・現・駒澤大学学長。總持寺貫首、曹洞宗管長。黙照円通禅師)の宝鏡三昧講話の「如是之法、佛祖密」の部分の解説がしっくりしたのでご紹介します。?『この如是についてはいろいろ古人の釋があります。~略~主峰宗密禅師は「聖人の説法は ただ妙を顕さんが為なり、ただ如を是と為す、故に如是と稱すと」いふて居ります。要するに如是の二字を以つて佛法は盡きてゐるのであります。~略~ 世界中一切の物は如是法の現成と申してもよい、つまり、如は形のない方をいひ、是は形のある方をいふのである、世界は本體の如と現象の是と離れたものではない、如の中に是があり、是の中に如があるのである。』とあります。

 この世の現象や形ある存在は、全て真如という目には見えない万有に偏在する根源的なはたらきとひとつであるというのです。ですから、目に見えるものだけに価値を置いたり、意味付けをすると、その背景にあるものが見えなくなってしまいます。目に見えるものの裏側にある「はたらき」に気がつくことこそ仏祖方が親しくきめ細やかに伝えてきた仏法の最重要点なのです。 

そこを般若心経では「色即是空、空即是色」と表現し、禅語では「明歴々露堂々」といって、目に見える大自然の姿、天地間の事々物々は、悉く仏のはたらきが現れたものであると説くのです。ですから、これから本番になる春も、この自分も、全てのものも悉く仏のはたらきがあらわれたものであるというのです。それを禅では特に「本来の自己」といい、それを明らかにしていく「己事究明」を禅の第一義として修行に励んでいくのです。 

また、「大学」という書物の冒頭にある「大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親たにするに在り、至善に止まるに在り」(意訳:大学の道の第一は、自分が生まれつき持っている素晴らしい徳を発揮すること。その徳を人々にも及ぼして、それぞれの持つ徳を発揮できるように導くこと、そして、最高の善の境地に至って常に維持するように努めていくこと)はこの「如是の法」に気付き、社会や生活に活かし、さらに維持していくかを教えてくれますが、仏教でも儒教でも大切にしている世界は同じであります。 

さて、話を戻して、お釈迦様の無言の大説法も文殊菩薩の白槌も、その背景には大宇宙の大自然の法則、仏がはたらいています。今ここ、自分に、一挙手一投足にその仏のはたらきが現れています。この「世(せ)尊(そん)陞(しん)座(ぞ)」はそのはたらき「法王法である如是の法」「仏のはたらき」を見極めよ。そして発揮せよ。との文殊菩薩の力強い白槌の「カチーン」が時空を越えて今ここにまで響き渡ってきます。 ここで更に先ほどの「大学」の教えからさらに補足するなら、この如是法を発揮していくならば自らに止まらず、周囲にもその影響が及び、同じように法王法に目覚め、発揮していくようになっていくというのです。ですから、この「法王法である如是の法」を発揮している状態を維持していくことこそ仏道であるといえるのではないでしょうか。

 最後に、この第一則の頌古をご紹介します(宏智正覚禅師が簡潔に詩の形式で表わしたもの)。頌云、一段眞風見也麼、(一段の眞風見るや也たなしや)綿綿化母理機梭。(綿綿として化母機梭を理む。)織成古錦含春象、(織り成す古錦春象を含む、)無奈東君漏泄何。(東君の漏泄を奈何ともすることなし。)

意訳一段とずば抜けた純粋な真実の仏法である真風万物を生育する根源のはたらきは絶えることはない(朝から晩まで機(はた)を織っている)。それによって変わることのない無限のはたらき(古錦・如)と姿形(春象・是)がひとつとなって出来上がっているのが今ここ自分だ。釈尊の無言の大説法はまさに春の神様が春の景色を漏らし通しのように、いつでも何処でも、このことに目覚めよと、発揮せよと、説法し続けている(それを文殊菩薩がハッと気が付いたので、もうわざわざ言葉で説明する必要がなくなった)。
 4/1  「諦観法王法」

春の訪れ。本来の自己を見極めよ。 
 従容録(しょうようろく)の第一則にある曹洞宗では有名な禅語であります。中国の北宋の禅僧、宏智正覚(わんししょうがく)禅師(1091~1157年)が百則の禅問答を撰び頌を附けられたものです。その後に萬松行修禅師が、有名な雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)禅師(980~1052)が百則の禅問答を撰び頌を附けられ、後世に圜悟克勤(えんごこくごん)禅師(1065~1135)が垂示、著語、評唱を附けて提唱された碧巌録に倣って、示衆、著語、評唱を附けて門人の為に提唱されたものです。 

 その第一則に「世尊陞座(せそんしんぞ)」があります。「挙す世尊一日陞座、文殊白槌して云く、諦観法王法(たいかんほうおうほう)、法王法如是(ほうほうほうにょぜ)。世尊便ち下座。」 場所は霊鷲山であろうと言われています。お釈迦様の御説法があるというので、大勢の弟子達が今か今かとお待ちしていました。するとそこにお釈迦様が現れて、高座に上りお座りになりました。そこで微笑まれたのか、禅定に入られたのかはわかりません。とにかく一言もおっしゃられない。何を語られるか待ちわびていた周囲の弟子達を前に、文殊菩薩が進み出て、カチーンと槌を打って弟子達に告げました。「諦観法王法、法王法如是」  それを聞いたお釈迦様はそのまま高座を降りてしまわれた。という話です。 

 【諦観法王法】。「諦観」とは物事の本質を見極めること。「法王法」とは、仏法の最高の教え、究極の教えのことです。ですから、今ここに置いてお釈迦様の大説法が無言のうちに繰り広げられた、それをはっきりと見極めよ。との文殊菩薩が示しています。なおその後に続く【法王法如是】については次回説明させていただくことにします。 今お釈迦様が高座にのぼられたばかりで、まだ一言半句も説いていないのに、本来、法話が終わってから唱えるべきこの語を発せられたのにはどんな意図があったのでしょうか。そこで、この本則に対して示衆といって、萬松禅師がこの問答の大意を聴衆に示した文章を見ていきましょう。 

「衆に示して云く、門を閉じて打睡して上上の機を接し、顧鑑頻申(こかんひんしん)曲げて中下の為にす、那(な)んぞ曲碌木上(きょくろくもくじょう)に鬼眼晴(きがんぜい)を弄(ろう)するに堪(た)えん、箇の傍(かたわ)らに肯(うけが)わざる底あらば出で来たれ、也(ま)た伊(か)れを怪しむことを得ず。」
意訳:怜悧な優れた修行者には説くまでもないので門を閉じて昼寝していよう。他の修行者には本意ではないが、引き締めたり、緩めたりといろいろな方便を用いて、なんとか導いていこう。かといって、偉いお坊さんが曲碌という椅子に腰掛けて一喝・一棒を加えたりするような(そんな演技のような)真似はできない。もし、それでも納得できない者は出で来たれ。もちろん、その人を怪しむようなことはしないから。  

 毎朝坐禅・朝課、六時の梵鐘の後に寺から山側にのぼって三十分から約一時間散歩をすることが習慣になっています。夜が白々と明けていく時に、東の空は色が何層にも重なり、時々刻々と濃さを増していきます。そして、ある瞬間を境に一気に光が今度は薄く変化していきます。その時々刻々とめまぐるしい変化には、説明は全く必要ありません。言葉では言い尽くせない世界が展開しています。そして、そのような大自然、大宇宙の運行に接することで一日の生きる力が不思議と自分の中から湧いてきます。その時、理屈を超えた言葉では説明がつかないものが己の中にあることに気づくのです。  お釈迦様の大説法も同じです。大自然、大宇宙の丸出しです。ただ、その丸出しに気がつけるかどうか。もし気がついたら、お釈迦様の無言の大説法に感極まることでしょう。なぜなら大自然、大宇宙の姿は本来の自己そのものだからです。丸出しである本来の自己に出会えた、気付いたその瞬間は、歓喜や感激が沸々と湧き出して来るのです。

 さて、曹洞宗ではよく新しい住職が晋山式において本堂の須弥壇上に建って説法、問答をします。これを上堂と言います。その際に、白槌師と呼ばれるお役の和尚がそのはじめに「法筵龍象衆 当観第一義」(今から座上の和尚が法を説かれるから、今ここに集まっている龍象の如き大衆よ、各自、本当の仏法、本当の自分を観よ、究めよ)と注意を与えます。その後、法演があり、終わって、また白槌師が歩み出て槌を打ち鳴らし「諦観法王法、法王法如是」と唱えることになっています。

 次回は「法王法如是」を取り上げたいと思います。 

 3/15  「修禅定」
活力を養い、心を治める坐禅
  もうすぐお彼岸です。お彼岸とは春分の日、秋分の日を中日とした前後三日間(入りと明け)、計七日間であり、日本発祥の仏教行持であります。一般的にお彼岸というとお墓やお寺にお参りする先祖供養の期間と思われがちですが、本来は六波羅蜜という徳目を修める、仏道修行の一週間であります。
 禅学大辞典によると彼岸は「生死輪廻の迷いの世界を此岸とするのに対して、解脱涅槃の悟りの世界をいう」とあります。この彼岸に至ることを、「波羅蜜」といい、般若心経に出てくる「波羅蜜多」と同じ意味で、サンスクリット語の「パーラミター」を音写した語です。
 その修行には六つの徳目があり(六波羅蜜)は、この世にいながらにして彼岸に至るために実践すべき修行のことです。
①布施波羅蜜 ②持戒波羅蜜 ③忍辱波羅蜜 ④精進波羅蜜 ⑤禅定波羅蜜⑥智慧波羅蜜

 今回は五番目にある「禅定」を取り上げます。梵語である“禅那”を漢訳した「定」との組み合わせた梵語と漢語の合成語であり、一般的に坐禅と同じ意味で用います。また、静慮も訳されます。

 曹洞宗ホームページによると『曹洞宗は坐禅の教えを依りどころにしています。坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」となります。日々の生活を意識して行い、互いに生きる喜びを見いだしていくことが、曹洞宗の目指す生き方です。』とあります。坐禅を根本中心とした宗派ですので基本的には毎日修行をしております。

 また、お釈迦様の遺言である遺教経の中にも「八大人覚(大人・だいにんが目覚めていく八の修行項目)」の六番目として修禅定が挙げられています。

「若し定を得る者は、心則ち散ぜず。譬へば水を惜(おし)む家の、善く提塘(たいとう)を治するが如し。行者も亦た爾(しか)なり。智慧の水の為の故に、善く禅定を修して、漏失(ろしつ)せざらしむ。是れを名づけて定と為す。」

意訳:もしこの禅定の修行を続け保ち得たならば、心が散ったり、乱れたり、乱されることはない。譬えば水を大切にする家は、堤防をよく管理保全するようなものである。修行者もまた同様である。智慧の水を得るために、よく禅定を修めて漏失させることがない。これを名づけて修禅定という」

 先日私用で京都に出掛けました。所用を終えて時間があったので二十三年ぶりに臨済宗のある寺院に拝観に行きました。以前訪れたときにたまたまご住職が在院されていてお話を伺う機会を得ました。ご住職は全身に活力と気がみなぎって、ほんの十分ほどでしたが随分と元気と活力をいただいたものです。後にご住職は大変著名な和尚さまであると知ることになり、冷や汗をかきましたが、底の抜けた禅僧とはかくあるべきと大変印象に残りました。

 あれから二十年。さすがにもう、拝観のお相手はされてはおられないだろうと思って入ったところ、なんと、あの時と同じ場所に凜然と坐っておられたのです。それも英語で観光客の相手をされていました。さらに驚いたのは、そのお顔の張り、溌剌としたお声が当時と変わらず、それどころか、更に輝きが増しておられるようにお見かけ致しました。なんと御年九十二歳とのことで、今でも時間のある限り観光客のお相手をされているそうです。

 禅僧の生き様、底力を垣間見た思いでした。おそらく九十二歳の現在でも坐禅を日々継続、修行なされているに違いありません。その不断の坐禅によって「提塘を治むる」ように、禅定を養い、丹田に生きる活力やエネルギーを堤のように蓄え、智慧の水を散逸させないで、自由自在に治めておられているのでしょう。その禅定力によって九十二歳の今でも参拝者や観光客に元気を与えておられるのだと拝察致しました。

 最後にその和尚さんの「今こそ出発点」という言葉を紹介します。いつ聞いても、生きる勇気が湧いてきます。今にもご住職の声で聞こえてきそうです。

「今こそ出発点」

人生とは毎日が訓練である
わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である
今この幸せを喜ぶことなく
いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう
わたくし自身の将来は
今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る
 3/1
 「桃花笑春風」桃花春風に笑(え)む
人の世は変わっても、春は変わらずやってくる。
 桃の節句の頃の軸物です。桃の節句といえば三月三日ですが、特に信州では四月を過ぎないと咲きません。よく子どものころ春休みに母の実家である東京に行くとき特急あずさの車窓から、山梨に入ると一面の桃花が見えました。今でも卒業と進級のシーズンとこの桃花の淡い紅色が重なって思い出されます。
 この「桃花笑春風」は中国の唐の時代に活躍した、崔護(さいご)の漢詩「人面桃花」の一節をから、『依旧』の二字を省いて五字にしたものです。次のような恋の物語の中に出てくる言葉です。
※「笑」は「咲」と表記してある場合もありますが、どちらも「えむ」と読みます。

 崔護は清明の日(二十四節気 毎年四月四日前後)都城の南の郊外にある桃の花咲く人家を訪ね、門を叩いて飲物を求めたところ、美しい娘が厚遇してくれました。それが忘れられずちょうど一年後の清明の日に、再びその家を訪れると門が閉じていて逢うことができなかったので、崔護は詩を門の左扉に次のように書きつけました。

去年今日此門中  去年の今日、此(こ)の門の中
人面桃花相映紅  人面桃花相い映じて紅なり
人面不知何処去  人面は知らず、何処にか去る
桃花依旧笑春風 桃花旧(ふるき)に依(よ)り春風に笑(え)む

意訳
ちょうど一年前のこの清明の日、この門の中であなたと出逢った。
あなたの頬に庭に咲いていた桃の花の淡い紅色が映って美しかった。
しかし、一年後に訪れてみると、あなたの姿は此処にはない。いったい何処に去ってしまったのだろうか。
ただ、庭には桃花が昔と同じく春風を受けて咲きほころんでいる。

 すべての存在は移り変わってやみません。命は露の如しといわれますが、人の姿や世の中は歳月に流されて一瞬たりともとどまることはありません。しかし、私たちは日常の中であまり大きな変化に遇うことはあまりありません。例えば、畳の一日の見た目の変化に気が付くことはありませんが、一ヶ月、一年と経つと、そのあせた色がはっきりと区別できます。ということは、人間の視覚では認知することはできなくても、たった一日でも、一秒でも確実に変化をしているわけです。ただ、人間にはその変化が目でわからない故に、この自分や相手という存在あるものは実体のある存在、変わらないものと錯覚してしまっているのです。

 この詩の最後の「桃花旧に依り春風に笑む」は、その変化に裏には、変わらない大自然の法則があることを詠っています。これは中国最古典の易経の三義である、不易・変易・易簡で説明ができます。「変易」宇宙万物はいつも変化しつつあり、季節も春夏秋冬と変化し続けています。その変化の流れのなかで、私たちは生きています。人間社会も例外ではありません。その変化は一定の変わらない法則でなりたっています。春夏秋冬の循環も一定です。これを「不易」といいます。そして、その法則はシンプルであって簡単であるとするのです。陰と陽の繰り返し。プラスとマイナスが法則通りに現れているというのです。これを「易簡」といいます。

 形あるものは、刻々と変化を繰り返し、人は必ず死を迎えます。「愛別離苦」といって、愛するものでも必ず別れが訪れます。特に毎日ふれあっていた存在が、目の前から居なくなる。その時に如何ともしがたい悲しみに襲われます。世の無常を感じるときです。道元禅師は学道用心集の中で「唯世間の生滅無常を観ずるの心も亦また菩提心と名づくと」その時こそ本当のことに目覚める時だ。菩提心、本当のことを求めていく心、道心を発すときだと示されています。

 崔護もきっと変わらない美しい娘さんが居ることを期待してちょうど一年後に訪れました。期待は裏切られたわけですが、桃花が春風に微笑んでいるかのように咲きほころんでいる姿にハッとさせられます。娘さんの本当の命、不生不滅の命は何処にもいっていない。桃の花と一緒に今ここに咲きほころんでいるとも読み取れるのです。

 三月は別れの季節。

「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ。」行基 
たとえ、悲しい別れであっても、その相手は、今ここ、大自然、すべての中にはたらき続けている。その変わらない命に目覚め、今ここ自分を尽くして生きることによって、本当の意味で自分も相手も活きてくるといえるのではないでしょうか。

 2/15  「不滅」
仏は説き続けている。
 二月十五日は今から約二千五百年前のお釈迦様のご命日です。涅槃の語源は古代インドのサンスクリット語「ニルバーナ」で、貪瞋痴(むさぼり、いかり、おろかさ)の三毒煩悩の火を吹き消すこと、吹き消された状態をいいます。
 なお、お釈迦様は生前に肉身を有する状態でお悟りを開かれました。この肉身のまま、涅槃の状態に入っていることを「有余涅槃」、お亡くなりになって肉身を滅した状態のことを「無余涅槃」と言い、涅槃の状態を生前・後で分けています。
 全国の各寺院では、二月十五日(月遅れで三月に行う場合もある)にあわせて涅槃図を掲げます。インドのクシナガラの沙羅双樹のもとで、今まさに涅槃に入られようと頭を北に向け、右脇を下にお休みになっているお釈迦さまが中心に配置されています。その周りを菩薩や、天部の神々、鬼神や夜叉や多くの弟子達、動物たちが取り囲んで悲しみにくれている様子が描かれている絵であります。その涅槃図に向かって最後の教えが説かれた「遺教経(ゆいきょうぎょう)」を読誦して報恩の供養を行います。これを涅槃会といいます。
 お釈迦様は亡くなられ、荼毘に付されたので、肉体としてお釈迦様の命は尽きてしまったので、この世にはおられませんが、法華経の第十六に如来寿量品というお経の中には、後述しますが仏の教えやはたらきは不滅であると説かれています。

 梅花流御詠歌の大聖釈迦如来涅槃御詠歌に「不滅」という曲があります。
「ひとたびは 涅槃の雲に いりぬとも 月はまどかに 世を照らすなり」 

この歌は曹洞宗の御詠歌の制定に尽力された久我尚寛老師が作詞されました。
 命がつき、入滅なされたお釈迦様の不滅の教えと、そのはたらきを輝く月になぞらえています。前半の歌詞は、月が雲間に入ってその姿が見えない状態、これは私たちの心を現しています。雲とは貪瞋痴(むさぼり、いかり、おろかさ)の三毒の煩悩にたとえるとわかりやすいかと思います。私たちが貪瞋痴によって心が曇っていることに気づいて、修行をしていくことで心が澄み渡ってくると、実は既に、いつでもどこでも仏のはたらきによって照らされていたことを覚るのです。
 前述の法華経如来寿量品には次のように書かれています。「わたし(釈尊)はすべての存在を救おうとするが為に、方便として入滅したのであり、ほんとうは常に、今此処において教えを説き続けているのである。わたしは常にこの世に現れていますが、神通力によって迷っている人々には、姿を見せないようにしているのです。人々はわたしの死を見て、わたしの遺骨を供養し、わたしを懐かしく思い、慕い敬う心を起こしました。人々が信仰心を起こし、心が素直になり、仏に会いたいと願い、人々はわたしの入滅を見て、もう一度仏に逢いたいという渇仰の心を募らせ、命をも惜しまない強い気持ちを持つようになれば、その時わたしは弟子達と一緒に霊鷲山に現れるであろう。」とあります。
 昨年の十二月一日から七日までの釈尊成道の臘八接心会の時、坐禅の前に毎朝暁天の空を仰ぎながら歩いていました。日を追う毎に、お釈迦様も同じようにこの星空のもと坐禅をされたのだという想いが募ってきました。すると、もちろん実際にお釈迦様に逢ったことはないのですが、不思議と懐かしさが湧き出てきて、今此処にお釈迦様と同じ空間を共有しているような気持ちになりました。そして、特に八日の朝は嬉しさいっぱいに包まれたのです。一週間の坐禅を通じて心の奥底でお釈迦様のお説法が私に届き、照らされていたのかも知れません。そのとき「接心」とはお釈迦様と心を接するという意味としても受け取ることができました。

最後に道元禅師の「涅槃会」と題する偈頌を紹介します。

鶴林(かくりん)月落ちて暁(あかつき)何ぞ暁(あ)けん
鳩尸(くし)花枯れて春も春ならず
恋慕(れんぼ)何為(いかんせ)ん顛狂(てんきょう)の子
紅涙(こうるい)を遮(さえぎ)って良因を結ばんと欲す

私訳

沙羅双樹が白鶴のように真っ白に枯れた釈尊入滅の時、月が西に傾き、真っ暗闇のまっただ中。
入滅の地クシナガラは、春だというのに花枯れて悲しみの中にある。
それは釈尊への恋慕の念は取り乱した子どものようだ。
悲嘆にくれて流す涙を何とか遮って、釈尊の教えに従って良い因縁を結ぼうと仏道修行に邁進しようと心に誓う。

 2/1
 「雪裏梅花只一枝(せつりのばいかただいっし)」
寒雪の中で微笑み、逞しく咲く梅花。真の生き方。

 正法眼蔵梅花の巻にあるこの有名な句は、道元禅師のお師匠である天童山の如浄禅師の詠まれた偈頌にあります。
「瞿曇打失眼晴時 雪裡梅花只一枝 而今到處成荊棘 却笑春風繚乱吹」
『瞿曇眼晴(ぐどんがんぜい)を打失する時 雪裏の梅花只一枝 而今(にこん)の到処に荊棘(けいきょく)と成ず 却って笑ふ春風の繚乱(りょうらん)として吹くことを』
意訳:釈尊の心の眼(悟りの世界)から見ると、寒雪の中咲く梅花の一枝に真理が現れている。今見渡す限りの茨や棘といった妨げの場所にあって、春風が微笑みながら入り乱れて吹いていることこそ真理の姿である。

 この師匠如浄禅師の偈頌に対して道元禅師は次のように示しています。
「雪裏梅花は一現の曇花なり。ひごろはいくめぐりか我佛如來の正法眼睛を拜見しながら、いたづらに瞬目を蹉過(さか)して破顔せざる。而今すでに雪裏の梅花まさしく如来の眼睛なりと正傳し、承當す。」

意訳:雪の中に咲く梅花は仏のたぐいまれな教えである。日頃は幾たびか私の中にある仏・如来の一番肝心な眼「雪裏梅花」をみていながら、いたづらにお釈迦様の拈華瞬目をあやまってやりすごしてきた。今や「雪裏梅花」こそ如来の眼そのものであったことが、はっきりと頷くことができた。

 この梅花の巻は道元禅師が四十四歳の時、二十年前に中国の南宋に渡って、やっとのことで巡り会った正師の言葉を懐かしく思い出すとともに、今「雪裏梅花」を目の前にして師匠の境地がはっきりと明らかになった悦びが伝わってきます。

 ここ諏訪地方は県内屈指の寒冷地であり、まだまだ梅が咲くような季節ではありませんが、この極寒の中にあっても梅はコツコツと花を咲かせるために精一杯命を燃やして生きています。もちろん梅だけではありません。毎朝散歩をするとアスファルトの隙間から草が霜に凍りながら生えているのをみます。寒さに耐えているというよりも力強さと逞しさがみなぎって、寒さを吹き飛ばしているように感じます。そんな霜まみれの草に朝日が差し込むと、まるで微笑んでいるかのような輝きを放っているようでもあります。また、近くの凍てついたため池には鴨が多数飛来していますが、これもまた寒さをエネルギー・元気に転換しているかの如く、活き活きと、まるで楽しんでいるように見えることがあります。

 どんな環境にあっても我を忘れて本分を尽くすことに専念しているとき、寒さすら生きる力に変え、悦びとする世界を雪裡梅花は教えてくれているようです。


 同じく正法眼蔵の現成公案の巻の冒頭に
「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」とあります。私事ですがヨーガの教室で、身体の硬い箇所を伸ばすときなど、頭から全身まで「痛い」世界になることがあります。痛い世界になりきってしまったその瞬間、悩みや悟ろうとする心も何もかも吹き飛んで“それのみ”になった経験があります。

 この「痛み」を「苦しみ」であると自分の意識が勝手に結びつけて考える癖や意識があります。「寒さや雪」イコール「苦しみ」と勝手に思い込んでいるだけなのではないでしょうか。実は「寒さや雪」は私たち活き活きさせるものでもあり、生かしめている大いなる宇宙のはたらきであり、そのはたらきによって「花が咲く」という結果となって現れている。即ち「寒さや雪」イコール「花が咲く」。私たちの生活に譬えれば、悩み苦しみにあっても、微笑みながら力強く生きる姿こそ真実の世界であり、真の生き方なのかもしれません。
 1/15 紅爐上(こうろじよう)一点雪(いってんのゆき)
厳寒時こそ、何事も汗を滲み出して取り組む。
 碧巌録(へきがんろく)第六十九則「南泉圓相」の垂示に記された禅語です。一般的には「紅爐一点雪」の五字に縮めて茶掛けに使われます。

 燃え盛って紅色になった炉(または、紅蓮の燃え盛っている炎)に、一片の雪が舞い落ち、瞬時に蒸発し跡形もなくなっている様子を現しています。

 「紅炉」を心が燃え盛り智慧の光を放っている状態とみて、ひらひらと舞い落ちる一片の雪を私たちの煩悩、迷妄、苦悩と捉える見方です。自らの本来の姿・使命に目覚めて今ここに汗を滲み出すほどの熱量を込めて生きていると、余計な欲望や迷い苦しみが急に現れても、跡形もなく消え去るということです。

 禅宗の僧侶は毎朝坐禅を四十分行いますが、曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」であります。よく誤解を受けるのですが最初の「只」だけの意味をとって「ただ坐ればよい」と平易に解釈をしてしまう傾向があります。禅語大辞典にもありますが「只管」は「ひたすらに」「余念を交えずに」とあり、この余念がない状態というのは極度の集中状態であり、まさしく「ど真剣」であります。安谷白雲老師は著書の中で「本当に只管打坐を実行すると、厳寒の折でも汗がにじみ出るほどのものである。~中略~ だから、うっかりさわると、火花が散るとでもいったような緊張ぶりで、只管に打坐するのである。それをつづけると、自然に本来の仏に帰る。」と示されています。まさに自分自身が紅炉になって火の玉になって坐り、作務(作業)、事務仕事であっても同じような熱量をもって取り組むのです。

 そのように熱量をもって取り組んでいる姿は一見してわかります。私たちも熱せられたヤカンと冷めたものは触わらなくても何となくわかるものです。本人には自覚はなくても熱せられた紅爐からほとばしっている熱量が伝わってくるからでしょう。坐禅も後ろ姿を見れば一目瞭然です。安谷老師が言われるようにド真剣に坐っている姿にうっかりさわると電流で火花が散るかと思うほどです。

 さて、この禅語には有名なエピソードがあります。

 それは有名な武田信玄と上杉謙信と川中島の戦いで、朝靄がまだ晴れていない間に、上杉謙信が単騎で武田軍の本陣へ攻め入り、作戦を練っていた信玄に一太刀を浴びせようとした時の話です。

上杉謙信「如何なるか是れ剣刃上の事(今まさに斬り殺される心境はいかがか)」と問い、刀を下ろしました。
そこでとっさに武田信玄は『紅爐上一点の雪(その刀はひとひらの雪のようなもの、瞬時に跳ね返す。斬られるものなど何もない)』と答え、持っていた鉄扇で謙信の刀を振り払ったとされます。

 「甲陽軍鑑」によると信玄は、甲斐の長禅寺の開山岐秀元伯禅師(得度の師として「機山信玄」の法名を与えた)に就いて「碧巌録」を七巻まで参禅したといいます。戦場にあって練り上げた禅の境界が祖録を通じてとっさに口をついて出たのだと思います。信玄と謙信のこのど真剣同士の逸話は後世に語り継がれています。

 最後に碧巌録第六十九則の垂示を紹介します。

啗啄(たんたく)の無き処、祖師の心印、状(かたち)、鉄牛の機に似たり。
荊棘林(けいきょくりん)を透る衲僧家、紅炉上一点の雪の如し。

意訳:言葉も及ばない、歯が立たない祖師方の悟りの世界は、まるで大きな鉄で鋳た牛のようにびくともしない境界である。

その境界即ち、生と死の一大事を透過するすぐれた修行僧は、いつでもド真剣そのものだ。

 
 令和6年
1/1
和気兆豊年 
和気豊年を兆(きざ)す

和やかさこそ良い年の兆し。
新年を迎え、この一年の平穏無事を誰もが願い祈っておられることでしょう。

 この禅語は正月や節分など年始めに、五穀豊饒や天下泰平などを祈って床の間にかけられるお目出度い禅語のひとつです。出典は南宋末の禅僧、虚堂(きょどう)智愚(ちぐ)(1185-1269)の語録「虚堂録」にあります。

只だ万乗の帝君の如きは、深く此の道を信じ、遠く御香を降して、瑞雪を祈求せしむ。祷に応ずる一句、作麼生(そもさん)。師云わく、和気豊年を兆す。僧云く、与麼(よも)ならば則ち化育(けいく)を逃れ難し。師云く、恩を知る者は少くなし。

【私訳】
僧:皇帝はめでたい印とされる雪を求めて祈るが、このことについてお示しください。
師:季節の順当に移ることがめでたい年の兆しである
僧:それでは自然のはたらきから人間は逃れることはできないではないですか
師:自然のはたらきの恩恵を知るものは少ない。

 「禅語字(じ)彙(い)」には、「五風十雨(ごふうじゅうう)は豊年の兆なり」とあります。「五風十雨」は五日ごとに風が吹き、十日ごとに雨が降る意から、世の中が平穏無事であるたとえであり、気候が穏やかで順調なことで、豊作の兆しとされています。

 ですから、一般的に「和気」を季節の順当に移ることとしています。私はこの問答に更に意味を加えて、人々の心が和やか、穏やかであれば、それこそめでたいことであるという意味も含まれているのではないかと思います。

 「天の時は地の利に如(し)かず、地の利は人の和に如かず」と孟子にありますが、どんなに天候など絶好の機会を与えられ、地の利や条件があっても、人の和にはかなわないというのです。どんな逆境でも皆が一致団結して対応すれば、困難も必ず克服できるということです。「和気」をこのような広い意味に受け取ってみたいのです。

 そうすると後の問答も意味合いに幅が出てきます。「自然のはたらきだけでなく、人間関係の影響からは誰も逃れられないではないか。」「自然が順調であって、さらに人間同士が仲が良いことの恩を知る者は少ない」と受け取ることができます。

 昨今は気候変動が著しく、人間活動によって排出される二酸化炭素の増加に伴う地球温暖化がますます進んでいます。また、ウクライナやイスラエルの戦火も終わりが見えない混沌とした時代です。人間の進化は気候だけでなく、人間同士の在り方も問われているのではないでしょうか。

 この一年をより良いものにしていくための秘訣はこの「和気」ではないかと思いますし、まず身近なところから「和気」ある生活をしていきたいと思います。