令和八年 瑞雲寺 伝道掲示板

     
 2/15  「末後の一句」
今日は人生最初で最後の一大時

 末期とは禅学大辞典によれば「最後。最後に。ついに。終りの。究極の。また命終の時をいう」とあり、末期の一句は「末後の一句とも。向上絶対の一句。仏道極妙の境地を述べた活句。」とあります。
 日曜坐禅会の後に毎月一回無門関の勉強会をしており、先月は第十三則徳山托鉢を取り上げました。師匠である徳山宣鑑禅師(782~856)と兄弟子の巌頭全豁、弟弟子の雪峰義存との間で末後の一句がテーマになって問答が繰り広げられる話です。
昼食の合図である雲板や太鼓が鳴らないのに、鉢を持って食堂に来た住職である師をなじって方丈に戻らせた典座の雪峰に対して、あの師は「まだ末後の一句が手に入っていない」とわざと周囲に聞こえるように巌頭が答えました。それを伝え聞いた師は巌頭を呼びよせ、その真意を問います。すると翌日の師の説法は見違えるほどになり、巌頭は喜んで師が末後の一句が手に入った、もう誰も手出しが出来ないと宣言した。という話です。
 なお公案についての私見はここでは避け、詳細は各自無門関の原文を手に取って参究してください。

 さて、末後の一句というと、禅僧の遺偈でもあります。最期の最後に、死の間際にその心境を吐露して偈頌にしたためるものです。
 飯山の正受庵で臨済宗中興の祖、白隠禅師を厳しく指導し、眼を開かせた正受老人(道鏡恵端)は、八十歳のある朝、次の遺偈を書にしたため、坐禅をされたまま、からからと大笑せられ、そのまま遷化されたといいます
「坐死」
末後一句
死急難道 (しきゅうにしていいがたし)
言無言言 (むごんのごんをごんとし)
不道不道 (いわじ いわじ)
私訳:坐死 死はいつでも忽然とやってくる(いやいや、死はいつでもやってきているぞ)。末後の一句などわざわざ言っている暇などない(末後の一句などといかにも大事なことのように思っているが、そんな特別のものはない。いつでもどこでもなんでも末後の一句じゃないか)。
そもそも言葉では究極のところは言い表せない(言葉などなんの当てにもならない)。
言うまい言うまい(わざわざ言わなくても今まで生きてきたこと全てが末後の一句におさまっているぞ)。

 私たちが考える「死」とは心臓が止まって冷たくなった命終の状態を示しますが、実は今この瞬間も生と死が一つになっているのが真実の見方です。この身体は一瞬一瞬変化して留まることがありません。生と死をひたすら繰り返しています。時間軸で見てみても同様にこの一瞬、この一日はこれが最期で最後の一瞬で一日です。一瞬の死がまた一瞬の生を生み出しているのです。
 圜悟禅師の「生也全機現、死也全機現」も生も死も同じ大自然のはたらきである。生が尊く、死は忌み嫌うのは人間の頭の世界の話です。わざわざ末後の一句など命終の時だけ、また究極の一句などと持ち上げるものではありません。強いて言えば、生死がひとつになった今ココこの一瞬こそ真実であり、尊く貴いといえるでしょう。
 ですから、赤ちゃんのが産まれときの「オギャー」と、人が息を引き取るときの「ンー」を、仏教では仁王様の阿吽で表現しますが、どちらも同じ尊さがあるのです。ここのところを、無門慧開禅師は「最初の句を識得すれば、便ち末後の句を会す。末後と最初と、是れ者の一句にあらず」頌しておられます。最初も最後も、いや人生の風景全てが一大事であり、同価値であるのです、
 ですから、大事なのは今生きていること。それ自体が尊く貴いということです。ただ、そのことに気がついて精一杯人生を今日一日を尽くしきって生きるか、ただ、楽な方に流されて、無駄に過ごすか。そこに優劣があるわけでありませんが、尽くしきって生きることは、苦しさも伴いますがそれ以上の心の悦び、充実感も得られるのです。楽に流された一日は一時的であり、心はいつも今に直視できなくて、楽な刺激を求めて彷徨い、満足できないために愚痴る生活に陥ってしまいます。愚痴は、真実を知ろうとしない心です。これが、疑心暗鬼になったり、右往左往したり、不確かな情報に振り回されることになってしまいます。それでは、せっかくのたった一度の人生もったいない。
  今日は人生最初で最後の一大時。一大時は一大事でもあります。「死んだつもりでやれ」と昔よく言われましたが、死は人生最後ととらえれば「人生最後だと思ってやれ」と言う意味であります。実は「つもり」でなく、どの一日も一瞬も本当に最後なのであります。また、今日は釈尊涅槃会(当山は月遅れで三月七日に行います)、お釈迦様の最期のお説教「遺教経」はもちろん、全ての経典や言葉に学び、常の一切の行為。行住坐臥のすべての行履にも真理が現れておられます。偲びつつ、学び、真似ていきたいと思いを新たにしたいと思います。
 2/1  「正師を得ざれば、学ばざるに如(しか)ず」
求めて学べば、必ず師匠は現れる。
 道元禅師の学道用心集にある言葉です。学道用心集は宋から帰朝して普勧坐禅儀を撰した翌年1234年に撰述されたもので、仏道修行を志す者が、真っ先に心掛けることを十章あげています。その第五に「参禅学道は正師を求むべき事」に詳細に出てきます。その後半部を紹介します。

「正師を得ざれば、学ばざるに如ず。夫れ正師とは、年老耆宿(ぎしゅく)を問はず。唯だ正法を明めて、正師の印証を得るものなり。文字を先(さき)とせず、解会を先とせず、格外の力量あり、過節の志気ありて、我見に拘はらず、情識に滞らず、行解相応する、是れ乃ち正師なり。」
意訳:正しい師匠を求め得ることが出来なければ、仏道を学ばない方がよいくらいだ。正しい師匠であれば年齢や修行歴などの経歴は問題にしない。ただ、正しい(如来の)仏法を明きらかにして、その正師たる印可証明を得たものでなくてはならない。文字言句を知ることや、仏教教理を理解することが仏道修行の第一ではない。正師とは、文字、教理の理解を超えた、徹底した修行の力量を持ち、大きな求法の志を持ち、自己中心的な考えに拘わらず、分別を離れた、修行(修)と見解(証)が一致した方こそ正師である。

 道元禅師にとっては、宋国で出逢った如浄禅師がまさしく正師でありますので、師のお姿を眼に映じながらこの文章を書かれたことでしょう。よきお師匠様には必ずよきお師匠様があられるはずです。昨年ご講演いただきました八田捷也先生には佐保田鶴治先生というヨーガ禅の大巨匠がおられるわけです。そして、その八田先生のお弟子様の坂本悦子先生に今ヨーガ禅を教えていただいているのも有り難いご法縁といえます。
 私自身が僧侶として沢山の曹洞宗や他宗の老師にもお世話になりましたが、皆それぞれに大先達の正師をお持ちであります。ただ知っているというのではありません。そ膝下で学び、ご修行されたことを今以て実践されている方ばかりです。
 では、正師に出逢うのにただ待っていればよいのでしょうか。何処かに良い師匠さんが自分を見つけてくれて、手取り足取り教えてくれるということは無いと思います。
 以前それに近い考えをしている若手の僧侶がいて幻滅した事があります。誰かが学ぶことを教えてくれるまで待っていることほど愚かなことはありません。まず自分から学ぶことです。道を求めることです。そうすれば、その志のアンテナの周波数に見合った師匠が現れてくるのだと思います。師匠は自分自身の心の投影であると思います。ですから、道を学ぼうとしない人、求めていない人には正師が勝手に現れて教えてくれることはないと思います。
 もし、正師たる人物に近づくことがあっても、こちらのアンテナが立っていなければ、ご縁が繋がらないでしょう。ただ、そのような人物に出逢ったことでアンテナが立つということもあるでしょう。それは潜在的な道を求める心が出逢いによって目覚めたのではないかと思います。
 さて、二月三日が節分。約一ヶ月弱の寒中も終わり、いよいよ季節は春になります。マイナス十℃を下回る日でも参禅される皆様に本当に頭が下がります。求道心がないと、この富士見の寒中に参禅することはできません。冬場だからと坐禅をお休みすると、せっかくの求道心が育ちません。寒中だからこそ求道心が育ち、高まり、深まり、広がるのです。特に坐禅はどんな環境にあっても心を坐らせることです。良い条件、環境でないと坐れないというのではもったいないと思います。
 1/15  日日是好日
悩む日も真実の姿だから安心して大いに悩む。
 茶道をテーマにした「日日是好日」という映画がありましたが、禅語の中でも五本の指に入るほど有名な言葉であります。
漢字五文字中三文字が「日」で「好」という字の組み合わせがとても明るく、とても好い日、良い日常を想起させてくれます。茶掛けでよく見ることが多いのでご存じの方も多いと思います。
 この禅語は碧巌録第六則「雲門日日好日」が出典です。
「挙す。雲門垂語して云く。十五日已前は汝に問わず、十五日已後、一句を道い将ち来たれ。自ら代わって云く、日日是れ好日」

 雲門文偃禅師(864-949)は中国唐代の禅僧。雪峰義存禅師の法嗣で雲門宗の開祖と言われています。有名なのが「雲門の三句(函蓋乾坤、截断衆流、随波逐浪)」と「雲門の一字関」であり、その宗風は機鋒峭峻であり、語句は簡潔、接化の手段も他と著しく異なるものがあった(禅学大辞典)。
 雲門禅師が修行僧達に垂示をしながら問いただします。ちょうどその日が十五日だったのでしょう。「十五日以前の事は問わないが、十五日以後、お前さんの禅の境地を示す一句を持ってこい」という問いです。それに対して、修行僧達は誰も答えられる者はいませんでした。
 そこで雲門禅師自ら「日日是れ好日」と答えられたのです。
 よく「毎日が好い日である。」と解釈されることが多く、人生は毎日が好い日の連続であって欲しいわけです。しかし、実際にはそうではありません。天気のように晴れの日もあれば雨あられの日も、どんよりと曇った日も、大雪で立ち往生してしまう日だってあります。体調の良い日も悪い日もあるのが人生です。それをどうして好い日だと言えるのでしょうか。
 好いに対して悪いをセットで考えてしまうのは人間だけでしょう。悩みのない状態は良い。悩みがあるのは悪いという比較する価値観は人間が勝手に作り上げたものであります。そもそも大自然にはよし悪しはありません。人間にとっては災害であっても、大自然には害という概念がありません。比較して考えるのは人間の頭の中だけのことです。この比較なしの真実の世界を雲門禅師は頌に「上下四維等匹無し(どこにいっても比べるものなし)」と示しています。
 「人間は悩める生き物」ともいわれますが、悩みは悪いわけではありません。「悩みによってはじめて知恵は生まれる。悩みがないところに知恵は生まれない」といったのは古代ギリシャの詩人のアイスキュロスです。また、ゲーテは「人は努力する限り迷うものである。」ともいいました。
 誰しもそれぞれ何かしらの悩みや迷いを抱えて生きています(ちなみに悩みランキングのトップは健康面だそうです)。もしその悩みのない楽園のような日々が生涯続くならば、それは人生と言えるでしょうか。
 やはり、悩みも迷いも大事な人生の一コマであるのです。悩まなければならない時節は大いに悩むしか道はありません。そこから解決に向けた努力と智慧が生まれ、新しいものが生み出されていくことに繋がるのです。ですから悩むことは悪いことだという考えは捨てて、これも真実の姿、人生の一風景だと安心して悩むことができたら「日日是好日」でしょう。
 しかし、頭だけで「安心して悩む」と理解しただけではこの境地には至れません。だからこそ修行があるのでしょう。私は「日日是れ修行」が「日日是れ好日」と同意語に思えてなりません。さすがは雲門禅師が「句中に機を蔵す」といわれるだけの、軽々しく近づけない一句であります。
 1/1  「新年仏法問如何」
「楽」や「辛さ」では量れないものを問う


 謹んで新春をお祝い申し上げます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

 心新たにこの一年を始めるにあたり、私自身が昨年末に心をリセットさせていただいたことをお話ししたいと思います。
 昨年十二月一日から七日まで朝晩お釈迦様がお悟りを開いた成道会に因んで瑞雲寺でも臘八攝心会を修行いたしました。毎回参加された地元の方、それから日中も坐りたいと、ほぼ一日中坐禅された方もおられました。「坐禅は安楽の法門なり」と道元禅師は普勧坐禅儀でお示しではありますが、実際に平常の坐禅で一回の四十分を坐るだけでも特に足に負担がきます。それを何回も繰り返すと痛みが出てきます。この苦痛と向き合うのは正直辛いものです。
 それがこれらの皆さんは休んでいる時間はほとんどなく、ひたすらに坐禅されていました。また、現役でお仕事でも活躍されているので、時間に余裕があるのではなく、限られた時間を捻り出しての参禅であります。足の痛みもあるでしょうし、休みの日など楽をしようと思えばいくらでもできる状況にあるでしょう。おそらく仏法とは「楽」や「辛さ」では量れないものであることを自得されておられるのです。これには曲がりなりにも禅宗である曹洞宗僧侶、すなわち禅僧であると自称している自分自身が本当に恥ずかしくなりました。
 毎朝坐禅していること、坐禅会を開いて、未熟な説法をして満足している自分。それは外に向けての自分に他なりません。本当に自分自身を深く掘り下げて坐禅をしていく、己の修行がまだまだ充実していないのです。それは自分自身に手を当ててみればよく自分が一番よくわかります。
 ただ、昨年の臘八摂心では参禅者の皆さんの姿に私自身が大変感化され、菩提心、求道心が沸々と湧き上がってきたように思います。一ヶ寺の住職であろうと、いつでも仏法に対して問題意識を持って、常に問いかけていきたいものです。

 さて、今回は大智禅師の偈頌であります。大智禅師(1290-1366)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧で詩偈の天才と評されています。
「元旦」と題する二首のうちの一つであります。

新年仏法問如何(新年の仏法如何と問う)
開口不須説似他(口を開いて 他に説似することを須(もち)ひず)
露出東君眞面目(露出す 東君 眞面目)
春風吹縦臘梅花(春風吹き縦(ほころ)ばす 臘梅花)

(意訳)
心新たに元旦に仏法の一大事を自らに問いかけてみる。
それは、言句を超越しているので、とても口を開いて言葉にして他人に説けるものではない。
説けるものではないが、天の神が 本来の姿を現してくれている。
それは春の風に臘梅の花が一心に、ひたすらに咲きほころぶ姿である。

 参禅者の一心ひたすら前向きな姿は、まさしく大自然のはたらき、仏法そのものであります。しかし、一心ひたすら前向きになれない時は誰にでもあるものです。私自身も当然あります。そのときの自分を分析してみると「楽をしたい」「辛いことから逃げたい」という思いに頭が占領されています。そんなときは、寒いという言い訳を振り切って思い切って外に出てみることです。この行動こそ「新年の仏法如何と問う」です。問いかけとは、積極的に行動することに他なりません。そこには大自然のはたらき、仏法が何時でも何処でも展開されているというのです。その姿に触れた分だけ自分の中にも「楽」や「辛さ」では量れない仏法の価値観が発動してくるのではないでしょうか。

「新年の仏法如何と問う」からはじめてみたいと思います。