令和八年 瑞雲寺 伝道掲示板

     
 3/15  「諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法」
善行為にはご先祖様の応援と助けがある。
 お釈迦様の涅槃会は二月十五日ですが、寒さや雪の心配される当山では、月遅れで三月にお勤めしております。涅槃とは、サンスクリット語のニルヴァーナの音写で、三毒である貪欲と瞋恚と愚癡の煩悩の火が滅し吹き消された状態のことで、安らぎや悟りの境地をいいます。その意味では、仏教における修行の究極目標、修行実践上の目的を指し示す言葉であります。また、一般的にはお釈迦様がお亡くなりになったことを示し、生命の火が吹き消された死去(入滅)を意味する言葉として使われます。
 本来はお釈迦様の入滅の月日は不明であるようですが、原始仏教ではインド暦の第二の月のヴァイシャーカ月の満月の日とされ、このことから中国や日本に伝わった大乗仏教では二月十五日と定めたようであります。当山では、御射山神戸の三偉人の一人江戸時代の伊藤山亭老翁が描いた涅槃図を掲げ、法要を勤め最後に絵解きをしながら、お釈迦様の教えに触れていただいております。
 涅槃図中央のお釈迦様はまさに涅槃に入ろうとする瞬間であります。その姿は金色に輝いていて、横たわってはおりますが、その表情は死んでいるようには見えません。生きているように描かれているのです。よく枕経で故人様のお顔を拝見する機会がありますが、お釈迦様と同じように眠っているようであったり、中には軽く微笑みを浮かべておられる方もおられます。そこには、生物としての死だけでは説明できない、生死を超えた大いなる命の存在を感じざるを得ません。本当の命、人間の本質は決して死んでいないのではないか。滅することはないのではないかと思うことがあります。
 その永遠なる不生不滅の命のことを、仏性といいます。人間はじめ生きとし生けるものの本質は仏性であり、その仏性によって生かされて生きているという真実に目覚めるのが仏教の第一義であるのです。この仏性に生かされて生きていることに目覚めるために、お釈迦様は様々な教えや修行実践を説かれ、遺教経では八大人覚を説かれました。八つの大人の自覚です。

第一は「少欲」欲を無くすのではなく、欲を少なくしなさい。五欲(財・色・食・名誉・睡眠)を追求しない。欲の多い人は、求めることも多く苦悩も大きい。欲を少なくすれば、心の憂いや畏れがなくなり、安らぎとゆとりが得られると説かれます。
第二番目が「知足」足ることを知ることです。
これで十分ですと知ることです。このこころが無いと一生涯欲望に引きづりまわされて、財産があっても苦しみから逃れることが出来ません。
第三番目が「楽寂静」静けさです。
現代は特に情報が多すぎて、騒がしい世の中です。情報過多と言われる時代です。時には喧噪から離れて静かに自己を見つめることを楽しみとするのです。
第四番目が「勤精進」精進つとめ励むことです。
修行は休み休みするのではなく。一気呵成に行う。どんな小さな事でも精一杯精進すれば、事ととして難しいことはない。必ずやり遂げることが出来るのです。
第五番目が「不忘念」正しい教えを心に念じて決して忘れない。
欲望の誘惑に負けずに、いつも念じ続けることです。そうすれば、善知識の師匠や、同行、外護の者が現れて仏道を成就できます。
第六番目が「修禅定」坐禅して心を静めることです。
心が散乱していては確かなもの(世の中の道理・真実)を見抜くことが出来ません。
第七番目が「修智慧」聞思修証を起こすことです。
よく仏法の道理を聞いて、よくのみ込んで、実践していくと智慧を得ることができます。この正しい智慧こそ、苦悩の海を渡る船であり、暗黒の世の灯火であります。
八番目が「不戯論」無益な議論はしないことです。
教えを自分と関係ないことだと思っていると、無益な議論をするようになります。教えを自分の問題として自分で実践していくこと、今自分がなすべき事を今取り組むことこそが大事であります。

 そして、遺教経には「我が諸の弟子、展転して之を行ぜば、即ち是れ如来の法身常に在して而も滅せざるなり」とあります。この八つの項目を実践していけば、いつでも仏様が常に存在して私たちに影響を与えていることがわかると説かれています。法華経の如来寿量品にも「諸有修功徳 柔和質直者 則皆見我身 在此而説法(諸の有らゆる功徳を修する、柔和質直なる者、則ち皆我が身、此に在って法を説くと見る)」と同じことが説かれています。
 この八項目はすべて関わり合っていますので、先ずは自分が取り組めそうなものをひとつでも実践してみるのです。そうすれば仏の声なき説法が聞こえてきます。ここで言う仏はお釈迦様に限りません。皆さんのご先祖様、親しい亡き人の声なき声も聞こえてきます。何も霊能者に聞いたり、滝に打たれたり、神様を拝んだから聞こえるというものではありません。私たちが仏の行い、実践していく中に、共に仏や故人がいるのです。そこに仏のはたらき即ち「仏性」が現れているともいえます。亡き人は今お身体は大自然にお返しして、この仏性そのものとして私たちを常に支え、応援し、生かしてくれているのです。
 しかし、私たちは五欲の一時的な快楽や享楽に溺れて振り回されて、仏性に生かされて生きているという本質を忘れてしまっています。
涅槃会や三月十七日から始まる彼岸会、故人のご命日などは、先人達が本心本質をを見失っている私たちに、目を覚ます機会を与えてくれたのだと思うことがあります。宗教はその役割を担っているのです。
 本心に目覚めて善き行いを修せば、いつでもご先祖様、亡き人の応援、助けがあるものです。仏性に生かされて生きている。仏に手を合わせ、仏の説かれたことに耳を傾ける機会を大切にしていただきたいと思います。
 3/1
 
「是処即是道場」
日常生活や心が調うと善き方向に自然と転じてくる。

  「是処即是道場」は妙法蓮華経第二十一巻の如来神力品の一節であります。永平寺御開山の道元禅師が入寂される時に、療養していた京都の深草の一室の柱に、唱えながら書き記した経文であります。

「若しは園中に於いても、若しは林中に於いても、若しは樹下に於いても、若しは僧坊に於いても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、是の中に、皆応に塔を起てて供養すべし。所以は何ん。当に知るべし。是の処は即ち是れ道場なり。諸仏此に於いて阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏此に於いて法輪を転じ、諸仏此に於いて般涅槃したもう。」
超訳しみますと「何時でも何処であっても、自分が今立っている場所はすべて仏道を実践修行する道場であると目覚めて、この命を生かそうではないか。仏様もすべて今此処において本当の生き方に目覚め、仏道を実践し、究極の悟りを得られたのである。」

 このことに目覚めて生きないと、無駄に日暮らししてしまいます。なんとなく一日を過ごすことを「空過流転」といって時間の殺生です。本来生かせる命を生かさなかった一日をつくってしまった「殺生」とも言えます。
 私たちはどこか別の世界に究極の楽園というか、極楽浄土、悟りの世界、仏の世界があると思ってしまいます。そうではなく今此処、自分の今立っている場所、その以前に自分の命を自立させなくてはいけません。これを孟子は「立命」といわれました(立命館大学の名前の由来でもあります)。この命を立てた処を「道場」と呼び、「阿耨多羅三藐三菩提を得、法輪を転じ、般涅槃する」場所であるのです。
 お釈迦様もお悟りを開かれたといって安楽な世界に安住していたわけではありません。いやむしろ、当時としては驚異的な八十歳になって、入滅される直前までご修行とお説教を続けられました。今でも息を引き取る直前まで説かれたものが「遺教経」として今でも涅槃会、お通夜で拝読する習わしになっています。
 この世は「娑婆国土」といって苦しみに満ちた世界であるから、早く極楽の世界に行こうというのではなく、今此処に自分の全身全霊をかけてみる。ひとつになってみる。そこに阿耨多羅三藐三菩提を得、法輪を転じ、般涅槃の場所であると思い切って飛び込んでみる。そうすると、俗的にいえば「いいモノ」が出来てくる。善き方向に転じてくるのです。もちろんモノは物品だけに限りません。日常生活や精神、心も含まれます。すべてが善き方向に変わってくるのです。
 マイナスもプラスに転じてくる。自分自身が変わってくる。自分が変われば相手も世界も変わってくるのです。世の中が、法輪が転じてくる。その原点こそ「是処即是道場」という自覚であると思います。

 2/15  「末後の一句」
今日は人生最初で最後の一大時

 末期とは禅学大辞典によれば「最後。最後に。ついに。終りの。究極の。また命終の時をいう」とあり、末期の一句は「末後の一句とも。向上絶対の一句。仏道極妙の境地を述べた活句。」とあります。
 日曜坐禅会の後に毎月一回無門関の勉強会をしており、先月は第十三則徳山托鉢を取り上げました。師匠である徳山宣鑑禅師(782~856)と兄弟子の巌頭全豁、弟弟子の雪峰義存との間で末後の一句がテーマになって問答が繰り広げられる話です。
昼食の合図である雲板や太鼓が鳴らないのに、鉢を持って食堂に来た住職である師をなじって方丈に戻らせた典座の雪峰に対して、あの師は「まだ末後の一句が手に入っていない」とわざと周囲に聞こえるように巌頭が答えました。それを伝え聞いた師は巌頭を呼びよせ、その真意を問います。すると翌日の師の説法は見違えるほどになり、巌頭は喜んで師が末後の一句が手に入った、もう誰も手出しが出来ないと宣言した。という話です。
 なお公案についての私見はここでは避け、詳細は各自無門関の原文を手に取って参究してください。

 さて、末後の一句というと、禅僧の遺偈でもあります。最期の最後に、死の間際にその心境を吐露して偈頌にしたためるものです。
 飯山の正受庵で臨済宗中興の祖、白隠禅師を厳しく指導し、眼を開かせた正受老人(道鏡恵端)は、八十歳のある朝、次の遺偈を書にしたため、坐禅をされたまま、からからと大笑せられ、そのまま遷化されたといいます
「坐死」
末後一句
死急難道 (しきゅうにしていいがたし)
言無言言 (むごんのごんをごんとし)
不道不道 (いわじ いわじ)
私訳:坐死 死はいつでも忽然とやってくる(いやいや、死はいつでもやってきているぞ)。末後の一句などわざわざ言っている暇などない(末後の一句などといかにも大事なことのように思っているが、そんな特別のものはない。いつでもどこでもなんでも末後の一句じゃないか)。
そもそも言葉では究極のところは言い表せない(言葉などなんの当てにもならない)。
言うまい言うまい(わざわざ言わなくても今まで生きてきたこと全てが末後の一句におさまっているぞ)。

 私たちが考える「死」とは心臓が止まって冷たくなった命終の状態を示しますが、実は今この瞬間も生と死が一つになっているのが真実の見方です。この身体は一瞬一瞬変化して留まることがありません。生と死をひたすら繰り返しています。時間軸で見てみても同様にこの一瞬、この一日はこれが最期で最後の一瞬で一日です。一瞬の死がまた一瞬の生を生み出しているのです。
 圜悟禅師の「生也全機現、死也全機現」も生も死も同じ大自然のはたらきである。生が尊く、死は忌み嫌うのは人間の頭の世界の話です。わざわざ末後の一句など命終の時だけ、また究極の一句などと持ち上げるものではありません。強いて言えば、生死がひとつになった今ココこの一瞬こそ真実であり、尊く貴いといえるでしょう。
 ですから、赤ちゃんのが産まれときの「オギャー」と、人が息を引き取るときの「ンー」を、仏教では仁王様の阿吽で表現しますが、どちらも同じ尊さがあるのです。ここのところを、無門慧開禅師は「最初の句を識得すれば、便ち末後の句を会す。末後と最初と、是れ者の一句にあらず」頌しておられます。最初も最後も、いや人生の風景全てが一大事であり、同価値であるのです、
 ですから、大事なのは今生きていること。それ自体が尊く貴いということです。ただ、そのことに気がついて精一杯人生を今日一日を尽くしきって生きるか、ただ、楽な方に流されて、無駄に過ごすか。そこに優劣があるわけでありませんが、尽くしきって生きることは、苦しさも伴いますがそれ以上の心の悦び、充実感も得られるのです。楽に流された一日は一時的であり、心はいつも今に直視できなくて、楽な刺激を求めて彷徨い、満足できないために愚痴る生活に陥ってしまいます。愚痴は、真実を知ろうとしない心です。これが、疑心暗鬼になったり、右往左往したり、不確かな情報に振り回されることになってしまいます。それでは、せっかくのたった一度の人生もったいない。
  今日は人生最初で最後の一大時。一大時は一大事でもあります。「死んだつもりでやれ」と昔よく言われましたが、死は人生最後ととらえれば「人生最後だと思ってやれ」と言う意味であります。実は「つもり」でなく、どの一日も一瞬も本当に最後なのであります。また、今日は釈尊涅槃会(当山は月遅れで三月七日に行います)、お釈迦様の最期のお説教「遺教経」はもちろん、全ての経典や言葉に学び、常の一切の行為。行住坐臥のすべての行履にも真理が現れておられます。偲びつつ、学び、真似ていきたいと思いを新たにしたいと思います。
 2/1  「正師を得ざれば、学ばざるに如(しか)ず」
求めて学べば、必ず師匠は現れる。
 道元禅師の学道用心集にある言葉です。学道用心集は宋から帰朝して普勧坐禅儀を撰した翌年1234年に撰述されたもので、仏道修行を志す者が、真っ先に心掛けることを十章あげています。その第五に「参禅学道は正師を求むべき事」に詳細に出てきます。その後半部を紹介します。

「正師を得ざれば、学ばざるに如ず。夫れ正師とは、年老耆宿(ぎしゅく)を問はず。唯だ正法を明めて、正師の印証を得るものなり。文字を先(さき)とせず、解会を先とせず、格外の力量あり、過節の志気ありて、我見に拘はらず、情識に滞らず、行解相応する、是れ乃ち正師なり。」
意訳:正しい師匠を求め得ることが出来なければ、仏道を学ばない方がよいくらいだ。正しい師匠であれば年齢や修行歴などの経歴は問題にしない。ただ、正しい(如来の)仏法を明きらかにして、その正師たる印可証明を得たものでなくてはならない。文字言句を知ることや、仏教教理を理解することが仏道修行の第一ではない。正師とは、文字、教理の理解を超えた、徹底した修行の力量を持ち、大きな求法の志を持ち、自己中心的な考えに拘わらず、分別を離れた、修行(修)と見解(証)が一致した方こそ正師である。

 道元禅師にとっては、宋国で出逢った如浄禅師がまさしく正師でありますので、師のお姿を眼に映じながらこの文章を書かれたことでしょう。よきお師匠様には必ずよきお師匠様があられるはずです。昨年ご講演いただきました八田捷也先生には佐保田鶴治先生というヨーガ禅の大巨匠がおられるわけです。そして、その八田先生のお弟子様の坂本悦子先生に今ヨーガ禅を教えていただいているのも有り難いご法縁といえます。
 私自身が僧侶として沢山の曹洞宗や他宗の老師にもお世話になりましたが、皆それぞれに大先達の正師をお持ちであります。ただ知っているというのではありません。そ膝下で学び、ご修行されたことを今以て実践されている方ばかりです。
 では、正師に出逢うのにただ待っていればよいのでしょうか。何処かに良い師匠さんが自分を見つけてくれて、手取り足取り教えてくれるということは無いと思います。
 以前それに近い考えをしている若手の僧侶がいて幻滅した事があります。誰かが学ぶことを教えてくれるまで待っていることほど愚かなことはありません。まず自分から学ぶことです。道を求めることです。そうすれば、その志のアンテナの周波数に見合った師匠が現れてくるのだと思います。師匠は自分自身の心の投影であると思います。ですから、道を学ぼうとしない人、求めていない人には正師が勝手に現れて教えてくれることはないと思います。
 もし、正師たる人物に近づくことがあっても、こちらのアンテナが立っていなければ、ご縁が繋がらないでしょう。ただ、そのような人物に出逢ったことでアンテナが立つということもあるでしょう。それは潜在的な道を求める心が出逢いによって目覚めたのではないかと思います。
 さて、二月三日が節分。約一ヶ月弱の寒中も終わり、いよいよ季節は春になります。マイナス十℃を下回る日でも参禅される皆様に本当に頭が下がります。求道心がないと、この富士見の寒中に参禅することはできません。冬場だからと坐禅をお休みすると、せっかくの求道心が育ちません。寒中だからこそ求道心が育ち、高まり、深まり、広がるのです。特に坐禅はどんな環境にあっても心を坐らせることです。良い条件、環境でないと坐れないというのではもったいないと思います。
 1/15  日日是好日
悩む日も真実の姿だから安心して大いに悩む。
 茶道をテーマにした「日日是好日」という映画がありましたが、禅語の中でも五本の指に入るほど有名な言葉であります。
漢字五文字中三文字が「日」で「好」という字の組み合わせがとても明るく、とても好い日、良い日常を想起させてくれます。茶掛けでよく見ることが多いのでご存じの方も多いと思います。
 この禅語は碧巌録第六則「雲門日日好日」が出典です。
「挙す。雲門垂語して云く。十五日已前は汝に問わず、十五日已後、一句を道い将ち来たれ。自ら代わって云く、日日是れ好日」

 雲門文偃禅師(864-949)は中国唐代の禅僧。雪峰義存禅師の法嗣で雲門宗の開祖と言われています。有名なのが「雲門の三句(函蓋乾坤、截断衆流、随波逐浪)」と「雲門の一字関」であり、その宗風は機鋒峭峻であり、語句は簡潔、接化の手段も他と著しく異なるものがあった(禅学大辞典)。
 雲門禅師が修行僧達に垂示をしながら問いただします。ちょうどその日が十五日だったのでしょう。「十五日以前の事は問わないが、十五日以後、お前さんの禅の境地を示す一句を持ってこい」という問いです。それに対して、修行僧達は誰も答えられる者はいませんでした。
 そこで雲門禅師自ら「日日是れ好日」と答えられたのです。
 よく「毎日が好い日である。」と解釈されることが多く、人生は毎日が好い日の連続であって欲しいわけです。しかし、実際にはそうではありません。天気のように晴れの日もあれば雨あられの日も、どんよりと曇った日も、大雪で立ち往生してしまう日だってあります。体調の良い日も悪い日もあるのが人生です。それをどうして好い日だと言えるのでしょうか。
 好いに対して悪いをセットで考えてしまうのは人間だけでしょう。悩みのない状態は良い。悩みがあるのは悪いという比較する価値観は人間が勝手に作り上げたものであります。そもそも大自然にはよし悪しはありません。人間にとっては災害であっても、大自然には害という概念がありません。比較して考えるのは人間の頭の中だけのことです。この比較なしの真実の世界を雲門禅師は頌に「上下四維等匹無し(どこにいっても比べるものなし)」と示しています。
 「人間は悩める生き物」ともいわれますが、悩みは悪いわけではありません。「悩みによってはじめて知恵は生まれる。悩みがないところに知恵は生まれない」といったのは古代ギリシャの詩人のアイスキュロスです。また、ゲーテは「人は努力する限り迷うものである。」ともいいました。
 誰しもそれぞれ何かしらの悩みや迷いを抱えて生きています(ちなみに悩みランキングのトップは健康面だそうです)。もしその悩みのない楽園のような日々が生涯続くならば、それは人生と言えるでしょうか。
 やはり、悩みも迷いも大事な人生の一コマであるのです。悩まなければならない時節は大いに悩むしか道はありません。そこから解決に向けた努力と智慧が生まれ、新しいものが生み出されていくことに繋がるのです。ですから悩むことは悪いことだという考えは捨てて、これも真実の姿、人生の一風景だと安心して悩むことができたら「日日是好日」でしょう。
 しかし、頭だけで「安心して悩む」と理解しただけではこの境地には至れません。だからこそ修行があるのでしょう。私は「日日是れ修行」が「日日是れ好日」と同意語に思えてなりません。さすがは雲門禅師が「句中に機を蔵す」といわれるだけの、軽々しく近づけない一句であります。
 1/1  「新年仏法問如何」
「楽」や「辛さ」では量れないものを問う


 謹んで新春をお祝い申し上げます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

 心新たにこの一年を始めるにあたり、私自身が昨年末に心をリセットさせていただいたことをお話ししたいと思います。
 昨年十二月一日から七日まで朝晩お釈迦様がお悟りを開いた成道会に因んで瑞雲寺でも臘八攝心会を修行いたしました。毎回参加された地元の方、それから日中も坐りたいと、ほぼ一日中坐禅された方もおられました。「坐禅は安楽の法門なり」と道元禅師は普勧坐禅儀でお示しではありますが、実際に平常の坐禅で一回の四十分を坐るだけでも特に足に負担がきます。それを何回も繰り返すと痛みが出てきます。この苦痛と向き合うのは正直辛いものです。
 それがこれらの皆さんは休んでいる時間はほとんどなく、ひたすらに坐禅されていました。また、現役でお仕事でも活躍されているので、時間に余裕があるのではなく、限られた時間を捻り出しての参禅であります。足の痛みもあるでしょうし、休みの日など楽をしようと思えばいくらでもできる状況にあるでしょう。おそらく仏法とは「楽」や「辛さ」では量れないものであることを自得されておられるのです。これには曲がりなりにも禅宗である曹洞宗僧侶、すなわち禅僧であると自称している自分自身が本当に恥ずかしくなりました。
 毎朝坐禅していること、坐禅会を開いて、未熟な説法をして満足している自分。それは外に向けての自分に他なりません。本当に自分自身を深く掘り下げて坐禅をしていく、己の修行がまだまだ充実していないのです。それは自分自身に手を当ててみればよく自分が一番よくわかります。
 ただ、昨年の臘八摂心では参禅者の皆さんの姿に私自身が大変感化され、菩提心、求道心が沸々と湧き上がってきたように思います。一ヶ寺の住職であろうと、いつでも仏法に対して問題意識を持って、常に問いかけていきたいものです。

 さて、今回は大智禅師の偈頌であります。大智禅師(1290-1366)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧で詩偈の天才と評されています。
「元旦」と題する二首のうちの一つであります。

新年仏法問如何(新年の仏法如何と問う)
開口不須説似他(口を開いて 他に説似することを須(もち)ひず)
露出東君眞面目(露出す 東君 眞面目)
春風吹縦臘梅花(春風吹き縦(ほころ)ばす 臘梅花)

(意訳)
心新たに元旦に仏法の一大事を自らに問いかけてみる。
それは、言句を超越しているので、とても口を開いて言葉にして他人に説けるものではない。
説けるものではないが、天の神が 本来の姿を現してくれている。
それは春の風に臘梅の花が一心に、ひたすらに咲きほころぶ姿である。

 参禅者の一心ひたすら前向きな姿は、まさしく大自然のはたらき、仏法そのものであります。しかし、一心ひたすら前向きになれない時は誰にでもあるものです。私自身も当然あります。そのときの自分を分析してみると「楽をしたい」「辛いことから逃げたい」という思いに頭が占領されています。そんなときは、寒いという言い訳を振り切って思い切って外に出てみることです。この行動こそ「新年の仏法如何と問う」です。問いかけとは、積極的に行動することに他なりません。そこには大自然のはたらき、仏法が何時でも何処でも展開されているというのです。その姿に触れた分だけ自分の中にも「楽」や「辛さ」では量れない仏法の価値観が発動してくるのではないでしょうか。

「新年の仏法如何と問う」からはじめてみたいと思います。