令和八年 瑞雲寺 伝道掲示板

     
 1/15  日日是好日
悩む日も真実の姿だから安心して大いに悩む。
 茶道をテーマにした「日日是好日」という映画がありましたが、禅語の中でも五本の指に入るほど有名な言葉であります。
漢字五文字中三文字が「日」で「好」という字の組み合わせがとても明るく、とても好い日、良い日常を想起させてくれます。茶掛けでよく見ることが多いのでご存じの方も多いと思います。
 この禅語は碧巌録第六則「雲門日日好日」が出典です。
「挙す。雲門垂語して云く。十五日已前は汝に問わず、十五日已後、一句を道い将ち来たれ。自ら代わって云く、日日是れ好日」

 雲門文偃禅師(864-949)は中国唐代の禅僧。雪峰義存禅師の法嗣で雲門宗の開祖と言われています。有名なのが「雲門の三句(函蓋乾坤、截断衆流、随波逐浪)」と「雲門の一字関」であり、その宗風は機鋒峭峻であり、語句は簡潔、接化の手段も他と著しく異なるものがあった(禅学大辞典)。
 雲門禅師が修行僧達に垂示をしながら問いただします。ちょうどその日が十五日だったのでしょう。「十五日以前の事は問わないが、十五日以後、お前さんの禅の境地を示す一句を持ってこい」という問いです。それに対して、修行僧達は誰も答えられる者はいませんでした。
 そこで雲門禅師自ら「日日是れ好日」と答えられたのです。
 よく「毎日が好い日である。」と解釈されることが多く、人生は毎日が好い日の連続であって欲しいわけです。しかし、実際にはそうではありません。天気のように晴れの日もあれば雨あられの日も、どんよりと曇った日も、大雪で立ち往生してしまう日だってあります。体調の良い日も悪い日もあるのが人生です。それをどうして好い日だと言えるのでしょうか。
 好いに対して悪いをセットで考えてしまうのは人間だけでしょう。悩みのない状態は良い。悩みがあるのは悪いという比較する価値観は人間が勝手に作り上げたものであります。そもそも大自然にはよし悪しはありません。人間にとっては災害であっても、大自然には害という概念がありません。比較して考えるのは人間の頭の中だけのことです。この比較なしの真実の世界を雲門禅師は頌に「上下四維等匹無し(どこにいっても比べるものなし)」と示しています。
 「人間は悩める生き物」ともいわれますが、悩みは悪いわけではありません。「悩みによってはじめて知恵は生まれる。悩みがないところに知恵は生まれない」といったのは古代ギリシャの詩人のアイスキュロスです。また、ゲーテは「人は努力する限り迷うものである。」ともいいました。
 誰しもそれぞれ何かしらの悩みや迷いを抱えて生きています(ちなみに悩みランキングのトップは健康面だそうです)。もしその悩みのない楽園のような日々が生涯続くならば、それは人生と言えるでしょうか。
 やはり、悩みも迷いも大事な人生の一コマであるのです。悩まなければならない時節は大いに悩むしか道はありません。そこから解決に向けた努力と智慧が生まれ、新しいものが生み出されていくことに繋がるのです。ですから悩むことは悪いことだという考えは捨てて、これも真実の姿、人生の一風景だと安心して悩むことができたら「日日是好日」でしょう。
 しかし、頭だけで「安心して悩む」と理解しただけではこの境地には至れません。だからこそ修行があるのでしょう。私は「日日是れ修行」が「日日是れ好日」と同意語に思えてなりません。さすがは雲門禅師が「句中に機を蔵す」といわれるだけの、軽々しく近づけない一句であります。
 1/1  「新年仏法問如何」
「楽」や「辛さ」では量れないものを問う


 謹んで新春をお祝い申し上げます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

 心新たにこの一年を始めるにあたり、私自身が昨年末に心をリセットさせていただいたことをお話ししたいと思います。
 昨年十二月一日から七日まで朝晩お釈迦様がお悟りを開いた成道会に因んで瑞雲寺でも臘八攝心会を修行いたしました。毎回参加された地元の方、それから日中も坐りたいと、ほぼ一日中坐禅された方もおられました。「坐禅は安楽の法門なり」と道元禅師は普勧坐禅儀でお示しではありますが、実際に平常の坐禅で一回の四十分を坐るだけでも特に足に負担がきます。それを何回も繰り返すと痛みが出てきます。この苦痛と向き合うのは正直辛いものです。
 それがこれらの皆さんは休んでいる時間はほとんどなく、ひたすらに坐禅されていました。また、現役でお仕事でも活躍されているので、時間に余裕があるのではなく、限られた時間を捻り出しての参禅であります。足の痛みもあるでしょうし、休みの日など楽をしようと思えばいくらでもできる状況にあるでしょう。おそらく仏法とは「楽」や「辛さ」では量れないものであることを自得されておられるのです。これには曲がりなりにも禅宗である曹洞宗僧侶、すなわち禅僧であると自称している自分自身が本当に恥ずかしくなりました。
 毎朝坐禅していること、坐禅会を開いて、未熟な説法をして満足している自分。それは外に向けての自分に他なりません。本当に自分自身を深く掘り下げて坐禅をしていく、己の修行がまだまだ充実していないのです。それは自分自身に手を当ててみればよく自分が一番よくわかります。
 ただ、昨年の臘八摂心では参禅者の皆さんの姿に私自身が大変感化され、菩提心、求道心が沸々と湧き上がってきたように思います。一ヶ寺の住職であろうと、いつでも仏法に対して問題意識を持って、常に問いかけていきたいものです。

 さて、今回は大智禅師の偈頌であります。大智禅師(1290-1366)は鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧で詩偈の天才と評されています。
「元旦」と題する二首のうちの一つであります。

新年仏法問如何(新年の仏法如何と問う)
開口不須説似他(口を開いて 他に説似することを須(もち)ひず)
露出東君眞面目(露出す 東君 眞面目)
春風吹縦臘梅花(春風吹き縦(ほころ)ばす 臘梅花)

(意訳)
心新たに元旦に仏法の一大事を自らに問いかけてみる。
それは、言句を超越しているので、とても口を開いて言葉にして他人に説けるものではない。
説けるものではないが、天の神が 本来の姿を現してくれている。
それは春の風に臘梅の花が一心に、ひたすらに咲きほころぶ姿である。

 参禅者の一心ひたすら前向きな姿は、まさしく大自然のはたらき、仏法そのものであります。しかし、一心ひたすら前向きになれない時は誰にでもあるものです。私自身も当然あります。そのときの自分を分析してみると「楽をしたい」「辛いことから逃げたい」という思いに頭が占領されています。そんなときは、寒いという言い訳を振り切って思い切って外に出てみることです。この行動こそ「新年の仏法如何と問う」です。問いかけとは、積極的に行動することに他なりません。そこには大自然のはたらき、仏法が何時でも何処でも展開されているというのです。その姿に触れた分だけ自分の中にも「楽」や「辛さ」では量れない仏法の価値観が発動してくるのではないでしょうか。

「新年の仏法如何と問う」からはじめてみたいと思います。