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戦後生まれラバウルへ行く

  
ぎりぎり戦後生まれの私に、戦跡ラバウルは直接の関係はないが、興味があって行った。

たまたま同行のツアー客は、「あなたは若いのに何故?」と訝しげだったが、彼らだって、せいぜい七十歳だから、この場合は若年となる。当時初年兵でも、戦後六十年のいまとなれば八十歳台になるので、海外旅行はそろそろ無理で、連れには、老生き証人は皆無だった。約七十歳の人達は、国民学校当時の銃後の本土でラバウルの話しを知っていて、それが懐かしく(それだけで)来たのだという。ラバウル東飛行場跡で彼ら彼女らは、初対面同士でラバウルの歌を合唱した。それも、誰もが知っている、さらばラバウルよ〜の「ラバウル小唄」ではない、私の聞いたことのない唄をいくつも。当時のラジオで流行ったのだそうだ。

私の海外旅行の目的は、いろいろあるが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」への上りと下りの現場を見ることにもある。「上り」では以前、旅順に行った。今年は日露開戦百周年でもある。「下り」太平洋戦争の代表は今回のニューギニア戦線だろう。前者は辛勝、後者は惨敗、国力の不足する日本は常に綱渡りの戦争をし、勝ったが、最後は、案の定負けた。
 
ラバウルの属するパプアニューギニア国は、三十年前、豪州による国連信託領から独立した。国土は世界第二位の大きさのニューギニア島の東半分「大陸部」と、島嶼部では、ラバウルが州都のニューブリテン島とそれと対をなすニューアイルランド島のビスマーク諸島、東のソロモン群島のうち、ブーゲンビル島などからなる。陸上の激戦があったのは、ソロモン群島の大半からなるソロモン諸島(国名)のガダルカナル島とニューギニア本島(西半分の現・インドネシア・イリアンジャヤも含み)北岸の各地だから、米軍の蛙跳び作戦で一種跳ばされた格好のラバウルには、思い出の跡はあるが、戦闘跡はほとんどない。以上が、ラバウルの今である。当時のラバウルについての説明は、「若年」の私ができることではない。

ただ、天然の要港であるラバウル湾(シンプソン湾)を取り巻く外輪活火山のうち、ダブルヴル山(日本名:花吹山)ほか一山が十年前にも大噴火をし、ラバウルの中心地区は現在、その降灰除去等の復旧中であることは、最近のニュースだ。

ラバウルの人たちには日本人と暮らした経験から日本的な生活様式が残っている。たとえば、話しをしていても、常に話し相手の意図を先回りして推測・理解しようとする。とは、ツアーガイドさんの解説だったが、私が話しかけるちょっとしたことでも、すぐに、そのことがわかった。日本人同士の会話と同様スムーズなのだ。いままで、日本語だから会話が楽だと思っていたのだが、彼らとの英語混じり(ピジンイングリッシュという英単語起源の自然発生語)の会話ででもスムーズなのは、全部を事細かに言わなくても相互理解が可能となる、日本的会話だったからだろう。

ラバウルの人も大陸部の人も容貌は濃褐色、アフロヘアでほぼ同じだが、会話の点となると、以上の違いが明らかだった。この点、相互理解、思いやりの文化をラバウルの人が当時の日本人より学び、引き継いできたのは、戦争の悪い面の中の明るい話しだと思う。

この稿ではいささか書き過ぎにはなるが、六十年前までの戦争に関し、現在の日本人がその責任を謝罪するとかしないとかは筋違いのことではないだろうか?当時成年でかつ戦争責任のある人はほとんど生存していない。子孫ではあるが人格的には単なる別人である我々が謝罪して何の意味があるだろうか。日本の戦争の地になったアジア各国で聞いてみたらわかる。「いまとなって、謝罪などする必要はない。それより、これからのことを考えるべきだ」と言うだけだ。国が強硬な東アジアでも、民衆(当時の実被害者である年配者にとくに)レベルではそのような謝罪要求など聞いたことがない。このような現地の人々の実際の考え方がわかるのも海外旅行の魅力の一つだ。ラバウルでもそうだった。

さらには、戦争を始めた理由ではどちらかが完全に悪い、ということはなく、だからこそ、武力で決着をつけたところに、仕方がないと言え、意味が残るのではないだろうか?戦後になって、占領軍が、戦時前政権を徹底的に悪く決めつけ、歴史を改ざんするまでするのは、占領政策上の常道なのである。真に受けて、日本(だけ)が悪い、と卑下する必要は全くない。一億総懺悔とか言って、一日ですべての価値をご破算にしてしまう日本人の節操のなさこそ、世界からみれば嘲りを受ける。

私が、坂の上り下りに興味があるのは、「日本は何故負けるとわかっていた戦争をしたか」にある。それも、途中で降参せず、惨敗、玉砕するまで戦うのか。日本には古来から武士道というものがあった。サムライの戦いは、勝ち負けはどうなろうと、名を惜しんだことに特徴がある。きらびやかな衣装、武具で、名乗りをあげてから、戦いに臨む。サムライとサムライとの神聖な戦いという共通認識があった。降伏するのも立派な儀式であった。

ニューギニアでの日本軍では、米豪軍の弾にあたった死者より、餓死、病死者が圧倒的に多かったという。戦争をさせるための鉄砲、大砲が不足し、そこへの弾もわずかだった。その前に、兵糧が不足していた。軍服、軍靴もぼろぼろになったら、替えどころか、修理もできない。片道一週間分だけの兵糧で、首都・南岸のポートモレスビーを北岸のブナから攻略せんと、分け入り、途中で引き返さざるを得なかったオーエンスタンレー山脈を機上から見ることができた。ジェット機ならひと飛びだが、二千メーター級の山を連ねた山塊は奥深く、頂上近くまで密林で、今でも人跡未踏の地だ。今の我々なら、破れた靴ではとうてい越えることができない。

軍人は、兵器の携行はもちろんだが、軍装をしていなければ、軍人とは認められない。敗残のぼろぼろ姿では、戦う資格がないのである。そうなる前に、降伏すべきなのだ。このような惨めな戦線になったのも、すべてが、敵の制海、制空権のもとで洋上補給がほとんどできなかったからで、ニューギニアのように隔絶した地域で戦争をするという戦略が最初から間違っていたと言われている。

大陸本島では北岸のマダンにも行った。今は海浜リゾートとなっているが、当時は日本軍の駐留地でもあった。そこの戦争博物館には、ニューギニア戦線の米豪軍側の兵器、写真などの展示品が数多くあったが、日本軍の遺棄兵器もわずかながらあり、小銃、機関銃などを彼我で比較すると、それだけでも勝ち負けを瞬時に言うことができる。そのような兵器で戦わされた日本兵の無念を思うと、そこにこそ戦争責任があり、今後、戦争をせざるを得ない状況になっても、以上のような戦いを強いるのであれば、最初から戦争という手段をあきらめるべきではないかと感じた。

旅の最後に、日本軍にとって未攻略の地、ポートモレスビーに寄った。市の名前の由来となったポートにはヨットハーバーが併設されており、港の見える丘には日本人駐在員の別荘風住宅もある。その丘から、青く澄み切った空、紺碧の珊瑚海を眺めると、今となってはわずか六時間半で成田から来てしまう、平和な時代の不思議さが感じられた。

来年は対露戦勝百周年にあたる。いまから百五十年前に米合衆国ペリーの黒船によって目覚めた日本が、百年前には坂の上の雲を見て、その後の四十年間の下り坂の終局で対米敗戦し、それから六十年の節目も迎える。この一世紀半を大局的に見れば、謝罪するかどうかより、日本にとっての大失敗があったことは確かで、それを未来への教訓とするのが歴史を正しくとらえるというものだろう。その意味で、未だ評価の定まらない近現代史のこのイシューに国民的議論が、六十年経った今だから、冷静に、かつ盛んになることを望みたい。近隣国が要求しているからと、思考停止の雰囲気になるのが今後の日本のために怖いと思うのである。