沿革

天理教豊文分教会長 山田 博明   1943年12月22日生 男
私は四代目です。
私の父一美は、昭和25年(1950年)当時 昭和教典が出て間もない頃「今の天理教は中山みき教祖の教えた、教えではない」と言い切って、祖父亡き後、教会長を継がなかった。
教会は、昭和25年(1950年)より、昭和27年9月まで無担任 昭和27年(1952年)9月から昭和47年(1972年)11月の20年間、上級会長の前会長婦人が会長であったが、教会へは20年間で何度かしか運んで来なかった。
私は昭和41年(1966年)教祖80年祭に初めて、天理教々会本部へ参拝をし、別席を運び、12月から修養科へ入学、最初にぶつかった疑問が教祖傳の頭に稿本と書かれた文字、初版から10年もたっているのに、一度も書き直した所もなし、次に教典第1章「我は元の神、実の神である。この屋敷に因縁あり、この度、世界一れつをたすけるために天降った、みきを神のやしろに貰い受けたい」これを読むと、元の神、実の神が天から降りて来て、みきの身体に入りこんだ (取り付いた) 神憑りとしか読み取れないのに、どの先生に聞いても、天降りと言い張る。
昭和47年(1972年)教会長を受け四代会長となった。その頃前後して、八島英雄先生(櫟本分署跡保存会代表)と話す機会が有、私の疑問に納得できるように話して下さった。何度か講話を聞くうちに、父一美の言った真実を見つける事ができたのです。
そして、初代川上沓次郎の、明治27.8年(1895,6年)頃自分で書き写した「御筆先」や「暗夜乃登母志火」を改めて、読んで見た。豊文分教会初代会長川上沓次郎が諸井国三郎山名大教会初代会長より受け継いだ教えに立返る事ができないと思っていた矢先 昭和48年(1973年)10月27日、教祖90年祭準備委員に対する真柱様のお話しが「ほんあづま」誌に載りましたその内容に感動したが、みちのともや天理時報では読めなかった。それから20年、平成9年(1997年)1月26日、三代真柱様の身上を通して、教祖への復元を宣言したが、本部員達や神道派の教会長達は動かなかった。それから5年四代真柱も言い続けて来たが動かない。
私は思い切って10分の1のかんろだいを木で自分で手作りし信者に説明し、真柱様の思いを伝え始めた時、天理教々会本部より修理人の先生が来られ、神殿に有る10分の1のかんろだいを見て「教祖は地方でのかんろだいづとめは許してはいない」と言われ、上級教会長から「八島先生の所へは勉強に行ってはいけない」と言われこれでは私の身と言うより、豊文分教会の初代会長から受け継がれた、中山みき教祖から諸井講社を通してこの教会に伝えられた、おつとめの歴史が私で途絶えてしまうと思い、今 真柱様の声に応じるには、天皇を神と説く偽りの神話、時代遅れの組織から独立するしかないと決め、平成13年(2001年)7月独立に踏切りました。
すぐに ベニヤ板で 教祖の教えて下さった大きさのかんろだいを作り、明治14年(1881年)に初めて木版で印刷された、みかぐらうたで毎日手踊り、毎月かぐらづとめを教祖が教えてくれた通りのおつとめを心楽しく勇んでつとめさせて頂いている毎日です。


この身体、親から私に生き通し
 心はころころ入れかわる
   
人の喜び楽しむように生まれついたのこの私
   
たすけ合えば勇む、争えばいづむ、ここまで育ったこの私
 
陽気づくめの世を創る、難渋たすけの生き甲斐で
 陽気に暮らすこの私。
                      合掌





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