ルーン=ケイリアック


「・・・ん?」

 違和感にクレイスは気が付いた。
 ベッドと机しかない、窓すらない殺風景な自室のベッドの上。そこで寝ていたクレイスはゆっくりと身を起こす。
 目は覚めている。肉体が死んでいるクレイスには休眠は必要ない。ただ、失った魔力を回復する為に寝ころんでいるだけだ。

「魔力が無い・・・」

 家の中に魔力が感じられない。
 この家の中は、四六時中ルーンの濃密な魔力が充満していて、魔力で生き長らえているクレイスにとってはまさに絶好の環境だった。
 なのに、今はむせかえるほどの強力な魔力が感じられない。どころか、イーグやフロア、キャシーの魔力も感じられなかった。感じられるのは、家に置いてある魔導具の魔力だけ。

「・・・外に出ているのか・・・?」

 この家は外界の魔力を完全に遮蔽する。
 これは、ルーンの魔力を家の中に留めて外に悪影響を及ぼさない為だった。
 もしもルーンが一ヶ月ほど外で過ごせば、魔女の森は魔界の森へと変貌してしまうと言う。それほどの強大な魔力をルーンは秘めている。

 そんな魔力の中で暮らしているクレイスたちは大丈夫なのかというと、クレイスは魔力は在りすぎて困ることはないし、魔力で動く魔導人形であるキャシーも同様だ。魔族の細胞が移植されているイーグも魔力の充満した場所は過ごしやすく、唯一普通の人間であるフロアだけが変な影響を受けないように、魔力を緩和する為の錠剤を1日に1錠飲んでいる。

 それはさておき。

 イーグたちが外へ出るのはそうおかしいことではないが、ルーンが家の中に居ないというのは珍しい事だった。
 ここへ来て一年になるが、クレイスの記憶では彼女が家を出たことは1回もない。

「・・・・・・」

 ルーンが家を出るというのを少し想像してみたが、想像すら出来ない。
 というか身の回りのことは全部キャシーがやって、自分の部屋から出ることすらほとんど無いのだ。部屋から出るのは飯の時間くらいだろうか。クレイスたちが来る以前は、朝食は全然取らずに。昼飯も殆ど食べなかったという。それがちゃんと三食食べるようになったのは、フロアの努力の賜だった。

「・・・なにか、あったのか・・・?」

 なにか。それも危険な異常事態。
 なにか面白いこと―――例えばフロアかイーグ辺りの発案で、外でバーベキューパーティでも開くことになったとかそう言う理由なら、キャシーがクレイスを呼びに来るだろうし、そもそもそんな事でルーンは外に出ないだろう。

 嫌な予感がする。
 前にも感じたことのある予感だった。
 ずっと昔―――まだ、自分が魔法を信頼していた頃。魔道の技でできないことなど何もないと信じていた時に感じた予感。

(これは・・・そうだ。サレナさんが亡くなった時にも感じた予感・・・!)

 重い病気にかかったミストの母親、サレナを助ける為にクレイスはルーンクレストの人脈を使って、世界最高の薬『エリクサー』を探し求めた。原液ではなく薄めた物だったが、それをなんとかして手に入れ、ミストに渡した時に感じた―――何かを失ってしまうような予感。お母さんが助かるんだ、と嬉しそうに薬を受け取り、家路へ急ぐミストを見送り―――クレイスは自分の予感をかき消そうとするように胸を強く押さえていた、その痛みをはっきり覚えている。

 結局、ミストは間に合わずに、サレナはそのまま天に召された。
 信仰の薄いアバリチアでは、復活の法術を扱える僧侶は居らず、遠くキンクフォートから高位の神官を呼ぼうにも、王族や或いはルーンクレストのような身分の高い人間ならともかく、市井のレストランの女将を復活させる為にアバリチアまで足を伸ばしてくれる奇特な者は居なかった。

 サレナ=ウォーフマンは、クレイスにとって大切な人だった。
 ミストにもテレスにも言っていないが、実は密かに恋い焦がれていた初恋の人だった。彼女を置き去りにして街を出た、ミストの父親であるスモレアーに憎しみに近い怒りを覚えたこともある―――が、帰ってきて墓の前で涙を流し、「すまん」と一言謝った後ろ姿を見て、その憎悪も消えた。

 そしてクレイスは魔道に絶望する。大切な人を救えない力になんの意味があるのかと。
 だからこそ、一旦は魔道を捨てた。
 でも、それは結局、力から逃げただけに過ぎないと気づいた。
 力が無ければなにも出来なくても仕方ないと、言い訳する為に逃げただけなのだと。

 それに気がつけたのは1年前、シード=ラインフィーを見て悔しいと感じたからだ。
 アバリチアで魔族から、キンクフォートではかつての自分の仲間たちから、天空八命星という力を持ってミストを救い出したシードを見て、クレイスは悔しさを感じた。己に力が無く、故にミストを自分では救えなかった事を。

 だからクレイスは再び力を求めた。
 自分の力を。魔道の力を。
 そして1年。今、自分には力があると確信できる。まだシード=ラインフィーには及ばないかも知れない。けれど。

(力がないからって、なにも出来ないって言い訳はしなくて良いくらいの力はある・・・!)

 クレイスはベッドから起きあがると、ベッドの傍らに適当にかけてあった上着を掴み、それを羽織りながら部屋を飛び出した。

 

 

******

 

 

「本当に、ヌルいわね」

 リウラ=ファルコムは目の前に立つ、魔族の姿をしたイーグに侮蔑の眼差しを向ける。
 赤い瞳をした、普通の人間よりも一回りか二回り大きい、人間の形をした獣の姿をしたシードは、その太い両腕をだらりと力なく下に降ろし、猫背になって息切れしている。

 否、両腕は下げているのではなく、上がらないのだ。
 リウラの術技によって、両腕の魔力が攪乱され、力が入らない。というか力を入れれば激痛が走る。まるで酷い肉離れでも起こったかのようだった。

 だが、肉体にはなんら損傷はない。
 あくまでも体内を流れる魔力が乱されただけだ。基本的に身体を動かしているのは筋肉であり、魔力は肉体に干渉しない。そもそも魔力とは人間の感情に似た不安定な不可視かつ非物理的な力である。訓練された魔道士でなければ、その魔力を感じ取ることすら出来ない。
 強い魔力が肉体や他の物体に干渉することはある。魔道士の使う魔法がそれだ。

 だが、リウラが使ったのは魔法ではない。
 体内の魔力を乱しただけだ。

 先程、魔力を「人間の感情に良く似た力」と言ったが。基本的に人間の魔力というのは感情、即ち心から産み出される。魂といっても良い。だから、自我のある人間は誰しも魔力を持っている。魔道士でない人間は、自身の魔力に気が付きようもないが。
 しかし、魔道の素養が無い人間でも、魔力を感じるとなにかしらの気配を感じる事がある。直感、とか気のせい、だとか虫の知らせだとか、そういうものは無自覚のうちに自分の魔力がなにかに引っかかった感覚だ。

 話が反れたが、つまるところ人間の魔力というのは感情に直結されている。
 そして感情の変化は肉体へ影響される。怒れば頭に血が上るし、悲しめば涙が出ると言うように。
 だから魔力をかき乱されれば、感情が酷く不安定になり、混乱状態に陥る。普通の人間にリウラの術技を使えば、軽い目眩や酷ければ意識を失うこともあるだろう。

 しかし、イーグは魔族の細胞を持っている。
 魔族とは人間とは違い、膨大な魔力で肉体を動かす。常に魔力を動かし、鍛えられている為に、外部からの魔力的干渉には強い抵抗力を持つが、反面、魔力に直接干渉されると言うことは肉体に直接干渉されると言うことでもあった。

 だからリウラの魔力干渉は触れた両腕だけに留まっているが、かき乱された魔力を正調化しなければ腕は動かせない。

 ちなみに魔力で動いているキャシーも同様だった。
 こちらは、イーグよりも魔力の抵抗力が低く、リウラの一撃で完全に戦闘不能になってしまったが。

『ヌルいって言われてもな』

 痛む両腕に引っ張られるように猫背の格好になりながら、イーグは忌々しげに吐き捨てる。

『俺は暗殺者からは足を洗ったんだ。腕がナマったってなんの問題もねえだろ!』
「今、大問題じゃない」

 何を言ってるの? とでも言いたげにリウラが言う。

「今、貴方は私に殺されようとしている。正直言って、昔のアンタなら私より強かった―――私と組み手する時、アンタいつでも私の命を取れたでしょ」
『そういう風にアンタが仕込んだからだろうが・・・』

 万能の瞬殺。
 イーグ・・・いや、シード=アルロードがリウラ=ファルコムに叩き込まれた暗殺術だ。
 いついかなる状況であっても、目標の命を一瞬でかすめ取る事の出来る技法。

 それは、相手の急所を一瞬で見抜く洞察力と、天空八命星『神眼』に近しい完璧な空間把握力、なによりもどんな状態でも自分の意志通りに身体を自在に精密に動かすことの出来る正確な肉体操作をもって完遂される。

 だが、シードは未だに魔族の身体をもてあましている。洞察力はともかく、精密に身体を動かすことなどできはしないし、空間を把握することも困難だ。この魔族の身体は人間の時よりも感覚が鋭敏になるが、鋭敏すぎて必要のない雑な気配を拾いすぎる。

『くそっ、こんな身体じゃなければ・・・』
「ああ!? この期に及んで言い訳するかあ!? 言っておくけど、私がアンタに教えたのは万能の瞬殺。どんな状況でも、どんな状態でもターゲットを殺すことの出来る必殺の一瞬を掴める技! 身体が魔族だろうが何だろうが、そんなの関係無いわよ。アタシがヌルいって言ったのは、魔族への変化を制御することに満足して、それを使いこなそうと訓練しなかったこと! その身体で人間時と同じ動きが出来りゃあ、アンタ無敵じゃないの」
『だあら、俺はそういうのはもういいって言ってるんだよ! 必要ないって言ってるんだ!」
「・・・何度も言わせないで。この状況で、まだ必要ないって言うの?」

 すっ・・・っと、リウラの瞳が細められる。
 その眼から感じ取るのは確かな殺気。さっきまでも殺気はあったが、それでも半ば遊んでいる・・・イーグの動きを確かめているような程度だった。
 だが、今は違う。100%本気の殺意。気を抜けば、それこそ一瞬で―――

『ッ!』

 不意にイーグは前へ駆けだした。
 リウラに向かって突進―――と言うよりは、まるでなにかから逃げるように。
 イーグはリウラが立っている直前で急ブレーキ。それから反転して後ろを向く―――つまり、リウラには完全に背を向けて。

「・・・あら。よく気づけたわね」

 イーグの振り向いた先にリウラが居た。その周囲にはバチバチと放電している、拳大の雷球が三つほど浮かんでいた。
 同時に、イーグの背後のリウラの姿が掻き消える。幻影だ。

『アンタが口数多かった後ってのは危険だってのは、身体で知ってるからな』

 基本的にリウラ=ファルコムという女性はあまり喋らない。
 長々と講義をたれるよりも、身体に叩き込む方が早いと考えてる女性だ。現に、イーグも彼女に口で教えて貰ったことは覚えている限りでも二、三だけだ。

 そんな彼女が多く語る時はよっぽど興奮している時か、あるいは何かの罠を仕掛けている時だけだった。

 今、リウラはキャシーに使った時と同じ、幻影を魔法で作り、転移魔法を使ってイーグの背後に現れた。そして気が付かなければ雷球を3つともブチ込まれていただろう。雷撃の魔法は、対生物に使う魔法では一番威力が高い。幾ら魔族化したイーグでもそんなものをマトモに喰らえばタダでは済まない。

「なんで・・・ッ!? 今、呪文はなかったはず・・・」

 納得いかないように、二人のやりとりを見守っていたフロアが叫ぶ。まるでイカサマしているようだとリウラを非難する叫びだ。そんなフロアをリウラはにっこりと振り返った。その微笑みに、フロアは背筋が凍り付くような恐怖を感じる。

「呪文は予め唱えていたのよ。イーグと話しながら、こっそりね」

 そう、答えたのはリウラではなかった。
 いつの間にか、フロアの隣に小柄な、黒いローブに全身をすっぽり包んだ人影があった。

「・・・ルーン!」

 フロアが名前を呼ぶと、リウラが「へえ」と黒ローブを見やる。

「アンタがルーン=ケイリアック? 顔は見せてくれないのかしら?」
「見せてやる義理なんかないわ」
「お客さんに対して失礼じゃない?」
「招いてもないのに客面する、そっちの方が失礼よ」
「あー・・・言われればそうねぇ」

 あっはっは、とリウラが声を立てて笑った。
 不意にルーンがローブの中でパチン! と指を鳴らす。同時に、ばしゅぅっ! とルーンとフロアの周囲で何かが弾け、リウラの周囲に浮かんでいた雷球も掻き消える。
 きょとんとして、自分の周囲で起こったなにかに、フロアが辺りを見回す。

「え・・・? なに、今の・・・?」
「チッ、防がれたか・・・」

 渋い顔をしてリウラが舌打ちする。

「いきなり空間圧縮を仕掛けてきたから、それを打ち消したの」
「え・・・?」

 ルーンが説明するが、フロアにはよくわからない。
 そんなフロアを置いて、ルーンはリウラに向かって称賛か皮肉かどちらとも取れるような言葉を吐く。

「・・・二重音でここまで高度な魔法を使うなんて。デタラメな人ね」
「あなたも、指パッチンだけであたしの魔力を打ち消すなんて、デタラメな魔力もってるわねー」

 リウラも渋い顔から一転して、にやりと笑ってみせる。
 と、不意に首をかしげて見せた。瞬間、びゅぅん、と唸りを上げて拳大の石がリウラの頭のあった場所を通過して飛ぶ。

『ちぃっ、ハズした!?』
「ほほう、やってくれんじゃない。シード・・・」

 ゆらり、とゆっくりリウラは悔しそうに舌打ちするイーグを振り返った。
 そんな彼女にイーグは中指を立てて。

『ふん。まあ、今のが当たるとは思わなかったけどな!』
「そうね。少しでも当たると思ったら投げなかったでしょ。てゆか、本気で当てるつもりなら身体を狙う―――本当に変わらないわね、そういうところ。他人を殺すことが出来れば、あんた、イーグや私なんて目じゃない暗殺者になれたのに」
『それ、褒めてるフリして褒めてねえだろ。だいたい、アンタもイーグも暗殺者なんかじゃない。本質は―――』

 いいながら、イーグは背後に向かって身体を振り回す勢いで、動かせない腕を振り回す。

『―――ただの殺人者だ!』

 だが、そこには誰もいない。

「イーグ、上ぇっ!」

 フロアが叫ぶ。
 リウラの姿は真上にあった。
 イーグの身体は腕を振り回して、すぐには次の行動へ移れない。できるのは上を見上げる事だけ―――

「遅い」

 目の前にリウラの姿があった。手にはいつの間にか取りだしたのか、太いナイフほどの針。しかも魔力が付与されているのか、紫色の光を発している。
 その切っ先の向いているのはイーグの眉間だった。貫かれれば即死である。迫り来る死を招く針に対して大きく口を上げて―――

『があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!』

 絶叫が放たれた。
 しかしそれは悲鳴ではない。
 森の木々を揺らし、葉を散らすほどの大声量を持った絶叫。
 その威力は、落下してくるリウラの身体を軽く浮かせるほどの声。

「うくっ・・・」

 暴力的な爆声に、リウラは空中でバランスを崩し、イーグの傍らに墜ちる。イーグはその身体を踏みつぶそうと足を振り上げる―――頃には、リウラは素早く地面を転がってイーグと間合いを取り、立ち上がるところだった。

「く・・・はっ、なんつー声だすのよ」

 耳を押さえながらリウラが立ち上がる。

『よく鼓膜が破けなかったな』
「鼓膜が破けない程度に魔力でガードするのが精一杯だったのよ。竜の咆吼じゃないだけマシだったけど」

 強大な魔力をもつ魔族や竜属の咆吼には強い魔力が宿っている。
 その咆吼の前には、人間の魔力など簡単に消し飛んでしまう。だから、リウラも転移の魔法で逃げることもできず、鼓膜を破らないことで精一杯だった。もっとも、咆吼の魔力は耳さえ塞げば体内の魔力に干渉することはない。

「ったく、ヌルいと思ってたら結構やるじゃないの」
『ナメてばっかり居るんじゃねーぞ。言っておくけどな、フロアたちに手ぇだしたらマジで殺す』
「ああ。成程」

 にっこりとリウラは頷いて。
 フロアとルーンを振り返った。

「つまりそれって、あの二人をどうにかすれば、アンタもマジになるってことね」
『おいっ! まさか・・・』
「そのまさか」

 言うなり、リウラはフロアたちに向かって駆け出す。

「フロア、後ろに下がって!」
「ル、ルーン」

 向かってくるリウラを迎え撃つようにルーンが前に出る。
 ローブの下で何事が呪文を唱えると、20個ほどの雷球がルーンの周りに浮かび上がった。それが次々にリウラに向かって飛んでいく。

(凄い魔力ねェ。でもッ!)

 向かってくる雷球を意に介さずに、リウラはそのまま駆け出す。
 次々にリウラに向かって雷球が飛ぶが、しかしリウラに当たる直前に全て軌道がそれ、森の木々にぶつかり表面を焦がすだけだ。

「のわっ!?」

 雷球の一つが、後ろからリウラを追いかけるイーグの足下に当たって、その場に転倒する。
 なにやってんだか、とリウラは後ろを振り返らずに思いながら加速する。

「甘すぎるわ、あんた」
「ぐっ・・・」

 あっさりとルーンの目の前に到達し、リウラは蔑むように見下す。
 そもそも、ルーンの方が身長が高い為に、普通に見下ろすようになってしまうのだが。

「もっと強力な広範囲魔法を使えば私を仕留められたのにねェ。それをしなかったのは、シードが居るから?」

 ルーンの魔力は膨大だ。リウラも一般の人間と比べれば高い方だが、ルーンのそれはケタが違う。
 彼女が全力で魔法を使えば、リウラにはどうあがいても防げないだろう。
 だが、そんな魔法を使えばリウラどころかイーグやフロアも巻き込んでしまう。

 リウラはローブの上からルーンの首を両手で掴み、持ち上げる。
 軽いな、とリウラは思った。

「あの魔導人形の魔力をいじくった時も感じたけど、あんたって随分過保護なのね。私とは大違い」
「くっ・・・」
「ルーンから手を離して!」

 フロアが叫ぶ。
 と、存外簡単にリウラはルーンを離した。どさり、と地面におちて咳き込むルーンを放って、リウラはフロアに向き直る。

「あ・・・」

 見つめられただけで、フロアの身体がびくりっと硬直する。
 そんな彼女に、リウラはにこりと微笑んで。

「お望み通り、離したわよ?」
「あ・・・あ・・・」

 リウラが一歩踏み出す。
 と、弾かれたようにフロアが後ろに下がった。

「相変わらず、私が怖いの・・・?」
「う・・・」
「正直ね。あたし、アンタが大嫌い」

 嫌い=死ね、と言われているような気がして、フロアは恐怖で意識を失いそうになった。
 だが、なんとか淵で踏みとどまる。ここで意識を手放してしまったら、きっと二度と目覚めることがないだろう。

「イーグもシードも、アンタが居るから不幸になった。アンタが居なければ、二人とも暗殺者として居続けたでしょうね」
「・・・」
「でも、アンタのせいで私の可愛い弟は組織を抜け出すハメになり、シードも魔族の細胞を移植されることで壊された―――あんたは、私が作り育てたものを全部壊してしまった」
「・・・ち、違う・・・」
「何が違うっていうの? 全部、本当の事でしょう? あんたが居たから―――」
「違うッ!」

 リウラの声を遮って、フロアが叫ぶ。
 目には恐怖の為か涙を浮かべて。未だにその瞳は弱々しく、リウラへの恐怖があったが、しかししっかりとリウラの姿を見つめていた。

「そうよ・・・私のせいでイーグにもシードにも迷惑をかけた。でも、イーグもシードも不幸じゃない!」
「そのとーりっ!」

 明るい声はリウラの後ろから。振り返ると、人間の姿に戻ったイーグが居た。半裸だが、ズボンだけははいている。その隣にはルーンが立っていた。イーグの乱された魔力を元に戻したのは彼女だろう。ズボンも魔法か何かで呼び出したのかもしれない。

 にやり、とイーグは笑ってリウラを指さす。

「あんたの言うとおりさ。きっと、俺もアイツも、フロアがいなけりゃまだ暗殺者をやってた。でもな、俺もアイツも人殺しなんかやりたくなかったんだ。だから、フロアには感謝してる。フロアが居たから、俺もアイツも今ハッピーなんだよ!」
「そう」

 イーグの言葉に、リウラは短く答え。

「なら。不幸にしてあげる」

 言うなり、フロアに振り返ると。手を振り上げる。
 その手には先程、イーグに向けた太いニードル。

「チィッ」

 それに気が付いてイーグが掛け出す―――が、間に合わないッ!

「遅いよッ!」
「ひっ・・・」

 リウラがフロアに向かってニードルを振り下ろす。フロアは恐怖に身を怯ませたまま動けない。
 ルーンの魔法も、イーグも間に合わない!

 何よりも誰の行動よりも早く、リウラの一撃がフロアへと振り下ろされる―――その瞬間!
 不可視の打撃がリウラの針を持つ手を強く打ち、武器をはじき飛ばす。

「づっ・・・!?」

 打たれた手を押さえ、リウラが苦悶の表情を浮かべる―――が即座に呪文を唱えた。

「ちぃっ!」

 背後から飛びかかってきたイーグの手が届くよりも早く、リウラの身体が掻き消えて、さっきまでリウラとイーグが対峙していた場所へ転移した。

「誰、今の・・・!」
「ふん! 僕だ!」

 等とエラそうに言って、家の中から現れたのはクレイスだった。
 きょとん、としてリウラはクレイスを見て、

「誰、アンタ?」
「うおおおっ!? 僕を見忘れられたー!? この僕を!? 一年前に会ってるだろー!?」
「いやゴメン。マジで忘れてる。誰だっけ?」
「こ、このクレイス様を忘れるとは・・・何様だー!」
「リウラ様よ。文句ある?」
「大ありだー!」

 いきなり発生した低レベルなやりとりに、場の人間は口を挟む気力を失った。

「・・・なんつーか。リウラを前にして、あれだけ自分のペースを崩さないヤツってのも凄いな」

 やや呆然とイーグがそんな感想を漏らす。
 一年前のクレイスならいざ知らず、今のクレイスならリウラの力量もはっきりと解るはずだ。その身に纏う死の気配も。
 だというのに、クレイスはいつもどおりのクレイスだった。

「まあクレイスでもクライスでもなんでも良いけど・・・ちょっと、私一人で相手するにはキツい面子が揃っちゃったみたいだし・・・」

 リウラもクレイスの性格はともかく、力量は解ったらしい。
 そんなことを呟いて手を挙げる。

「今日は帰るわ。また来るから、それじゃね」

 そう言って、あっさり背を向けるリウラにその場の全員一致で「二度と来るな」と思った。

 

 

******

 

 

 

「・・・本当に帰ったようね」

 リウラが姿をけして、家の中に戻り、キャシーの乱された魔力を直したころになってからぽつりとルーンが呟いた。
 この森は全てが全てそうというわけではないが、広範囲がルーンの領域であり、この森の中で起こったことはルーンには手に取るように解る。その領域内からリウラが出たことを察知して、リウラは安堵の息を漏らした。

「一体、何しに来たんだ。あの女」

 まだ忘れられていたことが悔しいのか、クレイスが不機嫌そうに呟いた。

「本当に様子見だったんだろうさ。俺の―――まあ、途中から色々目的が変わってたみたいだったけどな」

 よくあることだ、と投げやりにイーグが答える。

「それよりも朝飯ー。腹が減ったぞ、俺ー」
「はいはい」

 子供のような声を上げるイーグに、フロアは朝食をダイニングテーブルの上に並べる。キャシーも当然のように手伝い、程なくして朝食がテーブルの上に並べられた。

「じゃ。いただきます」

 と、律儀に朝食の挨拶をしたのはキャシーとフロアだけで、他の面々は黙って好き勝手に食べ始めている。
 キャシーは魔道人形だが、人間と同じように食物を食べてエネルギーにすることが出来る。元々は何も食べなかったが、クレイスたちが来てから、ルーンが機能を追加した。

(本当に、クレイスたちが来てから随分、色々と変わったものね)

 ルーンは時々、そう感慨にふける。
 それまではキャシーと二人っきりで、時間の流れも気にならない、毎日変わることなく家の中に閉じ篭もったまま、生きているのか居ないのか良く解らない年月を過ごしていた。
 それが、今では1日1日に変化がある。たわいもない騒動がある。良いにしろ、悪いにしろなにかがある。

 久しく忘れていた感情が今はある。生きることが楽しい、ということ。

(まあ、今日みたいな事はもう二度とゴメンだけど)

 リウラ=ファルコムのことを思い返して少し憂鬱になる。
 大陸最強の殺人者の異名は伊達ではなかった。
 相手の技が解らなかったとはいえ、キャシーがあっさりと無力化されるとは思わなかったし、イーグを手玉にとり、他を巻き込まないように手加減したとはいえ、自分の魔法をあっさりと受け流す戦闘技術はまさに強力存在。

 数十年前にここを訪れた、最強の強力存在のことを思い出す。
 ”彼” も自分の魔法を打ち破り、当時はこの家にいたルーンの兄と父の攻撃をあっさりとはね返した。あの男ほど、リウラ=ファルコムが強いとは思わないが。

(でも、彼よりも危険な存在・・・)

 彼は強かったが、殺人者ではなかった。
 だがリウラ=ファルコムは殺人者だ。自分の目の前を横切った、という理由で人を殺すような―――そんな危うい気配を感じさせる存在。
 正直、二度と会いたくないと思う。

「あー、そう言えば」

 不意に、スープを飲んでいたクレイスが顔を上げた。

「セイのヤツ、逃げるって言ってたぞ」
「え」
「さっき、家を出る前にばったり会ってさ。そう言えば、あいつ今までどこに行ってたんだ?」

 クレイスの言葉に一瞬だけ、ルーンの動きが止まる。
 ほんの一瞬だけ―――その一瞬に気が付けたのはフロアだけだったが。

 だがすぐに、どうとでもよい様にスープをスプーンですくって、フードの下の口に運ぶ。ルーンは朝食時でもローブをめったに外さない。

「ふうん」
「いいのか? 追いかけなくて」
「いいよ。そのうち逃げ出すとは思ってたし。それにセイに構ってるほどヒマでもないし」
「ヒマなくせに」
「うるさい」

 けけけ、と笑うイーグに鋭い声で言い捨てて、スープを口に運ぶ。
 そんな様子をフロアだけが心配そうに見つめていた。

 

 

******

 

 

 部屋に戻って水晶球を確認する。
 確かにその中にセイの姿は無かった。

「・・・行っちゃったか」

 やや放心したように呟く。
 フードを外すと、なかから金髪の、セイに良く似た顔が現れた。その表情は不安に満ちている。

 コンコン、と部屋のドアがノックされる。
 訪問者は誰か解っている。だからルーンはぶっきらぼうに答えた。

「居ないよ」
「入るね」

 入ってきたのは案の定、フロアだった。
 彼女はルーンの肩越しに机の上に置かれた水晶球をみやり。

「居ないね」
「・・・まあ、そろそろクリアーするとは思ってたし。あれがクリアーできるなら、きっとリウラ=ファルコムなんかには負けないだろうし。生半可な事では殺せないだろうし。だから、大丈夫だろうし」

 だろうし、と続けるのは不安だからだ。
 世の中に完璧なんてものは存在しない。ルーンはそれを知っているから、どんなに方策を練っても不安は残る。
 そんな彼女を、フロアは後ろから優しく抱きしめた。

「泣きなさいよ」
「え・・・」
「一人がいいなら私は出て行くし。一人じゃ泣けないって言うなら、私が一緒に居てあげるから。寂しい時は泣いていいんだから―――それが、大事な人と別れてしまった人の権利なんだから」
「う・・・」

 ぎゅっと、胸の前に回されたフロアの手を、ルーンは握りしめて。
 それから―――

 

 

 

 


 

あとがき

 うわー、ようやく一区切りついたー! 一年ぶり。
 でも書いてて思いましたが、オリジナル書いててパニックが一番楽しいなあ。
 この話、殆ど休憩無しで書いてます。もっとも、話と話の間のインターバルが長すぎですが(苦笑)。

 しかしフロアだけタイトルに名前が使えなかったんだなあ、とか。
 次回、もう一本なんか書こうかなあ。ネタ無いけど。

 05/10/10


 

あとがき2

 って、書いたの去年の10月ですか。
 なんとなく「いつでも更新できるから、いつでもいいや」とか思ってたら年も変わった四ヶ月ぶり。あれぇ?

 どーでもいいけど、この連作って後半はクレイス編と言うよりも、フロア編だなー。

 06/02/17


INDEX