差出人: Takagi Shigehira 件名 : 6月15日 〜♪いろんな事があるけど 空には星が綺麗〜 日時 : 1999年6月15日 18:33  入院生活74日目の朝を無事迎えました。の気分。今朝はちょうど6時ちょい前に 目が覚めた。梅雨時期の諏訪の朝の特徴なのかは知らないが、ここのところ、朝のう ちは空にもやがかかったようになっていて、カラッと明るい、ということはない。朝 食の済む8時頃になって、あ、もうこんなに光が射してる。という感じなのだ。  そんなわけで今日の6時代も薄明るく、6人とも動き出したこの部屋の空気もお空 につられてぼんやりしていて、何となくそれぞれの病気についての話が始まった。  普段、患者同士で病気の話をすることはそれほどない。「大変だねえ」とか「早く 出たいねえ」という傷のなめ合いは良くあるけれど、病名は僕の中ではプロフィール 程度の位置づけで、歯磨きや洗顔の時なんかにたまたま顔を合わせた人と、「どちら がお悪いんですか?」「ええ、ちょっと腎臓を悪くしちゃって・・・」という挨拶を 交わすくらいだ。 お互いにどこかが、それも割と悪くなければこんな所に居ることはないのは承知して いるので、つまりいわゆる社交辞令なのだが、僕もあまり記憶力に優れた方ではない ので、「顔と病名」を一致させて覚えてもいつしか忘れていたりして、そんな人とま た顔を合わせても、「昨日はお眠りになれました?」なんて別の社交辞令なんか交わ しながら、「アレ、この人はどこが悪かったんだっけ・・・」なんて頭の中で首を傾 げていたりもする。  同室の患者さんにしても、直接的な病気の話はあまりしない。点滴がどうだとか、 食事がどうだとかっていう話はするけれど、どこが悪くなって、どんな風な状況で入 院に至った、という話はあまりしない。まあ時々聞かなくても自分から何回も聞かせ てくれる人もいるけれど・・・。 まあそれでも回診の時の先生や看護婦さんとの会話なんかが耳に入ってきて、何とな くどの辺がどんな風に悪いのかは推測できるようになってくるものなのだけれど・・ ・。でもこれまででも結局どこが悪かったのかも(僕には)分からないまま退院して いったルームメイトもいる。でもその中にはおそらく白血病であった人もいたし、ヘ ビーでダークな話になる可能性もあるだけに、自分から敢えて話を深いところに投げ 込みたくはないなあ、というのが正直なところかなあ。  今朝はたまたま”僕サイド・窓側”のカサイさんの「月末に手術だってさ、俺」と いう話に始まって、隣のヒゲおじちゃん・オオバさんはひどい便秘が原因で腸にポ リープができたこと。(なんでも風邪薬の身体に悪影響を与える成分が排出されず、 蓄積されるからだそうだ。)、”向かい”のニワヤマさんも心臓だから大変だ、なん て話になり、「一番楽なのは長期戦のタカギ君だなあ」という話をフラれた。 確かに僕以外の5人は一日のどこかで何かしら点滴なり、心電図の装置なりをつけら (打た)れる。僕はといえば、ゴロゴロ文章書いたり、カタカタやってるくらいだ。 いや、でも発病の時は大変だったし、こう見えて腎臓病って未知の部分も多いし、 やっかいなんですよ。最初のうちは制限も多くて・・・という話をした。どうも大部 分の大人が「腎臓病→ひどくなると透析→えらいこと」という図式を頭の中に持ち合 わせているようで、腎臓病というだけで透析の話になり、同情度(?)が上がる。ま あルームメイト達も多少は「ああタカギ君も病気なんだ」と分かってくれただろう。  昨日はヨシハル(仮名)が松本からやってきて、昼前から夕食過ぎまで居た。尿検 査の関係もあって3時までという許可をもらって外出し、(←こんなゼイタク名選択 肢も手に入れた)(←回数制限アリだが・・・)ステーションパークという諏訪最大 の複合ショッピング施設にあるゲーセンのメダルゲームに熱くなった。帰ってきてま た蓄尿開始。  夜はサッカーのネパール戦を見ていたら、しおりがやってきた。頼んでおいた斉藤 和義のライブ盤を買ってきてくれたが、ちょっとサッカーに夢中で、あまりきちんと 話さないまま帰っていった。ちょっと愛想なかったかな、と後でちょっと申し訳なく 思った。でも家族ということで、アリ、 ですね。   <仕事はメイン?>  何のために生きているのだろう?というとかなりデカ過ぎるテーマとなり、多分今 の僕では太刀打ちできないだろうと思う。まあ、今日はそうではなく、何を主として 生きてみようか、という話。  大学生に「今のあなたのメインは何?」と問いかけてみれば、「学生生活」で落ち 着くだろう。広く言えば「大学生」という身分で経験する全てのことがこの言葉でく くれるし、それで言い得ていると思う。  しかし、社会人に同じように「今のあなたのメインは?」と問いかけてみて、その 勢いで「仕事」というふうに落ち着くか、といったら決してそんなことはないだろう し、そんな風に答えられるのは趣味を仕事としているミュージシャンとか陶芸家と か、あとは会社に洗脳されたか、またされざるを得なかった人ぐらいだろう。  もちろんこの場合の”メイン”とは時間的なものではなく、あくまで精神的な”メ イン”ということだ。多分今の日本では会社絡みの時間よりも余暇の時間を多く持つ 社会人はほとんど存在しないであろうから・・・。  大体の人が週のうち5日か6日は働き、その”平日”はほとんど仕事絡みで消えよ う。会社にいるのが8時間から10時間だとして、でもそれだけでは終わらないわけ で、通勤もあれば、身支度もある。女性なら化粧もする。会社の後にしてもつき合い があったり、接待が、という人もいる。(関係ないが、ただの興味として、接待の席 に一度行ってみたい。どんなものなんだろう?)。そんな会社絡みで費やす時間を2 4から差し引いて、そこから更に睡眠時間を差し引いたら”平日”の時間は余り残ら ない。 せいぜい誰かとメシを食いに行くとか、ちょっとパチンコによって帰るとか、録った ドラマを見るとか、電話するとか、その程度のものだろう。睡眠時間は一時間でOK デース、なんて人なら別だが。人によってはそんな時間も残ってなかったりもするの だろう。  大体、平日の起きている時間なんて、なんか後から考えてみると、仕事で終わって いる。僕のような結構かなりまあまあアバウトな仕事に就いていたものでさえ、なん か一日を後から考えてみると、仕事で終わっている。 昼間、コンビニで買った雑誌をいつもの駐車場に止めたカルディナの中でFMラジオを 聞きつつ広げて斜め読みし、そして昼寝という時間が(多々)あったとして、それで も後で考えてみると、やっぱり仕事で終わっているように感じる。就労時間の半分以 上は余裕で外にいる僕でさえそう思うのだから、一日オフィスの中で働いている人の 感じている”拘束感”は計り知れないだろうなあ、と感じる。会社の中、仕事の上で 毎日実際はちょっとずつ違うのだが、同じように繰り返される毎日。 今僕がうっすらと汗をかきながらのほほんとエッセイを書いているこの瞬間だって、 沢山の僕の知り合いの社会人と、もっと沢山の僕の知らない社会人達が、例えば預金 を集め、例えば原稿を集め、例えば教え子と向かい合い、例えば本を貸し出し、例え ばデジカメを売り歩いている。そうかと思えば木陰や日陰に路駐して居眠りしている 営業マンやタクシードライバーも掃いて捨てるほどもいる。  その人達にとっても、その人達にとっても、それはやはり「繰り返される毎日」の 中の一日のことに過ぎないし、ある程度、そういうものとして割と淡々と過ごしても いるのだろう。帰れるまで、次の休日まであとどのくらいだろうと考えたりしながら ・・・。  とはいえ、その会社の入社試験を受け、見事合格し、その会社に籍を置いて、自分 の頭と身体を労働力として提供し、その代償として給料をもらう、という契約の下で 働いているのだから、毎日の労働はもちろん当然といえば当然である。そしてその中 においても個人プレーというわけでもなく、歯車のつながりではないが、自分の仕事 ぶりが誰かに影響を与えたり、その逆もあったりするので、自分も今そこのある仕事 をこなさねばならぬし、突然抜けるわけにも、基本的にはいかない。と突然抜けた身 で言うのもどうかな、とは思うが。 まあ、一人の一人の力が何とかつながってで来たものが会社の名前を背負って世に出 たり、渡ったりする。それが会社。思わぬところで何とかなっちゃったり、融通利か なかったり、とんでもなく理不尽だったり、それもまた会社の名の下に。ある意味得 体も知れない。  でも果たして、その会社でする仕事、というものは、人生にとってメインなのか、 といえば、決してそんなことはないと思うのだ。終身雇用が崩れ、失業率は上昇、採 用数は下降という今の世の中においても、事実としてほとんどの人が定時+残業時間 ×週5日ないし6日×40〜50年の時間を仕事に費やすのだ。もちろん時間を物差 しの単位にしてしまえば、仕事というものは、でーんとメインの位置にしゃしゃり出 てくる。  しかし、その仕事というものに不満を持たぬものはいない。会社という組織は時と して宗教がかっていたり、体育会系だったりするが、それでもその組織に社員として 所属している以上、そのルールには(最低限は)従わなければならぬし、時には会社 名にバカでかいステッカーを背負って誰かと会わねばならないということもあろう。 でも仮にも自分で選んだ会社。そんなに泥を塗るわけにもいかない。自分の名前があ る前に、否応なく会社名を挿入して臨まなければならない。書類も商談相手も、たと え不得手なタイプが出てきても、選り好んで避けて通るわけにもいかない。月並みな 表現で言えば、会社のために、自分を殺す。自然ではないが、必要なこと。必要なの だが、無理も伴うこと。無理もつもれば山となり、押しつぶされかねない。でも、次 の仕事はまた迫り来る・・・。  しかし、そこは多少の妥協も伴ったかもしれないが、自ら選んだ会社、または自ら 選んだ業種。少なくとも受験はしているのだから、どうしても行きたくなかった会社 にいる、ということはあり得まい。  もちろん何らかの喜び、やりがいは仕事の端々で見つけられるだろう。自分の努力 が形となり、商品や映像となって世に出る、また契約書になる、といった目に見える 形であれ、誰かにほめてもらう、信頼して(○○社の誰々、としてでも、あるいは 誰々個人としてでも)もらうという、目に見えない形であれ。なんだかんだ言って、 新車の契約が一台決まったときに思わず出た僕のガッツポーズは、心の底からと言っ ても過言でないものだったし。そういうものがあるから、何十年と同じ仕事を続けて もいけるのだろう。  できれば、仕事をそのまま喜びにできれば、理想だ。何年かかったとしても、それ がもし可能であるのなら、それ以上のものはないかもしれない。でももしそのことに より、会社人間(全てが会社。みたいな人)に成り下がってしまうのだとしたら、そ れはどうだろう、と思う。家族を顧みず、趣味さえ持たぬ人間。もし仕事を喜びにで きることの引き替えに、それらを犠牲にせねばならぬのなら、理想は望みはしない。  きわめて割り切った言い方をするならば、仕事は余暇のための収入を得るための手 段に過ぎない。手段なのだから、収入のために、必要なことは演じる。嫌なヤツに作 る笑顔も、上司にまあ従順に従うのも、望まぬ仕事をするのも、演技。必要悪の範囲 で。まあ上司に媚びへつらいすぎるのは周囲もあまり良くは思わぬだろうし、僕もあ まり好きではないが。そういう思い切った割り切り方はどうだろう?「演じている」 と割り切ることで、余暇のための収入が得られるのだから、よしとはできないだろう か?  僕はあくまでもメインは余暇だと思う。その意味では拘束時間も妙に長く、パパが 子供の日曜参観や運動会に参加するための休みさえ簡単に取らせてくれぬ今の会社は 長くいる意味はないと思っている。まあ家庭を築く段階になっての話だが・・・。  休みは奥さんと一緒に過ごしたいし、できるなら、今でも週一度くらいは何か音楽 サークルみたいなものに参加してみたいと思っているくらいなのだ。  余暇のためにする仕事で、余暇を潰されてしまうのだとしたら、それはやっぱりナ ンセンスだと思う。 ###########################            深田恭子は涼しげじゃない・・・         たかぎ しげひら (暑くて暑い南311号室より) ###########################