差出人: Takagi Shigehira 件名 : 5月26日 〜♪大体俺達生まれなければ 生きてる意味など分からなかった〜 日時 : 1999年6月6日 20:13  ・・・もう目覚めの時間には触れまい。例にもれず、5時頃目が覚めた。もうこれ だけ続くようになると、立派な習慣である。  今日の5時代は薄暗く、同室の皆さんも今日はまだ寝ている人が多いようだったの で、あまり派手に動くわけにもいかず、大人しく6時まで布団の中でゲームボーイを やっていた。起床時間を待つなんて、遠足の日の子供みたいだなあ、と思ったりし て、大学の時の初めてのスキーの試合の朝、元(仮名)と二人でスキー場の周りの道 を早朝ランニングしたのを思い出したりした。  ところで先日観察日記を公開(?)したSさんであるが、なんかすっかりうち解け てしまった。彼のひとことひとことになんとなく言葉を返しているうちに、ポンポン と会話が増えてきた。 最初は敬語で話していたのに、もうすっかり言葉も崩れ、方言全開でしゃべってい る。相変わらずSさんは先生の制限を守らないので、なかなか退院が延び延びになっ ているのだが、もう彼の存在もすっかり憎めないようになって、どうせならずっと退 院しなければいいのに、と思ってしまうことさえあるくらいだ。  昨日の夜も、TVのチャンネルを「学校へ行こう」と「巨人VS広島」とで行ったり来 たりさせながら、Sさんと話していて、「どうも最近朝の目覚めが良くなっちゃって ・・・」という話をしたら、「いい事じゃねえか。早く起きれるのは健康な証拠だ よ」と言われて、それもそうだなあと妙に納得した。なんか気が合うのかもしれな い。 患者同士という特殊な関係の中でここまで気易くできるようになったのはSさんが初 めてだ。そう書いている隣でSさんはもう何度目になるであろう、「禁・間食」を先 生に約束させられていた。彼とのこの場限りの関係はもうちょっと続きそうである。  そういえば昨日の夜、先日まで隣のベッドに入院していた(つまりSさんの前)、 ちょっと神経質だった人がまた入院してきたという話になった。今度は別の部屋に 入ったようで、正直少し安心したのだけれど、どうもこの部屋から退院していった人 はまた戻ってくる率が高いね、と”長老”と笑った。おとといも、入院当時の”ヌ シ”だった人(”長老”と僕のみ面識アリ)が突然部屋を訪れて、「入院する予定で 荷物持ってきたら、もう少し先で一泊の入院でいいって言われちゃったよ」と笑って 帰っていったし、10日ほど前に退院していったおじちゃんも、「また6月に来ると 思う」という言葉を残していった。南病棟311号室にはもうこの「出戻りジンク ス」が存在しているのだろうか。  いずれにしろ、あまり気持ちの良いジンクスではない。病院に逆戻りなんて、なん かそれだけで通常の(?)入院よりもショックが大きそうだ。  ところで「栄養指導」が明日の朝行われることになった。母と二人で病院外の食事 の際に何に気をつければいいか、という話を病院の栄養士さんから伺うのである。 「病院外」つまり外泊に備えてのことである。まあ、母は結婚前に栄養士をしてい て、今でも時々人に教えたりもしている。だから手間はかけるが問題はあまり無いだ ろう。そしてもちろん自分でも、退院後の自己管理にも関わってくることなのでしっ かり聞いて覚えておかなければ。  それにしても、早ければ今週末には久々に自分の布団で眠れるかもしれないのだ。 また楽しみで、もっと早く目覚めるようになってしまうかもしれない。   <体内で一番きれいな水>  ノートパソコンをGETし、皆にEメールを送ることができるようになってから一週間 ほど経つ。 それまでは家に届いたメールをプリントアウトしてもらって届けてもらう、という 日々で、メールをもらってもなかなか反応も返事も返せず、送ってくれる側にしても 「一方通行感」は拭えないだろうな、という気がしていて、もどかしかったものだか ら、今は結構暇を見つけてはメールを作って送ったり、届くメールも画面を通して じっくり読むようになった。(もちろん以前のものも読んでいたが、何かこう、ダイ レクト感が違う。「打てば響く」みたいな・・・)、社学の友人が繰り広げていた討 論にも遅ればせながら参戦できるようになった。しかしこれは既にかなり盛り上がっ てきていたので、なんか盛り上がっている飲み会にシラフで遅れて行ったような「出 遅れ感」が最初はあった。  それでもその「出遅れ感」も暇任せの精一杯のメール攻勢で取り戻しつつあり、ま た別方向では、スキー関係に「メルトモ」が広がったりして、そしてこれが一番有り 難いことなのだが、皆僕と違ってそれぞれに忙しいのにも関わらず、よくメールを 送ってくれるのだ。朝7時のメールチェックで5,6通届いているときなどもあり、 早起きで十文くらい得した気分になる。  そんな中、ここのところ特に悩んでいる友人がいる。届くメールを読んでいると、 かなり大変だなあ、と思ってしまう。  会社だとか学校だとか活動だとか、「”何か”をしなくてはならない」という空気 の中に身を置くとき、棘を隠すなり、角を削るなりして、最低限は自分をそこに当て はめなければならない。外身にせよ、中身にせよ。 大学なんかはそれでもかなり自由だが、会社ともなれば、「社員全員一丸」みたいな よく分からない大義名分のためになぜか自分がいつの間にか血を流していることがあ る。働けば、働くほど不満は出てくるもの。悟るか、洗脳されるか、諦めるかをしな い限りは、それはつきないだろう。  確かに、悩みや不安は次々に出てくるし、たまっていく。そうなると、決してそん なことはないのに、自分の心の中が全てマイナスのベクトルで埋め尽くされているよ うに感じてしまうことさえある。自分には意味がないんじゃないか、誰も僕に実は何 の関心もないんじゃないかと、自分自身を追いつめてしまいがちな、そんな時。  僕はそんな時、そんな状況に追い込まれてしまった時、「吐き出す」事が最大の特 効薬であると信じている。 もう全部。とにかく心の中に貯まってしまったマイナスのベクトルを全部吐き出す。 ダム湖の水門を一気に全開にする如く。  もちろん生きていく(=大部分の時間を会社etcに「捧げ」る)限り、また新しい マイナスベクトルが入ってはくるのだろうけれど、とりあえず今日の時点で全部吐き 出してしまえば、明日はまた明日入ってきた分だけ吐き出せばいいことになる。その 明日にしても、もう「昨日」までの分を吐き出したことで心の中にも余裕が生まれる し、気分的にも、違う。  偉そうなことを並べているが、なかなか難しいことであるのも分かっている。吐き 出すには受け手が必要だし、それもやはり親しい友人だとか、恋人だとか、ある程度 限定されるし、そうだとしても、いつも暗い話では相手によっては嫌がる人もいるだ ろう。でも心の中にマイナスベクトルを持たぬ人なんて、滅多にいないはずだ。  人と人との基本はギブアンドテイクだ。相手が「吐き出」したいのだと感じたら、 僕はその人にはできる限り「吐き出」させてあげることにしている。それは最低限の 礼儀というより、もっと基本的な部分だと思う。僕が吐き出さねばならぬ時、その人 が受け手にまたなるのだから。当然相手が吐き出すときは、精一杯応える義務があ る。  また、その内容もある。軽口程度で収まるものから、悪口や批判。この位のもので あれば、酒の席でのつまみにもなろう。しかし、例えば「何のために俺は働いている のだ?」といった本質的・哲学的なことや、もしかしたらもっと心の奥にある、言葉 にするのも難しいような根本的な疑問。そういったものを簡単に吐き出せるか、と いったら、やはり大変であろう。  軽口・悪口ならある程度誰にも吐き出せる。なぜなら誰もが口にすることだから。  しかし、本質的・根本的な心の奥にあるものを吐き出すのは確かに容易ではないだ ろう。それを言葉にしてしまうと、自分が浮き彫りになってしまうから。もしかする と自分だけが浮き彫りになってしまうから。 悪口・軽口で済ましている限りは、こんな事を気にする必要がないから。だから全 部、心のうちを吐き出すには、相手のことも必然的に考えなければならなくなるの だ。   そして-僕の持論-吐き出しきると、思いがけぬ何かが生み出されてくる。  それを教えてくれたこんなエピソード。  高校時代、僕はバドミントン部だった。バドミントンは地味だが、羽根(シャト ル)が風の影響を受けるため、夏場でも窓を閉め切って練習をするので、体育館は急 造サウナ状態になり、かなりハードだ。 しかもバド(ミントン)というスポーツは、「いかにして相手を疲れさせるか」とい う要素が強いので、練習もかなりキツかった。更に僕が入学する5年ほど前に共学に なったばかりの高校だったので、女子部時代(というか女子しかいなかった時代)の 訳の分からない伝統の名残がいっぱいあった。 上下関係も確かにネチネチ言われたが、妙な伝統、その最たるものが「練習中は水を 飲むべからず」であった。急造サウナでこれは辛い。今考えてみるとよく誰も倒れな かったなあ、と思う。あ、よく考えたら女の子とか、良くグロッギーになって保健室 に行ったりしていた気もする。しかし保健室までは行かなくとも、特に夏休みは本当 に地獄のような練習が続いた。  そんなある日、その日は特にキツい練習で、暑く、もちろん水分も補給できず、僕 はもうすぐ脱水症状で限界、というところまで来ていた。ヤバいかな、と頭をかすめ た、その時。不意に口の中に水が湧いてきたのだ。舌の根本の所から、澄んだ水が。 もちろん唾液なのだろうが、とにかく、澄んでいる。普通の「ツバ」とは味も、キレ イさも違う・・・気がした。 「湧いた」と行っても少量で、カラカラだった喉をちょっと潤す程度のものだった が、もう体内の水分はほとんど、汗として流れ落ちたと思っていた僕は、その不意に 「湧いた」水に驚いたし、何か自分のカラダに励まされた気もしたのだ。  本当に限界まで行ったとき、思わぬ何かが生まれる。これは新鮮な発見であった し、これがあったからこそ、吐き出すことは重要だという考えにたどり着いた。  そして今、吐き出すことのできる相手を一人でなく持っている僕は、幸せである。 それによって自分の中の思いもよらぬ何かをまた作ることのできる可能性を同時に 持っているから。 ***************************           「マドモアゼル愛」は、男だった。      S311号室より         たかぎ しげひら ***************************