差出人: Takagi Shigehira 件名 : 5月12日 「あのころ」終了。 日時 : 1999年5月28日 19:08  「あのころ」終了。サクっと読んじった。 いいねえ。さくらももこって、全てのことを少し人よりも欲バリに楽しんでいて、 アッケラカンとしている。いいねえ。だから文章もコミック感覚でするっと流れてい くのでしょうね。   <僕って?>  改めて考えてみて、自分のこと、あまり文章にしたことはないなあ、と思う。(当 たり前か)。 自分を端的に言ったら・・・どうなんだろう、と考えてみた。うーん。「その場しの ぎ人間」とでも言うのかなあ。基本的には。  そして、「アッケラカンと生きたい」「タカギシゲヒラでありたい」という自己願 望と、「なるようにしかならない」という開き直りの心があるように思う。  小学校の頃、他の子が大体そうであるように、天真爛漫な子であった。昔から電車 が好きで(幼い頃、駅で貨物列車を見るのが大好きだったそうだ)その関係で地理に は強かったり、人よりも漢字が読めたりして、「漢字ハカセ」などとも呼ばれたこと もあるが、今は昔の物語。  運動神経は生まれつき、ずっと鈍かったが、サッカーも、野球も好きだった。でも 授業でやるよりも、休み時間や放課後にやる方が好きだった。  そして子供たちの文化の中に、ファミコンが流れ込んでくる。我が家への導入は遅 かったが、何か毎日のように誰かの家にファミコンをやりに行った。それでも野球も 相変わらずやってはいた。  そのころからだと思うが、仲良しグループの中にも力関係のような物が存在するの を体で感じ始めた。ま、簡単に言えば、ジャイアンとのび太の関係だ。 なんとなく、スポーツのできるできないでステータスが決まるようなところがあり、 まあそれでいけば僕は順当にのび太だった。もちろん、いじめなんていう重いもので はないが、からかわれ役であったのは間違いない。とはいえ、それほど深刻なもので もなく、僕も他の仲良しグループに身を寄せたりしながら、いつしか卒業。  そして中学時代。まあ、勉強はできる方だった。国語と音楽の成績はいつも良かっ たし、学年の長みたいなものもやった。やったのだが、なんか波も激しく、あまり良 い時代とは思えない3年間。  友達もいた。部活も頑張った。卓球部。僕の偉大な性欲の目覚めもここだった。 エロい先輩、エロい同級生。エロ本、エロ漫画を数知れず借りて、部活の後の体育館 や家でこっそりと読みあさった。でもクラスではあくまでマジメ君。ムッツリスケベ まっしぐらだった。  でもそんなムッツリスケベ君にも大事件が起こる。中2の6月のことだが、隠し 持っていた(通学カバンの中)エロマンガが(「やるっきゃ騎士」だった)見付かっ たのだ。というか、技術家庭科の教室から帰ってきたら、なぜか黒板の真ん中に飾ら れていて、(僕と卓球部の友人それぞれのもの)たぶんクラスの中であまり仲良くな かった連中が、わざわざ授業を抜け出しての仕業なのだけど、たぶんあの瞬間の ショックは人生ベストテンの上位に必ず入るだろう。その時たまたま僕は学年の長 で、まあ、僕の中では、かなりのスキャンダルだったわけだ。  この事件については、しばらく心の内にしまっていて、誰と話してもその話題には 触れなかった。高校までは。大学に入ってやっと開き直れて何人かと話したのだが、 事件後一ヶ月ほど女子が全く口を利いてくれなかったのは、結構封建的な中学だった んだね、という感想が多い。もしかしたら、クラスの雰囲気によっては、笑って許さ れることもあったのかな・・・。  でもとにかく、このことで僕の中で何かが変わった。未だに6月の雨は何か起こり そうでイヤだし、(その日も雨だった)僕の人生でちょっとでも”自殺”なんて頭を かすめていたのはこの頃だけであるのも事実だ。ここからしばらくは、さすがに前向 きな子ではいられなかった。  それでも時間は何となくごまかしてくれ、その話題にはもう触れず、割と楽しく、 割と普通の日々を送っていた。そんな中、また「ジャイアン-のび太問題」で少々頭 を悩ますようになる。 中学になると、運動神経=ステータスの公式がますます強くなり、体育の授業はさら に苦手なものと化していた。そしてその風潮が友達グループにまで波及。そうなると また立場の弱くなるところではあった。「からかう」といっても、手加減もあまり知 らないこの年代。やりすぎるなんてよくあることだった。  でもそんな中で、小学校時代と決定的に違ったのは、僕が自衛本能を身につけてい たことだ。 ともすれば矛先の向いてくる、弱めの立場で本能的に悟ったのは「他に矛先を向けれ ば、自分は大丈夫」という事実だった。これは確実だった。ま、今考えてみれば勿論 何の解決にもなってはいないし、そのお陰で泣かされたり、弱い立場になってしまっ た友人もいたが、それと引き替えに僕は立場を得たし、何よりもそうしなければ、狭 い社会の中で自分がその立場に立たされるのは間違いなかったのだ。 「食うか食われるか」という世界に、少なくとも僕の目にはそうとしか映っていな かったし、事実、ある程度のハードな環境であったのは間違いなさそうだ。しかし、 図らずもここで培われてしまった自衛本能は高校まで持ち越され、ある意味したたか にも生きた僕はまた他に矛先を向けながら、自分を守った。  でも、そんな中でもポリシーは持ちたかった。できれば許容する人間になりたいと 願った。だから「ある一線を引いて、そこまでは許すことにしよう。でもそのライン を超えたら決して許さない。」と決めた。そしてそれを越えた奴が一人だけいて、 (勿論、今ではここまで極端な考えは持ってないが)そいつのことはもう友人として は見なかった。そいつは昼休みに、フザけてではあったが、僕の喉にハサミの刃を突 きつけたのだ。一歩間違えば、本当に大怪我のケースであったのだ。(さすがに最近 の同級会では普通の会話もするようになったが・・)  しかし、中二の6月に期せずして始まったこのネガティブ路線は決して気分のいい 物ではなかった。  だから都留に行くとき、心から変わりたかった。まあ「明るくなりたい。アカ抜け たい」程度のところだったが。そしてそこで出会った人はすばらしかった。というか 学ぶところが多かった。  僕は、基本的に他人は自分より優れていると思っている。だから特に大学時代、他 人のいいなあと思ったところは自分に取り入れるようにしてきた。だから、人と話を するのは大好きだし、そんな毎日の中で、自分なりに4年間(勿論、ちっちゃなレベ ルで)進歩を重ねてきたのだと思う。  「ピュアだ」とか「プラス思考だ」とか言われたりもしたが、僕はただ、常にフ ラットでいたかっただけ、常にタカギシゲヒラでありたかっただけなのだ。  何も足さない。何も引かない。僕として成熟した僕を、それを好んでたしなんでく れる人が一人でもいてくれるのなら、それ以上の幸せはあり得ないなあ。と、今は思 うのだ。 ***************************             S311号室より         たかぎ しげひら ***************************