清陵生だった頃(「清陵」第55号)
私が清陵に入学したのは昭和四十九年の四月である。現在と同じように1部の担任は国語、2部は社会という順番で、私は6部、担任は英語の土川先生だった。土川先生は比較言語学の著書もあり、学会に論文を出しているような先生で、授業にも英和辞典ではなく,POD(Pocket Oxford Dictionary)という英英辞典を持ってこられ、文法や単語の説明はすべて英語を使って行われた。大学入試に向けてのテクニック的なことはもっぱら家庭でやるものであり授業は本当にアカデミックだった。3年の二学期、普通だったら入試で頭がいっぱいになる頃にもかかわらず、リーダーの授業ではイギリスの哲学者 Bertrand Russell の The Conquest of Happiness (幸福論)を原書で読んでいた。大学の教養課程でやっても少し難しすぎるようなレベルである。1時間の授業に予習が2時間は必要だった。
土川先生は担任だったがなかなか名前を覚えてもらえず、またショートホームルームに来ないことも多かった。ロングはほとんど自習(自由時間)だった。しかし、重要な連絡はすべて昇降口に掲示されるという清陵のすばらしい伝統のおかげでホームルームはあまり意味がなかった。土川先生はテニスが好きで、よく空き時間に湖周マラソンの「うしまさ坂」の語源になっている地学の牛山先生と中庭のテニスコートでテニスをしていた。私たちが自習時間に図書館(当時は別棟だった)に行こうとコートのそばを通りかかると、「おーい、一緒にやろうよ」と誘われたこともあった。生徒の名前を覚えなくても空き時間にテニスをやっていても先生は専門教科の実力があれば尊敬されていた。
牛山先生と言えば、1年生の入学早々の授業でいきなりドイツ語や英語の板書で生徒を圧倒した。他にもすごい先生が大勢いた。数学Tは白沢先生に教わった。この先生は、中学生の時すでに清陵に行くと白沢という実力のある先生がいる、と噂になっていた。なぜ中学生にまで話が伝わる程の評判が立ったのか。これは、清陵では新任の先生が赴任すると挨拶代わりに超難問を持って質問に行き、ランキングをつけてしまうという慣わしと関係があった。但し、白沢先生の場合は、3月下旬転勤前に打ち合わせに訪れた清陵の研究室で、たまたま東大を受験した生徒が入試問題を持って質問に来ていてそれをすらすら解いてしまい、赴任する前からランキングのトップだったのだ。
世界史の高木先生も忘れることができない先生の一人だ。はっきりとリベラルな方向性があった為影響を受けた生徒が多い。私は格好をつけてノンポリだったが、実は授業中高木先生がちらっとコメントする思想家の本をこっそり読んだものだ。他の社会の先生が薦める本といったらせいぜい岩波新書くらいだった。高木先生の薦めてくれる本の方がずっと刺激的だった。「いいだもも」なんて名前は普通の高校生だったら新人歌手かな、くらいにしか思わないだろうが当時の清陵生はそうでないことをよく知っていた。
あれから約三十年。私が清陵の教壇に立つことになってしまった。本当に恐れ多いことである。
さて、授業以外ではどうだっただろうか。まずは学友会の思い出。私は積極的に役員をやるような生徒ではなかったが総会はまじめに出席していた。今と違うのは、狭山事件とか原水爆禁止運動のようなテーマが総会で話し合われていたことだ。また、ある時、学校が生徒に無断で校門(旧校舎なので今のグランドの向こう側の隅あたり)を作ってしまったことに抗議して暗くなるまで校長交渉があったことを覚えている。その時会長が、清陵というのは常に開放的で近所の人や子供たちが入ってこられる雰囲気でなくてはならないのだ、という趣旨の発言をしていた。校門がどうなったかは記憶にない。そう言えば新校舎にも校門がないことはこの事件と関係があるのだろうか。
地方会は一年生に対するいじめが一番ひどい時期だったようで、問題になっていたようだ。飲酒や暴力のような不祥事も続出した。私は1年生の試肝会で受けたトラウマから抜け出せず2,3年生の時は歓迎会にも試肝会にも参加しなかった。おかしいことをおかしいと言える雰囲気がなかった。いろいろ聞いてみると私たちの少し前まで地方会は正常に機能していたらしいのだが、ある時何かがおかしくなってしまったのだろう。それは「自治」の歪曲した解釈とつまらないプライドだったのかもしれない。
部活動は地歴部考古班というのに入っていて地道に活動していた。清陵の考古学というのはかなり伝統があり、藤森栄一氏は言うに及ばず前明治大学学長の戸沢充則氏なども先輩である。私の1,2年先輩でも考古学の専門に進んだ人が多い。
清陵での3年間のことは今でもよく覚えていることが多い。少なくとも退屈はしなかったからだろう。
(次の原稿は清陵新聞に「清陵祭の思い出」として寄稿したものです)
私は地歴部考古班というところに入っていて、在学中3年間4月から清陵祭までの期間は、研究発表するための調査活動に明け暮れていた。まず、日曜日などに、原村や茅野に出かけて行き「表面採集」をする。これは、簡単に言えば、勝手に他人の畑に入って、土器片・石器を拾うことだ。いちいち許可など得ていなかったと思う。かなりいろいろな物が集まったものだ。平日の放課後は、それらを整理し、どのような種類の土器・石器か、どの時代のものか、などを分析し、このあたりにはこの時代の遺跡があるに違いない、という仮説を立て、清陵祭で発表した。「土」というタイトルの雑誌も作っていた。清陵祭の期間は、一日中発表会場で来客に説明をしていて、他のクラブの発表は見た記憶がない。
文化系クラブの発表が主体の清陵祭だった。それにしても、考古学系クラブがなくなり残念です。また始めませんか。