犬の遠吠え
12月21日 教科かけもちの悪夢
地理は、センター試験の受験者数からみれば、受験科目としては決してマイナーな科目ではないけれど、世間的にみればマイナーだろう。
マイナー科目であることは、地理愛好家としては少しさびしい気もするが、授業をする側にとっては、いい面もある。受験生相手なので、もちろん、おおいに受験を意識して授業をするけれど、マイナー科目の地理をあえて選択する生徒は地理好きが多いから、同好の士を相手に授業をしているわけで、いやがる人をなだめたりすかしたりして何とか詰め込んでやろうなどと気負わないで、けっこう気楽に授業ができるのだ。
生徒の側も、私が地理愛好家であることがわかると、受験を離れた地理の話題や疑問を発してくれる。そして、先ほど来、「地理愛好家」と書いているけれど、実は、私は「受験地理愛好家」であって、地理愛好家ではないので、いわゆる地理愛好家の生徒が話してくれる内容や疑問にはついていけない場面がけっこうある。生徒との会話を通じて、いままで知らなかったことを教えられることが多々あるのだ。知らないことを教えられたり、わからなかったことを調べたりすれば、おおいに勉強になって、たいへんにありがたい。
「好きこそものの上手なれ」で、4月頃には地理がそれほど好きでなく成績の悪かった子でも、だんだん好きになり、夏休みが終わってしばらくたった10月・11月頃になって試験ができるようになったり、また、その時期には試験ができなくても、地理が好きになり、それが高じて、地理ばっかり勉強し、11月頃には、成績が伸びる一歩手前ぐらいにはなっている。そういう姿を見ると、心配になって、「おいおい! 地理ばかりやっていて大丈夫かい? 大事なのは英語や国語だぜ!」と言うが、内心では、たいへんうれしいものだ。
こういうわけで、けっこう気楽に仕事ができ、特に10月以後は完全にリラックスして授業をすることができるのだけれど、そうはいっても、元来、人前で話をするのが苦手なので、夏休み直後ぐらいまでは、「うまいこと説明できただろうか?」「わかってくれただろうか?」「あいつの授業はわからんなんて言われていないだろうか?」などということがけっこう気になって、精神衛生上よくない。
それが証拠に、夏休み前には、たまに変な夢を見る。教室に入って、なぜか数学とか英語とか古文の授業をしなければならなくなる夢だ。地理以外のそれらの科目の授業を突然やれと言われてやるわけだ。これらの科目は、自分が受験生時代はけっこう好きだったし、授業用のマニュアルや答えも用意されているので、なんとかごまかすことができる場合もあるが、たいていはそうではない。ごまかしごまかしやるのだが、そのうちに、自分のしゃべっていることのつじつまが合わないことに気がついてきて焦りだし、そうすると、教室がざわざわしてきて、ますますしどろもどろになり、「ええい! 困った」という気持ちと「生徒に申し訳ない」という気持ちで、赤い顔がますます赤くなり・・・というところで目が覚めて、「ああ、夢だったのか。よかった。」ということにあいなる。
今まで、この夢については、自分の商売は精神衛生上よくない面もあるのだというぐらいに解釈しており、確かにその通りなのだが、最近、そういう個人的なこと以外のことを、考えた。以下、犬の遠吠えである。
自分が専門とすることや専門ではなくても好きで思い入れを持って勉強していることならいいが、そうでないことをやれと言われても無理だし、たとえ、ごまかすことができたように思っても、上っ面のごまかしにすぎないから、生徒にとっては大変な迷惑である。
ふと、高等学校のことを考えた。世界史の先生が地理を担当させられて苦労しているという話をときどき耳にする。もちろん、制度上では何の問題もないだろうし、同じ地歴科だからできるだろうとか、地歴は同根だから世界史ができるなら地理もできなければならないとか、いろいろ理屈もあるだろう。
でも、これは、私が夢の中で数学や英語や古文の授業をやるようなものではないだろうか? 地歴同根だから可能とか、オールマイティなら可能とか、理屈はあるのだろうけれど、授業は理屈じゃないと思う。授業は対面が基本だから、何と言っても迫力が大事だ。迫力と言っても、人を惹きつけるカリスマ的な能力というような特殊なことを、ここでは言っているのではない。その科目に対する思い入れがあるかどうかというレベルの話だ。この思い入れレベルの迫力こそ、授業担当者に最低限必要な資質ではないだろうか?
世界史が好きで教師・講師になった人は地理に対する思い入れはなく、地理が好きで教師・講師になった人は世界史・日本史に対する思い入れはないのが普通だと思う。もちろん、世界史が好きでなった人でも、地理の方がもっと好きになることもあるわけで、そういう場合は、地理の先生になりきっているわけで、よほどできた人でない限り、今度は、世界史への思い入れが薄らいでくるだろう。
私は教育の現在とか将来には、今までも現在もまるで無関心である。裏番組の予備校講師という商売柄、受験のための地理を追究しているにすぎないから、本当の意味で地理のおもしろさを知ってもらうための迫力ある地理教育はしないでもよいし、そういうことにのめり込むことも要請されていない。
でも、表番組の高等学校の地理の授業では、受験に制約されない地理教育をして欲しいと願っている。そういう教育を受けてきた生徒は、受験地理なんぞ鼻歌でやってしまうと思う。教科かけもちで地理を仕方なく担当させられる場合は、自分の旅行談や巷で話題の環境問題だけの授業をしたり、予備校同様上っ面だけの受験地理をしたりなどして、生徒に地理のおもしろさや地理の考え方や手法を伝えることができないのではないかと思う。
講演会などでは、100人相手であろうが1000人相手であろうが、その道の達人とされる人の話は、たとえ話術が巧みでなくても、聴衆を惹きつけるものだ。
小中学校なら教育学に精通するのも大事だろうが、高等学校以上の場合は、教育学に精通していることよりも専門分野に対して入れ込んでいることの方が大事だと思う。巷では、教育の危機とかが叫ばれ、40人学級がいいとか30人学級がいいとか、あるいは非行を何たら道徳を何たらとか、いろいろ言っているが、そういうことは私はよくわからない。
こと地理に関して言えば、まず必要なのは、地理に対する思い入れの強い教師・講師に担当してもらうことであり、教科かけもちを許さないことではないだろうか? 教員採用でも、地歴で採用できるから、つぶしのきく世界史・日本史の教員を採用して、彼らに地理も担当させてやれ! などという姑息な悪習をなくすべきだ。そういう姑息なことを続けている一方で、教育の再生うんたらかんたらなんて言うのは、ちゃんちゃらおかしいと思うのである。
3月14日 センター試験ほめ殺し(2)
第4問 問5 | あえて見にくいグラフを作ることにより、答えがバレバレにならないようにしてある。 |
受験生に対して、無用の頭の体操を強いるという点で、すばらしい工夫である。 |
この問題では、日本のある町における1970年と1995年の年齢別階級別人口構成を示した図をあげ、グラフを読み取る能力を試している。提示されている図は、普通、人口ピラミッドと呼んでいるもので、国や市町村など、ある地域における年齢別性別人口構成を表すときによく使うグラフである。問題を解くに当たっては、知識はまったく不要で、選択肢の文をよく読み、グラフをていねいに見るだけで答えが出る。
この問題は、いろいろな意味ですばらしい。
第一に、グラフを読み取るだけで答えが出る、ということは、知識はまったく不要であるから、暗記力テストでないことはあきらかである。
第二に、簡単なグラフを読むだけなら、一見するだけで答えがわかって、あまりにもばかばかしい問題ってことになるから、読み取りにくいグラフをあえて作成し、かなりていねいに見ないと答えが出ないように工夫してある。特定の世代の変化を読み取らせる問いなので、1970年の人口ピラミッドと1995年の人口ピラミッドを、それぞれ作って、その2つのグラフを横に並べてくれれば、変化がわかりやすくなるのに、この問いではそうはせず、2つの年度を重ね合わせるようにして1つのグラフの中にまとめて示してある。
同様の重ね合わせ型人口ピラミッド(ここではとりあえずそう呼んでおく)は、問6でも使われているが、こちらの問いは、重ね合わせ型にすることによって、変化が読み取りやすくなっている。ところが、問5は、重ね合わせ型グラフにしたために、変化が読み取りにくいのだ。問5と問6は同じく変化を扱っており、変化という点では同じだが、中身が違うので、同じようなグラフでも、かたや見にくく、かたや見やすいのである。
統計をグラフで表現する意味は、「一見しただけでわかる」ってことにあると思う。もし、そうでないなら、グラフを作る意味はない。たとえば、円グラフで表せば、円の中に区画された扇形のパイの大きさをちらっと見るだけで、それぞれの部分の割合を比較できる。経年変化を目に訴えたいなら折れ線グラフを使えばいい。セールスマンを互いに競わせるために、販売成績や顧客獲得成績をグラフする場合は、棒グラフがいいだろう。
でも、試験でこれをやると、答えがバレバレになる。そこで、この問いでは、あえて読み取りにくいグラフを作ったわけだ。落ち着いて考えれば、この問いを見た人は、「グラフってのは、何のために作るのか?」 という根本的な疑問をもってしまうが、残念ながら、試験中はそんな余裕がないので、作問者の術にはまり、読み取りにくいグラフだということにも気づかず、答えを出すべく、必死になって、ていねいに図を見るだろう。受験生に対して、無用の頭の体操を強いているわけで、サド侯爵に劣らぬ他虐趣味の持ち主、作問者のねらいどおりだ。
この第二のすばらしさに対しては、このように、「なぜ、あえて見にくいグラフを作るのか!」という文句があり、知り合いも同じく文句を言っていた。私も、知り合いと同じく、「なぜだ! けしからん!」と言っておく。受験生に対して、「マゾッホ的倒錯に快楽を見いだすことのできる人間たれ!」と脅迫しているかのごとき問題である。
が、このコーナー「犬の遠吠え」でほめ殺ししたいことは、実はそのことではない。ここで、問題としたいのは、「知識無用でグラフを読み取る能力を試すだけの問いを地理の問題と言ってよいのか?」ということである。これは、第一のすばらしさにも第二のすばらしさにも関連する問題である。
今日は、久々の遠吠えなので、筆の運びが本調子でない。よって、ここで切り上げます。
2月28日 センター試験にもの申す(番外編) センター試験よ、外圧に負けるな!
最近のセンター試験地理は、外圧に翻弄されているようだ。外圧とは、ほかでもない、結果としての平均点である。地歴科の他の科目に比べて、平均点が低いと、「こりゃ、いかん」というわけで、問題をやさしくする。逆に、高いと難しくする。こんな感じだ。
たびたび、繰り返すが、今年のセンター試験はお粗末であった。その原因は、本来の目的を見失い、平均点という外圧に翻弄されたためにほかならない。このような本末転倒がなぜ行われたかをたずねると、すべては、一昨年、1998年度の失敗に始まったのである。
ご存じの通り、1998年度の地理問題は異様に簡単で、入試センターが得点調整をせざるをえないはめになった。入試センターは、この事態を「失態」と感じたため(であろう)、地理を批判するという異例ともいえる挙に出た。これには、地理の出題者陣は、たいへんビビッた(はずである)。そこで、次の1999年度は、問題を難しくして、平均点を他科目とほぼ同じにすることに最大の注意が払われた。
難しくするにはどうしたらよいか?
実は、1998年の平均点が異様に高かったのは、問題を易しくしようとしたためではなかった。旧課程的な問題をできるだけ作らないようにしようとしたためにすぎない。現行課程に即した良問を作ったのだ。ところが、ふたを開けていると、ご承知の通り、90点以上続出、平均点77.23点で、得点調整前の日本史より20.9点、世界史より16.2点も高い、という結果になった。出題者側も、まさか、生徒がこんなにできるとは考えていなかった。出題スタッフが現行課程に即した問題づくりに慣れていないうえ、最近の高校生ともつきあいが薄いので、結果が読めなかったのだ。
次年度の出題者陣は考えた。「1998年の問題が異様にできたのは、現行課程に即した問題を作りすぎたからだ。難しくするには、旧課程的な問題も含ませればよい。」と。そこで、1999年度は、この方針に沿って作問した。結果は良好であった。世界史64.13点、日本史58.98点、そして地理62.27点で、まさに地理は世界史と日本史の間だ。これなら誰も文句は言うまい!
ところが、文句が出たのである。「センター試験は先祖がえりした。」「古くさい問題が多い。」「旧課程的だ。」
出題者陣はびっくりした。「えっ? 平均点をそろえるだけじゃダメなの?」 現行課程に即して作問すると、易しすぎるとたたかれる。平均点がうまくいくと、現行課程に即していないとたたかれる。「どうしたらいいんじゃあ〜!」
2000年度、出題者の先生方は一念発起した。「平均点もそろえて、なおかつ、現行課程に即した問題づくりをしてやろうじゃねぇか!」 現行課程に即しながら、組み合わせ解答させる問題を増やし、なぜそんなにひねくれた問い方をするのかと言われそうな問題を増やし、など、あの手この手の工夫を施した。そして、結果は、うまいこといった。平均点58.22点で、世界史より6点ばかり低いだけ、日本史より3点ばかり低いだけだ。「ざまぁみろ、これで、地理は簡単だ、なんて言われないぞ。」「問題も見てくれ、この通り、現行課程にばっちり即した良問ぞろいだ!」と相なったのである。
「得点が団子状態だ!」「得点が実力を反映しない問題だ!」「努力が報われない問題だ!」などと文句を言うのは、さ〜ら一人で、あんなものは犬の遠吠えだから、無視しろ、無視しろ。
以上は、友人のせっぽう氏、エヌヨさん、もっくん氏ら、と話して得た結論で、もちろん、出題者側の心理状態はすべて作り話であるが、このように考えると、1998年以後のセンター地理の問題の質の変化をうまく説明できるのだ。
出題者の先生方に是非言いたい。「外圧に翻弄されすぎてはいませんか?」と。思い起こせば、現行課程1年目の1997年度の問題は質の面からみても平均点の面から見てもたいへんよかった。あのときは、外圧がなかったはずだ。お願いだから、2001年度は、1997年度の初心に戻り(出題メンバーが違うので初心というのも変だが)、外圧に翻弄されない問題づくりをしてほしい。そうすれば、自ずと、実力のある生徒は高い点をとり、ない生徒は低い点をとるような問題になる、と思う。
そして、外圧といえば、もうひとつ、気になることがある。風のうわさに聞くところによると、今年の問題に対して、建設省が入試センターに対して、クレームをつけてきたらしい。本試験地理B、第3問の問3だ。
問3 第二次世界大戦後、日本では砂浜海岸の著しい侵食が問題となっている。著 しい侵食が生じた理由について述べた文として最も適当なものを、次の@〜C のうちから一つ選べ。 正解 @ 河川による砂防ダムなどの建設によって、河川から海へ流出する土砂が |
「こんな問題を出されたら、砂防ダムが悪者だと思われるじゃないか! 災害防止にとって砂防ダムが果たしている役割にも言及しないと、明日の日本を担う若者たち、ひいては日本国民全体に対して、誤った認識を植え付けることになる。」というような内容らしい。
建設省のクレームの内容自体はもっともである。とはいえ、この問題に対するクレームとしては、お門違いも甚だしい。真に教育のことを考えたうえでのクレームだろうか? などの疑問もわく。しかし、ここでは、役人根性丸出しのこのクレームについては、あまり問題にしない。建設省のお役人が自分の仕事に誇りをもつのはすばらしいことである。
問題は、こうしたクレームを、出題者がどう受けとめるかである。願わくは、あれやこれやの外圧に翻弄されず、教育という立場に立って、入試問題を堂々と作成してほしいものだ。本日の犬の遠吠えは、センター地理に対する熱き声援である。文句も声援も、犬の遠吠えにすぎないので、ちょっと悲しいが。。。
頑張れ センター地理! 外圧に負けるな!
2月17日 センター地理、ほめ殺し(1)
第1問 問1 まともに勉強することのむなしさを教えてくれる良問である。
この問いは、一言で言えば、標題の通りですが、細かく言えば、以下の点で、たいへんな良問であると言えます。考えて解かせる工夫が各所に施されているだけでなく、センター試験地理必勝のためには、知識は一切不要で、世間的な常識と、ひらめきの才能だけが必要である、と教えてくれるすばらしい問題です。
(1) | 円形の24時間時計の図を使っている。これは、日常生活では恐らく不必要であり、見ることも |
使うこともまずないうえ、大半の教科書にも載っていない図である。したがって、暗記では対応で きず、円形の24時間時計において、時間がどう表現されるかを、自分の力で、見いだす必要があ る。12時間時計を見慣れた人にとって、24時間時計は面食らうかもしれないが、帯グラフのよ うな形の24時間時計なら、小学校以来利用しているわけだから、多くの受験生にとって、帯を丸 にしただけの円形24時間時計を読むなんてわけないことであろう。初めて見る図を如何にして読 むかを、その場で見いださせ、それがわかったうえで問題を解かせる、という2段階の手間を強要 しているわけであるが、たいした負担を要求するものではなく、すばらしい素材を使ったものだと 感服する。目新しい図を使っているので、受験生をビビらせることもでき、特定教科書に有利な問 題ともならず、うるさ方の多い高校の先生方や文句いいの多い予備校講師どもからのクレームも封 じ込めることができる。各方面への気配りも怠りないわけで、この素材選びの妙は賢者のしわざに 違いない、と密かに想像する次第である。 |
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(2) | 証券取引所の取引は、企業や官公庁の仕事と同じく、朝から始まり夕方に終わる。このことは、 |
当たり前で常識中の常識なので、これをあえて注記しなかったところは心憎い工夫である。テレビ ニュースを見ている人にとって、証券取引が朝から始まることは常識中の常識だ。「日本ではそう でも、ニューヨークやロンドンなど、インターネット取引が活発になっている地域ではひょっとし て、夕方あたりから取引が開始されるかもしれないなあ」、なんて馬鹿なことを考えるヤツは、こ の段階で、「常識なし人間」という烙印を押して、排除することができる。ちょっとした工夫で、 受験生の常識度・非常識度も試すことができるわけで、そのセンスには脱帽せざるを得ない。 |
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(3) | 「GMTはロンドン時間であること。」「1日が始まるのは、東側ほど早いので、ロンドンより |
シンガポールが早く、シンガポールより東京が早いこと。」等々、時差の分野の基本ともいえるこ れらの事項が理解できているかを問うというねらいが、明らかにわかり、わずらわしい時差計算を 要求していない。「計算力を問う」などという愚に陥らないための工夫として大いに評価できる。 |
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(4) | (3)の裏返しであるが、時差の問題が出たら、「経度差15度で1時間の時差。だから、東京とロ |
ンドンの経度差は? あれ、書いてくれてない。あぁ、困った、どうしよう。」なんて考えてしま う頭の固い受験生を排除できる。書いてなくても、本初子午線の通過するロンドンは経度0度で、 東京時間が日本の標準時子午線の東経135度に合わせてあることは、受験生なら当然知っている はずだから、経度差は135度で、したがって、時差は9時間、というふうに算出することができ るが、そんな正攻法的なやり方をすると、この問題を解くだけで2分程度かかってしまうので、た、 とえこの問題ができても、最後の方で時間不足になるだろう。ということは、結果として、頭の固 い受験生を、「コチコチ頭の役立たず人間」として排除できるわけである。う〜ん! 悪魔的にす ばらしい仕掛けである。完璧に脱帽ですな。 |
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(5) | さらに、この問題には仏の慈悲ともいえる仕掛けがしてある。Bがロンドンだとわかりさえすれ |
ば、西から回ろうが、東から回ろうが、東京は2番目に来る都市なので、そのことに気づきさえす れば、1日が始まるのはロンドンより東京が早いということを知らない受験生でも、あるいは、時 差に関する知識がないためにきまじめに時差計算をしようにもできない受験生でも、たやすく正解 を得ることができる。各都市の位置関係さえ知っていれば、西回りでも東回りでもいいから2番目 に来る@を選べばいいのだ。なんという慈悲深さであろう! センター試験の時差の問題は、時差 に関する正しい知識がなくても解ける、ということを来年度以後の受験生に対しても、あまねく知 らしめるための仕掛けであろう。このメッセージに気づいた来年度の受験生は、しかめっ面して勉 強するなんてあほらしい! 時差計算はひらめきで解け! というセンター地理の奥義を教えても らえるのだ。ありがたいことである。 |
以上、ほめ殺し、終わり。さて、この問題の出題意図は何なんだろうか? 「時差に関して正しい理解がなされているかどうか試す」 ってことではないでしょうね。まさか。まさか。
2月8日 センター試験にもの申す(2) 鈍牛の能力を不当に評価するべからず!
このコーナーを始めると、さっそく各方面から(といっても2〜3人だが)反響があった。いわく、「私はセンター試験の問題を非常に評価している。」、いわく、「センター地理の問題は練習を積めば必ず解ける問題だ。」、いわく、「日本史や世界史だって単純な一問一答のような問題はなく、知識を運用しないと解けないようになっている」、いわく、「そもそも努力=暗記ではない。数学は暗記科目ではないから努力が報われないなんて誰も思わない。」そしてまた、いわく、「センター試験は、総合問題の大問集合体へと進化していると思う。」
私は、これらの意見にほぼ同感である。私だって、「努力=暗記」とは思っていない。ただ、「数学は暗記科目ではない」というのは世間の誤解で、実は、「数学こそ、あるレベルまでは、暗記科目の最たるもの」という気はしているが。。。
私もまた、「センター試験は、暗記力テストに陥らないように工夫された良問ぞろいだ。」と思っている。また、「センター地理は考えて解く問題が多すぎるから、単純な暗記問題もまぜるべきだ。」というつもりはない。さらに言えば、センター試験をどんな問題にするかは、出題者である大学の先生方の考えることであって、G−SALAND、すなわち、一介の文句いいジジイの私が口を挟むことではない。
頑張る受験生を応援するG−SALANとしては、最近とくに今年のセンター地理は得点分布が団子状態で、45点〜75点ぐらいの約30点の間に受験者総数約10万人のうち7割が集中しており、90点以上の高得点層がきわめて少ないことを問題にしているのである。これでは、「努力しようがしまいが結果はいっしょ」という風潮を招き、結果として、真剣に地理を学習しようという受験生の意欲を殺いでしまうのではないか、と憂慮しているのである。
「今年は、考えさせる問題が多すぎて、果たして時間内に十分余裕を持って解答できる分量であったか、という点だけが問題である。そのため、できる人でも最後まで解けなかったかもしれない。高得点者が少なかったのは、それだけの理由にすぎず、センター試験にもの申す!というほどの問題は見あたらない。」という意見もあるが、私は、そのことは大いなる問題であって、その問題の根は深いと思うのである。
考えさせる問題を大量に出して、短い時間内に解かせることによって、どのような能力が試されるというのだろうか? 確かに、暗記力テストには陥らないかもしれないが、要領のよさを試すだけになるのではないか?
人間のもつ能力というのは、多様であって、要領よく短時間で問題を解決する能力というのも、確かに重宝される能力ではあるが、目標に向かって努力し、じっくり時間をかけて問題を解決していく能力もまた、大いに評価すべきである。要領のよいネズミばかりが幅をきかせる世の中にしてはならないのだ。鈍牛のような人間を不当に低く評価し、彼らが肩身の狭い思いをするような世の中にはしたくないと思うのだ。
私は、商売柄、毎年、いろんな若者に出会う。いわゆるできるクラス、できないクラスというのがあるが、どちらのクラスにも鈍牛のような人間がいて、彼らに接すると、そこそこ要領よく人生を渡ってきた私は、ときに、ハッとさせられる。とくに、いわゆるできないクラスの若者がおもしろい。暗記力が優れているわけでもないし、一を聞いて十を知るどころか、一を聞いて1/100も知ることのできないような要領の悪い若者も多い。そういう若者は、まともに勉強を始めたばかりの4月・5月はもちろん、9月になっても10月になっても、いや、それどころか、12月の頭になっても、なかなか成績が伸びない。たいへんな努力をしているにもかかわらず、である。そこそこ要領よい人間の私から見れば、「ああ、こいつは、よくてせいぜい某大どまりだなぁ。人間の能力というのは、もって生まれた性格によってある程度限界があるから、仕方のないことだ。」と思うこと、しばしばである。
ところが、どうだ! 12月の末から1月になると、そんな若者が、突然、化けるのである。成績が突然アップしはじめるのだ。そして、恐るべし!志望大学に合格してしまうのである。うれしいことではありませんか。今年もまた、そういう若者が、私の接している数少ない若者の中だけでも、数人は現れそうである。
彼ら鈍牛人間を見るたびに私は思うのである。「人間の能力は多様である。そして、鈍牛人間は、要領が悪いので学校の勉強や短期に成果を求められるような仕事では生産性が低く、劣等生扱いされるかもしれないが、人生の重要な場面ではもちまえの鈍牛的努力によって問題を解決していく。だから、結果として、鈍牛人間はネズミ人間よりも幸福な人生を勝ち取る可能性が高い。ネズミ人間は、要領がいいだけに、人生の各所で保身や出世のために悪さも働きがちであり、結果として、世の中に危害を与えることも多い。鈍牛人間は、のろのろではあるが、確かな実りを得ながら進む。世の中への貢献という点でも、己の保身や出世のために智恵を働かす要領のよさがないだけに、彼らのほうがより多くのものを残してくれるのかもしれない。」と。
1月30日 センター地理にもの申す(1) 努力が報われる問題をなぜ作らないのか!
現行課程移行後のセンター試験地理はどう考えてもお粗末だ。リキを入れて問題を作っているのはわかるが、結果として、受験生の実力を測る試験になっていない。今年のセンター地理は、努力しようがしまいがそこそこの点数とれ、または、そこそこの点数にしかならない、という結果になっている。うんと努力して高い実力を備えている人でもせいぜい80点台しかとれていないのである。一昨年は、努力した者はほぼ100点だったが、努力しない者も80点以上続出というお粗末な試験だった。いずれにせよ、これでは、一生懸命努力して実力を蓄えてきた地理選択者がかわいそうである。
同じ地歴科の他科目は、努力の有無が得点差となってあらわれやすく、実力のある者が高得点をとれる問題であった。実力のある受験者層に焦点を合わせると、同じ地歴科の他科目選択者に比べ、地理選択者は著しく不利である。
確かに地理は、一夜漬け的な努力努力の受験勉強で高得点が期待できる日本史・世界史と異なり、生まれてから約18年間の生活の中で培ってきたセンスみたいなものが要求される、という性質を、もともともっていた。努力努力の受験勉強をしなくてもそこそこの点数がとれる半面、かなり実力を蓄えても高得点がとりにくい科目である。得点分布が団子状態になりやすいのだ。
だから、私は、地理講師であるにもかかわらず、暗記力に優れているいわゆるできるグループの文系学生に対しては、センター試験で地理を選択しない方がよかろうと言ってきた。逆に、暗記力が劣るとされるグループの生徒や、理系で地歴科になかなか手がまわらないが、あまりに低い点数をとるわけにいかないという生徒に対しては、地理を選択するようにすすめてきた。蛇足ながら、文系的センスに欠けるが理系的センスに富む生徒にとって、地理がおすすめ科目であることは、もちろん、昔も今も変わらない。
地理講師でありながら、文系のいわゆるできる生徒に対してセンター試験で地理をすすめることができない悔しさはあったが、地理という科目の宿命とある程度あきらめていた。もちろん、こうしたすすめにもかかわらず、地理を選択する生徒はいるもので、そういうヤツは、かつてなら、100点または限りなくそれに近い点数をとってきたものだ。実力があったから当たり前の話である。
ところが、今年のセンター地理はどうだ。確かに90点以上とった人も何人かはいるが、その人数はきわめて少なく、かなり高い実力をもっていながら80点台しかとれなかった人や、そこそこ実力があっても60点台しかとれなかった人がごろごろいる。得点分布をみると、45点〜75点ぐらいの約30点の間に受験者総数約10万人のうち7割が集中しており、以前にもまして団子状態になっている。
「努力は報われる」というのは、実社会ではなかなか実現できないことであるが、社会の公平感を維持するためには、理念としてある程度必要であり、「世の中、運だけだ」とか「努力しようがしまいが結果はいっしょ」というような風潮がはびこれば、社会は崩壊する。入試が、いろいろな問題をかかえながらも多くの人々に支持されているのは、「公平だけがとりえ」と思われているからであり、運もあるが一定程度は「努力が成果となって現れる」と考えられているからである。その意味では、最近のセンター地理は、結果的に、社会の混乱と崩壊を招来するかのようなものであった。
なぜ、このような結果になったかを、つらつら考えるに、恐らく、リキが入りすぎているからだろう、と思う。本家カワイック・ワールドの掲示板で、ある受験生が、「『知識ではなく考えさせる問題』という呪縛に囚われすぎていませんかねぇ」と感想を書いていた(1月28日の書き込み。本人の許可を得たので、その一部を下に掲載する)。当を得た感想であり、『呪縛』とはうまいことを言うものだと感心した。出題者側は、こうした受験生の声にある程度耳を傾けるべきではないか、と思う。努力が報われる問題を「作らない」のではなく、「作れない」のではないか、あるいは、受験生のおかれている環境を慮ることなく自己陶酔の境地で問題を作っているのではないか。だとしたらおおいに問題である。
今回センター試験を受験して思ったのですが、センター試験の地理と言うのは 「知識ではなく考えさせる問題」という呪縛に囚われすぎていませんかねぇ?? もうちょっと単純に知識を問う問題を増やして、勉強した人が着実に点を取れる 問題にした方が私はいいと思うのですが・・・・・」 |
というわけで、私はおおいに怒っている。読者が少ないことは百も承知しており、犬の遠吠えに終わりそうな気もするが、今後、しばらくは、最近のセンター地理問題に対する苦言を、おおざっぱな見地から、あるいはコマゴマとした末梢部分についても、ぼちぼちと書いていこうと思う。これは、頑張る受験生を応援する「G−SALAND」がやらなければならない当然の仕事であるとも感じている。思い立ったが吉日、本日は、その第1弾である。
くれーまーなら俺にまかせろ!という方は→ここへ