掠奪された主室は開坑の最縁部にあった。その主室に対して接して同じような部屋が作られていた。そこで、発掘者達は上の従者達のグループとともに埋葬されていたひとりの女性の遺骸を発見した。発見されたのは、あの箱で隠された坑の近くだった。彼女の名前「プ・アビ」は、彼女の身体の近くで発見されたラピスラズリの美しい円筒形印鑑に記録されていた。彼女は木製の棺台に横たわり、彼女の手には黄金のカップがあり、彼女の上半身は多色ビーズによって完全に隠れていた。彼女の潰れた頭蓋骨の上に被っていたのは精巧な頭飾りで、その形から判断すると、詰め物をしたかつらの上に着けていたらしい。二人の女性の召使いが棺台の頭部と足部分にうずくまっていた。この墓は金、銀、その他がばらまかれていた。ウーリーが推測するに、空っぽの墓は「プ・アビ」の夫であり、彼がまず死亡し、のちに彼女が彼の近くに埋葬される選択をしたのであろう。彼が考えるに、彼女の葬式の準備中に作業員達がその機会を利用して、上部の従者達の部屋から彼女の夫の部屋に押し入り、彼らのルートを隠すために大きなチェストを置いたのであろう。王は65人の人びとをち、王妃は25人の人びとをかかえていた。もっと多くの死体が、「大きな死坑」として知られる別の墓で見つかってさえいる。この墓室は、主たる人物の痕跡があることから、盗賊により破壊されていたと推定されるが、8m x 7mの大きさのスペースに、6人の召使いの死体、四人の女性のハーピスト、他に64人の女性達が、紫色のドレスを着て、金、銀、ラピスラズリならびに紅玉髄で飾られていた。
この大量埋葬にたいする説明はどうなっているのか? 古代のバビロニアでは人間の生贄の一般的な習慣の記録は存在しない。権威者の幾人かが暗示するのには、この墓の住人達は、偉大な新年の豊饒祭で選ばれ生贄にされた神官と女神官達であり、彼らは聖なる結婚の儀式に臨んだウルの主神と主女神を代表しているのだとする。これに対する反論だが、なかんずく、ウーリーによって発見された主たる人物達はべつべつに埋葬されていた。もし、これが毎年の祭礼の一つであるとするなら、もっと多くの墓が六百年にもわたる墓地のなかに発見されているべきであったろう、というものである。どちらが事実なのかは別にして、明らかなことは、骨があまりにも朽ち果てていて、死亡原因を示すことができないのだが、人びとがこの場所に引きずり出され、処刑人によって即座に殺されたのであれば、争いによって引き起こされるべき混乱の跡がのこるはずだが、それが見当たらないことである。この説は女性達の精巧な髪飾りに乱れがないこと(地面の重量による乱れをのぞいて)によって支持されたが、この意味するところは、土が彼らの上に投げ込まれ、墓が封鎖されたときには、彼らはすでに死んでいたか、あるいはすくなくとも無意識になっていたのであろう。死体が注意深く配列していたことからすると、死体があの世に行く前に熟慮された取り決めがあったことを物語るのであろう。ウーリーが提案することは、彼らは王室のメンバーであって、来世でも支配者に奉仕し続けることを要求されていたので、彼らは自分の意志で坑のなかに歩き入り、睡眠あるいは死をもたらす薬を服用したのだ、とする。彼は「大きな死坑」のなかで見受けられる一つの個人的な感触について触れる。発掘者は死んだ召使いが身に着けていた銀の髪リボンについてはほんの痕跡しか見つけていない。しかし、ひとりの女性に、小さな平らな円盤(ディスク)を見つけた。これを洗ったところ、彼女が多分ポケットのなかに携えていた銀製の髪リボンの一つであることがわかった。:
・・・それはまるで彼女が自室から持ってきたばかりのようだった。両端をそれがほどけないように結わえて、きっちりとしたコイルに巻いて、・・・何故に彼女はそれを身につけていなかったのか、誰も話すことは出来なかった。多分、彼女は儀式に遅れてきて、きちんと身を整える時間がなかったのだろう。
(館内説明文翻訳)
茂みのなかの雄羊
この像は、伝統的に「茂みのなかの雄羊」として知られているのだが、より正確に言うと、ヤギである。前足を花の咲いた植物の枝に架けて立つのは、ヤギが食物を求めているときの仕草である。これは、ウルでPG 1237号墓、大きな死の穴(18号ケースを参照乞う)、で発見された一対のうちの一つである。もう一つはフィラデルフィアの博物館大学にある。
ロゼット(円花飾り)と蕾を持つこの植物と、ヤギの顔と足は金箔で作られている。ヤギの耳は銅製であり、そのよじれた角と肩の部分の羊毛はラピスラズリである。体毛は白色の貝殻である。長方形の台は貝殻のモザイク、赤色の石灰石とラピスラズリで装飾されている。
もともとは木製の芯で作られており、象眼部品は瀝青(ビチュメン)で貼り付けられていた。ヤギの首の後から立ち上がっている金色の円筒の意味するところは、何かの支えとして使われていたということである。多分、小さなテーブルあるいはスタンドのようなものだったのだろう。動物と植物の生命の描写は、自然と多産を象徴しており、それはシュメール人にとって極めて重要であり、彼らの宗教と芸術上の大きな特徴となっている。
(以上、紫字で引用下文章は、すべて
”Treasures of the British Museum” The British Museum
Press, 2009 P106からの翻訳文)です。
画像:A. Forestierによる復元図(1928)
”Treasures of the
British Museum” The British Museum Press, 2009 P106, P110
画像:The Great Death Pit, grave PG 1237, about 2500 BC (Early Dynastic V)
大英博物館にて撮影
(館内説明文翻訳)
大きな死坑
この墓はこの墓の中で多数の死体が発見されたことにより、「大きな死坑」と名付けられた。しかし、これが属していた石製の墓室の残部である証拠ではなさそうだ。この坑のなかにあったのは、六人の武器を携えた警備員あるいは兵士達と68人の女性の死体であった。
女性のほとんどは列を作って身を寄せ合って横たわっていたが、そのうちの四人は、19号ケース(右方)に納められている銀製のリラ(竪琴)四基の楽器の回りに群れていた。女性全ては精巧な頭飾り、ネックレス、イアリングを身に着け、衣服はビーズ装飾が施されていた。
雄羊の像二個は、坑の隅で発見された。そのうち一体が第17号ケースに収められている。
画像:ウルの標章上で奏でられているシュメール人のリラ
画像:同上の部分拡大、市民達
画像:The Standard of Ur ウルの標章-戦争
画像:
レオナルド・ウーリー卿は1922年から1934年まで南イラクでウルの発掘を行った。このサイトに沢山ある路傍の神殿の一つで発見された紀元前二千年紀の小像を示しているウーリー卿。
ウルの標章―平和
標章の平和面は戦争面とは完全に異なっている。下二段の図示するのはこの土地の豊かさである。一番下の欄に描かれるのは、男達が穀物を袋に詰め肩に乗せて、あるいは背負子に入れてヘッドバンドで支えて運んでいる有様、ならびに男達がロープで驢馬を曳いている有様である。二番目の欄に示されているのは、雄牛とカプリッド(羊とヤギの類)を曳いたり、魚を運んでいる男達である。おそらくは、牧草地、川、低湿地からの産物なのであろう。上段に描かれるのは、王の宴会である。羊毛の房から作ったキルトスカートを履いた支配者は、他の者達よりも大きく描かれ、注目の中心となっている。他の宴会出席者達は簡素な房飾りのキルトを履き、召使い達が食べ物と飲み物を配っている間、支配者に向って一緒にコップを掲げている。初期メソポタミアの宴会には通常音楽が加わっていた。長くて黒い髪から見分けられるのだが、リラ(竪琴)奏者と歌い手が場面の右に立っている。
ウーリーは彼が想像力に富んでいることを非難されてきた。多分、発掘に関する彼の説明のなかの次の記述は空想的である。; 確かに事態がこのように生じたという決定的な証拠はない。だが、多分そうであったのではないだろうか:
・・・開坑のなかへ、床はマットで覆われて、壁もマットで内張されて、空っぽで、内装が施されていない空間に人びとの行列がやってくる・・・。兵隊達、男の召使い達、女性たち、女性達は全員が素晴らしい鮮明な色彩の衣服を着、紅玉髄、とラピスラズリ、銀と金の頭飾りを着けていて、士官達は彼らの階級章を付け、音楽家達はハープ或いはリラを携え、スロープを降りてくるのは去勢牛に曳かれた二輪馬車で、馭者が馬車のなか、馬丁達は牽引動物の頭を抱え、そしてすべてがたて穴の底の割り当てられた場所をとり、最後に一群の近衛兵が入口に並ぶ。男女ひとりひとりが石或いは金属製の小さなコップを持ってきた。次に続く儀式に必要なたった一つの道具だった。・・・彼らのそれぞれが彼らのコップから、彼らがもってきたもの、あるいはその場所で彼らのために調製されたと知ったものを飲んだ。彼らは倒れ、死んで行く。誰かが入ってきて、動物達を殺す。・・・そして多分、すべてが見苦しくなく秩序立っていることを確認する。・・・そしてそれが完了したとき、土が上方から投げ込まれる。意識を失った犠牲者の上に、そして墓坑の埋め立てが開始された。
掘削者達はこの新しい発見を探索した。一つの斜坑があってこの部屋へと降りて行くと、今回は二つの階級の六人の兵士達がいた。彼らの傍らには銅製の槍があり、潰れた頭蓋骨の上にぺしゃんこになった銅製のヘルメットがあった。そのすぐ内側に、木製の四輪車が二基あって、それぞれが三頭の去勢牛で曳かれ、斜面を後ろ向きに下に降りて行っており、前部には馬丁達が、車のなかには馭者達がいた。最端の壁にもたれて九人の女性の死体があった。これまた輝く髪飾りで飾られ、木製のリラが上に置かれていた。彼女達と荷馬車の間の空間は、他の女性と男性の死体で混雑していた。この部屋の端沿いの通路には女性達と短剣を着けた兵士達が並べられていた。この坑の側面には二番目のリラが、金とラピスラズリでできた雄牛の頭部で飾られて、あった。
画像:The Standard of Ur ウルの標章-平和
ウルの標章―戦争
標章の戦争側が示すのは、ある未知の敵の敗北である。下段には戦車が野性の驢馬に曳かれて速度を速めながら右方向に走る。敵の裸体の兵士達を踏みにじりながら。中段左は武装した兵士達の密集方陣を示している。一方、右側には、種々の姿勢の兵隊達が何人かの捕虜を殺し、その他の者を連れて行く。上段に示されるのは、支配者である。彼の身の丈は画面の枠をはみ出しているが、右方を見ている。彼の背後には四匹の驢馬に曳かれた彼の馬車と従者達がいる。彼の前で兵士達が裸で縛られた捕虜達を見せびらかしている。
注:カーネリアン
和名:紅玉髄(べにぎょくずい)
結晶系:潜晶質石英
化学成分:SiO2
モース硬度:7
カーネリアンは、酸化鉄による赤オレンジ系の
半透明なカルセドニーのことで、
名称は、ラテン語で肉を意味する「carnis」、
または新鮮を意味する「carneolus」に由来
ウーリーは発掘の初期の段階でこれらの贅沢な墓の証拠を発見していたのだが、彼と彼のチームが経験を積むまで完全な研究を延期することに決定していた。1926-7シーズンの最後の日、この発掘によって発見された品物のなかでもっとも美しい品のひとつが発見された。地中のたて坑の底に、黄金の飾り鋲で飾られた、青色のラピスラズリの柄のついた、見事な黄金の短剣が横たわっていた。黄金の鞘は編み草のように柔らかだった。それと共に、一組の小さな金の化粧品道具があったのだが、それはメソポタミアで以前に発掘されたもののなかで比較されるべきもののない見事さであった。1927年秋に作業が開始されたとき、さらに贅沢な墓が姿を現した。その一つは、メスカラムダック(Meskalamdug)王の墓であった。その中には、他に類を見ないような鍛造で、模様が打ち出された黄金のヘルメットが、見つかった。それは、後に王墓のうち最大のものの一つであると確認された墓の坑のなかにあった。
(館内説明文翻訳)
復元したシュメール人女性の頭部
この復元が暗示するところは王の墓並びにウルでの故人の墓のいくつかにおいて、シュメール人女性が身に着けた宝石のもともとの様子である。
この復元には大きな死坑のなかの第61号死体が身に着けていた宝石を含んでいる。彼女は同時に、左に陳列してあるロゼットとビーズを含む頭部装飾を着けていた。復元体の頭部装飾は現代の金属マウントの上に作られた金製であり、これは故人の墓PG 1234号から出土したものである。
生存中に或いは墓へ行く途中で身に着けていたら、このような豊富な宝石、ビーズや黄金の葉は、サラサラ音を立て、太陽の光で輝き、人を驚かせる印象を与えたことは確実だ。
これらの頭飾りのいくつかを装着するために、髪を結い上げる目的で、かつらやヘア・ピースを使ったこともあり得る。
ネブカドネザル王(604-562 BC)の築いた城壁によって部分的に覆われた地域で、ウーリーは1850基の墓を発掘した。その大部分はほぼ2600-2000 BCに起源するものであった。通常の墓では、死者は、あたかも眠っているかのように横になって伏していて、巻いたマットに包まれているか、あるいは、木、柳編み、あるいはテラコッタ製の棺のなかにおかれていた。死者達はビーズ、イアリング、ナイフ、短剣、ピン、そしてときには故人の円筒形印鑑のような故人の所有物を携えていた。しかし、通常の人たちの単純な墓の下に、キリストより2500年前、アブラハムがいたと考えられる時代より千年以上前のウルのエリートが、壮麗な宝物とともに埋葬されていた。
画像:この都市の神を祀る巨大で印象的なジグラート。イラクでも保存状態が最良なものの一つ。世界のもっとも有名な歴史遺産の一つ。砂漠から21mの高さがある。
(以下、Penn Museumのwebsiteからの説明文の翻訳)
The Standard of Ur ウルの標章
「ウルの標章」は小さい台形の箱(高さ21.6cm、長さ49.5cm)であり、その両側と末端の板は、貝殻、ラピスラズリ、赤色石灰石の小片をビチュメンに埋め込んで作った人物像と幾何学紋様で覆われている。これはPG779の中で一人の兵隊の近くで発見されたのだが、ウーリー氏が考えるに、この兵士はこれを長い棒の上に掲げて、王の標章とした、のだと。これはむしろ楽器の音響箱であったようだが、ウーリーが与えた名前「標章」がいぜんとして使われている。
標章のモザイクが描くのは、初期のメソポタミアにおける生活である。両側は、「戦争側」、「平和側」と称されているのだが、下段から上段へと一つの物語が語られている。両面の上段には一人の王が描かれているのだが、彼は他の人物よりサイズが大きい。この標章が示すのは、初期メソポタミアの支配者が引受ける二つのもっとも重要な役割である。すなわち、人びとを保護し、水と自然の資源へのアクセスを確保する兵士であり、また、人びとと神々の間に立って仲介役として奉仕する指導者である。
紀元前第三千年紀までに、メソポタミア南部は都市センター、タウン、村落、部落などからなる20ないし30の都市国家へと組織された。それぞれの都市国家は主たる守護神を有していた。ウルの保護者は月の神、ナンナであった。正式には、都市国家は神の財産であった。これらの神々が都市国家の支配者を選び、育てた。彼らのタイトルは場所によっていろいろであった。Lugal(ルーガル)は、字義的には「大きな男」であるが、一つのタイトルであった。支配者にとっては、都市国家の支配者というものは、戦場においても、神の身代わりとして行動しているのだった。種々の情報源は都市国家間で平和的な協力があった証拠を提供するが、同じように、地域的な争い、ならびにもっと広い領域での闘争、という両面の争いも記録されている。ラガシュ(Lagash)とウンマ(Umma)の間の長期間にわたる険悪な国境論争や水源問題は、国家間の争いとしてとてもよく記録されている。ウルの標識やその他の王の記念碑はこれらの闘争とその余波を図解している。
(Penn Museumのwebsiteの説明文の翻訳)
画像:同上の部分拡大、兵士達
シ ュ メ ー ル 文 化
2012/05/16
ウーリーによる埋葬の説明は圧倒的な迫力がありますね。その所為かどうか知りませんけれど、レオナルド・ウーリーは1935年にナイトの称号を授与されました。
では皆様ご機嫌よう。
このサイトの他の場所には、五人の男達の死体がスロープのある浅い溝のなかに並んで横たわっていた。彼らは通常死者とともに遺される品物をなにも持たず、持っていたのは、腰の位置の銅製の短剣と、一つあるいは二つの小さな粘土製のカップだけであった。近くには、十人の女性の死体が二列に並べられていたが、彼女達は黄金、ラピスラズリ、カーネリアン(紅玉髄)の頭飾りと、精巧なビーズのネックレスを身に着けていた。列の端には、リラ(竪琴)の残骸があった。次に姿を現したのは、去勢牛二頭の骨、木製の橇戦車で赤、白、青色のモザイクで飾られたもの(現在までに発見されている地上の乗り物のうちもっとも初期の例のひとつ)であった。動物の頭部には二人の馬丁の崩れた骨組みが横たわっていた。埋葬品のなかには、象眼細工をほどこしたゲーム盤、黄金製の一組の鏨と一つの鋸、椀から液体を吸い上げるための金とラピスラズリでできた長い管、種々の物質で作られた容器、みぞ付の椀、そして最後に一個の大きな木製の箱の残骸があった。その箱は、2m x 1mの大きさで、ラピスラズリと貝殻のモザイクで飾られていた。主人たるものの姿はどこにもなかった。しかし、不思議な発見があった。その木の箱が取り除かれたとき、その箱が隠していたもう一つの下部埋葬へと導く坑が発見されたのだ。
レオナルド・ウーリーは、1912-14年にはカーケミッシュでヒッタイトの都市の発掘に参加、1922年には大英博物館とペンシルヴァニア大学の共同事業であるウルでの発掘作業に加わり、王墓の発掘で銅製の雄牛と一対の「茂みのなかの雄羊」を発見するにいたった。
日干し煉瓦の家々が建築され、洪水があって破壊され、さらに建築と破壊が続き、大昔の強固な粘土層の上に、20-25mもの土と墓と崩壊した家の残骸の堆積があり、これを掘り返して発掘作業が12シーズン(発掘は秋から春にかけて行われたので、一年間を一シーズンと呼ぶ)続けられた。
以下、”Treasures of the British Museum” The British Museum Press, 2009
P106からの文章を一部翻訳すると、
画像:”Treasures of the British Museum” The British Museum Press, 2009 P106
ウルの発掘された坑。ウーリーが働いていたとてつもない深さを示す。床面は2900-2800 BCの起源である。梯子の足下の四角い開口部は「洪水堆積」に通じていた。
戦士であることに加えて、都市国家の支配者は神々と人民との間の仲介役であった。彼の主たる責任の一つは、都市の神々と女神達の神殿を建設し、維持することであった。彼らの信者に糧食を供給することを含む責任だった。そうすることによって、彼は土地の豊饒を保証した。このことを、標章の平和サイドが生き生きと図解している。
(Penn Museumのwebsiteの説明文の翻訳)
画像:
雄牛の金製の頭部。ラピスラズリの装飾が施され、プ・アビの墓の中で発見されたリラ(竪琴)の音響箱から突き出ている。十人の女性付き人のうちの一人は倒れていたが、彼女の手の骨は弦があったであろう場所に置かれていた。角、木製部分、ペグならびに弦は現代の復元である。
ほぼ2600-2400 BC
高さ約112cm(リラ)
説明文出典:”Treasures of the British Museum” The British Museum
Press, 2009
チャールズ・レオナルド・ウーリー(Charles Leonard Woolley, 1880-1960)はロンドン生れで牧師の子であった。幼い頃から考古学の発掘に興味を持っていたのだが、オックスフォード大学で教育を受け、1905年、25歳のとき、オクスフォード大学のアシュモレアン考古学博物館の助手となり、翌年コーブリッジのローマ遺跡の発掘に参加して考古学者の道に乗りだした。
この地区の発掘作業が開始されたのは、1877年からであるが、粘土板に刻まれた楔形文字が掘り出されただけであった。
そこで登場するのが、レオナルド・ウーリーである。
舞台は現在のイラク南部、チグリス河とユーフラテス河の流域であり、地図の赤い部分にシュメール文明が発生した(紀元前5500年頃、ウバイド文化)。両河が合するところの近くにウルがある。
もともとこの土地には巨大なジグラートがあって、この都市の神を祀る聖域であることが分かっていた。
画像:一部改変
写真:「茂みのなかの雄羊」
2500BC頃(第三初期王朝)
PG1237号墓、ウルの王墓「大きな死坑」から出土。