Wittenberg  3a

 こう考えると、ルターの宗教改革はルターが一人で独力で達成したものだ、と断定することはできない。少なくとも「賢明王」に80%程度以上のイニシアティーブがあったとしか考えられない。少なくとも、宗教改革の社会的側面は「賢明王」によってレールは敷かれたと考えるべきだろう。

 にもかかわらず、宗教改革の哲学的な本質は、賢明王とはまったく関係なく、ルターが独力で「黒い修道院の塔の自室」における念祷の結果、達成した、と考える。

画像:
ルター
37歳、ルターの最も古い肖像画。
Luther as Monk, Lucas Cranach the Elder,
copperplate engraving, 1520

“Martin Luther in WittenbergA Biographical Tour,
Martin Treu, Wittenberg 2008

画像:絵葉書から
©Stiftung Luthergedenkenstätten in Sachsen-Anhalt

5.    「賢明王」の慎重きわまりない調整によりドイツ帝国の内部は自浄されラテン化を免れたが、カール五世はフッガ―家からの借財を続けて戦いを続け、借金は雪だるま式に増えて、結局16世紀の半ばに破産する。

6..    にもかかわらず、スペイン王家により16世紀半ばに開発されたペルーのポトシ銀坑の銀の生産量は欧州の生産量の3倍にも達し(年間生産量約100トン)、生産コストも安く、その流入の結果、欧州の銀価格は三分の一に下落して、ザクセン、ヨアヒム、シュヴァーツの鉱山は17世紀の間に潰れてしまった。(日本の石見鉱山の銀の生産はポトシと同時期)

7.    と同時にザクセン家もかつての声望を失われていった。

 これらを総合すると、結論的に次のように取り纏めることができよう。


1.    フリードリッヒ「賢明王」は神聖ローマ帝国の摂政役、つまり内政問題の調整の任にあったから、マインツの大司教アルブレヒト/メディチ家出身のレオ一〇世/アウグスブルグのフッガ―家の共謀による資金捻出方法――贖宥状(免罪府)――については、これをゲルマン人の倫理観にもとるものであるとして潰しにかかった。

2.    マインツの大司教アルブレヒトに贖宥状免許が下され、説教師ヨハン・テッツェルが免罪府を売り廻ったのが1515年。「賢明王」はルターを使って、15171031日、95ヶ条のテーゼを貼りださせた。

3.    ヨハン・テッツェルはドミニコ会会員であった。「賢明王」はドミニコ嫌い
で、それで、ヴィッテンベルクにもともと在ったドミニコ会の「灰色の修道院」は潰してしまった。ドミニコ会は異端審問の審問官を多数輩出した「特権階級」宗派だったのです。

4.    先代の神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアンⅠ世がフッガ―家に与えた(担保として提供した)シュヴァーツ銀鉱山の財貨は、次期神聖ローマ帝国皇帝選挙の際(1519年)、フッガーからカール五世に選挙資金としてあらたに貸し出され、これを選挙侯の買収に使ってカール五世は神聖ローマ皇帝となった。

アルブレヒトの思惑通り、贖宥状は盛んに売られ、人々はテッツェルら説
教師の周りに群がった。しかし、義化の問題に悩みぬいた経験を持っていた
聖アウグスチノ修道会マルティン・ルター とって、贖宥状によって罪
の、果たすべき償いが軽減されるというのは「人間が善行によって義となる」
という発想そのものであると思えた。しかし、そのとき
ルターが何より問
題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うこと
で、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」ということであった。本来罪
の許しに
必要な秘跡の授与や悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって煉獄の霊魂の
償いが軽減される、という考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた

(テッツェルのものとしてよく引用される「贖宥状を購入してコインが箱に
チャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」という言葉は、この
煉獄の霊
魂の贖宥のことを言っているのである)。

この煉獄の霊魂の贖宥の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶え
ず、疑問視する神学者も多かった。ルターはアルブレヒトの「指導要綱」に
は贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、
1517111、ヴィッテ
ンベルグ大学の聖堂の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼び
かけた(当時の大学において聖堂の扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。
ルターはこの一枚がどれほどの激動をヨーロッパにもたらすかまだ知らなか
った。これこそが『
95ヶ条の論題』である。ルターはこれを純粋に神学的な
問題として考えていたことは、論題が一般庶民には読めない
ラテン語で書か
れていたことからも明らかである。しかし、神聖ローマ帝国の諸侯たちの思
惑によって徐々に政治問題化し、諸侯と民衆を巻き込む
宗教改革の巨大なう
ねりの発端となった。

カトリック教会はヨーロッパ諸国に広がった宗教改革の動きに対し、対抗
改革
を行い、綱紀粛正を図ったが、トリエント公会議1545-1563年)の
決議により、金銭による贖宥の売買は禁止されることになった。

以下、『物が語る世界の歴史』(綿引弘著、聖文新社刊 1994)よりの抜粋。

http://www.shigaku.or.jp/world/silver1.htm

ルネサンス・宗教改革と銀

神聖ローマ帝国のマインツの大司教アルブレヒトは、自分の地位を教皇に保証してもらうため三万グルテンを支払ったが、そのうちの二万グルテンはフッガー 家から借金した。その返済のため、教皇レオ一〇世に懇願して贖宥状(免罪府)の販売権を獲得した。教皇レオ一〇世は、壮大なサン-ピエトロ聖堂の建築を計 画していたが、その財源をうるため、売上金の半ばを教皇庁に納入することを条件に販売権をアルブレヒトに与えたのである。
 こうして贖宥状を販売する説教師テッツェルはフッガー家の代理人を伴(とも)って各地で贖宥状を売りまくり、売上金の残り半分はフッガー家に送られたのである。テッツェルは「そもそもお金が箱のなかでチャリンと音を立てさえすれば魂は煉獄の焔(ほのお)のなかから飛び出してくる」などといって贖宥状を売り歩いた。これに対するマルチン=ルターの反論が、宗教改革の発端(ほったん)となった有名な公開状「九五か条の論題」(一五一七年)である。

教皇レオ一〇世、

1512枢機卿ジョヴァンニ(ロレンツォの次男)を筆頭にしたメディチ家は、ハプスブルク家の援助を得てスペイン軍とともにフィレンツェに復帰し、その支配を再確立。1513、ジョヴァンニはローマ教皇レオ10として即位(在位1513-1521)し、メディチ家はフィレンツェとローマ教皇領を支配する門閥となった。レオ10世は芸術を愛好し、ローマを中心にルネサンスの文化の最盛期をもたらしたが、多額の浪費を続けて教皇庁の財政逼迫を招き、またサン・ピエトロ大聖堂建設のためとして大掛りな贖宥状(いわゆる免罪符)の販売を認めたことで、1517マルティン・ルターによる宗教改革運動のきっかけを作った。

画像:
贖宥状の箱

Indulgence chest, sheet iron bound with iron straps,
Wrought lid with five locks, sixteenth century
“Martin Luther in WittenbergA Biographical Tour, Martin Treu, Wittenberg 2008

参考とすべき論文は次。詳しい専門書はほかにもあるだろう。参考にして下さい。

画像:
絵葉書から

Lutherhaus Wittenberg
Luthehaus/Groβer Hörsaal/Denkmal für Katharina von
Bora/Katharinenportal/Lutherstube/Lutherrose
©Drei Kastanien Verlag, Lutherstadt Wittenberg

では皆様ご機嫌よう。

http://www.weblio.jp/content/%E8%B4%96%E5%AE%A5%E7%8A%B6

教皇レオ10サン・ピエトロ大聖堂の建築のための全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを布告した。中世において公益工事の推進のために贖宥状が販売されることはよく行われることであったが、この贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになる。

宗教改革がヨーロッパ全域の中で特にドイツで起こったことには理由があった。ドイツで最も大々的に贖宥状の販売が行われたからである。この大々的な販売は当時のマインツ大司教であったアルブレヒトの野望に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1の弟であり、初めマクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教位を持っていた。アルブレヒトは兄の支援を受けてさらに、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた。しかし、司教位は本来1人の人間が1つしか持つことしかできないものであった。

アルブレヒトはローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。こうして1517、アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布、ヨハン・テッツェルというドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。アルブレヒトにとって贖宥状が1枚でも多く売れれば、それだけ自分の手元に収益が入り、ローマの心証もよくなっていいこと尽くしのように思えた。

http://www.shigaku.or.jp/world/silver1.htm

ピサロは、わずか一八名たらずの兵を率いてペルーに侵入し、一五三三年インカ帝国を征服した。

ペルー高原のポトシ銀山は、一五四五年から五〇年間に四億ドルの銀を産出して繁栄を誇ったが、その繁栄をささえたのが彼らの悲惨な労働であった。

 こうして獲得した豊富な銀・金は、スペインに運び出された。一五二一年から一六六〇年までのスペインヘの流入量は、公的なものだけでも銀一万八○○○ トン、金二〇〇トンに達した。金よりも銀が圧倒的に多かったので、これを運ぶスペイン船は「銀船隊」とよばれた。イギリスの女王エリザベス一世は、フランシ ス=ドレークやホーキンズらの率いる海賊に、これら銀船隊を襲わせて、その富を奪った話は有名である。

 安価な大量の銀・金が流入したため、ヨーロッパの貨幣価値は一挙に三分の一にまで下落し、物価を高騰させた。これがいわゆる価格革命(Price Revolution)である。このインフレ効果でヨーロッパの商工業は活況を呈し、インフレによる地代の相対的低減は、農民の地位を向上させ、ヨーロッ パの経済・社会は大きく変動していった。

 安い流入銀のため、ヨーロッパの銀鉱山は大打撃を受け、それまで銀鉱山を中心に繁栄していた南ドイツ諸都市は没落していった。ここに掲げたフッガー家経営のシュバッツ鉱山の銀産額の激減にそのことははっきりと示されている。フッガー家の繁栄した時代も終わりをつげることになったのである。

 この直後、今度は神聖ローマ皇帝の選挙にまつわる一大汚職事件がおこった。皇帝選挙は一三五六年の金印勅書(黄金文書)により、七人の選帝侯による選挙 で行われることになり、代々実施されてきた。一五一九年の選挙では、スペイン王カルロス一世とフランス王フランソワ一世との間で激しい争いが行われた。カ ルロス一世は八五万グルテンという膨大な資金を投入して選帝侯を買収して、選挙戦に勝利して皇帝に就任した。カルロス一世が投入した八五万グルテンのうち六〇万グルテンはフッガー家から高利で借りたものであった。まさに「カルロス一世の神聖ローマ皇帝への選挙は、フッガー家の貨幣によって成立した」のである。ルターはこのような腐敗した選挙に対しても激しい非難を展開した。カール五世(カルロス一世は、神聖ローマ皇帝となってこう称した)は教皇と結んで、一五二一年、ウオルムスの国会を開いてルターに所説の撤回を迫った。ルターがこれを拒否すると、皇帝は彼を法律の保護外において迫害したのである。

 このように、ルネサンスと宗教改革の裏にはヨーロッパ一の富豪フッガー家の財力がうごめいていたのであり、そのフッガー家の財力は、銀によってもたらされたものであった。