
REIKOの気まぐれな日記
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2016.4 いよいよ7年に一度の御柱祭です。本宮一を引き当てた豊田,四賀地区、氏子が一つになり、安全に時間を守り、楽しく曳行いたしましょう。
辰野町信濃川島 「かやぶきの館」にある本宮、前宮の八本の御柱
2015 孫を思わせる「創作人形展」 伊東酒造ギャラリーにて
2015・4 「絵画三教室展」 岩谷画廊さんにて 柊会・彩好会・山茶花の会
市スケッチハイクで 西湖いやしの里で絵を描いてきました。1015.4・29
2013
「二人展」 大勢の方に足をお運びいただき心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
トップページより二人展のページご覧ください
2012
12月31日
1995年(平成7年)に「震」で始まった「今年の漢字」は「金(きん)」、元気が出る言葉でよかった。ロンドン五輪では個人の金メダルもうれしかったが、サッカーなどチームで勝ち取った女子の粘り強いパワーの、そのメダルには特に特に感動した。
金環日食も忘れられない。
あっという間の一年だった。
3月には、念願だった友人の木彫り、皮工芸、私の水彩画の3人で再生した古民家の自宅をを開催場所にして「雛祭り3人展」として開かせていただき、皆様のご協力で3日間で350人余の方々に来て頂きました。今でも感謝で胸がいっぱいになります。
夢の様な気がしています。ありがとうございました。
娘の結婚、クラス会幹事では、会の翌日、恩師の奥様のマリオでの「裂古展」のあと、級友8人、再生した古民家に立ち寄っくださり、楽しい時間を過ごしていただけた。
6月、孫の誕生、秋には美術展で、後山分校を描いた水彩画、「山の分校」がLCV賞に入った。3ケ月、時間を積み重ねて描いた作品だった。
90歳を越す叔母が、50年以上前、ここで教鞭をとっていた木造校舎で、壊れそうですが、そのまま残っています。絵にして見せてあげたいという思いが伝わったのでしょうか。うれしい受賞でした。手紙を添え、写真とともに送りました。
田んぼも豊作で例年にない収獲でした。手前味噌ですが、美味しいお米です。
今年も無事、ここまでこられて安堵の気持ちです。
オオワシの「グル」も14年連続で飛来してくれました。また、会えますように。
暮れの番組、NHKプロフェッショナル特別編イチロースペシャルに涙が止まらなかった。。
平均年齢28歳のメジャーリーグにあって、イチローは来年40歳。退路を断つかのように下した結果は、最も競争が激しいニューヨークヤンキースへの電撃移籍、11年を過ごしたシアトル、移籍の日にマリナーズ球場でヤンキース戦があった。
球場を埋めたマリナーズファンの前に、深々と四方に頭を下げるヤンキースのイチロー。
今日は敵の選手となったイチローに、温かいマリナーズのファンの応援。
そしてイチローはヒットを打つ。
イチローだからこそなのだが、こんな場面を演出する両球団にも敬意を表したい気持ちだ。
いつだって期待に応えるのがイチロー。その陰の練習。苦悩。その全部が伝わってきて胸が一杯になった。
誰にだって壁がある。紙一重の差で狂うバットコントロール。
いらだつ胸の内、その壁に向かう姿勢にただただ感動。
今年もあまり日記が書けませんでした。
そんな日記にお立ち寄り頂いた皆様、本当にありがとうございました。
後半年に読んだ本を紹介しながら、今年を締めたいと思います。
来る年が皆様にとって、幸せ多き年となりますように。
「おかれた場所で咲きなさい」 渡辺和子 著
人はどんな境遇でも輝ける
どうしても咲けない時は,下へ下へと根を伸ばす
辛い日も、笑える日につながっている
「望郷」 新田次郎 著 藤原咲子さんの講演会で父の本で最も薦める本として紹介された。
絶版の本で古書で手に入れ読む事ができた。
「生きるぼくら」 原田マハ 著 茅野を舞台にした感動作 長野日報に紹介されていた本です。
お米を作っている私には茅野の風景とともに、若者が 水田を守る驚き、うれしさ、御射鹿池の重要
な場面での登場もうれしかった。ほのぼのとした気持ちになりました。
「好奇心ガール、いま97歳」 「恒子の昭和」 笹本恒子 著 報道写真家
26歳で日本初の女性報道写真家に.
97歳、やりたい事で頭の中はいつもビジービジー
映画は「ほかいびと」「マーガレット・サッチャー」「我が母の記」「天地明察」「あなたへ」などを見ました。
よいお年をお迎えくださいますように。
10月16 新田次郎生誕100周年記念講演会 藤原正彦 藤原咲子
6月3日 「我が父、新田次郎を語る」 藤原正彦 諏訪市文化センター
新田次郎、藤原ていの次男、数学者
著書に 「国家の品格」「若き数学者のアメリカ」「ヒコベイ」
父は「卑怯な事をするくらいなら死んだ方がまし」と言う武士道精神、、母は百姓魂で「どんな事をしてでも生き抜く」と言う力強さ、両方のいい所を取ったのが私です。と笑わせ、講演会は始まった。
満州で、終戦まぎはに、「一緒に来て」と泣いて頼む母を、武士道精神に駆られて、「部下をおいて逃げるわけには行かない」と断固拒否。
結局は母は大変な苦労をして満州から引き揚げるのです。
後々まで、この件は引きずられ、夫婦喧嘩のたびに最後は母が「あの時、誰が3人の子を生かして帰ったの。あなたは家族を捨てたじゃない」と。
父はその一言でうなだれて、書斎に逃げていきました。勝負はいつも父の負け。
でも、私が同じ立場でも、自分の仕事を放り出して逃げることは出来なかたったと思う。
その「流れる星は生きている」がベストセラーになった母に刺激されて書き始めたとされているが、小説家になった一番は家計の為だったと話した。
気象庁と作家の二束のわらじをはき、家族を支え、53歳で退職、長編を書くようになった。
たった一行の為に欧州にも取材に行く、そして生きた一行が生まれる。
国家の品格も、ヒコベイも読みましたが、解りやすいお話、お人柄が伝わる講演会でした。
こぶし咲く 白い谷間や 童歌 新田次郎
この日、図書館前に新田次郎がこよなく愛した「こぶし」の苗木が植えられたそうです。
10月14日 「娘から見た父、新田次郎の素顔」 藤原咲子 諏訪市図書館
新田次郎、藤原ていの長女 高校教師、中国文学研究
著書 母への詫び状ーー新田次郎、藤原ていの娘に生まれて
父への恋文ーー新田次郎の娘に生まれて
新田次郎の長女で末っ子の藤原咲子さんの講演会に行って来ました。きゃしゃで、小柄な方で、御自身でもぼそぼそとお話しするので、と言われましたが、お声は独特で、咲子さんリズムがある講演でした。
いろんなエピソードを話されるたびに、そうだったんだと、心に浸み込んでいくような講演でした。帰り際,ちょこっとお話も出来、握手もしていただきました。いろんな事が学べました。その中で、心に響いた事は、どんな事にも偶然はない。努力無しでは、何も下りてこない。偉業をなした人は、裏で、大変な努力をしているものです.父、新田次郎も例外ではないと。。
咲子さんに残した色紙には、
「読むことは築くこと((気づく)こと、書くことは創ること」。その言葉が今も、励みになっていると。
リュックの中で一年、奇跡の赤ちゃんと呼ばれた、咲子さんは、とっても素敵に年を重ねておられました。私より2つ上でした。私も精一杯いい年を重ねたいものと思いました。感性が鋭い性格は、諏訪で生まれ育った父母の子だったからかもしれません。と仰ってました。
親子関係について、「子供が親を語れる、そんな親のなってほしい、そして、行間に残るような姿を見せてください」と結んだ。
咲子さんの一番好きな小説は「望郷」。
「父が、終戦後、家族と離れ、旧ソ連に抑留された闇の一年がいかに苦しかったかが分かる」と。
さっそく、本屋さんに聞いてみましたが、既に絶版になっているそうです。探して読んでみたいです。
講演のあと、 「プロジェクトX挑戦者たち」 NHKで第一回放送
「巨大台風から日本を守れ」 ~富士山頂・男たちは命をかけた~
新田次郎が、気象庁勤務時代にかかわった、富士山レーダー設置ドキュメントが上映された。
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5月21日 やっとHPにUPの運びとなりました。 3月2日、3日、4日 みれーゆ「雛祭り3人展」
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お天気にも恵まれ、350人を超す大勢の方に来ていただき、心から、感謝申し上げます。
3人が30年近い年月を重ね、1月から準備をして、この日を迎えることが出来ました。
当日は駐車場の事から、お手伝いまで、多くの皆様の温かいご好意、そして家族の見守りがあったからこその催しでした。
重ね重ね感謝申し上げます。
友人も親戚の方も、ご近所の方も、又新聞を見て、遠くからも大勢来てくださいました。
高齢の母も、お嫁さんが手を引いて連れて来てくれました。
母のこと、皆様に優しくしていただいて、うれしくて涙がこぼれそうでした。
幸せな3日間でした。これからも、それぞれに精進を重ねてゆきたいと思っています。
ほんとうにほんとうに有難うございました。
み れー ゆ
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3月7日には春の上雪(かみゆき)が降りました。
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昨年4月から古民家再生に取掛かり、8月中旬 リホームが終わり12月末から暮らし始めました。
そのまま残した大黒柱、太く曲がった梁、幅の広い鴨居、帯戸など古い建具に、築100年以上を経たからこその存在感があります。
大切に暮らしてゆきたいと思っています。
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1月10日 木喰上人(もくじきしょうにん)の微笑仏
虚空蔵菩薩像(下諏訪指定文化財) 木喰上人作 花屋茂七館
諏訪大社秋宮の近く、中仙道下諏訪宿にある花屋茂七館を昨年ゆっこさんと訪ね、この像に対面した。
木喰上人は5回下諏訪宿を訪れているそうですが、この像は4回目89歳、文化3年(1806)の作だそうです。その像が残っています。その時のことが絵本にもなっていました。
木喰上人の木喰戒 五穀 米、麦、粟、豆、黍(きび)を断ち、火食を口にしないこと。
一千体以上の微笑仏を作り各地に残っている。
山梨県身延町には微笑館 不喰記念館がある。
わが心 濁せば濁る 澄めば澄む 澄むも濁るも心なりけり
ゆめの世を ゆめで暮らして油断して路銭をみれば たった六文
まるまると まるめまるめよ我が心 まん丸 丸く 丸く まん丸
富士見町乙事の有形文化財となっている 木喰上人作の「普賢菩薩像」など、各地にその、微笑み菩薩が残されているそうです。
私は花屋茂七館の、この虚空蔵菩薩像を見せてもらったのが初めてで、手に取らしてもらうことが出来、説明を受け、その素朴で純朴で、華やかさこそ無いのですが、味わいある姿に、ほんとうに感動しました。
見た人を、何ともいえない安堵の気持ちにさせてくれ、くよくよ考えないで、ありのままの自分を生きればいいよと、微笑んでくれてる気がしました。
申し訳ないことですが無料で見せていただけるのです。
このごろは、映画「ほかいびと」で、伊那の漂泊詩人、最近の地方新聞にも載りましたが、俳人の井上井月(いのうえせいげつ)も話題です。
映画も見てみたいですね。
昨年は、諏訪の岩波其残も注目されました。文出にもゆかりがある方です。
知らないことばかりで全くお恥ずかしい限りですが、歴史に刻まれ、地域に影響を与えてくれた人々を、もっと知りたいという思いにかられました。
機会があったら、山梨県の木喰上人の記念館を是非訪ねてみたいものです。
今年が、微笑みの多い一年でありますように祈ります。
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2011
12月31日 「絆」
1995年(平成7年)に「震」で始まった「今年の漢字」は、阪神大震災が起きた年だっだそうだ。
そして、未曾有の東日本大震災の今年の漢字は、「絆」。
W杯で米国を破り世界一になった「なでしこジャパーン」の快挙も、選手全員がその東北を想い、辛い映像を見ながら戦ったという。
日本中の全ての人が、自分に何が出来るか考えた一年でした。
誰もが自分の事として考えた、それこそが絆だと思います。
そんな中、平成5年に書かれた、藤原ていさんの「絆」を読むことができた。
家族の絆を書かれたものでした。ていさん、70歳の頃の作品です。
今は、94歳になられると思いますが。
茅野出身、作家、新田次郎を夫に持ち、敗戦後北朝鮮での長い放浪生活を作品にしていることは、誰でもでも知るところです。
70歳に至るまでの、自分が育った家族、嫁いで育てた家族、人と人の繫がり。
やがて冥土への旅立ちの準備をしなくてはならないと思うが、その時「ああ自分はひたすら生きた」と思うことが出来るだろうかと、あとがきに書かれていた。
後世の人たちは、この2011年をどのように見ることだろう。
紅白歌合戦の中で、ジャッキーチェンさんが、「寒い冬が過ぎれば暖かい春が来る」と中国の言葉を日本に送った。
又、長淵剛さんは「ひとつ」と言う曲を歌った。
「悲しみを抱きしめようときめた」、「ひとつになってずっと一緒に生きよう」と語った。
松任谷由美さんは、「(みんなの)春よ、来い」を歌った。
みんなみんな、祈っていた。歌の力は凄いと感じた。
人と人との絆、繫がりを信じ、来る年が本当にいい年になる事を祈ります。
平成5年の作品
9月1日 最近の3冊
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その1
「大丈夫屋やで」 坂本フジエ 著 おばあちゃん助産師のお産と育児の話
大正13年和歌山県生まれ、14歳で働き始め17歳で看護師教育所に入学、19歳で看護師免許取得、20歳で助産師免許取得23歳自宅で助産所開業。
73歳でお産の多い田辺市に移転、87歳の今も現役で、子育てのよろず相談所として地域に貢献されている。
「来たものを受け止める」
赤ちゃん主体で「生まれる、そだつ」の丸ごと受けとめ名付けも頼まれた。
4000人近い赤ちゃんを取り上げ、毎回感動された上で。
お産はみな一つ一つ違う。
人間の武器はことば、心をことばで。。。そして、赤ちゃんを信じて気楽にやればいい。
40年近い昔、自分の子育ての頃を思い出して、一つ一つが胸を打ち納得、そんな本でした。私の娘は、今年助産師になりました。
その2
「平凡倶楽部」 こうの史代 著
こんなビックリする本を今まで読んだ事がなった。
この本は、平凡社ノホームページに連載されたエッセイをまとめた本です。
文章だけでなく、イラストルポや定点観測あり、写真や絵文字や油絵ありで、しかも、文字までが全て手書き、テーマも表現方法も違い面白い。そして、やっぱりビックリです。
いつもプロフィールでは、「真の栄誉をかくし持つ人間を書きたい(アンドレジード)」と。
まさに、誰も見ていなくても真面目に生きている人、普通に生きていても気高い人という意味と仰っています。
人に偉いと誉められたとしても、それは他人のモノサシでの評価でしかない。
それより、自分のモノサシで生きることが大事であり、そういう人や世界を書こうと心掛けているとも仰っています。
このお盆前にテレビドラマとなった、こうのさんの原作、戦争中をけなげに生きた女性「この世界の片隅に」も見ました。
戦後も戦後、1968年生まれの、こうのさん。
昔の女性と戦争。
女性がひとくくりに都合よく変身された不可解さを衝いています。
NHKドラマ「おひさま」の中、戦前、英語教師のオクトバスが女学生の陽子達に贈った言葉。
「女性達よ、よき人生を・・・」 印象に残った言葉です。
誰もが、いろいろある人生ですが、置かれた場所で、自分らしく生きたいと思うのです。(余談でした)
その3
霧が峰の自然 自然観察ハンドブック
8月22日発行の初版本を昨日届けていただきました。
地元の理科関係の先生方が、郷土の隠れた自然地域である霧が峰について、長年にわたり調査研究した貴重な成果を、過去から現在の流れの中でいま、霧が峰がどうなっているのかを、知ってほしいと土田信大名誉教授の推薦の言葉です。
この編集に関わっていらした、先生から、いち早く手にすることができました。
花のこと、水の事、虫の事、鳥の事、動物の事、湿原の事、。。。
読んでよく知りたいと思いました。只今学習中。
家の前の休耕田で獲物を狙う白鷺 8/29
5月1日 日独交流150周年記念・国立マイセン磁器美術館所蔵展 松本市美術館 6/12まで
マイセン磁器の300年
ー それは東洋への憧れからはじまった ー
300年の歴史ある作品を見にいってきました。
そのどれも素敵な食器や人形ばかりで、ため息が出るばかりです。。
柿右衛門写しなど、日本とのかかわりの深さには、ちょっと誇らしい気持ちになりました。
マイセンの中で、私は、ブルーオニオンの食器が、ずっと好きです。
術館内レストラン「ビストロ・サンチーム」では、要望によりマイセン食器での素敵なケーキセットが楽しめるそうですが、2時半まで。
間に合いませんでした。 残念 !
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3月3日 雛祭り
須坂 世界の民俗人形博物館 三十段飾り 千体の雛祭り
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縮緬の椿(岡谷市マリオ)
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旧林家のお雛様
1月29日 野生の雄姿とらえ オオワシ「グル」の写真展 タケヤ味噌会館
新聞に写真展の情報が載ったので、ウォーキングしながら見に行きました。期待どうりの、感動の写真ばかりでした。
会場にいらした、写真家の加藤さん、藤沢さんのお二人に許可を得て写真を撮らしていただきました。
こんな写真はメンバーの、グルへの愛情と忍耐がなせる業ではないかと思います。
なお、このお二人は12年前、傷を負ったグルの保護から関わっていた方々です。
グルへの思いが違いますよね。納得です。
2/13まで写真展をやっています。是非見に行ってください。
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保護に関わられた加藤さんと、その加藤さんが撮られたグルの写真
写真展より ブラックバスを捕まえて飛ぶグル
1月1日 グルに会えた!
1999年1月4日、衰弱し、湖面に浮かんでいるところを発見され、人の手で保護され、49日間治療飼育して放鳥しました。保護して間もない時、車中で「グルッ」って鳴いた声からグルと名がついたそうです。
その後12年間、連続して諏訪湖に越冬飛来している。
翼を広げたときの長さは2.4メートル。
オオワシのグル。助けてもらった、恩返しに諏訪湖に来ているのだろうか。今季も12月下旬に来てくれた。
野鳥愛好家が諏訪湖岸にバズーカー砲のようなカメラを設置して連日見守っている。
その方々が撮った写真の素晴らしい事。
昨年は諏訪湖博物館へ、グルの写真展も見に行った。
そのグルに元旦に会えた。
グルちゃんに会えるかと夫と諏訪湖にウォーキングに出かけ、大和の山に止まってる姿をバズーカ砲のようなカメラで見せて頂き、あの下へ行くと近くで見られるよと教えてもらって、そこに着いた時は残念ながら飛び立った後でした。しかししかし、諦めて帰ろうとしている所にグルちゃんが帰ってきたのです。夫が道に映るグルちゃんの影を見つけびっくり。上をすぐに見ました。ブラックバスだか、鯉だか、大きな魚を持ってて、近くの木に止まり後ろ向きでムシャムシャ食べてはじめていました。私の年季の入ったデジカメでも撮れる位置にグルちゃんは餌を食べていたのですが、デジカメが動かないのです。バッテリーもメモリーも万全にして持って行ったのに。も~~~~。写真は撮れませんでしたが、私達の頭の上空で、大きな羽を広げて木に止まるまでは肉眼で大きく、はっきり見ることが出来ました。奇跡と思っています。お陰で2日には新しいデジカメを購入。その日は写真を撮る事ができましたが、旋回中のグルちゃんで、大きな写真は無理でした。残念!これは2日に撮った写真です。
北帰行(2月下旬)までに、グルちゃんの凛々しい姿の写真が撮れるチャンスに恵まれますように。。
私のちっちゃなデジカメでは無理かも。。
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2010
12月31日 小説、詩から 時代を懸命に生きた、それぞれの立場の女性の生き方
蒼穹の昴 (浅田次郎)全4巻 西太皇、 (春児の妹)玲玲
坂の上の雲(司馬遼太郎) 律 (正岡子規の妹)
ひとすじ道(丸岡秀子)3巻 恵子
山の神さん(林 郁) 友紀
雨滴抄(白州正子)
石垣 りん 詩 「表札」 「杖突峠」
茨城のり子 全詩集 「汲む」 「自分の感受性くらい」
「苦しみの日々 哀しみの日々」 「マザー・テレサの瞳」
明治。大正。昭和。平成の時代を生きた女性。
その一人ひとりの生き方に、自分自身、今を頑張ねばならない気がした。
この日記にも書きましたが、「くじけないで」の 柴田トヨ さん99歳(白寿の詩人)からも元気を頂いた。
今年9月に初出版された、茨城のり子さんの全詩集。
以前からその詩が好きでしたが、始めて知る、どの詩も考えさせられ、何かを訴える迫力に引き込まれた。
感動した2編の詩を載せ、一年のまとめと致します。
今年も拙い日記を読んでくださってありがとうございました。 どうぞ よいお年をお迎えくださいますように。
苦しみの日々 哀しみの日々 茨城のり子
苦しみの日々 哀しみの日々 それは人を 少しは深くするだろう
わずか5ミリぐらいではあろうけど
さなかには心臓も凍結 息をするのさえ難しいほどだが
なんとか通り抜けたとき 初めて気付く
あれは みずからを養うに足る時間であったと
少しずつ少しずつ深くなってゆけば やがては解るようになるだろう
人の痛みも 柘榴(ざくろ)のような傷口も
わかったとて どうなるものでもないけれど
マザー・テレサの瞳 茨城のり子
マザー・テレサの瞳は 時に 猛禽類のように 鋭く怖いようだった
マザー・テレサの瞳は 時に やさしさの極北を示してもいた
二つの異なるものが融けあって 妖しい光を湛えていた
静かなる狂とでも呼びたいもの
静かなる狂なくして インドでの徒労に近い献身が果たせただろうか
マザー・テレサの瞳は クリスチャンでもない私の どこかに棲みついて
じっとこちらを凝視したり またたいたりして 中途半端なやさしさを撃ってくる!
鷹の目は見抜いた 日本は貧しい国であると
慈愛の眼は救いあげた 垢だらけの瀕死の病人を
ーーなぜこんなことをしてくれるのですか
ーーあなたを愛しているからですよ
愛しているという一語の錨(いかり)のような重たさ
自分を無にすることができれば かくも豊饒(ほうじょう)なものが なだれこむのか
さらに無限に豊饒なものを溢れさせることができるのか
こちらは逆立ちしてもできっこないので 呆然となる
たった2枚のサリーを洗いつつ 取っかえ引っかえ着て 顔には深い皺(しわ)を刻み
背丈は縮んでしまったけれど 86歳の老女は またなく美しかった
20世紀の逆説を生き抜いた生涯
外科手術の必要な者に ただ包帯を巻いて歩いただけと 批判する人は 知らないのだ
瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの 慰藉(いしゃ)の意味を
死にゆくひとのかたわらに ただ寄り添って 手を握りつづけることの意味を
言葉が多すぎます といって1997年 その人は去った
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9月26日 手長神社里引き 夜の豪快な石段曳き上げ
話には聞いていたのですが、初めて、上諏訪地区の手長神社の里曳きを見に行った。
夕方から夜にかけて神社境内に続く200余段の石段を氏子が曳き上げる様子に興奮しました。
ちょうちんを揺らしながら見事な協力で、ゆっくりと石段を上がっていった。
最上段の付近、鳥居を難なくくぐる見せ場には、ほんと感動した。鳥肌が立った。
女性が、めどのてっぺんで華麗にゆれている姿が美しかった。
石段を上りはじめた手長神社二の柱 午後6時半頃
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いよいよ鳥居をくぐる。
鳥居をくぐり見事に曳きあげる手長神社二の柱 午後7時ちょっと過ぎ頃
神社に続く石段の下で待つ、次の柱の若い衆
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9月15日 「ヒコベイ」 藤原正彦 著 講談社 2010・7/29 発行
数学者 2005「国家の品格」は大ベストセラーに
「ヒコベイ」は、自らの少年時代を描いた初めての小説 尊い「貧しくても幸せ」ということ
ほとんどを事実を回想して書いたという。
母で作家の藤原ていさんが書いた、あの「流れる星は生きている」から、終戦を迎え、一年余りして両親のふるさと諏訪にたどり着いてからの生活。
その子供の頃からの数学的頭脳のエピソ-ドには、納得でした。
いつも、弱いもの貧しいものに見方するヒコベイ。
これは父、新田次郎の言う武士道精神と、小学校の担任の先生の弱者への思いやりが、著者の中で一致したと話されています。
その担任が現在、画家でご活躍の安野光雅さんだったとは、驚きでした。
子供の頃から、いい出会いがあったんですね。お人柄の原点だと思います。
戦争に行く前は、ヒコベイの父の仕事は富士山測候所。辛い任務を進んで受け研究論文も発表していた。
誰もが知る所ですが。伯父である藤原咲平は中央気象台長。満州行きも咲平が勧めたと。。。
日本中が貧しい頃、でも、なんか幸せだった気がする、そんな思い出が、重なりました。
茅野、上諏訪の地名が出るたび、うれしく懐かしくセピア色の昔が蘇る気がしました。
私の子供が小学校の頃、藤原ていさんの講演会も聞きにいきました。20ウン年も前の事ですが。
新田次郎の、あのビーナスライン(山岳有料道路)への反対運動を題材とした「霧の子孫たち」も読みました。
昨年映画になった「剱岳・点の記」も見に行きました。
角間新田のご実家の横に流れる角間川には、七夕の頃、今年も蛍が乱舞していました。
この本を読み、温かいほのぼのとした気持ちになりました。
これからの人生、自身の出来ることはズクを惜しまず、優しさと思いやりをもって生きていきたいと思いました。
2005年には妹の藤原咲子さんが「母への詫び状」という本を出されました。
そのとき、藤原ていさんの「流れる星は生きている」を再び文庫本で読みました。
大分前の事ですが。。二つの本も脳裏に蘇りました。
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8月9日 「永田 萌 花と妖精の世界」 7/10~9/8 原田泰治美術館
子育て講演会「夢をはぐくむ本のたのしみ」を聞きに行った。 市民会館10;00~12:00
午後は開かれている原田泰治美術館で作品と永田さんにお会いできました。
前日に原田泰治さんとのギャラリートークに参加し、感動した友人が是非講演会に行ってと教えてくださったので、知ってはいたのですが、お盆前のあわただしい日常の中で無理と思っていました。
時間は作れるもので、何とか出かけることが出来ました。
永田萌さんは、「いわさきちひろ」さんのような絵の仕事をする女性になりたいという秘めていた夢をかなえ今があるんだそうです。
会社勤めをやめて、イラストレーターの道を歩まれ、絵本もたくさん描かれています。
最新絵本「水の国のものがたり」 は作品のスライドと共に、永田萌さん自ら、私達に読み聞かせをしてくださった。贅沢なひと時でした。
カラーインクを使い、美しい色、こだわりの白は画用紙の白を残す。
私の学ぶ水彩画も画用紙の白を残しますが、永田さんの、その白は輝いて見えました。感動しました。
どの作品も、澄んだ色、暖かい色で、その妖精の仕草が優しくてかわいくて、ウン十年前の童心に戻れた気持ちでした。
野原のオルゴールという絵本を購入しサインをして頂いた。きっかけを作ってくれた友人に感謝でした。
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7月28日 「藤森照信」展 7/24~8/29
茅野市美術館企画展「諏訪の記憶とフジモリ建築」
「木の上の茶室」高過庵(茅野市宮川高部)など、国内外の10以上の茶室の写真と神長官守谷史料館はじめ壁や屋根に草木を植えたユニークな家、タンポポハウスやニラハウスには思わず笑ってしまいますが、宮城まり子の「ねむの木こども美術館」などの写真、座り心地も楽しめる家具など、73点展示されています。
そのどれもユニークな形をしていますが、どこか自然のような、不自然のようなフジモリテルノブの世界です。
茶室はどれも、ほのぼのとした形をしていて私の好きな煙突もあり、そこにあるだけでなんか夢があり、どこか癒されるのです。
美術館の前には、今回展示作品として手がけた一坪茶室「空飛ぶ泥舟」。屋外からも屋内からも鑑賞できる。
実家の母のところに行く時、その製作過程も通りがかりに道から見ることが出来た。
そのとき、すぐ、藤森照信さんの作品だと分かった。
茅野市宮川高部出身の照信さんは私の中学の同級生。
私は疎遠になっていますが、照信さんの知り合いは多く、実家では母にも一緒になって、その話が出来る事はうれしい事です。
以前、朝日新聞の連載にもなり、後に本にもなった「タンポポの綿毛」は子どものころのエッセーだ。
毎週、楽しみに読ませてもらったことを思い出している。
照信さんが話題になるたびに、自分の小、中学校時代にタイムスリップするから不思議だ。懐かしい。
著者藤森照信の「信州の西洋館」には旧校舎の諏訪二葉高校や片倉館が載っており、その千人風呂に照信さんとお父様が一緒に入っている写真が印象的だ。
お父様はお元気だろうか。
今回その照信さんの高部のご実家の写真もあった。
7/25展覧会を見た帰り、ゆっこさんと、神長官守谷史料館、「木の上の茶室」高過庵を見て帰った。
高過庵は母の実家のお墓が近くにあり、年に何回も訪れるので、そのたび写真を撮ってくるので、アイリスが咲いた今年春の写真を載せました。
更なる、 ご活躍をお祈りいたします。
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空飛ぶ茶室
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7月23日 2冊の本 その1 「水木しげるの娘に語るお父さんの戦記 その2 「 くじけないで」 柴田トヨ
その1
「水木しげるの娘に語るお父さんの戦記 河出文庫
次代の子ども達に向けて綴ったありのままの戦争の記録。
漫画家・水木しげるの夫人・武良布枝が著した自伝「ゲゲゲの女房」のドラマは、やっと貧乏神から開放されるのか、水木プロダクションの旗揚げを向かえた。これからどのようになってゆくのか楽しみですね。
その水木さんが、18年前に出し、文庫本になっている「お父さんが娘に語る戦記」を最近読んだ。
人々がうつむき、笑いを忘れた暗く澱んだあの戦争の時代の著者。
紙切れ一枚、赤紙で地獄の様な戦場に行き、20歳で南方へ出征。
空爆で片腕を失い、マラリアに苦しみながらも自由に生きる土の人(土人)たちとの交流を通じ、豊かな心を持ち続け生き抜いた。7年経ったら又来ると約束して土の人たちと別れる。
漫画家になり、貧乏暮らし、ドラマ「ゲゲゲの女房」の結婚前、結婚後えと記録は続いてゆくのです。
あの暗い戦争の最中の悲惨な戦記の中に、笑える場面が多いのが水木さんらしく、その文章にひき付けられました。
あとがきでは、戦争が終わったあと、その土の人たちとの約束、7年後ではなく30年後にその南方、ラバウル、ココボ、トペトロ 水木さんが言う「小さな天国」を訪れたときの事が書かれている。
水木さんの描く、人懐こい人物が場面と共に、ところどころに入っていて、こんな事、言ってはいけないかもしれないのですが、次から次と楽しくて、あっという間に読んでしまった。
その陰で、どんなにか大変な悲惨な辛い戦争体験だったか、想像ができましたが。水木さんらしい戦記でした。
8月15日は終戦記念日
その2
「 くじけないで」 柴田トヨ 99歳 飛鳥新社
7/22の朝日新聞「天声人語」で知った、白寿の詩人、柴田トヨさんの初詩集のこと。
産経新聞「朝の詩」に投稿していて、その選者の新川和江さんが詩集の後押しをしてくださって詩集が出されたと書かれていました。
90歳を過ぎてから詩を作りだしたのだそうです。 天声人語、その中にはこの詩が載っていました。
貯金
私ね 人からやさしさを貰ったら、 心に貯金をしておくの
さびしくなった時は それを引き出して 元気になる
あなたも 今から 積んでおきなさい 年金より いいわよ
同感で、あまりに心打たれたものですから、早速書店で求めました。ベストセラー白寿の処女詩集と書かれ積まれていました。
多くの方に感動と共感の声が寄せられているのですね。何かを始めるのに、年齢ではないのですね。元気を頂きました。
その中には母と題する詩が2編ありました。
母を訪ねるとき、私も同じ思いでいます。
私にも若い頃の母の声も聞こえます。そして、その時私は、ただ母の平穏を祈るだけです。
母 Ⅰ
亡くなった母とおなじ 92歳をむかえた今 母のことを思う
老人ホームに 母を訪ねるたび その帰りは辛かった
私をいつまでも見送る 母
どんよりとした空 風にゆれるコスモス
今もはっきりと 覚えている
母 Ⅱ
母の後を 風車を かざしながら 追いかけて行く
風はやさしく 陽は暖かかった
振りむく母の笑顔に 安堵しながら
早く大人になって 孝行したい そう思ったものだ
母の齢をとうに越して
今 私は
初夏の風に 吹かれている 若い母の声が聞こえる
こおろぎ 化粧
深夜 コタツに入って 詩を書き始めた 倅が小学生の時
私 ほんとうは と 一行書いて 涙があふれた お前の母ちゃんきれいだなって
何処かで こうろぎが鳴いている 友達に言われたと うれしそうに言ったことがあった
泣く人遊んであげない それから丹念に 九十七の今も おつくりをしている
コロコロ鳴いている 誰かに ほめられたくて
こおろぎコロスケ 明日もおいでね
明日は笑顔で 待ってるよ
99歳で、なお素直な感性の詩を詠むトヨさん。いいなあ~~。
7月7日 「沙羅の花」 平家物語、芥川龍之介
先月中旬に、美術会でポーラ美術館へ出かけた。3年ほど前にも「シャガール展」を見に行きましたが、森の中のとっても素敵な美術館です。
大樹の中に、沙羅の樹がたくさん植えられています。多くの方が好む、私も好きな樹です。
夏椿 ともいわれますが、花には少し早く、咲いていませんでした。ほんとに椿に似た白い花が咲きます。
6月末には、この諏訪地方でも沙羅の花が咲きました。
沙羅の樹は、7、8メートルにもなります。樹齢350年という樹もあります。すんなりと伸びた美しい樹は双樹になる事が多いそうです。
平家物語
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を現す
奢れるもの久しからず ただ春の夜の夢の如し 猛き者も遂には滅びぬ。 偏に風の前の塵に同じ
鐘をついた時、その音はだんだん小さくなって消えてゆく、
「沙羅双樹の花」は、盛りに咲き誇っていても、何時かは、はかなく散ってゆく
今が盛りでも、永遠に続くものなど、その鐘のように、その花のように何も無いのだよと、悟らせてくれる。
芥川龍之介
33回忌が3年前だった義父の書棚に、芥川龍之介の古い古い厚い本が何冊かあります。
その中にも「沙羅の花」と題した、短編を集めた本がありました。
大正時代の本です。芥川龍之介も沙羅の花が好きだったのでしょうか。
冒頭にこのような文章が載っていました。
自序
これは大正5年から11年に至る間の、わたしの作品の選集である。
沙羅の花は「和漢三才図絵」に拠れば「白軍瓣状似山茶花而易凋」ということである。
これらの作品も沙羅の花のように凋落し易いものかも知れぬ。
かたがたふと思いついた通り、この選集の名前とする事とした。大正11年7月 芥川龍之介記
(瓣状ベンジョウ・・花びらの状態 易凋・・凋(しぼ)みやすい
沙羅の花は、さざんかの様な白い花に似て、凋みやすいということだろうか。。。
朝に咲き、夜に散る一日花、与えられた一日だけの生命を精一杯咲き尽くす )
義父が大切にしていた、その本には、羅生門、鼻、杜子春,蜘蛛の糸など有名な作品のほか20何篇かが載っています。
私が小学校中学年の頃、担任の先生が毎朝、一遍ずつ読んで下ったことを懐かしく思い出しています。なぜか芥川龍之介でした。
童話の様な短編のその中に、子どもにも大人にも通じる、生きてゆくのに、とっても大切な事を教えてくれてる親しみやすい文章でした。
今また、その短編を読み返しています。おじいちゃんの壊れそうな、大正の本で。
叔母もこの花を詠んだ。沙羅の花が妙に気になった日の日記でした。
親戚の法事で95歳になる叔母が詠んだ歌を聞いた ・・沙羅の花 余生の夢は子孝行・・ ふくい
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それから。。
7/24朝日新聞の天声人語に芥川龍之介の小説「河童」の事が書かれていた。
上高地を舞台にしたのは「河童橋」からの連想だろうと書かれていた。
芥川龍之介が上高地を訪れたのは20回を下らなかったそうだ。
龍之介は、人が自然を愛するわけを、
「自然は我我人間のように妬んだり欺いたりしないからである」と言ったそうだ。正に。。
7/24は命日 河童忌。
4月28日 料理研究家 辰巳芳子 「庭の時間」 文化出版局
注文した本、「庭の時間」が届いた。
その本を見ながら、鎌倉の自然を生かした家と庭からただよう、快い空気に心が和らいだ。
庭の友と 辰巳芳子
日本のおとなしい花も、陽気な他所の花も、時たがわず季節を知らせ、ありありと思い出を蘇らせる。
畠の野菜、野の草、薬味の類も。それぞれに、つかずはなれず、歩みを共にしてくれた。
この頃、庭の友は、あなたと私は「きょうだいよ」と云ってゆずらない。
人間という自然、あなたという自然を生きなさい。
きょうだい達と、一つ息吹、一つ光、一つ時間にあって、うたうたうならば、なにを謳おう。
料理研究家の草分けだった母、浜子のもとで家庭料理を学ぶ。
また、宮内庁大膳寮で、修行を積んだ加藤正之さんにフランス料理、スペイン料理など指導を受け、西洋料理の研鑽も積む。
父親の介護からスープに開眼、鎌倉の自宅で「スープの会」主宰。
辰巳芳子さんとあこがれのスープ
蒸し炒めから始まる優しいスープは、手を抜かない思いやりの味です。
ホーロー鍋を使われます。私もホーローが好きで使います。うれしくなりました。
今、少しとりこになっている、ダジン鍋、これもオリーブオイルを少したらして、野菜を蒸す。
ただそれだけなのに野菜が甘い。おいしい。ヘルシー。
辰巳さんのスープも又、作ってみよう
4月10日 飯田市 「旧山本小学校杵原分校」 にて。。
一枚の写真です。大きく、大きく、しました。笑い声が聞こえてきます。
デーサビスのお仲間でしょうか、職員の方と一緒に写真に納まる直前、楽しげにおしゃべり。
子供の頃、仲良くこの学校に通ったのでしょうか。
今年も見事に咲いた桜を前に、最高のいい笑顔。
撮らせていただいたこちらまで、幸せでした。
私の母は、少し疲れたので、すぐ横に止めたの車の中で楽しみました。
何年か前、母と見に行った、映画「母べい」の展示なども校舎内で見ることが出来ました。
皆様、どうぞお元気で。ありがとうございました。
教室に張ってあった写真から。映画のスタッフ
3月3日 雛祭り
今年は裂古の吊し雛がもう一つ並びました。
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5センチにも満たない小さき主役達、見事な手仕事に時間を忘れて何回も見とれてしまいました。
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時代を生きた古い縮緬を見事に着こなして、見る人を、懐かしい穏やかな優しい意気持ちにさせてくれますね。
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母と雛祭り
2月10日 「甕の鈴虫」 第四回文の京(ふみのみやこ)文芸賞、最優秀賞受賞 講談社より出版
竹本喜美子さん(55歳) 茅野市玉川出身、神奈川県厚木市在住
寒天屋が舞台だからと下諏訪の友人が1/31の新聞に大きく載っていたという本の紹介をFAXしてくれました。
物語は、冬になると北信濃や新潟県から出稼ぎに来る「天屋衆」が暮らす寒天屋に住む寿々子が主人公。
海藻のにおいがする家での生活、祖父、文学を捨てた父、結核がもとで離婚して家に戻ってきた憧れの色白の伯母さん、沖縄から嫁いできた母、近くに住む同級生の少年との出会い、作品の舞台は「信州」とだけあるが、湖が出てきたり、祖母は諏訪高女に通ったと書かれていて、諏訪地方の物語である事を想像できる。
竹本さんの父親は昭和30年代寒天作りをしていた。
小説には当時の食事や厳しい寒さの中での仕事など実際の光景を盛り込んだそうだ。
茅野の原風景を残しておきたかったと書かれていました。
さっそく注文して、一気に読んでしまいました。
寒天に関わった仕事をしていた私自身の父のことや、昔の冬の、あの寒さの中の天屋の情景が重なりました。
日々の生活の一つ一つや、会話に頻繁に出てくる方言に、忘れかけていた事が、そのままに思い出されて本当に懐かしく、当時の家族の日常が、日向のぬくもりみたいなものが一緒になって、心の奥に優しく蘇りました。
この本を紹介してくださった友人に感謝でした。友人にも読んでもらおうと思います。
昨年秋「天屋」の絵を描いてから、なぜか天屋にひかれるこの頃です。
竹本喜美子さん
諏訪二葉高校からお茶の水女子大に進学。卒業後、政治には全く興味はなかったものの、当時は自民党の衆議院議員だった小沢一郎さん(今は民主党幹事長)の、秘書として4年間働いた。
大手自動車会社の技術者だった夫の転勤に伴いベルギーやドイツなどでも生活した。
帰国して契約社員として地図を作る仕事をしていた15年ほど前、海外で見聞きしたことを文章にしてみようと思い始め、短編作品では小諸・藤村文学賞の最優秀賞などを受賞しているそうです。
文学を諦めたお父さん、読書好きな少女時代の竹本さん、根っこに光る物をお持ちなのでしょうね。
これから多くの作品を世に出してほしいです。
2月8日 事初め(ことはじめ)
玄関先で、もみ殻、トウガラシを焼き、その煙で無病息災と子供たちが健やかでよい縁にの願いをこめて・・・
実家の母は毎年やっていた。母は近くにあるセイカチの大樹の、30センチ程の、それはそれは大きな実を秋に取り込んでおいて焼いていた。
ここ数年、母が出来なくなってきたので、今年は我が家で、もみ殻と唐辛子で無病息災を祈りやってみました。
新聞によると茅野市中村では、まだまだ伝統行事として伝わっていると載っていました。
1月25日 上川のオシドリの夫婦
美しい羽をもつ雄の後から、雌は、時には一歩下がり、時には寄り添って泳いでいました。
オシドリは夫婦仲が良いことで知られていますが、その姿もほんとに美しく、微笑ましい光景に心安らぎました。
食事にはそっと現れ、元気に食べて、コハクチョウやバンや鴨さんの騒ぎをよそに、二人でそっと葦の陰へと消えていきました。ステキ!
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2009
12月31日 天屋の絵 父母への感謝。 日記を読んで下った方へ一年のお礼にかえて。。。
春、母の介護に通う道すがら一軒の古びてはいるが、しっかりとした堂々たる存在感のある「天屋」が目に留まった。
隣の市に嫁いで、36年いつも実家に行く時に通ってる道なのに気づかなかった。
絵にしてみたいと思った。
父は、寒天の検査員やら、天草の仕入れ、営業では北は北海道から南は九州まで全国を周っていた。
現役中、病に倒れ(当時60代中ごろ)10年余り病んで平成12年夏に亡くなってしまった。あれからもう10年になる。
この天屋が、なぜ突然目に止まったのか私自身がビックリ。
父はこの天屋さんにも来たかしら、などと思いながら描くこととなった。
父は私に厳かった。父の口癖は、どこに行ってもやってゆけるように、何でもできるように、だった。
祖父母を含め6人家族で、小学校の頃の私は、同じ年頃の友達や弟が遊んでいるのに、どうして私だけ家の手伝いなのか悲しかった。
母も毎日忙しく働いていましたから、手がなかったのかもしれませんが、家事から、畑のこと、田んぼのこと、季節のまつりごと、細かいしつけ。
父に反抗などはできなかったが、とっても嫌だった。子供心に惨めな気がした、辛い事だった。
でも母を助ける為に頑張って手伝おうと、とってもけな気げだった気がする。
しかし、
原点にそれがあったから、今の自分があるのだと。今思う。
今年この「天屋」を見たとき、父の寒天に関わる仕事で私達は暮らしていたのだと気がついた。
当たり前のことなのだが。
それに関わる、小さい頃のいろんな事を思い出した。
視察に来られた方に説明するために、長い長い紙に天草から寒天になるまでの絵を描いて、それを見せてくれたこともあった。
天草の産地や種類、糊の強さの事、作り方なども教えてくれたりした。
いろんな事を思い出していると、なんだか胸の奥が熱くなった。当時も、今までも、思いもしなかった当たり前の日常の生活が思い出されて、初めて父の仕事の一端を気づかせてくれた気がした。
そして私にあらゆる面で、厳しく教え、しつけてくれた事の全てが、有難い事だっだのだと思った。
感謝の気持ちに変わった。
父の10年余りの闘病生活の看病の時も、この道を通っていた。
今年も、母の介護に毎日、この道を通った。
随分前から使われていない、朽ちそうな古いこの「天屋」を毎日見ながら、観察しながら3ヶ月余り、少しづつ描いた水彩画がこの秋、賞を頂いた。
近くの方にお聞きしたら、父がお世話になっていた「「天屋」さんだった。ここに来たことがあったんだ。
時間も無いし苦しい中で描いた絵は、父が後押ししくれたのだろうか。ただただうれしかった。
母の手を引き美術館までその絵を見に行くこともできた。とっても喜んでくれた。
数年前には、ミシンを踏む母を描いた。その時も美術館に一緒に見に行った。
親孝行の真似事が少しはできただろうか。
母には父の分まで、これからも元気でいてほしいと願うばかりです。ありがとう。
「天屋」 水彩画30号
この一年ありがとうございました。どうぞよいお年をお迎えください。
皆様、来る年が幸せ多き一年であります様に。。。
10月3日(土) 観月茶会
10月は茶の湯では名残と呼ばれます。
昨年の初冬に使いはじめた茶壷の茶も残り少なくなり、いかにも心細く茶の名残が惜しまれるからだそうです。
90歳を越されて、ますます凛とされている先生のお庭での観月の茶会に参加させていただきました。
午前中は雨模様で心配しましたが、夕方の茶会には雲も薄れ、その後は晴れ渡った夜空に、それこそ見事に輝く神々しい名月を見ながら、持ち寄った手作りのお料理で、女性ばかり、にぎやかでとっても楽しいひと時を過ごさせていただきました。
月見の茶会、初めての体験でした。
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茶道では、その全ての所作の手順に無駄がなく、またお道具は勿論の事、水の扱いも厳しいものです。
茶巾を搾る手も搾り方も形まで決まっています。
茶道を学ぶというより楽しんでいる私には、どこまでも奥が深い世界でいつまでも初心者です。
この頃、幸田文 著、青木玉 編の 「しつけ帖」「台所帖」「きもの帖」のシリーズを読んでいます。
その「しつけ帖」にも、
「水の扱えないものは料理も経師も絵も花も茶もいい事は何も出来ない」
「雑巾一つ搾るのにも、その搾った手をいかに扱うか、拭きにかかるまでの濡れ手をいかに処理するか、無意識のうちにその所作が出来るよう心して会得すれば一人前だ。」 とありました。
父親の幸田露伴が娘の文に厳しくしつけた細かい一つ一つ。
日本人の本来持つ生きる姿勢、美しい心とはなにかを諭した。
お茶の心だと感じた。
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8月30日 高山高原の花 観察写真展と講演会
「今井健樹先生 と わたすげの会」 下諏訪 ナーサリー・ライムにて
貴重な植物のお話をスライドを見ながら先生から、そのお声で花への思いを一つ一つ丁寧に聞く事ができました。
本当にうれしい事でした。
先生の書かれた「八ヶ岳・霧が峰の花」「信州 高山高原の花」の著書は私の山野草を調べるのに、一番大事な本で、大切にしています。
誘って頂いた青木さん、また、裂古ひなまつりの山田先生にもお会いし、皆さんと今井先生とご一緒にコーヒーを頂きながら、青木さん手作りの「畑でとれたカボチャのクッキー」に舌鼓しながら、いいひとときでした。
ゆっこさんと出掛けました。今井先生これからもどうぞお元気で。ありがとうございました。
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8月18日 没後10年記念 畦地梅太郎(あぜちうめたろう) 版画展
八方尾根兎平109 7/1~8/31
1902年、愛媛県生まれ
内閣印刷局勤務後、局を辞し25歳で版画家になる。
生あるもの全てを愛のまなざしで見て、心温まる版画作品を多く残し、1999年 96歳の生涯を閉じました。
以前からのファンの、ゆっこさんから頂いた葉書を載せてみました。私もファンです。
たくさんの作品の中でも
「山」「山男」シリーズの作品は、男の力強さ、優しさの表現の中にも、表情がほほえましく、畦地さんのお人柄までうかがわれるようで、見ているだけで心を和ませ、穏やかな気持ちにさせてくれます。
手ぬぐいを買ってきました。今度、山登りする時、使いたいと思っています。
もう少しゆっくり作品を鑑賞したかったです。
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7月22日 いせひでこ絵本原画展 「大きな木のような人」 「にいさん」 7/17~9/15
絵本美術館&コテージ「森のおうち」 安曇野市穂高
二つの作品の原画を見に行ってきました。
森のおうちまでの小道は薄紫の紫陽花が、それは美しく、林の中、木漏れ日に映えて、訪れる人たちを優しく出迎えてくれているようでした。
そして二つの作品の原画展は、優しい色彩なのに一枚一枚には迫力があり、いせさんの物語への思いが伝わり、ずっとこの場に居たいような気持ちになりました。
しばらく座って、その世界に浸ることが出来ました。
今回の新作「大きな木のような人」はパリで暮らす、花の好きな日本の女の子(さえら)と植物学者との出会い、温かいつながり、そして女の子は帰国することに。。。
さえらが植物学者にあげた植物園で描いた沢山の花の絵。 ひまわり、からたち、くず、クレマチス・・・
それは冬のモノトーンになった植物園内に飾られるのでした。
エンジュの木、プラタナス、メタセコイヤ、アカシア、どれも樹齢を重ねた大樹がこの絵本には出てきます。
何百年を生きた樹は、その場所に立つだけで、独特の風格、威厳に圧倒され、自分自身の悩みなど取るに足らないと思わせてくれ、生きる力がわいてきます。
「人はみな心の中に、一本の木を持っている」
いせさんの樹に対する思いだと思います。そして、さえらは、いせさん自身ではと感じました。。。
一昨年の作品の「ルリユールおじさん」のソフィーの登場にもビックリ、彼女の「私の植物図鑑見る?」の場面には、ソフィーがあの修復された植物図鑑と共に描かれていてうれしくなりました。原画展は9/15まで開かれている。
9/2には この場所で「原画展記念シンポジウム」が開かれるそうです。
安曇野から里山辺へとまわり、忘れられない一日となりました。
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5月25日 福山雅治 セカイガツナガル 言葉と音楽と記憶
朝日新聞に一週間ほど前、福山雅治さんが撮った3枚の大きな写真と詩が4面にわたって載りました。。
その中の一つの詩「道標」と背景の写真に、目が留まりました。
縁側に座っている、おばあちゃんの「膝の上の、曲がったしわしわの手」の写真。
おばあちゃん子だった福山雅治、そんな祖母への感謝と尊敬の思いを歌うバラードだそうだ。
写真と詩が母と重なって見えた。
♪♪♪ 「道標」みちしるべ 福山雅治 ♪♪♪
私はその手が好きです ただ毎日をまっすぐ生きて
わたしたちを育て旅立たせてくれた あなたのその手が好きです
雨に打たれても土に触って ひとつひとつ種を蒔く背中は
諦めた夢もきっとあるでしょう だけど私には笑顔で・・
愛に出逢い 愛を信じて 愛に破れて
愛を憎み 愛で赦し(ゆるし) また愛を知る
風に吹かれ迷いゆれて生きるこの道
あなたの笑顔 それは道標(みちしるべ)
私はこの海が好きです この弓形に続く線路の
あなたが生まれた育った海に来ると 後悔が軽くなる気がして
傷もためらわず痛みもかまわず 「勝つこと」 ただそれだけが正義と
壊れてもまだ走り続けるわたしにも あなたはやさしく・・
人に出逢い 人を信じ 人に破れて 人を憎み 人を赦し また人を知る
風に吹かれ泣いて笑い 生きるこの道
あなたの笑顔 それは道標 風に吹かれて走っています あなたがくれた命の道を
私はこの手が好きです ほらあなたによく似ている あなたのその手が好きです
報道番組のテーマソングになっているそうですが、まだ、聞いた事はありません。
新聞を見た後、さっそく母の手をデジカメして、以前描いた絵の写真と一緒にこの詩を写して母に届けました。
こんなに大きくて、ごわごわの手なのに、実物よりきれいに撮れてると、とても喜んでくれました。
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大切にしてる亡き夫の指輪と自分の指輪・きっと守ってくれてるよ! 母の手 2006 水彩画
3月31日 クラス会の後
東京の友より、写真と共に便りを頂きました。
友より
先日のクラス会から 2週間強 経ちますが こちらは桜が5分咲き 種類によってはもう満開もあります。彫刻家 朝倉文夫の美術館が東京台東区谷中にあり、私邸を区が管理して、長年美術館として開放してきたようですが、老朽化がひどく今月31日を以って、休館し修復期間にはいるとNHKテレビで4~5日前に放送され 駆け込み乗車よろしく行ってきました。
美術に詳しくない私ですが 4年先まで見学できないならば・・と物見遊山で行って参りました。ブロンズ像など中は撮影禁止でしたが入り口と中庭、屋上には自画像がムックリ・・・・
朝倉文夫は、早稲田大学にある大隈重信像を作った著名な彫刻家だそうですね。
修復に入るという、風格ある建物を一緒に見ていただきたく日記に載せさせていただきました。![]()
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彫刻の事はよく分からない私ですが、実家の明治生まれの亡き祖父は、諏訪地方で当時、農民美術を指導もした彫刻家の矢崎虎夫に指導を受け、素人ですが、仏像や、、観音様、干支などの木の彫刻を残し、私も部屋に飾っています。
矢崎虎夫記念館( 蓼科高原美術館)
茅野市出身の彫刻家、矢崎虎夫の作品を収蔵する美術館。彫像の素材はブロンズや木、樹脂などで大胆かつ力強い作風が特徴。代表作の『雲水群像』[うんすいぐんぞう]や『托鉢』をはじめ、初期から晩年までの彫刻や水墨画を展示している。
3月15日・16日 還暦を過ぎ3歳のクラス会
上野 水月ホテル鴎外荘にて 森鴎外のゆかりの宿
久しぶりに懐かしい友と会えた。
今から思うとたった3年間なのに、誰もが一瞬で、あの青春時代に戻ってしまうのだから不思議だ。
恩師を囲み、懐かしさと、ほろ苦さと、恥ずかしさと、やり残したことのある悔しさや、さまざまな気持ちが入り混じった不思議な、しかし、何かとは比べようもない、大切な大切な時間を共有したものだけが味わえる、友とのおしゃべりは尽きませんでした。
翌日は、品川プリンスホテル39階で大展望を楽しみながら昼食を囲み、何時間も話に花が咲きました。
あの時代から、それぞれの友が、それぞれに頑張って今、齢60年を越し、いろんな事が起こった人生を懸命に生きて、今こうして、同じことに笑える幸せに感謝でした。
森鴎外の処女作「舞姫」を執筆した部屋のある旧居 (ここでもお食事ができるそうだ)
飾られていた「舞姫」の作中から、鴎外自筆の拓本を、私達の恩師で今回もクラス会に参加していただいた、鴎外の大学の後輩でもある山田先生に解読していただいた。なんと贅沢なひととき。
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上野に出かけたので、クラス会の集合前に、こちらの友人から紹介された上野「韻松亭」で公園を見ながらゆっくり昼食をし、その後、東京都美術館で今、開催中の「アーツ&クラフツ展」を見ました。
19世紀後半、英国で手作りの良さを見直そうと生まれ、暮らしの中の美を追求した「近代デザインの父」と呼ばれた、ウィリアム・モーリスのデザインした壁紙、カーテン、タペストリーなどの作品を見てきました。
長野日報に昨年から紹介されていて是非見たいと思っていたので、大変うれしかったです。
モダンで、繊細で何ともいえない味わいが、期待どうりですばらしかったです。
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3月3日 ひな祭り
信州 裂古ひなまつり 諏訪市 ぬのはん
大勢のファンで埋まった会場。
スタッフの方々も、会場に訪れた方々も、皆、この日を待っていた方ばかり。
穏やかな表情の、古い縮緬を大切に使った作品の優しさに触れていました。
作って下さっている方のお顔や、ひととなり、ちりめんに対する想いが、一つ一つの小さな雛に伝わり、それこそ丁寧作られていることに、今年もまたまた感動して、昨年来の念願だった、吊るし雛を購入することが出来ました。
いいひとときでした。
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岡谷 旧林家のひなまつり
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我が家のひなまつり
今年は吊るし雛が仲間入り
小さい雛の一つ一つが丁寧に作られ、裂古縮緬の優しさが心を和ませてくれます。
作った方の、想いが伝わってきます。時間を忘れるくらい、じっと見てしまいます。
その手仕事の見事さ、技に感動しています。大切にしたいと思います。
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吊るし雛の主役達 細かいところまで神経が行き届いた、ほんとに丁寧な手仕事です。
可愛い表情、気持ちまで優しくなりますね。
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我が家の玄関で、お迎えするお雛さま
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今年は雪のひな祭りでした。
諏訪市並木通りの夕暮れ3/3
2月18日
「西の魔女が死んだ」 梨木香歩 新潮文庫
昨年読んだ本です。
どこか、ターシャチューダーさんの生きかたと重なり心に残っている本でした。
昨年映画にもなりましたが、このほど書店でDVDが出ていたので、借りて見ることが出来ました。
原作を損なわない、イメージどうりのとっても素敵な映画でした。
ミッション系の私立中学の理科教師のおじいちゃんは、そこで外国から英語の教師として赴任してきたおばあちゃんと出会い、孫娘のまいも生まれるのです。
まっすぐに生きようとするがゆえに学校に行けなくなってしまったまいは立ち止まり、両親の勧めで、田舎に住むおばあちゃんの所へ行くのです。
そこで触れる自然。人が長い間その自然から教わり受け継いできた知恵や、生活の基本を、自然に近い生き方のおばあちゃんから、ひとつひとつ教わるのです。
ジャム作り、お洗濯、ただの日常をそのまま見せるだけのリズムの中で「魔女修行」も始まるのです。
おばあちゃんから教わる魔女修行というのは、まず自分で考え自分で行動する事から始まりました。。。。。
裏山の、おじいちゃんが残した野いちごの畑。それから作るワイルドストロベリージャム。
イングリッシュラベンダーの庭。その香りをお洗濯したシーツに移す方法。
まいは好きな花を大切に育てます。小さな花「キウリ草」
まいの疑問。
死んだらどうなるの?
人は死んだら魂が体から離れて自由になる。体から離れても長い旅を続けるのよ。
魂と体が一緒になって人間。魂と体を持っているから、いろんな事が体験できる。
草や木が光に向かって伸びるように、いろんな体験で人間も成長するのですよ。
おばあちゃんが死んだら、魂と体が離れた事を教えてあげますよ。
証拠を見せるだけにしましょうか。と約束するのです。
やがて、まいは学校に行くようになります。
おばあちゃんの事は忘れた事はありませんでしたが、亡くなったとの知らせに、懐かしい田舎のおばあちゃんの家に行ったまいに、おばあちゃんは、こんな言葉を残していました。
その近くには「きうり草」が優しく咲いていました。
ニシノマジョ カラ ヒガシノマジョエ
オバアチャン ノ タマシイ ダッシュツ、ダイセイコウ
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山梨県北杜市には、この映画のロケ地があります。
このおばあちゃんの家も残っているそうです。一度訪ねたいものです。
きうり草、どんな花だろうと気になっていましたら、今年2月。冬の間、沖縄にお住まいの友人の撮った「沖縄の花」に映っていました。
白いワスレナグサに似た花で、葉を噛むとキウリの香りがしたそうです。
写真で見ると、思ったとおりの可憐な優しい花でした。
知りたいと思ったら、身近な方から教えてもらって、こんなことってあるんですね。
うれしくなってしまいました。
1月1日 伊勢英子さんの絵本
安曇野の絵本美術館「森のおうち」から、うれしい年賀状を頂いた。
伊勢英子さんの絵本「にいさん」の表紙の絵の賀状だった。
昨年3月、丁度、浜昌平君の作品展の初日に、ここを訪れた時、「この絵本が出来たばかりで、今、伊勢さんから送られてきたの」と、館長さんが、そのホヤホヤの絵本を見せてくださった。
その物語に感動。絵はお聞きしたらアクリル水彩で描かれたという。
そのダイナミックな表現の素晴らしさ、美しさにも感動し、大変印象に残っておりました。
その後発売された、その絵本を昌平君のお母様をとうして手にする事ができました。
あの有名なゴッホの苦悩と、それを絶対的な信頼と愛で支える弟、テオの物語です。
なんていい兄弟なんだろうと、そして、そんな兄弟に憧れてしまいます。
一昨年の作品「ルリユールおじさん」も素晴らしい絵本でした。
これは大事な植物図鑑がバラバになってしまい、途方にくれた少女ソフィーと本作り職人のお話。
「ルリユールおじさんのところにいってごらん」といわれ、路地裏の本作り職人をたずねるところからはじまります。
おじさんの手は節ばっているが、その父親から伝えられた技で図鑑を生き返らせてくれました。
最後のページでは、大人になったソフィーが植物の研究者に成長し、樹齢数百年の大樹を前にたたずんでいるのです。美しいパリの町並み。素敵な物語。優しく美しい絵。
絵本は子どもだけのものじゃなく、大人の心にも響き、届き、その中に深く入り込める、すばらしい世界だとあらためて、感じました。
安曇野 絵本美術館「森のおうち」は今年15周年だそうです。
7月には「いせひでこ絵本原画展」で、この「にいさん」の原画が見られる。
9月には宮沢賢治絵本原画展も開かれる。
今から、予定をして見に行きたいと思っています。思いもかけない、うれしい年賀状でした。
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「にいさん」 あとがきより
画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホは、その37年の生涯に、弟のテオにあてて700通近くの手紙を書いている。その文面からは、誠実に生きようとすればするほど、節度のない過剰な人間とみなされて居場所を失っていった彼の生きづらさと、白い画布以外に自分らしく生きられる場所がないという痛切な叫びが伝わってくる。兄は弟に、社会の無理解という牢獄の扉を開ける鍵は、兄弟として、友人としての愛なんだと訴え続けた。
テオは生涯をかけて、その兄の想いにこたえようとした。
どうしても描きたかった兄と弟のものがたり。
兄の死後、テオがオランダの母にあてた手紙の中の言葉、「兄さんは、ぼくの全て。ぼくだけのにいさんだったのです。!」が、この絵本を製作するあいだ心をはなれることはなかった。 いせひでこ
2008
12月31日
今年、ターシャ・チューダーさんはじめ多くの方が亡くなられた。
ターシャさんは花だっていつかは枯れる。
人だってそれが自然なのよと言いながら、逝ってしまわれた。
この12月で終わった、テレビドラマ「風のガーデン」では、心に響く演技をされ、ご病気を隠しながら撮り終え、そのドラマが遺作になってしまった緒方拳さんも、その存在感を残したまま逝ってしまわれた。
そのドラマの中、常に流れていた「ノクターン」を、今日、紅白歌合戦の中で平原綾香さんが歌った。
そのメロディーに、あのガーデンの花達と共に緒方拳さんがなんだか、辛く思い出されて涙が出た。
以前にも日記にさせてもらった「求めない」の作者加島祥造さんの著書「タオ・老子」のBS再放送を大晦日に再び見た。緒方拳さんのナレーションである。
「タオ・老子」は老子の教える道(タオ)を、加島さんが独自の詩で柔らかく説き語られている本です。
それこそすばらしい伊那谷の四季の風景にあわせて、語られる詩。
緒方拳さんの心に浸みる奥深い温かい声、表現によって語られる詩。
何ともいえない時間でした。すばらしい朗読でした。
一回目の放送の後、翌日購入した本と合わせながら見たせいかもしれませんが、難しい老子の教えが、今日は優しく心の奥に入ってきた。
かつてない暮れの不景気。契約社員、派遣社員が職を捕られ、家もなくしている。
老子の説いた、加島さんのこの詩を載せ、今年の日記を閉じたいと思います。
今年も拙い日記を読んでくださってありがとうございました。
来る年もどうか幸せな一年であります様に。。。。
老子の残した言葉 第53章 「益証」
ここで、ほんのちょっと 実はこの世の中 君の内側の光で見直せば、
見かけより、この道が平らで広いものと分かる。
そしてもう、 横道なんか入りこまない。
でもね、多くの人々はどうも 狭い道が好きらしくって そこで押しっくらをし、
先を争って、他の人の上にのしあがったりする。
そして、のしあがった者達が 政治や経済を支配して、
あんなに、着飾ったり、巨大なビルを建てたり とてつもない武器をつくったりする。
ことあるごとに 飲み食いに贅沢をし 金銭を積み上げる。
だがね、それはみんな、盗っ人のすることだよ。
これまでタオが語ってきた道とは大違いなんだ。
そして、確かな事だが、こういう人たちは、ひとりの人間としては、決してハッピーじゃないのさ。
12月21日(日) ブリジストン美術館(銀座線京橋より5分)
石橋コレクション 印象派と20世紀美術を中心に約1500点の作品を収蔵しています。
ルノワール・セザンヌ・ピカソ・モネ・藤島武二・黒田清輝・マリーロランサンなどの作品を、娘と日帰りで出かけて堪能してきました。
藤島武二 「黒扇」 重要文化財
2月2日 飯田、増泉寺に「モリゾー」と「ピッコロ」が。。 今朝9時から NHK教育で放送
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12月23日で東京タワー50周年。
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この頃、常設展示場所で話題になった、井の頭線渋谷駅へも立ち寄りました。
故・岡本太郎が原水爆を題材にした作品、「明日の神話」
縦5.5メートル、幅30メートルの巨大壁画、もの凄い迫力に圧倒されました。
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8月25日 ヤマネばかりでなく、写真絵本「干し柿」でも知られる西村豊さん。
今朝の長野日報にその絵本写真「干し柿」 がベストセラーになったと記事に載りました。
今年8月2日のギヤラリートークの中でも、この絵本の話が出ました。
とっても素敵な絵本で、原小学校の児童達の干し柿作りの授業も取材し、その子ども達が、干し柿を食べ、思いっきりうれしそうな笑顔も載っていました。
西村さん案内の、「アウトドアーしようよ」もテレビで見たりしていますが、
でも、西村さんと言うと、やはり「ヤマネ」の写真。
その8月2日の写真展を思い出して日記にしてみました。
ヤマネ撮影 富士見で初の写真作品展
8/2 西村豊さんのギャラリートーク 富士見「高原のミュージアム」にて
暑い暑い夏のひととき、涼しい富士見町で、沢山の愛らしいヤマネの写真を見ながら、西村さんのヤマネに対する愛情と、大切に守りたいという思いが伝わるお話、スライドに引き込まれました。
ヤマネは天然記念物で準絶滅危惧種に指定されているそうですが、県内の別荘内や森の中で捕獲される例は後を絶たないそうで、その捕獲したヤマネを可愛いから飼いたい、冬眠させたい、という問い合わせまであり、そのたびに「すぐ捕獲した場所、自然に帰しなさい」と説得するのだそうです。
西村さんは保護されたヤマネの赤ちゃんを依頼され、育てた経験がおありですが、習性すら知らない人間の手では絶対に育たない、片手に乗るほどの極小動物なのです。
仕草が何とも可愛く、思わず微笑んでしまいそうな写真展に癒される気がしました。
ラッキーにも、ポスターと西村さん撮影・監修のCDまで頂けた、うれしいひとときでした。
お願いして、ポスターにサインもしていただきました。
「自然讃歌」と書いてくださいました。
冬眠中のヤマネのかわいいポスターです。家に飾っています。
西村さんは京都に生まれ、現在、富士見にお住まいです。
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6月22日 ターシャ・チューダーさん。米国の絵本作家。92歳。
ターシャさんの訃報(18日)を今朝、新聞で知りました。
描く絵本の温かさ、柔らかさ、優しさ、ぬくもり、そして日々の暮らしの、とことん自然な生き方、その全てが素敵でした。
テレビでも何回も話題になりました。
その都度、新たな感動の発見があり、いつも数冊のターシャさんの本を手元に私は暮らしています。
5月13日に昌平君の絵画展で「森のおうち」を再び訪れた時、館長さんから、ターシャ・チューダーのフォトポストカードブックを「大好きなターシャさんのカードで、手元におきたいかもしれませんが、どうぞ、これで大切な方にお手紙出してくださいね。」と、頂きました。
とってもうれしくて、しばらくは、毎日見ていました。その後一枚だけ使いました。
今、そのポストカードブックを見ながら、ターシャさんを偲んでいます。
絵本美術館「森のおうち」でもターシャ・チューダーさんの本がたくさんありました。
一世紀前のアメリカの田園風景を再現した家、庭、花へのこだわりや、思いが大好きです。
そこに一緒に暮らすコーギー犬はじめ、たくさんの動物、花、木、家、池が絵本のモデルになっています。
2005年9月には、この日記にも書きましたが、今から10年位前に出会った彼女の絵本や言葉は常に私のそばにあって、今もその感動、憧れは変わらずに続いています。
これからも彼女の生き方をお手本に、少しでも近づけるよう生きていきたいと思います。
ご冥福をお祈り致します。
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4月12日 浜昌平「絵画展」 安曇野絵本美術館「森のおうち」 3/19~5/20
人との出会いは不思議なものです。
これは、望んでとかと言う事ではなく、めぐり合わせてもらってるのだと言うような気がしています。
昌平君との出会いも、正にひょんなことからでした。
たまたま買い物に行った画廊の奥さんから、昌平君の作品展を紹介され、そのまま、一人で出かけて行ったのでした。
そこでの昌平くん、そして、ご家族との出会いは、その後も私にたくさんの素敵な出会いを実現させてくれました。
何年も前の事ですが、地元の小学校の校長先生とお話する機会があり校長室に行くと、そこには、昌平君の絵が飾ってありました。
女性の校長先生です。
これにはびっくり。昌平君の絵の話ができる事がうれしくて、思わずおしゃべりしてしまいました。
後でお聞きしましたら、絵を描くきっかけを作ってくださった当時の小学校の担任の先生だったと。
昌平君は、まわりの人に、優しさと温かさを、柔らかいバルーンのように、どんどん大きくふくらませて届けている。
そんな気がしています。
どうして描けるのか分かりませんが、絵の中の一本の線が、完璧なまでに表情を持ち、その上、繊細で丁寧で、力強いのですが、どこか優しい。そんな作品にいつも感激するのです。
昨年の茅野市美術館での絵画展も、それこそ多くの皆さんが見に来てくださいました。
今回の絵本美術館「森のおうち」での絵画展も、昌平君のもつ温かい世界が会場に漂っていました。
絵画展初日には、昌平君を応援してくださる、ノンフィクション作家柳田邦男さん、画家伊勢英子さんからも、温かいメッセージが届いていました。
館長さんが、私たちにもそのメッセージをコピーしてくださいました。
会場に書かれていた、ご両親からのメッセージと共に目頭が熱く熱くなりました。
伊勢さんの絵本も読ませていただいています。
頂いた「ルリユールおじさん」の絵本は私の宝物です。
いま、柳田さんの本を読んでいます。「犠牲」。「犠牲への手紙」。「言葉の力、生きる力」。
表紙の絵は伊勢英子さんです。この本を読むきっかけも作っていただきました。
素晴らしい人との出会いは、奇跡かもしれませんが、何だか、私は有難い事に、その出会いに恵まれているようです。
4月8日には長野日報にも昌平君の絵画展の記事が大きく載りました。
今日は「週間すわ」にも紹介されていました。
安曇野はこれからが、一番いい季節。
もう一度、昌平君の絵を見に出かけられたらと思っています。
昌平君の作品
樹木医によって、桜がこのように再生したという、このお寺の桜が主役です。
人間で言う、具合の悪いところを聴診器で確認。手術をし、術後のケアーをし、適切な食事により時間をかけて元気になっていく。人間と同じだよ。子ども達にそんなふうに説明していました。
桜の老木は木槌で枯れた部分と生きている部分を音で見分け、幹をよく調べ、枝を切り、腐らないように薬を塗る。根の周囲はむやみに歩いてはいけないし、常に優しく見守って大切にしてあげてこそ感動の桜が咲くのですね。
地域の子ども達がモリゾーとピッコロとも協力して、この時期、根元にいい土を施してあげていました。
泉探訪記の福島さんご夫妻とお初めて会いしたのが、この増泉寺でした。ご縁を感じました。
その時、エドヒガン桜が樹木医の努力によって何年もかけて、ここまで、見事に再生したとお聞きしました。
御住職様とは、それ以来ずっとお便りを頂いておりましたが、この放送があると先日お便りを頂きましたので、子ども番組を見る機会はあまりないのですが、とってもステキな番組でしたので、うれしくなって今年初めて日記を書きました。
テレビを写真してみました。
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2007
12月31日 宮城まり子さんの事 一年のお礼に代えて。。。
台所には、ダスキンさんから頂いた、ねむの木学園の子ども達の描いた、思いっきり明るい絵のカレンダー。
「私の履歴書」を読んだあとだったので、特別な思いで、子ども達の絵を、この一年楽しませてもらいました。
そのカレンダーが最後の日になってしまいました。
一昨年前だと思いますが、日経新聞に1ヶ月毎日載る「私の履歴書」で宮城まり子さんの人生を読みました。
「私の履歴書」は、どなたの人生も、ただただ、凄いです。
ちなみに、今年今月12月は、森光子さんです。この方も凄いです。切り抜き保存中。
毎回、なるほど、こういう人生を歩まれた方だからこそ、この今があるんだと、思う方たちばかりです。
その中でも宮城さんの歩まれている人生は特に心に残りました。切り抜いて保存しています。
全部は見ていないですが、NHK教育水曜日の「知るを楽しむ 人生の歩き方」でもこの12月は宮城まり子さんでした。
ミュージカルの道に入ったとき、障害のある児の役で悩み、それが「ねむの木学園」の設立につながったのだそうです。
ねむの木学園の内外は、さまざまなアートで満ち、タイルをモザイクのように貼って、子ども達と皆で作った中庭の噴水もとっても優しくて可愛い。
ここで思い切り元気に子ども達が学んでいるのでしょう。
吉行淳之介との出会い、愛する人の為には、ただ役に立ちたいと、それだけだったと。
吉行淳之介との3つの約束は、途中でやめると言わないこと。愚痴はこぼさないこと。お金が無いと言わないこと。このことを守り続けている。温かくどの子にも等しく接し、優しい。
絵の上手な子もそうでない子も、「見て見て」って持ってくる絵に、「上手だね」とか、「いいね」とか言わず、等しく、どの子にも「うれしい」と言うのだそうだ。
この文章を読んでいる、こちらまでうれしくなるような言葉ですよね。
一途で、優しい眼差しで一つ一つの行動を続けてこられ、人間味溢れる魅力ある方だからこそ、多くの著名な方々が支援の手も差し伸べられたのでしょう。
「ねむの木村」には、宮城まり子さんのことをよくわかり、後押ししてくれた「吉行淳之介文学館」が隣接されている。
ねむの木学園40周年を記念して建てられた、二つめの美術館は、茅野出身、私の中学の同級生の藤森照信さんの設計だそうだ。写真で見ると、きのこの頭を想像するような、シンデレラの7人の小人が出てきそうな、楽しい建物です。
宮城まり子さん。世の中には、何と素晴らしい人がいるのでしょうか。
今年9月。3年余り自宅介護してきたお姑さんは、苦しむことなく、眠るように安らかな最後で、91歳で送り、今は実家で一人暮らしの母84歳、持病もある中、自立支援、見守りのため実家に通っています。
二人同時に具合が悪くなった事も何回かあり、私にとっては、大変な一年でした。
介護では大変な事態に直面している方が私のまわりにも、たくさんいらっしゃいます。
関わらないで済む状況の人には、わかってもらえない事が多く、空しく悲しい事もいっぱいあります。
ただただ、長い人生の終末期を、温かく支えてあげたいと思う気持ちでやってきました。
これからも続く介護にも出来る限り精一杯を尽くしたいと思っています。
1927年生まれの宮城まり子さんが、今現在も、子ども達のため、途中でやめずに、これほどまでに頑張っているのですから、ほんのちょとでも誰かの役に立つ人間になれるよう、私も生きていきたいと思います。
介護中の何年も、また今年も。多くの方々に支えていただきました。本当にありがとうございました。
拙い文章を読んで下さった方々に心から感謝し、今年の日記を閉じたいと思います。
どうか良いお年をお迎えくださいますように。
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ジャーマンアイリスの咲く 藤森照信さん設計建築 「たかすぎ庵」 茅野市
11月23日 フェルメール展 フィラデルフィア美術展
フェルメール展(東京都港区六本木 国立新東京美術館)
三十数点しか遺作が残されていない、謎多き画家フェルメール。
有名なその一点「牛乳を注ぐ女」(アムステルダム国立美術館所蔵)を娘と見にいってきました。
黄色い上着、青いエプロン、深い赤のスカートの働く女性がミルクを注ぐ瞬間。
300年以上の時を隔てて、今見ることが出来た感動は言葉では言い表せません。素晴らしかった。
先ごろ大変惜しまれて亡くなった世界の黒川紀章の設計による建物、六本木にも初めて行きました。
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東京ミッドタウン、天の川をイメージしたイルミネーション
フィラデルフィア美術展(東京上野 東京美術館)
ルノアール、モネ、ゴッホ、セザンヌ、マティス、ピカソ
印象派と20世紀の美術、こちらも大変見ごたえがありました。
10月10日 「求めない」 加島祥造 著
近頃話題になっている詩の本を購入した。
加島祥造さんは1923年東京神田生まれ。 信大、横浜国大などに勤務の後、数多くの翻訳・著作を手がける。
現在は、信州・伊那谷に独居し、詩作、著書のほか、墨彩画の制作などを行っている人です。
最初にこう書かれていました。(中略)
誤解しないでほしい。
「求めない」と言ったって、どうしても人間は求める存在なんだ。
それはよく承知の上での「もとめない」。なんだ。
みんな人間の中にあって、そこから人は求めて動く、それを否定するのではなく、肯定しつつ、
求めないで済む事は求めない。
すると、体の中にある命が動き出す。それが喜びにつながっている。
ほどよいところで止める。それがポイントだ。
でも、それができなければ、ときには、「もう求めない」と自分に言ってみるだけでもいい。
すると、それだけでもいい気分になるとわかると思うよ。。
あらゆる生物は求めている。
命全体で求めている。
一茎の草でも求めている。
でも、花を咲かせた後は静かに、次の変化を待つ。
そんな花を少しは見習いたいと、そう思うのです。
多くの事を考えさせられ、一気に読んでしまった詩の最後にはこんな詩が載っています。
足りていれば誰だって求めないさ、と誰かが言ったら、
それは嘘さ。
みんな、君もぼくも、彼女も、彼も、
足りているのに、もっと求めているんだよ。
なぜだろう。
なぜ人は、足りているのに、さらに、求めるのだろう、
怖いからさ、
足りているのに、足りない時のことを気にして、もっともっと持ちたがるんだ。怖いからさ。
そして、こんな詩が。。
いまあるもので充分だ、と知る人だけが、生きることの、豊かさを知るんだよ。
その豊かさは命の喜びだ。
それを否定して、欲するなというんじゃないんだよ。
命の喜びを超えたら、どこかで止める事さ、それだけさ。
すると、静けさと平和、この二つが見つかる。
それが豊かさなんだよ。
84歳の加島祥造さんだから言えることかもしれない。
実家の母も同じ84歳。求めない人だった。
いろんな事が重なった。母の残りの人生を大切にしてあげなくては。。。
私はいつになったら、この境地に入れるだろうか。
時には、この「求めない」を思い起こして、生きていきたいと思う。
時を慈しんで
8月29日
諏訪でも見えた!! 6年半ぶり皆既月食を文出の里より楽しむ。8/28
予報では、北海道と九州しか晴れないと言われていて、こちらの地方では無理かと、あきらめながら、6時からのニュースで北海道の皆既の始まる様子を見ながら、家から出たり入ったり、空とにらめっこ。
南の空には木星が輝いていて、しだいに星が見え始め、晴れてきました。いい感じ。ちょっと期待できる。
しかし、東の空は曇りぎみ。何も見えない。無理か?
7時過ぎ、あたりが暗くなってきて雲も幾分少なめ。徐々に良くなる兆し。
今朝の新聞によりますと、ちょうど7時22分に原村で出現を確認と書かれていましたから、ちょうどその頃、ずっと一人で目を凝らしていた私にも暗い赤銅色の月が見えました。オーーーー!
家族を呼び、ゆっこさんをお呼びし、双眼鏡で皆で見ました。
8時頃には、すっきりと、くっきりと、ちょっと気持ち悪い皆既食の赤い月が見えました。
その後しばらくして、次第に部分月食(三日月型から満月になるまで)となり、約2時間あまり美しいお月様を楽しみました。月のクレーターまで見えました。
我が家の前の、田んぼの道は、街灯の影響も少なく、夜空を見るには最高です。
ほとんど雲に影響されずに、おしゃべりしながら、2時間あまりの天体ショーを楽しむ事ができました。
11時過ぎ満天の星と、ショーを終えた満月が何もなかったかのように光り輝いて地を照らしていました。
ラッキーな夜でした。
皆既食の赤い月
7月6日
第10回 日本映画テレビ技術大賞受賞 NHKアンコール放送
巨樹 生命の不思議 ~緑の魔境・和賀山塊~
奥羽山脈の一角に和賀山塊(わがさんかい)と呼ばれる、知られざる秘境がある。
秋田・岩手県境に3万ヘクタールもの広さを持ち、樹齢100年以上の樹木で覆われた天然林の面積が、確認されているだけで1万6千ヘクタールも占めている「巨樹の聖域」だ。谷は深く険しく、山は道もなく幾重にも連なる。あまりの奥深さのため、これまでマタギたちのほかは、ほとんど誰も足を踏み入れるものはいなかった。
その和賀山塊で近年、国内でも有数の巨樹たちの存在が、次々に明らかになってきた。「日本一のブナ」をはじめ、クリやミズナラ、クロベ、シナノキなど、どれも日本で1、2の大きさを争うものばかりだ。過酷な自然の中で、他の樹々たちとの絶え間ない生存競争を繰り広げた結果、全身こぶだらけの異様な姿になった巨樹、自らの腐った部分に根を張り、今なお成長し続ける巨樹・・・。
日本一のブナ 幹周り8m60cm 推定樹齢600年
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2006・3・5に放映されたものが,大賞を受賞してことで、この度アンコール放送されました。
前回、そして今回もまた、やっぱりやっぱり感動してしまいました。
風雪に耐え幹の表面はボロボロになって、いたるところで裂けていた。
ずっとここで生きてきた。
そして、ここで生きてゆく。
あらゆることに耐えながら。。。。
巨樹になるには600年生きなければならない。
巨樹は生きる事をあきらめない。
折れた枝を何年もかけて修復したあとの「こぶの塊」が、その荒ましさを物語っている。
その塊(かたまり)は忍耐の塊のようでもある。
全身傷だらけになりながら生きている日本一のブナ。
番組の中から、時々語られる言葉をあわてて書き留めたのですが、味わい深い言葉を北村和夫さんがナレーションされ、その声とブナやミズナラ、クロベ、クリの巨樹の姿が重なりジーンときました。
巨樹の持つ凄さを実感でき何回も涙が出そうになりました。
どんな巨樹も人を黙って優しく包んでくれます。その姿に教えられる事が多い巨樹です。
私の撮影したブナ。
この頃ブナの木の写真展がよく開かれており見に行きますが、よく写真にされる、あの早春の雪の中の「ブナの根明け」を一度見てみたいものです。
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雨飾山2006/10
水木沢 原始の森 2007/5
6月6日
諏訪市美術館にて5/19~6/10
「諏訪の子ども懐古展」 昭和62年から平成14年までの作品特別展
信濃教育会は、昭和61年から県内の小、中学生が描いた絵画の中でも優れた作品を100年間にわたって収集する「100年の絵」という壮大な事業をおこなっており、その量は4千数百点になっているそうです。
その中から今回の特別展では諏訪地方6市町村の子ども達の作品300点が展示されていました。
素晴らしかったので、少し紹介します。小学校低学年の子どもさんの「歯磨き」の絵、すご~~い。
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5月6日
友人が3月末に京都の竜安寺を訪れたと写真を送ってくれました。
有名な石庭から覗く桜です。京都の桜は一度見たいと思っていますが。。。
今年の桜
八ヶ岳の裾野に広がる富士見町の桜は、里山の風景と遠くに望む雪をいただいた山々とが、いかにも調和し、見せてもらう私達を感動させてくれました。
今年初めて訪れた、富士見町木の間の古い桜はピンクの色が鮮やかでそれはそれは見事でした。
葛窪の桜もゴツゴツ幹に頑張って見事な花を咲かせていました。
毎年訪れる高森の観音堂の桜、田端の桜などは何回見ても「あ~~いいな~~」って感じます。
南信州、飯田の桜、上田の桜、地元、諏訪の桜、あと何年桜を愛でに出かけられるだろうか。
桜の樹齢を考えると、何百年もの間、見事なまでに幹や枝に優しい花を、枝垂れるほどに咲かせ、人の心をその姿で癒し続けてくれています。ただただ感動し凄いなあ~~と思います。
地域の方々や桜守りの方々の地道な努力によって守られている事も忘れてはならないと思いました。
連休最後の日が雨になりました。お田植えも始まりました。久しぶりに日記を書いてみました。
3月21日
安曇野ちひろ美術館、会館10周年記念展 3/1~5/8
「花」「子供たち」「あかちゃん」「帽子」「音楽」「アンデルセン」「詩」「平和」「女性」「旅」
10のテーマ100のちひろ
画家であり妻であり、母親であった一人の女性。いわさきちひろ。
今回、特別に、10テーマ100点の作品と遺品が展示されていました。
「世界中の子どもみんなに、平和としあわせを」という願いをこめて描かれた絵はもちろん、詩や書、手作りの洋服や手紙。
一つに秀でる人は、どうして、他のいろんな才能も同時に持ち合わせているのでしょうか。
そのどれも表現の独特の優しい魅力と、そこに垣間見える人間性に魅かれます。。
ここを訪れるのは3回目ですが、今回も心を打たれ、時間を忘れそうでした。
この日は「会館10周年記念感謝デー」ということで、いろいろなイベントもあったようでした。
午後、ゆっこさんと行ってきました。それこそ大勢のファンが訪れていました。
ボサノバの生演奏も会場に響き、素晴らしかったです。
ちひろの生き方、作品に触れ、あらためて、その優しさ、暖かさ、考え方の気高さに感動しました。
ニュースでは、わさびの花が、ひと月早く咲き出したと聞いていましたが、春の日差しの中にも、まだ寒さの残る安曇野でした。
偶然にも、館長であり、いわさきちひろさんの、ご長男の猛さんとお話が出来、写真を一緒に撮っていただき、感激でした。
ゆっこさんと、こんないいこともあるんだと、びっくり。出会いに感謝でした。
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「千の風になって」美術館の庭にて 夕暮れのワサビ田
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3月3日 岡谷市「旧林家住宅のひな祭り」
江戸時代から現代までの歴史を感じさせる雛人形約百三十体が母屋に飾られている。
「享保びな」はなんともいえない穏やかな、いいお顔をしていました。
旧家の建築材料も、また贅を尽した凝った造りも、華やかな中に趣があり、金唐紙がそのまま保存されている2階の奥座敷は格別見事でした。
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1月8日 還暦を迎え 75歳、五木寛之さんに学ぶ
「あヽ、生きていてよかった」と言える晩節の生き方
還暦
人として価値ある時間を過ごせるラストステージといっていい、60歳からの過ごし方で人生が豊かであったか、貧しい人生であったか決まる。
中国では「四神思」という思想があり、人生を季節になぞらえて「青春、朱夏、白秋、玄冬」若い時代を青春、その背後には壮年期である朱夏があり、成熟した白秋へと続き、そして高齢期である玄冬を迎える、その玄冬は自分はどういう一生だったかを振り返るそういう時期であると。
年を重ねていくという事は、あらゆるものに興味もわき、心豊かになれる時期でもある。
人は生れ落ちた時から死のキャリアを背負う。あっという間に命は消えるかもしれない。明日はどうなるかも分からないからこそ、やりたいことは今やらないといけない。
本を読み知識を学ぶことは、「知の喜び」の第一歩。それも難しいことでは無い。呼吸法ひとつとっても自分の養生にプラスになる事を勉強出来るなんて,こんなに愉しいことはない。
そう思ったら、これをやってみよう、あれをやってみようと少年のように夢が無限に広がってくる。
死の迎え方はなかなか思いどうりにはいかないだろうが、できれば「今日もいい人に出会ったな」と一期一会に感謝し、時代の風に吹かれて漂い続けたい。(お正月のスペシャルインタビューから)
お正月にある雑誌で五木さんの、この生き方を読んだ。
ちょうど私自身も節目を迎え、納得する事ばかりでした。
介護を抱えた家庭の状況もあり、五木さんのようにはいかないけれど、常にそんな気持ちを持ち続けて、前向きにその日までを、家族や、いい友人とお互いに支えあって、学びあって精一杯生きていきたいと思う。
近くの氏神様、そして、諏訪大社上社をお参りし、厄をはらって頂き、家族や親戚からも祝ってもらえました。
この年まで、なんとか健康に無事に過ごせたことへの感謝と、これからも元気をいただき、出来る限り日々精一杯を尽くし、おてんとう様に恥じない、晩節を汚さない生き方をしたいと誓いました。
宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず」みたいに。。。
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち
欲はなく 決して瞋(いか)らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米4合と 味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを自分を勘定に入れずに
よく見 聞きし 分かり そして忘れず
野原の松の 林の蔭の 小さな茅葺きの小屋にいて
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないから止めろと言い
日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに 私はなりたい
「日輪と山」 水彩画
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